最果てまでワルツ | ナノ
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 どうやらサホは、定期的に先生宅を訪れ、家事などを手伝っているらしい。
 まだクシナ先生のお腹は目に見えて膨らんではいないが、悪阻だとか、妊娠の影響で長く立っていることがつらかったり、日常の動きに制限がでてきたらしく、サホが積極的に支えていると。

「昔ね、サホにお願いしたんだ。オレたちが結婚したときに。いつかクシナが妊娠したときは、色々大変なことがあるだろうから手伝ってあげてほしいって」

 定期報告でサホのことを四代目に告げると、妊娠が分かった当初から世話をしてくれていると教えてくれた。
 任務次第では午前のみ、午後のみと短時間だったりもするが、休みや非番の日はほぼ先生宅に向かっているらしく、オレが護衛の任務に就いてから一番顔を見かけるのはサホだった。

 先生宅では、サホは主に洗濯物を干したり、庭の雑草を取ったり、鉢に水をやったりと、外に出る用向きをこなしている。もちろんそれ以外の家事もサホは手伝うが、外に出る作業はほぼサホだ。
 だからオレは、よくサホの姿を見る。
 任務前や任務帰りで忍服を着ている日もあれば、額当てをつけていない私服のときもある。私服なんて久しぶりに見た。女子の服はよく分からないが、サホに似合っていた。
 家の中に入ったら、サホの姿は見えなくなるけれど、代わりにクシナ先生との会話が聞こえてくる。
 楽しげに笑い合う声や、何やら慌ただしい声。先生に呼ばれて『はーい』と返す声。封印術を学ぶやりとりの声。
 今までサホに会わなかったのが嘘みたいに、サホがオレの前に現れる。
 もちろんサホはオレと顔を合わせても声をかけることはないし、オレも一方的に彼女を見るだけだ。
 それでもサホが生きて、笑っていることをほぼ毎日知れるというのは、オレにとっては幸いなことだった。

 オレはサホを、二度も絶望に落とした。オビトとリンとのことで。
 オレを許さないと憎み、恨む彼女の昏い目が忘れられなかった。
 けれど今のサホは、オレの知っているサホと同じだ。オビトが死んで、リンが死ぬ前の。オレに対する態度は突き放したものなので、全く同じというわけではない。でもサホも里に訪れた平和に身を置き、新しく芽生えた命に喜びを感じて笑顔でいてくれるのなら、それが一番だった。



 陽射しが強く照ろうとも、護衛任務で気候など言い訳にはならない。黙して屋根の上で周囲の警戒に当たっていた。
 今日もサホが先生宅に来ていて、家事を手伝っている。手伝いついでに料理を習っているらしく、クシナ先生が教え、サホが分からないところを問うやりとりが、開いている窓から聞こえるのは珍しくなかった。
 その声が止んでしばらくすると、二人が上階のベランダに出てきた。オレに用があるわけでもなく、クシナ先生とサホの姿を確認し、異常がないと判断したあと警戒に戻る。
 二人は一つの鉢の前に立つ。ベランダには、妊娠で在宅する時間が増えたクシナ先生が育てている草花の鉢が多く並んでいる。観賞用、食用、薬用と様々だ。

「これは何が咲くんですか?」

 里に目を向けながら、耳だけは二人の会話を捉えていた。サホが鉢を見ながらクシナ先生に問うと、先生が『海花[わたつはな]』という花だと返した。初めて聞く花の名で、それはサホも同じだったようだ。
 渦の国ではよく見かけた花らしいが、今はもうない渦の国は、四方を海に囲まれている島国だったはず。海に面しているところもあるが火の国とは環境が違うので、知らない花が存在するのはおかしい話ではない。
 クシナ先生は海花の特徴を口にしていく。
 海水などの塩分を含んだ水でないと発芽しないこと。
 種の状態であれば五十年は生きていること。
 発芽しても定期的に塩水を与えなくてはならず、手間のかかる花だということ。
 その説明だけでも、オレの中の花の常識から外れている、本当に珍しいものなのだと分かる。

