流水落花 | ナノ
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 トウリは父と顔を合わせることをできるだけ避けた。早く父に謝れと急かす母へも、父が謝罪をするのが先だと譲らなかった。
 反抗的な態度に父は怒るが、トウリはもう怖がらない。トウリを叩くために父が手を上げれば、迷わず顔を差し出した。
 もしまたひどくぶたれ、頬が腫れたなら、今度は治療になど行かない。誰かに問われたら『父にぶたれました』と包み隠さず答えてやる。
 そういう気概が伝わったのか、父の手は空を切って、物に当たるようになった。
 家の中に、千切れそうほど張りつめた糸があちこちに巡っているようで、父とトウリ以外の三人は、二人の顔色を窺い過ごしている。
 口数が減った祖母を、祖父が散歩という名目で連れて家から出る日が多くなり、夫と娘の間での板挟みによる過剰なストレスからか、母は白髪が増えた。
 祖父母への後ろめたさはともかく、母のその姿にトウリは何の感情も抱かない。
 増えた白髪を減らすには、トウリがまた父の言い付けに唯々諾々と従わなければならない。トウリの心を殺せと言われているようで、そんなことができるわけがなかった。



 あの日以来始まった冷戦さながらの日々も、気づけば半年以上が経った。
 当初はトウリにも、わずかな惑いや気まずさはあったが今はない。
 むしろ精神状態はよくなっており、警務部隊で親しくなった同僚にも、明るくなったと言われる。
 父や母から距離を置いたことに加え、シスイが顔をよく見せるようになったことも影響していた。
 今日も夕方遅くではあったが、トウリの家を訪ねてきた。玄関からではなく、トウリの部屋に面した庭に音もなく足をつけ、明かりが漏れる障子戸の向こうのトウリを呼ぶ。
 トウリは音を控えて戸を開け、沓脱石に揃えた草履をつっかけて、二人揃って庭石に腰を下ろす。何度促してもシスイは決してトウリの部屋に入らないので、いつしかそうするようになった。

「今回は長かったね」
「まあな。国の端の方まで行ったから。あ、これ内緒な」

 持参したこしあんの大福を、たった三口でシスイは食べ終えた。トウリはまだ半分にも達していない。
 シスイは約三週間の任務に就いて、しばらく里から離れていた。上忍が受ける高ランクの任務は機密性が相当高く、いつ里を出たのかも分からない。
 『国の端』というだけではトウリには何の任務だったか分からないが、聞く者が聞けば里の状況を知ることができるのだろう。決して漏らさぬようにと気を引き締め、封じるごとくつぶあんの大福に口を付ける。

「急いで帰ってきたから、もうクタクタだ」
「そんなに予定が押してたの?」

 ふう、と息つくシスイの顔は疲労の色に濃く染まっている。
 任務中はどんなに注意を払っていても、不測の事態が起きることは少なくない。遅延の可能性があることは承知でシスイに命じたはず。無理のない範囲で帰還してもよかったのに、とトウリは単純に思った。

「会合が明日だからな」

 シスイの言葉に、大福を食むトウリの口の動きは鈍くなり、嚥下しても次の一口に移れなかった。
 はじめは最後列に近かったトウリの位置も、うちはの下忍が増えたため、全体の半ばまでに近くなった。大人たちのいやな熱気を浴びる量も増え、気を楽にして取り込める空気がまた薄くなる。
 任務で出られないならその方がいい。事実、警務部隊は日夜休むことなく実働しなければならず、夜勤の者は会合の欠席を許されている。
 会合か夜勤かと問われたら、トウリは間違いなく後者を選ぶが、シスイはそうではない。
 不思議に思って見やると、視線に気づいたシスイは微笑んだ。

