恋人である蘭の浮気に耐えられなくなった
胃もたれしてしまいそうなほど甘ったるい香水の匂いや、スマホに表示される知らない女の人の名前を見て、段々と自分の心がすり減っていくのが分かる。でも全部見て見ないふりをするのが、きっと正解なんだ。
『んふふ〜、このお酒美味し〜!』
「飲み過ぎだ」
『飲まないとやってられないんだよ〜』
けど、私にも限界はあって、傷付く心だって持ってるんだよ。聞き分けのいい女のフリをしているだけで、本当は我儘で、自分だけを見て欲しいなんて思ってる、重たい女なの。
『鶴蝶く〜ん!お酒追加〜!』
「もう止めておけ」
『すみませーん!マティーニおかわり〜!』
「止めろ」
挙げた右手を掴まれて下ろされるが、店員さんには既に伝わっている。勝手に緩む頬をそのままに料理が並べられた机に突っ伏すと、前に座っている鶴蝶くんが溜息を吐き出した。
「今日はどうしたんだ。そんな無理な飲み方をして」
『ん〜?』
「いつもはそんな飲み方しないだろ」
『ねぇねぇ鶴蝶くん、マティーニのカクテル言葉知ってる?』
「は?……いや、知らない」
『知的な愛、って言うんだよ』
知らないフリを続けるのが一番幸せで、利口だって分かってる。頭では分かっていても、心が追いつかない。知らない香りが鼻腔を擽る度に、夜中に帰って来る背中を見る度に、私の心は少しずつ、壊れていく。
『蘭がね、浮気してるの』
「………」
『今更だよね。分かってるんだよ』
困ったように眉を下げた鶴蝶くんはかける言葉を探しているのか、視線を左右に泳がせる。重たい頭を持ち上げて、グラスの中で揺れる残り少ないアルコールを煽ると、鶴蝶くんは止めなかった。
『我慢出来てたの、昨日までは。でもね、キスマーク付けて帰って来たのを見て、我慢出来なくなっちゃった』
───だからメッセージアプリをブロックして、電話も着信拒否にしちゃった。どうせ、そんな事をしなくても彼から連絡なんて来ないだろうけど。私はあの人にとって、その程度の存在なんだろうから。
「…蘭は、オマエが好きだと思う」
『……ちょっと前までは、私もそうだって信じてた』
お酒を運んでくれた店員さんにお礼を述べると、その声はみっともなく震えてしまって、次第にボロボロと涙が溢れ出る。化粧が崩れる事も気にせず、手の甲で荒々しく拭うと、優しく手が掴まれ、おしぼりが押し付けられた。
「あまり擦らない方がいい」
ハンカチじゃないあたり、鶴蝶くんらしい。蘭もスーツは上質な物を買うくせに、ティッシュもハンカチも持ち歩かなくて、いつも私のを使うんだ。そんなくだらない事を思い出して、また涙が流れる。───最低な人なのに、こんな時でも思い出してしまうのがあの人で悔しい。
「携帯鳴ってるぞ」
『……竜胆くんだ』
鼻を啜ってから通話ボタンを押して耳へと当てる。竜胆くんから電話が来るなんて珍しいな、いつもはメッセージだけなのに。貰ったおしぼりで涙を拭うと、僅かに瞼が重たくて、気分まで滅入りそうだ。
『……もしもし』
「オレからの電話は出ないくせに、なんで竜胆のはすぐ出るんだよ」
聞こえてきた声の主はまさかの蘭だった。きっと竜胆くんのスマホ勝手に使って電話してきたんだ。出ないも何も、着信拒否にしてるから私のスマホは鳴っていないし、通知すら来ていない。
「今どこに居んの」
『……蘭には関係無い』
「………あ?」
地を這う様な声が鼓膜を揺らし思わず体が跳ねるが、アルコールが入った私は無敵だ。視界の端で心配そうな顔をした鶴蝶くんが写り、唇を噛み締めて決意を固める。
『蘭が浮気するなら、私も浮気する』
「…はァ?」
『もう蘭の事なんて知らない。別れる』
呂律が回っていたか怪しいところだが、私の言いたい事は伝わったはすだ。すぐに通話終了を押して、電源を落とすと、画面は真っ暗になり、酷く歪んだ自分の顔が映って虚しさに襲われる。
「………本当にいいのか?」
『いい。私も浮気する』