「私たちは『コイヤブレ』って呼んでたの」
「コイヤブレ?」
「恋に破れた乙女が落とした涙で咲くから、って。花が咲いたとき、乙女の心は救われると言われていてね。だから女の子はみんな、失恋するとこっそり種を植えて育てる風習があったわ」

 何とも、女子が好みそうな話だ。事実、サホは「切ないですけど、ロマンチックですね」と返している。
 恋に破れた乙女。サホもそう称されるだろうか。
 いや、サホの恋は破れてなどいない。今もサホは、オビトに恋し続けているのだから。

「種ができたら、サホにあげてもいいかしら?」

 そんな花の種を、サホにやってもいいかと、クシナ先生は訊いた。
 あんな話を聞かせてそんなことを言うなんて、と、オレはよく分からない怒りがわずかに込み上げた。まるでサホの恋がもう終わったかのように聞こえたからだ。
 そんなわけない。サホがどれだけオビトを想っているか、オレはよく知っている。幼い頃から一途にオビトだけを見て、オビトのためにリンを守ろうとしたサホの気持ちを、勝手に終わらせないでほしい。

「この花にはね、花言葉が二つあるの。蕾は『恋の終わり』。満開になると『あなたに会えてよかった』。いつかサホの心が、全てを受け入れられるようになったら、育ててみて」

――違う。クシナ先生は、サホの恋はもう終わったと言いたいのではない。
 サホを解放したいんだ。オビトへの想いが深いほど、サホはオビトやリンのことで苦しんでいるから。
 だから先生はサホのために種をあげたいと言う。心の重しを取ってあげて、楽にしてやりたいと思っているからこそ。
 怒りを覚えた自分が恥ずかしくて、二人から目を背け、住宅が広がる眼下の風景を見た。

 オレはサホに何ができるだろう。

 いつも考える。
 何度謝っても、サホにとって何の意味もないことは、オビトが死んだときに知っている。
 リンを生き返したくとも、オレにはそんな術は到底使えない。
 オビトの体を持って帰りたくとも、神無毘橋があった場所は他里との兼ね合いもあり、たった一人の中忍の遺体回収のために許可は出ない。
 何ができるかと考えて、結局オレは何もできやしないと知る。恨まれ、憎悪や怒りのやり場になるしかない。それでサホの気が済むのなら。



 火影として里を治めるミナト先生にも師匠はいる。名は自来也様。三代目の弟子でもあり、『三忍』の一人だ。
 その自来也様が、突然ミナト先生と共にクシナ先生が待つ家を訪れたのは少し前。今はクシナ先生の手料理で、弟子のミナト先生と昔話に花を咲かせたりして和やかな時間が流れているが、二人を迎え入れるまでとにかく大変だった。

 自来也様の訪問は、事前に四代目からクシナ先生へ連絡が届く形で知らされた。
 いきなり「きゃー!」と声を上げ足音を響かせたので、オレはクシナ先生の身に何かあったのだと急いで家の中に入り確認した。当の先生は両手で頬を押さえ「どうしようどうしよう」と繰り返している。見たところ怪我などは負っていない。
 何事かと声をかける前に、先生と目が合った。

「カカシ! どうしよう!?」
「何があったのですか?」

 慌てる先生に何事だと訊ねると、一枚の紙を見せられた。紙は手紙で、ミナト先生の字だとすぐ分かった。
 自来也様が里に帰られ火影室に居ること、今夜はうちに招いて食事をすることになった、突然で申し訳ないと綴られていた。用件よりも謝罪の方が長かったあたり、ミナト先生とクシナ先生の関係が垣間見える。

「自来也様……というと、四代目の師の」
「そう! あの自来也様だってばね! 家に来るのはいいんだけど、今から掃除して、ご飯とお酒の用意と、お風呂に入るかもしれないから念入りに綺麗にして、冷蔵庫の中だけじゃご馳走を作るには足りないし、お酒も持って帰るとなると往復して、やだ、本とか出しっぱなし! 全部仕舞わないと……ああ、やることがたくさんあるってばね!」

 どうやら先ほどの悲鳴は、自来也様を迎え入れるための準備が間に合わないことへの叫びだったらしい。
 今日はサホも任務があるようで姿は見ていないため、手伝いは見込めない。先生方が何時に帰ってくるのか分からないが、お腹が大分膨れた身重のクシナ先生では、やるべき準備に手が回らないのは明らかだった。

