最果てまでワルツ | ナノ
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 大通りを歩いていたら、やけに目を引く店があった。
 幼い頃から続いていた戦争は一年前にようやく終わった。以前から里の生活を支えていた商店街は活気を取り戻し、戦後の誘致によって見慣れない店も増え、里は随分と賑やかになってきた。
 木ノ葉隠れの里では見たことがない珍しい雰囲気を放つその店舗は、中がよく見える大きな一枚のガラス張りの壁が目印だ。
 そのガラスの前で集まって、店内を覗いては楽しそうにお喋りしている。みんな、わたしより年上の女性たちで、浮足立つような姿がどうも目立って見えた。

「ねえ、ナギサ。あの人たち、何してるのかな?」

 クシナ先生を除いたスリーマンセルでの任務帰りで、依頼人である里の住人への指定物品の配達と報告を、班の代表としてヨシヒトが行っている間。共にその戻りを待っているナギサに訊ねると、鋭い目をわたしが指した女性たちへと向ける。

「知らねぇし興味ねぇ」

 バッサリと返されて、これは訊ねる内容も相手も間違えたなとすぐに反省した。ナギサはそういう男だ。
 ならば自分だけで考えるしかないと、視線を感じ取られないようにこっそりと女性たちに目を向けた。時折きゃあきゃあと高い声を上げ、ジタバタと足踏みをしたり興奮している。

「お待たせ。あとは報告書を出したら終わりだね」

 ヨシヒトが戻ってきて、無事に依頼人へ届け終わったことを告げる。今回の依頼は里外の町で品を受け取り、依頼人へと運ぶという、内容自体は簡単なものだ。ただ、戦中に被害を受けた里外の復興の目途がついていない地域が多く、通行できない道や危険な場所もあったため、予定日数通りだったとはいえ少しだけ遠回りになった。

「ヨシヒト。あの人たち、何してるか分かる?」

 集団に聞こえないように、手で壁を作ってヨシヒトに耳打ちをする。ヨシヒトは女性たちを一瞥し少し考えたあと、思い当たることがあったのか「ああ」と小さな相槌のようなものを打った。

「バレンタインデーじゃないかな」
「『バレンタインデー』?」

 聞き慣れない単語に、わたしだけでなくナギサも疑問を覚え、「なんだそれ」とわたしの代わりに問うた。
 ヨシヒトが言うには、『バレンタインデー』という風習が、火の国の端の、海を越えた先の国にあるそうだ。

「あそこはその国から唯一出店してきた店なんだけど、そこの店長が言うには、バレンタインデーという日には女性が好きな人や恋人にチョコレートを贈るそうだよ」
「そんな他所の風習なんて、誰も知らねぇだろ」
「まあね。だから広めているんだよ。ほら、ここからじゃ見えにくいけど、貼り紙がしてあるだろう」

 言われてよく見てみれば、確かに大きなガラスに貼り紙があったけれど、女性たちの壁でまったく気づかなかった。そもそもあの店がどこの国の店なのかも、わたしはまったく知らなかった。さすがと言うかなんと言うか。ヨシヒトの情報収集能力は桁違いだ。
 『バレンタインデー』に贈るらしいチョコレートは、餡子と違う強い甘さがあって、赤味噌のような色をしている、お菓子の一つ。わたしもうんと幼い頃に食べた記憶があるけれど、最近はあまり食べる機会がなかった。
 戦時中は店に並ぶ商品の種類も数も不安定で、チョコレート自体が木ノ葉隠れの里で生産できず輸入に頼っていることもあり、他所から運ばれてくるチョコレートの数は限られていて、たまに陳列されていると珍しいなと思うほどだ。
 仕入れの数が少なければ自然と販売価格は上がる。子どものお小遣いで気軽に買える値段ではないため、たまに父が任務帰りに買って来てくれたものを少しずつ食べる。わたしにとってチョコレートというものは高価で貴重なお菓子だった。