ずび、と音を立てた鼻を擦り、マティーニを流し込むと、焼けるような感覚が喉を襲う。もちろん鶴蝶くんに迷惑はかけるつもりは毛頭無い。飲み終えたら適当に逆ナンでもして、知らない男と一夜を共にしよう。そうすればきっと、この痛む心もまた元通りになってくれるはずだから。
『………らんのばか』
前に蘭と一緒に飲んだマティーニは美味しかったのになあ。何だか今日は、苦い味しかしないや。
∵∵∵
嗅ぎ慣れた匂いがして、瞼を持ち上げるが妙に頭がボーッとして、思考が纏まらない。おかしいな、さっきまで鶴蝶くんと飲んでたはずなのに、気が確かなら今居るのは道路だ。でも自分の足で歩いる感じじゃない。心地良い揺れにまた目を閉じそうになっていると、聞きたくなかった声が脳へと届いた。
「起きたか?」
『……蘭?』
どうやら私は蘭におぶられているらしい。肩には彼のスーツが掛けられ、嫌に優しく抱え直される。嫌だな、蘭には会いたくなかったのに。浮気だって、まだ出来てない。一度眠ってしまったせいで、お酒がちょっと抜けてしまった気もする。やだ、やだ、今は何も考えたくないのに。
『おろして』
「ヤダ」
『浮気しに行く』
「ヤダ」
『───蘭と一緒に居たくない』
額を彼の肩口に当て、鼻声で放たれた言葉を聞いて、蘭は静かに口を開く。好きだけど、好きでいるのが辛い。嫌いになりたいのに、嫌いになれない。本当に馬鹿な女だなあ。
「オレは一緒に居たい」
『…うそ』
「嘘じゃねぇ」
『嘘だよ。だって、蘭は浮気してるんだもん』
自分が思っているより、体にアルコールは残っていたらしい。いつもなら口に出来ない事も、どんどん零れてしまう。人を好きになるのって、こんなに辛かったっけ。
「……いつか、オマエはオレを置いて行くだろ」
『それは蘭じゃん』
いつだって私を置いて行くのは蘭だ。幼い時だって、突然姿を消したくせに。捨てたくせに突然現れて、当たり前のように私の心をまた奪っていく。その度にどれだけこっちが振り回されてるか知らないくせに。
『捕まった時だって、手紙送っても、返事くれないし』
どれだけ不安だったか、どれほど心配だったか、この人は考えもしないんだろう。やっと心が手に入ったと思ったら、それはただの勘違いでしかなくて、結局私の一人相撲。
「オレって意外とビビりだったらしいワ」
自嘲するような笑みを浮かべた蘭は大きく息を吸い込むと、ゆっくり吐き出して歩みを緩めた。瞬きをすると頬に涙が伝い、彼のワイシャツへと消えていく。
「置いて行かれんのが怖くて、近付けねぇなんてな」
蘭を好きにならなければ、こんな辛い思いをする事は無かったのかな。この人じゃない、他の誰かを好きになれば、苦しくなかったのかな。そう思い、唇を噛み締めると、柔らかく名前を呼ばれ、呼吸が止まる。
「頼むから、オレ以外を好きにならないで」
『……』
「浮気するなんて、言うなよ」
『……蘭が、それを言うの?』
「ウン」
なんという男だ。自分は浮気をしておいて私にはするな、なんて。自己中心的にもほどがある。なのに、馬鹿な私は頷きそうになってしまっている。
『……蘭』
「なに?」
『浮気、しないで。…私だけを見て』
目を閉じて抱き着くように彼の首の前で腕を組むと、ふわりと香水の香りがして肩から力が抜ける。良かった、ちゃんと蘭の匂いだ。
『好きだよ、蘭』
無意識に溢れた言葉はストンと自分の中へと落ちていく。やっぱり私が好きになれるのは蘭だけで、この人しか好きになりたくない。他の人じゃ駄目なんだ。
「…オレも好き」
ぶっきらぼうに放たれた二文字に目を丸くすると、分が悪そうに抱え直され、沈黙が走る。だらしなく頬が緩み、腕に力を込めると、僅かに赤くなった耳が目に入り、心がじんわりと暖かくなっていくのが分かる。
『…ふふ、蘭、汗臭い』
「…誰かが焦らせるからだろ」
『走って迎えに来てくれたの?』
「……さあな」
『ねえ、蘭』
「なんだよ」
『明日デートしたいな』
久しぶりに我儘を言うと、蘭は微かに笑みを零し、オマエがちゃんと起きれたらな、と紡ぐ。その音吐は酷く優しくて、また少しだけ泣いてしまった。