「カカシ、手伝って!」

 ガッと両肩を掴まみ、クシナ先生が顔を寄せる。

「お、オレは護衛――」
「手伝うついでに、傍で護衛すればいいってばね!」

 逆じゃないだろうか。思ったけれど、クシナ先生の勢いに圧され、黙って頷いた。



 ここ最近で一番チャクラを消費した気がする。
 まず、人手が足りないので影分身を一体出した。そいつを家に置いて一先ず掃除を任せ、本体のオレは護衛としてクシナ先生に付き添い、買い出しの供に。重い酒瓶や野菜、肉や魚などは、忍犬を口寄せし運んでもらうことで、往復せずに一度の外出で済んだ。
 家に帰ってからも、クシナ先生の横についてキッチンで野菜の皮を剥き、魚を捌き、肉を炒め料理を手伝った。
 準備をしていくうちに、『あっちも』『これも』と、自来也様を迎え入れるに当たって、クシナ先生としては気になるところが次々に見つかり、最終的に影分身は三体に増えた。

「カカシ、ありがとう。助かったってばね」

 ようやく自来也様を迎えられる準備が済んだのは、陽が西に傾いた頃。
 キッチンの鍋から漏れる食欲をそそる匂いで満たされた家の中は、きちんと整えられ、埃や塵もない。
 言われるがままに風呂場や洗面所、玄関廊下など室内のあらゆる場所の掃除をオレの影分身が担当したので、本体へと戻ったとき、強烈な疲労感で一瞬ふらついてしまった。

「お役に立てたならよかったです」
「もちろん! 感謝してもしきれないわ。あ、そうだ。カカシも一緒に食べましょう」
「いえ。オレは護衛ですから」

 境界線は明確にしなければいけない。今回は妊娠しているクシナ先生に無理をさせないため止むを得なかっただけで、必要時以外は影から先生を守るべきだ。引き留められる前に外に出て、屋根に上がる。
 やっと本来の任務に戻って、ホッと一息ついた。先生宅の屋根は、オレにとってすっかり馴染んだ場所になっている。
 腰を下ろしたところで、ちょうど通りを進むミナト先生と自来也様が見えた。
 遠目からでもパッと目についた白髪を揺らす大柄な男性の隣を、火影でも上忍師でもない、師を慕う弟子の一人としてミナト先生が歩いている。
 家に着く前にオレへと顔を向けられたので、黙礼を返す。横についている自来也様に喋りかけている内容は、オレがクシナ先生の護衛という説明だろう。
 二人が玄関に着き、クシナ先生が出迎え、静かだった家は賑やかになった。自来也様の豪快な笑い声が響き、話には聞いていたけれど随分と陽気な方なんだなと耳に入れながら、ぽつりぽつりと家の窓が灯り出した里を眺める。
 先生宅に繋がる通りに人影が見え、誰かと思えばサホだった。間違いなく先生宅に向かっているのだろうけれど、こんな時間帯に訪ねるのは珍しいことで、目はその姿を自然と追い、玄関の突き出た屋根に隠れるまで見送った。

「あら、サホ」
「こんばんは」
「こんばんは。こんな時間にどうしたってばね? 今日は任務だったんでしょ?」

 呼び鈴を鳴らしたサホの突然の訪問に、クシナ先生はオレが思ったことと同じことを口にした。サホは渡したい物があったためだと言い、その渡したい物を受け取ったクシナ先生は喜んだ。どうやら欲しかった物だったようだ。
 そのまま帰るのだろうと思っていたら、自来也様が加わりいくらか会話をしたあと、誰も出すことなく玄関の戸は閉められた。
 賑やかな声の中にサホの声も混じる。サホも食事に招かれたらしい。自来也様を迎えるために作った料理は、大人三人でも多いくらいだったので、一人加わったところで問題はない。