「チョコレートって、今はそんなに気軽に手に入るの?」
「数ヵ月くらい前にやっと、港やそこへ続く道の整備が終わったからな。待ってましたとばかりにあちこちから荷物が届いて来てるから、まあ昔ほど高くて買えないってことはない。値段もそのうち落ち着いて、気楽に買える物になるんじゃないか」

 もしそうであれば、わたしの手持ちのお金でも久しぶりにチョコレートが買えるのだろうか。そう考えてチョコレートの甘味を思い出そうとするけれど、あんまりうまくはいかなかった。

「ちなみにバレンタインデーは今月の十四日だよ」
「なんで十四日なんだよ」
「さあ。それは分からないな。ちなみに僕の誕生日は『美の日』でもあるんだよ。美の化身である僕が産まれた日だからね」
「ぶっとばすぞ」

 後ろで交わされる会話を一応耳に入れつつ、わたしの目はあの店と女性たちに釘付けになってしまった。



――そういうやりとりを去年したな、と唐突に思い出したのは、部屋に掛けていたカレンダーの、役目を終えた新年最初のページを捲ったときだった。
 大通りにあるあの店はまだ営業しているだろうか。ナギサが言っていたようにチョコレートは子どものお小遣いでも買えるほどの安価になり、わたしもおやつの一つとして食べるようにもなった。

「好きな人にチョコレートを……」

 『好きな人や恋人にチョコレートを贈る』というのは、随分変わった習わしだ。紅や着物を贈るというのはよく聞くけれど、お菓子というのは知る限りでは聞いたことがない。
 好きな人にチョコレートを贈る。それはつまり、その日にチョコレートを贈るというのは、好きだという告白そのもの。
 だから多少なりとも気にはなったけれど、買って贈るまでには至らなかった。そんな風習なんて木ノ葉にはないから、わざわざあげても気持ちなんて伝わらないだろうしと、黙って十四日を見送った。

 いやむしろ、伝わらない方がいいのかも。だって好きだって伝わっちゃうのは恥ずかしいし。
 でもどうせなら気持ちは伝わってほしい。口で直接言うのはどうにもハードルが高いけど、チョコレートをあげるくらいだったら無言で渡せば――
 高速で展開される自身の思考へ待ったをかけて、部屋を出てダイニングへ向かった。お茶でも飲んで、頭をスッキリさせよう。

 ダイニングテーブルには、いつでもすぐに飲めるようにと、丸い盆の上に急須や家族分の湯呑みが待機している。その用意を済ませた母を含め、家族は朝から姿を見ていない。わたしは今日は休みだ。
 顔を合わせる時間は日々減ってきているけれど、みんな忍という共通の職に従事しているため、そんなものだと理解し合っていて、不和が起きたことはない。寂しさはあるけれど、お互い様だ。
 ヤカンに水を入れ火にかけ、ダイニングの椅子に腰を下ろし、盆と同じくテーブルに乗っている今日の新聞を手に取る。まだ誰にも読まれていない新聞を広げて、何か興味が惹かれるものはないかと捲っていくと、紙面の一面をたっぷり使った広告が目に飛び込んできた。

『二月十四日はバレンタインデー! あの人にチョコレートを贈って想いを告げ、愛を確かめ合う日です』

 記事の見出しに引けを取らない大きな文字の下に、女性から男性へプレゼントを差し出しているイラストが描かれている。一番下には、大通りのあの店の名前があった。
 新聞の一面広告なんて、あの店はどれだけ広告料を支払ったのだろう。真っ先に思ったのはそちらではあったが、意識はすぐに広告の中身に移った。
 これほどまで大々的に呼びかければ、多少なりとも認知度は上がるだろう。ただ、この土地のものではない風習が定着するかといえばはっきりと断言はできないが、心惹かれる人もいるだろう。例えばここに。



 贈るかどうかなんてまだ決まってない。まあ要するに下見だ。ちょっと世間での、バレンタインデーというものに対する認識がどれほどのものなのか確認するためだ。
 大通りの店に向かい、ガラス窓から店内を覗けば、女性客たちが、チョコレートを陳列している特設テーブルを取り囲んで、あれこれ手に取ってどんなチョコレートが入っているのか確認している。