「鬼ごっこの鬼は、見えていた方がこっちも動きやすいだろ」

 シスイとの意識の差を知り、逃げることばかり考えていた自分を叱咤した。
 当然だが、シスイは好きで会合に出席するのではなない。うちはの大人たちの動向を見落とさぬため。ちょっと考えれば分かることを察せなかったことが恥ずかしい。
 体のいい欠席の理由が欲しいなど考えていては、今までと変わらない。
 トウリの前方には相も変わらず里が火影がと騒ぐ大人たちが座しているが、後方には社殿の殺伐とした雰囲気に呑まれ、怯えた後輩たちがいる。それは昔の自分だ。
 後ろに座り怯えていた自分をシスイが助けようとしてくれているように、後輩たちを守るのがトウリの務めではないか。



 警務部隊での勤務を終え、トウリは一旦家に帰って食事を終えてから本殿へ向かう。共に行かないで済むように、父よりも早く家を出た。
 中はすでに半数の同胞たちでほぼ満ちて、各々の定位置に座っていく。
 トウリも、いつも座るだろう位置で膝を折る。
 板張りの床での長時間の正座は疲れる。そういう意味でも早く終わってくれと願い、交わされる議論を黙って聞いていたが、今夜は少し違った。

「今日は皆に聞いてもらいたいことがある」

 そう切り出したのは、イタチの父である族長のフガクだ。
 続いた発言に、トウリは言葉を失う。
 イタチが暗部に入る。まだ中忍になったばかりだというのに、里の精鋭が選ばれる暗部へ。
 そしてこれを機に、里へのクーデターを始めると。
 社殿内のあちこちから声が上がる。批判ではない。待ち望んだ日を得た歓喜。
 後列のイタチを振り返ると、いつも平静を崩さない彼の顔が強張っていた。大きくなったとはいえ、まだトウリと身長はそう変わらない。
 いくら優秀であろうとも、イタチは子どもだ。年端もいかない少年を、きっと族長らは存分に利用する。
 暗部に入るのは相手の腸に潜むのと同じ。うちはが知らぬ情報を手に入れ持ち帰ることはできるが、一つ間違えばどんな目に遭うか分からない。
 一瞬の油断もできぬ危うい務めを、息子に強要しようとするフガクへ怒りが込み上げる。
 うちはは、こうなのだ。一族の矜持のためならば、同胞を、自らの子どもをも武器にする。
 隣に座る、トウリより一つ年下の少女の、腿に置いている手が震えている。顔は青白く、泣きだすのを必死で我慢していた。
 どうにかして慰めたくて、小さな手に自分のそれをそっと被せる。

「もうすぐ終わるから」
「……ぐすっ……うん」

 トウリが声をかけて少女の気が緩んだせいか、返事は涙に濡れていた。
 恐れるのは当然だ。こんなもの、開戦と同じ。うちはは今このときより、里との戦争を始めることになってしまった。
 怯える彼女の背に触れる。少女はトウリの肩に顔を寄せ、嗚咽をなんとか喉で殺すが、震えは止まらない。
 社殿に親を残して先に帰るという彼女に、そのまま寄り添って家まで送り、それから自宅へ戻った。
 一足先に帰っていた父は、母に酌をさせ、上機嫌で酒を飲んでいる。

「これでうちはは、本来の正しい地位を得る。三代目を火影から引きずり下ろし、うちはが火影となるのだ」

 前祝いのつもりなのか。もうすっかり、クーデターが成功するものと考えている。娘より年下の少年に、一族総出で重荷を背負わせていることなど気にも留めていない。

「これからはあとのことも考えねばならぬ。我が家の安泰は決まったようなものだがな」

 浮かれて饒舌な父の背を、トウリは冷めた目で見下げて部屋に戻った。



 クーデターの開始が宣言されたものの、うちはの面々は普段と変わりない日常を送っている。
 何か始まっているはずなのに、何も始まっていない。
 本当にクーデターなど企てているのかと疑うが、事を起こすには準備が必要だ。里をひっくり返すような大事であるならば尚のこと、綿密な計画を水面下で着実に進めているはず。
 トウリが悟れないほどうまく事を運んでいると考えれば、変哲のない毎日が続いていても不自然ではなかった。

 計画の成否を左右するイタチの暗部への転属も済んだ。
 会合で報告があった際、イタチと大人とで揉めはしたが、大きな騒ぎにがならなかった。
 イタチはどんな場であろうとも、自らを曲げない。数多の赤い瞳に睨まれようとも、はっきりと自分の意思を言葉にする。
 見習わなければと、トウリは自分ができることを探した結果、年下のうちはの子どもたちの話し相手を担っている。