 そのまま、どれくらい経っただろうか。夕陽は完全に沈み、里には夜の帳が広がっている。
 住民の帰宅はほとんどが済んでいて、道を歩くのは飲み屋帰りの大人か、仕事が終わって自宅へ帰る大人。つまり、子どもは一人も歩いていない。
 いまだにサホは先生宅から出ていない。いつもは夜になる前に帰宅するが、今夜はこのまま泊まるのだろうか。

「――お邪魔しました」

 ぼんやり考えていると、サホが玄関の戸を閉め家から出てきた。自宅の方へと歩く姿が、街灯に照らされている。
 誰も居ない道を一人で歩く姿は少し頼りなく、否応がなしに引きつけられて暗がりに目を凝らし続けた。

「カカシ、ちょっといいかい」

 サホの背を眺めていたら、下から声をかけられた。素早く屋根から下り、声の出所であるベランダに足をつける。オレを呼んだのはミナト先生だ。

「今、サホが帰ったんだ」
「はい。見てました」
「ん。サホを家まで送ってくれないかな?」

 思いもよらない頼みに言葉が詰まる。

「クシナの護衛なら心配いらない。オレも居るし、自来也先生も居る」

 先生の言うとおり、火影とその師、しかも伝説の三忍と呼ばれる方が居る家だ。この里の中のどこよりも安全だろう。ミナト先生が張った結界もある。

「夜に女の子を一人で歩かせるのは、カカシも心配だろう?」

 今度は図星で言葉に詰まった。
 中忍だけど、大人から見ればオレたちはまだ子どもだ。それにサホは男じゃなくて女だから、夜の一人歩きは褒められたものじゃない。要するに心配している。

「……行ってきます」
「ん。よろしくね」

 先生に見送られ、オレは瞬身の術を使い、サホの自宅の方へと向かった。
 サホはすぐに見つかった。先ほど出たばかりだから、まだ遠くまで行っていないので当然だ。走っても十分間に合うのにわざわざ瞬身の術を使ったことに、先生からの命を受けた以上、迅速な行動に間違いはないはずだと、誰に向けるでもない言い訳をした。
 先を歩くサホを民家の屋根から見つめていると、視線を感じたらしいサホがふと歩を止め、恐る恐るといった様子で振り向いた。
 不安げな顔でオレの姿を認めると、

「ひっ……!」

と上擦った声を上げ、両手を胸に当てて肩を大きく揺らした。
 人外のものを見てしまったときのような反応は、すぐにわずかな落ち着きを取り戻した。人外のものではなく、オレだと気づいたのだろう。
 状況が飲みこめないらしいサホは、ぽかんとした表情をオレに見せる。クシナ先生の護衛のオレが何故ここに、と不思議だろう。
 屋根から通りへと足をつけ、サホの傍に立った。手を伸ばしても届かないが声ならば届く。それくらいの距離に位置取る。

「……クシナ先生の護衛でしょ。どうしてここに居るの?」

 想定内の質問に、オレはミナト先生にサホを家まで送るように言いつけられたことを話した。『ミナト先生に』というのは、サホを納得させるのに十分だったようだ。
 しかしそれでもサホはその場から動こうとしない。オレがついて来ることが単純に嫌なのだろう。

「オレは離れてついていくから、サホは気にせず帰っていいよ」

 何も隣を歩くわけじゃない。クシナ先生のときと同じで、離れた位置からついていくと告げ、里の宵闇の中に身を潜めると、サホはようやく歩き出した。
 木ノ葉の緑のベストを羽織った背中を見ながら、夜道を歩くサホの後をついていく。

 髪、長くなった。

 後ろで一つにまとめている髪が、長くなった気がする。気がするだけかもしれないけれど、絡みもなくさらさらと流れる様は、清らかな川のようだった。
 以前、前髪を切ったと言われても違いは分からなかったし、今日は編んでみたと言われても教えられるまで気づかなかった。サホは『ヨシヒト以外の男の子はこういうの興味ないよね』と、拗ねたともがっかりしたとも取れることを言うので、なんだかオレが悪いことをした気分になったのを覚えている。