「すごい……あんなに人が……」

 店の中はそう広くない。そこに何人も詰めているせいか、みんな身動きが取りづらそうだ。なのにまるで順路があるかのように、言葉かけなどしなくても場所を譲り合い、中身が溶けそうなくらいに真剣な眼差しをチョコレートの箱へ注いでいる。
 ガラスには昨年より大きな貼り紙がされていて、バレンタインデーにはチョコを贈りましょうと宣伝している。そのポスターに目を向けている間にも、新しい女性客が店内へと入っていく。

 まあでも、バレンタインデーのことを言ってるのは、このお店だけだし……。

 新聞広告を打ったからといって、他国の文化がそんなにすぐ馴染むものじゃないだろう。うん。きっとそうだ。
 そう思いつつ、よく行く食品店のお菓子コーナーに足を向けたら『バレンタインにはチョコレートを』というポップがドーンと目に入ってきた。
 次の日には里の主要な掲示板に『まだ間に合う!バレンタインには手作りチョコをあの人へ』などという見出しで、料理教室のポスターが貼られていた。
 さらには通りかかった、チョコレートを取り扱っていない甘味処でも、『チョコレートが苦手な方には、お饅頭はいかがですか?』なんて呼びかけていた。


 木ノ葉隠れの里というのは、どこか保守的で新しい物へ厳しい目を向ける。変化を望まないというか、『昔はよかった』なんて言う大人が多いものだ。
 だというのに、これほどまでにバレンタインデーが取り上げられるのは、新しい文化を作ることによって得られる経済効果のためだろうと、家にお邪魔した際にクシナ先生が言った。

「その国の人たちは、いいんでしょうか。本当はチョコレートなのに、お饅頭とか……」
「まあねぇ。でも仕方ないわ。馴染んで残ったものが、その土地に合う形なのよ」

 まだ産まれて半年も経っていない息子のナルトを抱っこし、トントンとその身を叩きつつ、体はゆっくり揺れている。金色の輝く髪はまだ薄く、閉じている瞳は空のように青い。父であるミナト先生にそっくりな色をしている。

「そういうものでしょうか」
「そういうものだってばね。せっかくだし、私たちも楽しんじゃいましょうよ」

 クシナ先生はにこっと笑ったあと、やっと寝付いたナルトをリビングに置いているベビーベッドへそっと下ろし、わたしをダイニングの方へ手招きすると、一枚の紙を見せた。食材の名前と分量、作り方の手順。レシピのようだ。

「これ、チョコレートトリュフの作り方なんだけどね。サホも一緒に作らない?」
「チョコレートトリュフ……どんなお菓子なんですか?」
「私もまだ食べたことないんだけど、すっごく美味しいらしいわ。私の友達にお菓子作りが好きな子がいてね。教えてもらったのよ」

 すっごく美味しい、チョコレートトリュフ。どんなものだろうか。簡易的なイラストから察するに、見た目は丸く成形されただけに見える。

「一人でやるより二人で作る方が楽しいし、ね?」

 頭を小さく横に倒して、一緒にやろうと誘う先生に、どう返事をしようかと迷ってしまう。
 お菓子を二人で作るのは楽しいし、知らないチョコレートなら食べてみたい。

「オビト、きっと喜ぶわよ」

 名前を出されてカッと顔に熱が上る。
 オビトは甘い物が好きだし、チョコレートトリュフなんて初めて食べるはず。
 喜んで、くれるだろうか。
 でも、バレンタインデーにチョコレートなんて渡したら、わたしがオビトを好きだってことが知られてしまう。オビト本人が知らなくても、チョコレートを貰ったと誰かに言って、その誰かがバレンタインデーのことを把握していたら、きっと指摘する。
 そのときオビトはどう思うだろう。考えると怖くなる。チョコを渡したら、気づかれてしまう。
――違う。気づかせるために、言うために贈るんだ。だからバレンタインデーなんだ。