 きっかけは、あの夜に家まで送り届けた少女だ。自分を慮ったトウリを頼るようになり、トウリは彼女の心細い話を聞いてやった。
 その子が別の子を連れてトウリを訪ね、そしてまた違う子も訪ね、そのうちトウリの下に、下忍の子どもたちが話をしに来るようになった。
 うちはの中に漂う重たい空気は、子どもも敏感に感じ取っている。下忍になったばかりの子であれば、初めて知った『うちはの忍』に臆して、会合が近づくにつれ精神的に不安定にもなる。
 トウリはそういった子たちの声を受け止め、不安のはけ口になることで、若い下忍の心を守ろうと思った。
 本当ならば、幼い子どもたちをあの会合に出席させることだけでも止めさせたかった。
 しかし中忍のトウリにはまだそんな力はない。シスイにも相談したが、クーデターのため動き出した今、うちはの上層部を刺激することは避けた方がいいと止められたこともあり、恐れを吐露できる場として在るだけに留まっている。



 季節は一つ過ぎた。
 どこか薄っぺらく貼りつけたような日常は続いているが、少しだけ変化もある。
 内勤ばかりだったトウリに、警邏任務の数が増えた。
 外を巡回できるようになったのは喜ばしかったが、同年代の同性は内勤業務ばかり続いており、なぜ自分だけが警邏に出られるのか疑問が残る。
 昼食の時間。休憩室で弁当を食べながら、話題の一つとしてなんとなく口にすると、斜め向かいに座る女の先輩が、

「トウリにはシスイがいるからねぇ」

と、おにぎりを手に持ち答えた。食んだ米の中、梅干しの酸っぱさに顔を顰め、給湯室に置きっぱなしにしている私物の湯呑みの中の茶を一口含む。

「シスイがいる? どういうことですか?」
「だから、トウリとシスイは恋人だから、警邏に組み込んで外へ出してもいいって判断されたの」

 思わぬ発言にトウリは目を丸くし、箸を持つ手が下がってテーブルについた。

「恋人? 私とシスイが……?」
「違うの?」
「ち、違います」
「へえ。そうなんだ?」

 否定するトウリに、今度は先輩が目を丸くする。

「シスイ、本部までトウリを迎えに来るときあるじゃない。休みや非番の日も一緒に居るのを見かけるから、そういう仲なんだろうなって思ってたけど」

 先輩の話は事実だった。
 父にぶたれた一件から、シスイはトウリの身を案じているらしく、家に顔をよく出すようになったが、業務を終えて本部を出る際にも、シスイがトウリを迎えに来ていたことは何度かあった。
 任務のない日に茶店に行ったり、トウリの修業に付き合ってもらったり、二人で過ごす時間が多々あったのも本当だ。
 回数は少ないものの、上忍の任務で多忙にもかかわらず、むしろ以前よりも姿を見せる頻度は増えた。

「だからトウリは警邏に出してもいいって判断されたの。シスイがいるから、余所の男とくっつかないだろうって」

 まさかそんな勘違いで警邏の回数が増えたなど、夢にも思わなかった。
 びっくりしたきり呆然とする様子に、トウリにはそんな気は一切なかったと知り、先輩は余計なことを言ってしまったと気まずいのか、喋りすぎた口を湯呑みで隠した。

「……違うとしても、それ、まだ内緒にしときなよ。うちの親が言ってたんだけどね。年頃の娘を持つ家で、シスイのところに嫁がせようって考えてたところもあったらしいのよ。でもシスイはトウリを選んでるみたいだし、トウリの家もそういう話をしてるって、たまに聞くよ」
「うちの家が? そんな、私、何も……」

 自分の家が、シスイとの仲を考えている。
 ここしばらく、父とも母とも会話をしなくなったトウリに覚えはなかったが、この間の会合のあと、酒を呑みながら発した『我が家は安泰』という父の言を思い出し、このことかと気づいた。
 自分の与り知らぬところで、シスイとの婚姻が勝手に決められている。
 相手が不服というわけではなく、結婚などという一生を左右することを、親が勝手に進めてまとめようとしていることが気に食わない。