 今だったら、何でも分かる。

 サホの些細な変化を、今であれば敏感に察知できる。
 オレは今までずっとサホの近くに居た。よく顔を合わせ、忍術について話したり、世間話をしたり、修業に付き合ったり、ずっと近くに居た。
 だからちょっとした変化なんて気づきようもなかった。いつも見慣れているから、前髪を数センチ切ったことも申告がなければ知ることもなかった。
 今だったら。こんなに離れてしまった今なら、サホの髪が長くなったことも、背が少し伸びたことも、大人びた雰囲気の服を着るようになったことも、全部気づくことができる。
 今更、気づいてしまう。それを伝える距離に居られないのに。



 サホの家には何事もなく着いた。明かりがついていて、家人が在宅していると分かる。アカデミーの帰り道で、サホの家に送るといつも明かりがついていた。味噌汁の匂いがした。
 そのまま玄関から家に入るかと思えば、サホは家の前で立ち止まり、オレが潜む細い通りへと顔を寄越す。明らかにオレへ注がれる視線に、何か用でもあるのかと、影から表に出た。
 姿を現してもサホは何も言わない。きつく口を閉じて、オレを見つめている。
 こんなにも目を合わせたのはいつぶりだろうか。たまに視線が合うのは、互いの存在を確認するだけで、それ以上の意味を持たなかった。
 真正面から見るサホは、少し化粧でもしているのか、すっかり垢抜けた容姿だ。
 女子と言うのは総じて男より大人になるのが早いと言うが、それがこういうことなのだろうか――と、変なことを次々に考えてしまいそうなので、用がないなら護衛の任務に戻るべく、再び影の中へ身を収めた。

 先生の自宅へ戻り、窓からミナト先生に合図を送る。無事にサホを家まで送り届けたことを伝え、再び屋根に腰を下ろした。
 静かな夜だ。下から響いていた笑い声や話す声も聞こえないので、オレが居ない間に自来也様が帰ったのかもしれない。

「お主がはたけカカシか」

 突然声をかけられ、オレはその場から屋根の端へと跳躍した。声の出所はオレが腰を下ろしていた真後ろ。
 気配を一切悟らせず現れたのは、帰ったと思っていた自来也様。しゃがんだ姿勢で手には酒瓶と猪口を持ち、オレと目を合わせると大きな口は閉じたまま笑みを描いた。

「ミナトが風呂に入ったんでな。一人酒もつまらんから、ちと付き合ってくれんかのう」

 その場に尻をついて胡坐を掻き、手招いて近くに来いとオレを呼ぶ。
 迷ったが、自分の立場と自来也様の立場を考え、逆らうことはよろしくないと判断し、自来也様から少し離れたところに座った。酒の匂いがきつい。

「若いくせに、辛気臭い顔をしておるの」

 目を細め、つまらないものを見たような表情をし、自来也様が猪口を煽る。
 辛気臭い顔も何も、暗部の面を掛けているオレの顔が見えるわけもないのに。
 しかし、そのようなことを返せるほどに自来也様に近しくはないので、オレは沈黙を維持するほかなかった。

「サホはお前の同期だそうだな」
「……はい」

 突然振られた話に戸惑いつつも、嘘でもないので肯定の意を示した。さきほどまでサホと喋っていたのだから、クシナ先生の護衛のオレと同期だということを、先生たちから教えられていてもおかしくはない。

「あれは美人になるぞ。ワシが里に居るうちに手を付けておかねばな。あと数年もすれば横から掻っ攫われて――おい、睨むな。冗談だ冗談」

 親子ほどの歳の差があるサホ相手に好き勝手に喋る自来也様が、猪口を持つ手でオレを制する動きをしてみせる。
 睨んでいるつもりはなかったし、面も掛けているから分からないだろうに、と思いはしたが、確かに目元に知らず力が入っていたので、意識して緩めた。

「ミナトから話は聞いておる。お前のことも、他にもな」

 さきほどのふざけた調子とは一転し、自来也様は猪口の中の酒を緩慢に揺らし、続ける。

「はたけサクモの件では、力になってやれず、すまなかった」

 父の名を他人から聞くのは随分と久しぶりだった。
 今ではすっかり、父の汚名はそそがれている。他界して何年も経っていることもあり、父は周囲からは『昔の人』と扱われ、今となってはオレに父の話を振る人は誰もいなかった。
 木ノ葉の白い牙と謳われた父は、自来也様を含めた三忍よりもずっと強かったと言われている。共に前線に立つこともあっただろうし、顔を合わせたことも少なくはなかったろう。
 自来也様の声に軽薄な響きは一切なかった。父のことに責を感じ、後悔してくれている。