 一回目は試作として、二人で分量や手順をきっちり守って進めて作り上げ、舌の上で滑らかに溶けていくトリュフが出来上がった。初めて食べる味だからこれが正解なのかは判断がつかないけれど、美味しいから成功に違いない。
 二回目は本番。バレンタインデーの前日の夕方になんとか時間を作って、先生のお家のキッチンを借りて再びトリュフを作った。買っておいたピンクの箱に詰めて、綺麗なリボンを結んで大切にバッグに入れて、先生の家を後にした。
 クシナ先生は「頑張ってね」と応援して、抱っこしていたナルトの手を取って振った。ナルトはまだよく分からない様子ではあったけれど、歯のない口を開けてにこにこと笑っていて、なんだか上手くいきそうな気がしてきた。

 ドキドキしてなかなか寝付けなかった一夜が明けて、冷蔵庫の奥にこっそり隠しておいたチョコの箱を確認してから家を出た。
 今日の任務はナギサたちとのスリーマンセルで、里外の森から建築資材を運搬する作業。終わるのは夕方と聞いている。それが終わったらすぐ家に戻ってチョコを持ち、オビトの家を訪ねる予定だ。
 オビトの方はというと、クシナ先生が伝手を頼ってこっそり調べてくれた。オビトたちミナト班は少し前から里外で任務をこなしていて、今日の昼頃に帰還予定らしい。
 任務中はバレンタインのことばかりを考えてしまい、その度に『今は任務に集中』と頭を切り替えるが大変だった。

 やっと運搬作業が終わり、受付所への報告も済んだところで、二人への挨拶もそこそこに一目散に家へと帰る。家族はまだ誰も帰宅しておらず、ホッと一息ついて、冷蔵庫から箱を取り出した。外は寒いからわざわざ冷やす必要はないだろうと、そのままお気に入りの小さなバッグへそっと入れた。
 着替えを済ませ額当てを外し、オビトの家があるうちはの地区へと急ぐ。
 駆けていく間に、そういえば前もこんな風に向かったなと、数年前の自分を思い出した。あのときはお守りを渡せないどころか、オビトの機嫌を損ねて大失敗だった。
 ああ、あのお守りも持って来ればよかったかも。でも今更かな。
 だけどあのあと向かった神無毘橋では大変だったと言うし、またそういうことが起きない可能性はない。今日じゃなくても、いつかは渡さないと。

 色々考えているうちに、うちはの居住区の入り口となる門まで着いた。
 以前はここでオビトを待っていたけれど、今日はすでにオビトは里に戻っていて自由に過ごしている。家を直接訪ねなければ。

「よし……行こう」

 気合を入れて、うちは地区へと足を踏み出した。相変わらず一族以外の余所者へ向けられる目はどことなく排他的なところがあるけれど、止められ咎められることはなかった。
 オビトの家の玄関まで着くと、心臓はけたたましい音を立てて、来てしまったことへの後悔や、これからやろうとしていることを投げ捨てて帰ってしまいたい気持ちで胸がいっぱいになった。

 がんばれ。がんばれ。がんばれ!

 自分を必死に奮い立たせて、呼び鈴に指を当てたそのとき。玄関ドアの向こうから物音がして、逃げるように体が後ろへと引けてしまう。
 ドアが開く気配を察知してさらに後方へずれると、勢いよく開いた扉に間一髪でぶつからずに済んだ。

「ん? サホ? 何してんだ、こんなところで?」

 片方はドアノブに、もう片方の手で足をきちんとサンダルへ収めながら、オビトはわたしを見ると、眼帯で隠されていない右目を大きく開いた。

「あ……お、オビト、これから出かけるの?」
「ああ、ちょっとな。なんかオレに用事?」

 訊ねられて、グッと言葉を飲みこんだ。まだ心の準備がしっかり整っていない。本題への糸口はゆっくり手繰り寄せようと思っていたのに、いきなり巻き取られてしまった。

「あ、あの……その、ね……オビトに……その……」

 渡したい物があるの。そういって、バッグの中の箱を差し出すだけ。それだけ。
 それだけだけど、口も手もまったく動かない。混凝土で固められたみたいに重くて、自分の体なのに呼吸一つも儘ならない気がしてきた。