「うちらの親世代は、まだ頭が固いやつばっかりだし、自分たちも親が決めた相手と結婚してるから、そういうもんだと思ってるんだよ」

 先輩の言うことは尤もで、見合いだったらしい両親も似た考えでいるだろうことはトウリも納得する。
 あの二人の間に愛などというものを見出したことはない。我が強く身勝手な主人と、忠実に傅く召使いのようだ。

「恋人じゃなくても、シスイのことは好きでしょ? あ、男としてとか、そういうのは置いといてさ。みんなに訂正するなら、ちゃんと自分の気持ちを確認してから否定した方がいいよ」

 彼女なりの助言を受け、トウリはとりあえず頷いた。
 シスイへの気持ちを確認するべきか。シスイのことは好きだが、男だなんだと考えたことはなかった。
 けれど実際、『結婚』という具体的な未来を想像すると、その相手はシスイがいいと思う。
 とはいえ、この気持ちが恋愛感情なのかまでは定かではない。トウリが心を許せる男はシスイくらいで、はじめからシスイ以外の選択肢がないからだ。
 確認をするべきか。しかし、シスイにどう訊ねればいい。まさか『私のことを好いているのか』など到底聞けはしない。
 それにもし、シスイにそんなことを訊ねて不快な顔をされたら――考えただけで、気分は落ち込んだ。



 夜勤との交代時間になり、引き継ぎを終えて本部を出る。
 弧を描く混凝土のどっしりとした建物の外は、宵の口に差し掛かったところで、西の端で朱と青とが混じる空は幻想的だ。
 一番乗りをした星の輝きから目を落としていくと、その真下にシスイが立っていた。本部を囲う塀の門柱に背を預け、トウリと目を合わせると結んでいた口が薄く開いて笑う。

「トウリ」

 シスイから快活に名を呼ばれるといつも嬉しい。彼の視界に自分が居るという事実に喜んでしまう。
 けれど今は、どうしてか分からないが、ぎゅうっと胸が締め付けられて苦しい。シスイに見られているのが恥ずかしくて、鼓動が速くなる。

「シスイ……」
「ちょうどオレも任務が終わったんだ」

 立ち止まっているトウリへ歩み寄るシスイとは、約十日ぶりだ。
 十日の間に、シスイに一体何が起きたのか。陽は落ちているのに、なぜか輝いている。普段のように顔が合わせられない。

「なんだ?」
「う、ううん。なんでもない。行こう」

 二人のそばを、数人の同僚たちが通っていく。向けられる視線に、今まで感じていなかった意味を見つけそうで、腕を掴んで足早に本部の門を抜けた。

「飯を食いに行こう。トウリの家には伝えておいたから」

 手筈のよさに驚くと共に、告げられた母か、もしくは父はどう思ったか考えると、トウリの口元はむずむずする。シスイならばよいと、快く承知でもしたのだろうか。
 連れられた店はラーメン屋だったが、シスイがトウリに勧めたのは、豆腐のような甘味だった。
 ほのかに鼻を刺激する、杏子の種の香りは新鮮で、つるりと喉を通るさっぱりした甘みに、トウリは一口で気に入った。
 誘ったからとシスイが会計を済ませ、十分に腹を満たした二人は、飲食店の通りの雑踏を避けるように脇道に入る。遠回りではあるが人気の少ない静かな帰路を選び、うちは地区へと歩いた。
 食事の間は気が紛れていたが、すれ違う者もまばらな道を二人で進んでいると、昼食の際の先輩とのやりとりが何度も再生され、話しかけるシスイへの返しもままならない。

「トウリ、どうしたんだ? 元気がないぞ」

 普段と様子がおかしいトウリを不審に思ったシスイが、足を止めて背を少し丸めトウリの顔を窺う。
 シスイはちょっと見ない間にぐんぐんと背丈が伸びた。目を合わせるには、シスイがこうして距離を詰めてくれないと難しい。