「お気になさらないでください。オレも父を助けられませんでした。みんな、誰も」

 自来也様だけじゃなく、オレも含めた里中の皆が、父を救うことも庇うこともできなかった。
 オレはあのとき、木ノ葉の里に絶望した。里に尽くした父に対する仕打ちが、こんなにも無慈悲なものなのかと。
 それでも里を抜けずに木ノ葉隠れの忍として生きてきたのは、父の汚名を返上するためでも、生まれ育った里を真に愛していたわけでもなく、今思えば子ども染みたものだが、単純な反発心だった。
 これでいいのだろう、お前らが望む通り、掟に従えばいいのだろうという、当て付けの気持ちが大きかった。
 それを、オビトが正してくれた。本当に大事なことを教えてくれた。
 オビトはオレにとって、命の恩人というだけでなく、オレの生き方を正してくれた、指針のような奴だ。
 だから、前よりもずっとサホに親しみを覚えた。そんなオビトのことをずっと想い続けている彼女に尊敬に似た念を抱いて、死んでも尚、オビトを愛する彼女が誇らしく――そして今はただ、申し訳なさだけが募る。

「のう、カカシ。お前だけは、サホのことを分かってやれよ」

 舌に酒の匂いが染み込んだ声は、屋根を貫くかのごとく響いていた陽気な声の主なのかと疑うほど、強く吹いて踊る風に散らされることなく、低く重たい。

「何をですか?」
「何もかもだ。あの子の抱えるもの、抱えきれないもの、全部分かってやれ」

 どこかから犬の遠吠えが聞こえ、呼応するべく別の場所からも一つ、二つと犬の声がする。夜に交わす彼らの呼びかけは、仲間の存在を確かめたいがための、孤独を満たすための叫びだ。

「分かるだけでいいんですか?」
「手を貸したくば貸せばよい。サホが望むならな」

 サホが望むなら。
 サホがオレを頼ることなんて、あるのだろうか。
 もしかしたら、死んでほしいとすら思っているかもしれないのに。

「女を一つ泣かせたなら二つ笑わせる。それが男という生き物だ」

 手酌で猪口に酒を注ぐと、緩んでいる口元へと当て、啜るように飲む。
 男とか女とか、自来也様の半分の年月も生きていないオレには到底分からない。
 けれど、どっしりとした物言いと、自来也様の歩んできた歴史の厚みを考えると、妙な説得力があった。

「はい」

 オビトのことで、リンのことで、サホをたくさん泣かせた。決して消えない後悔と悲しみを背負わせてしまった。
 だからその分、サホが笑える日々を支えたい。オレの言葉で笑ってくれなくても、オレに向けられる笑顔じゃなくてもいいから。

「いくら上等な鋼でも、研がねば[なまくら]よ。もっと知りたくば、ワシの本を読め」

 言って、自来也様は喉を晒すほどに猪口を煽り、酒臭い息を深く吐くと、腰を上げて屋根から降りていった。
 自来也様、物書きなのか。意外と思えるほど自来也様に詳しくないが、机に向かって筆を走らせる姿を想像するのは難しかった。
 少々癖のあるお方だが、三忍と呼ばれた方だ。きっと為になることが書かれているのだろう。
 オレにはまだ知らないことがたくさんある。学ぶべきことが山ほどある。
 同じ年頃の者に比べれば賢い聡いと評価されてきたが、オレが知るべきは書物に書き連ねられた忍の極意だけではない。たった一人の女の子を守れる[すべ]だ。

 いつか、また。

 今すぐじゃなくていい。いつかでいいから。
 サホが笑う日々が続いたらでいい。
 そのときにはどうか、隣を歩かせてほしい。
 いつかのときのように、同じ道を辿って、あの日へ帰らせてほしい。



14 夜明けを夢見て

20190907


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