「サホ?」
「――おーい、オビト。そろそろ行かないと遅刻するぞ」

 後ろの通りからオビトへと声がかかる。ハッと振り向くと、わたしたちより年上だろう男の人が立ってこちらを見ていた。オビトと同じ、黒い髪に黒い目。十中八九うちは一族の人だ。

「分かってるって! サホ、悪いんだけど、オレこれから行かなきゃいけないところがあってさ」
「え? 行かなきゃいけないところ?」
「一族で集まって、まあなんか、話し合い? みたいなやつ。小さいときは出なくてもよかったんだけど、今は毎回出ないとおっさんたちがうるさいんだ。オレ、しょっちゅう遅刻するから目ェつけられてんだよ」

 面倒だと言わんばかりの表情で肩を落としつつも、オビトはその話し合いとやらにこれから出席する予定らしい。

「だからまたな!」

 手を挙げ、オビトは駆け出した。振り向くこともなくわたしを自宅前へ置いていき、話し合いが行われる場所へ行ってしまった。



 オビトに残されたわたしは、あれからしばらく呆然と立ち尽くした。展開が急すぎて、思考の処理がちょっと追いつかなかった。
 頭や気持ちがようやく落ち着いて、どうやら今回もオビトへ渡せなかったということだけははっきり分かった。
 うちはではないわたしがうちは地区に長居するのは何の利もないので、早々にお暇することとなった。

 渡せなかった。渡せなかった。

 頭の中で、何度も繰り返した。不思議と悲しいとか、悔しいという感情はなかった。
 ただ渡せなかったという事実が、じわじわと染みのように心から体へと広がって、家に帰るはずが近くの公園に足を進め、いくつかあるうちのベンチに腰を下ろさせた。
 毎日凍えるような寒い日が続いているせいか、公園には子どもはおろか誰の姿もなかった。
 というか、陽が落ちてからもう大分経っていたようで、ぽつんと近くに立つ外灯がなければ何も見えないほどに世界は真っ暗だった。

 渡せなかった。

 バッグから箱を取り出して、膝の上に乗せる。リボンの形は少しも歪んでいない。何度も何度も、きれいな形になるように結び直した。

 クシナ先生は、もう渡したかな。

 夫であるミナト先生へあげるのだと、チョコレートトリュフを一つ一つ丁寧に箱へと詰めていく横顔は幸せそうだった。
 それは当然だ。なぜなら、あの箱は必ずミナト先生の手に届き、食べてもらえるのだから。
 わたしと違って、渡せること、受け取ってもらえること、美味しいと言ってくれて、隣に居てくれることが当たり前なんだから。

「ねえ。風邪引くよ」

 声がして顔を上げたら、心細い外灯で白く光る色が見えた。髪の色。銀色の。

「今夜は氷点下になるらしいけど、凍死したいの?」

 その言葉よりも、その声や右目の方がずっと冷たくて凍えてしまいそうだ。

「とうし……」
「体温が低下して、体の機能がうまく働かなくなって、死ぬってこと」

 音も気配もなく現れ、繰り返した単語の意味を説明したはたけくんは、わたしの隣に腰を下ろした。
 はたけくんは暗部に転属し、今は師である四代目の命で色々な任務をこなしている。暗部のことはわたしのような一般中忍には分かりっこないし、顔を合わせて話す機会もグッと減ったけれど、まったく会わないわけでもなく、こうして偶然、顔を見せることだってある。

「で。何してんの?」

 改めて問うはたけくんは、厚手の外套で体を保温しているけれど、寒気に晒している耳は腫れたように赤い。
 何をしているのか――と訊ねられても困る。自分でも一体、ここで何をしているのか分からない。
 『凍死』と言われて、今やっと寒いと思った。綿の詰まった上着は腰から下までは温めてくれず、出ている足を覆う黒い脚衣だけでは、凍てつく空気を遮断できず体がぶるりと大きく震えた。