「えっ……なんでもないよ。ちょっと、いろいろ考えてただけ」

 強い双眸から逃れるべく、トウリの目が横へ泳ぐ。

「何かあったんなら躊躇うな。なんでもオレに言えよ」

 真剣な声に導かれるよう視線を前に戻した。
 父との一件を知っているだけに、本当に心配しているのだろう。シスイの眉間には、薄く一本皺ができている。

「シスイは……シスイは……」

 シスイは、トウリのことをどう思う。
 妹みたいなものか。
 親からひどい扱いを受けた女の子か。
 うちはと里の共存を望む同士か。

「――わ、私と、シスイのこと、勘違いされてて」

 どれを問うのも迷い、トウリは顔を俯け、昼に聞いた話を切り出した。

「勘違い?」
「私、警邏が増えたって、前に言ったでしょう。それは、私とシスイが……こ、恋人、だから、とか……そういう、勘違いが……」

 あまりの恥ずかしさでうまく説明はできなかった。『恋人』という単語を自分の喉が発することが不格好に思えて、ぎゅうっと手を握りこみ、この場から逃げ出したくなるのを堪えた。

「あー……なるほど。なるほど、そういう、勘違い……か」

 シスイの眉間から皺が消え、かなり動揺しているのか、ついさっきのトウリのように目を泳がせる。

「そう。そういう、勘違い……」
「そっか、そんな勘違いが……」
「……ね。勘違いされて……」

 勘違い。勘違い。
 不完全な笑みを互いに浮かべ繰り返すうち、声はどちらともなく尽きた。
 おかしな空気が二人の間に漂う。
 緊張と居た堪れなさと不安と、そして期待。
――トウリは期待していた。

「トウリ、オレは……」

 空気を断ち切るシスイの顔を見るべく、トウリがゆっくりと顔を上げる。
 いつも真っ直ぐに自分を見る双眸。
 先が丸みを持った鼻。
 年を経るごとに深くなる、目頭から下りる窪み。
 トウリは――シスイが好きだ。

「オレは、うちはを変えたい」

 告げたのは、シスイが長年抱き続けた理想。
 聞く人が聞けば途方もない夢だと馬鹿にされ、実現はとても困難で、その道は茨と針でできている。
 熱いこの眼差しが注がれているのは、トウリではない。

「分かってる。シスイはうちはのために、私のために、うちはを変えようとしてくれているのよね」

 イタチが教えてくれた。シスイから聞くことがなかった、シスイが人知れず追っていた願い。
 意思を噤んで生きてきたトウリを始めとする次代のために。うちはの未来のために。

「困っちゃうよね。シスイにはたくさんやることがあるのに、そんな勘違いに巻き込まれて」

 今この場に置いて長年の悲願をトウリに伝えるということは、きっとそういうことだと理解した。
 シスイには恋愛など、行く道の邪魔になる。たとえ勘違いでも。
 分かっていると理解を示すトウリに、シスイは困惑した。否定したくともうまく言葉にならないのか、舌はろくに動かず浅い呼吸を続けている。

「なんでも言っていいの?」

 努めて穏やかに、トウリが先ほどのシスイの意を確認すると、無言で頷いた。

「私、シスイに謝らないといけないことがあるの」

 わずかにシスイの瞳が揺れる。悪いことでも起きたのかと、焦っているのが分かる。

「シスイがくれたおはじき、覚えてる?」
「おはじき……? ああ。覚えてる。先にやったどんぐりが虫食いで、お前を泣かせたんだっけ」

 深刻な話題かと思えば、遠き日の贈り物の話。あのときの騒ぎも今となっては笑い話の一つになり、シスイのかたかった表情も若干ほどけた。

「あのおはじき、父様に取り上げられて、砕かれたの」

 続けて打ち明けられた知らぬ事実に、シスイは目を見張る。

「……おじさんは、なぜそんなことを?」

 怪訝な顔で訊ねるシスイへ、トウリはあの日のことを思い出しながら口を開いた。

「その日は、私がアカデミーを卒業した日で、私はまだ写輪眼を開眼できていなかったから。『写輪眼を持たないうちはは嗤われる』と言って、おはじきを踏みつけ、砕いて……そして……父様の思いどおりになった」

 すべては父の、うちはとしての誇りを守るためだった。
 娘が写輪眼を持たない忍であるという外聞を恥じ、正しくうちはとして育てたのだという自負のため。
 父がトウリのためにしてくれたことなど、ただの一つもない。

「おはじき、守れなくてごめんなさい」

 色とりどりのおはじき。特に赤く染まったものが好きだった。
 知らずともうちはの色を選ぶ自分に安堵したのに、今となってはその赤は、トウリの枷となり苦しめる色でしかない。
 謝罪しても、後ろめたさは消えない。
 自分があのときイタチのように強ければ、おはじきは守り通せたかもしれないと考えると、いくら謝っても足りない。
 トウリの謝罪に、シスイは唇を噛み締めた。
 眉尻は上がり、黒い双眸は紅く染まる。
 両腕を伸ばしトウリを掻き抱くと、その肩に顔を埋めた。

「娘の、心まで砕いて……そうまでして、うちはの矜持にしがみつくのか……!」

 食いしばった口から漏れる憤りが、耳のすぐそばから聞こえる。
 シスイにいらぬ怒りを覚えさせたことを後悔したが、激怒するシスイに抱きしめられると、あの日から欠けていた硝子の破片が集まり、割れた心の隙間を埋めていくようで、そっと目を閉じ身を任せた。
 数秒か、数十秒か、数分か。シスイの腕から力が抜け、そっとトウリから体を離した。身を寄せ合い得ていたぬくもりが冷えていく。

「トウリ。これを持っててくれ」

 シスイが腰のポーチに手を突っ込み、取り出した物をトウリに見せた。
 丸い硝子。薄く、金で縁取られ、紐がついている。

「これ、シスイのお祖父様の……」

 シスイがトウリの家を訪ねた理由にもなった、シスイの祖父、カガミの形見。簡単には見えぬ花を内に咲かせている、しのび玻璃と呼ばれる品。

「今度はこれを、お前に」

 トウリの手を取って平を上に。しのび玻璃を落とすと、指を折らせ包ませた。

「だめ。だめ、こんな大事なもの。また守れなかったら、私……!」

 貰ったおはじきを守れなかった自分に、祖父の形見など持たせないでほしい。あの夜に覚えた絶望が蘇りそうで、トウリはシスイに返そうと胸に当てるが、受け取る素振りは見せない。

「オレはこれからしばらく、トウリに会いに来られそうにない」
「えっ……」

 突然の知らせに、トウリの声が上擦る。

「どうして……?」
「忙しくなるんだ。やらなきゃならないことがあって。だからトウリに会いに行く時間がない。今日は、そのことを伝えにきた」

 今日もまた、いつもと変わらない誘いだと思っていたが違った。シスイはトウリに、しばしの別れを告げに来た。
 わざわざ改まって伝えるということは、本当にちっとも会うことができないのだと悟る。
 その期間はどれくらいだろうか。一か月やそこらではないのは分かった。数か月。半年。一年。それよりももっと長く。

「その間、預かっててくれ。祖父さんの形見を預けられるのは、お前しかいない」

 しのび玻璃を持つトウリの手を、シスイが握る。繋いだことなど何度もあるというのに、触れられるだけで胸が高鳴った。

「すべてが終わったら必ず迎えに来る。これも、トウリも」

 優しい眼差しがトウリに向く。
 自分を迎えに来るという言葉の意味が分からぬほど、トウリは子どもではない。
 シスイがどんな形を望んでいるのか真には分からないが、胸に飛び込んだトウリを包んだ腕は、これからしばらく会えぬと言ったのに、離れないとばかりに強く抱いた。

「待ってる。ずっと。待ってる」

 成すべきことを成し、会いに来るまで。
 預けたしのび玻璃と共に、トウリを迎えに来てくれるまで。
 それまでのシスイの無事と、少しでも早くその日が来ることを願った。



16 流れてゆけども

20201027
(Privatter@20201019)


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