「それ、何?」

 はたけくんは震える足の上に乗った箱に目をやる。

「『バレンタインデー』って、知ってる?」
「バレンタインデー? 知らない」

 一応確かめると、はたけくんは知らなかった。そういう話題にまったく興味ないタイプだから、ああやっぱりといつものはたけくんにホッとした。

「外国の風習らしいんだけど、今日はバレンタインデーっていう日で、その日に女の人は、自分の好きな人や恋人にチョコレートを贈るんだって」
「チョコレートは分かるけど……なんでそんな物を贈るわけ?」
「分かんないけど……とにかく好きな人に贈るんだって」

 どうしてチョコレートなのかはわたしにも謎だけど、その国の店主がそう言っているのだから、そういうものだと受け入れるしかない。

「じゃあ、これをオビトへ渡すの?」

 再び目で指し示された箱を、そっと両手で触れた。手袋をしてこなかったから、冷えた指先は千切れてしまいそうなくらいに痛い。

「渡そうとしたんだけど、オビト忙そうで、タイミング悪くて、だめだった」

 事実だったけど、なんだか言い訳してるみたいだ。わたしは頑張ったけどオビトの都合が悪くてだめでした。そんな感じに。

「別にいいんじゃない。他所の国の習わしを、木ノ葉のオレたちがやる必要もないし」

 情けない自分に嫌悪していると、はたけくんはそもそも渡す行為そのものを否定した。他所の風習を、わたしたちがやる必要がないのはその通りだ。

「うん。そうなんだけど……」

 分かってる。ここは火の国、木ノ葉隠れの里。海を越えた先の国じゃない。バレンタインデーなんて元々関係なかったし、知らない人だったまだ多い。
 分かってる。はたけくんなりに励ましてくれているのだと。自分たちの生活に根付いていなかった行事なのだから、できなかったとしても問題ないと言ってくれている。

「そうなんだけど……」

 分かってるけど。
 だけどオビトに贈りたかった。言葉じゃうまく伝えられないから、この箱を贈ることで気持ちを告げたかった。
 わたしだって誰かに食べてほしい。好きな人に食べてほしい。美味しいよって、言ってほしい。
 両手を添えていた箱がスッと取り上げられ、びっくりして横を見たら、はたけくんが箱に結んでいたリボンに指をかけていた。シュルッと音を立てて解くと、蓋を開けて中からコロコロと丸め、少し苦めの粉をかけたチョコレートトリュフを摘まみ持ち上げた。

「ふうん」

 しばし観察したあと、わたしから顔を背けて、マスクを下ろしてチョコを口に入れた――ような動きをした。

「……あっま」

 正面に向き直ると、その眉間に深い皺が刻まれていた。マスクはきっちり上げられていたけれど、表情が芳しくないのは見て取れる。

「これ、ただのチョコレートにしては甘くない?」
「……オビト、甘いの好きだし……甘いチョコを使って作ったから……」

 甘いのが好きならより甘い方がいい。そう思って、苦みのある方ではなく、甘みの強いチョコレートを選んで作った。試食したときにはすごく甘かったけど、これくらいだったらオビトは平気だ。ただ、はたけくんはオビトとは違って甘い味は嫌いだから、その彼にすれば強烈だったかもしれない。

「ごちそうさま」

 再びわたしの下へ帰ってきたチョコの箱は、きれいに結んだリボンはただの紐になってしまい、中はぽっかりと一つ分だけ隙間が空いている。
 これではもう、オビトに渡すこともできない。
 それならもう、食べてしまおう。
 かじかんだ指で一粒取って、口の中へと放り込んだ。さして大きい物ではないので丸ごと入ったけれど、溶けて小さくなるには時間がかかる。
 その間、舌に感じる甘さはびっくりするほどで、はたけくんでもないのに思わず目をきつく細めてしまう。
 ごくんと、飲み下すようにチョコをお腹の中へ送ると、間も置かずに次のチョコに手を伸ばした。
 食べているうちに、鼻の奥が針で刺されたみたいに痛くなって、何度も鼻を啜った。
 寒いからだ。喉の奥が痛いのも、寒いからだ。
 目の端がじわりと濡れてきたのも、寒いからだ。
 体の奥へと溶け落ちてしまったら、また次のチョコを。それを数度繰り返し、オビトの口に入ることもなく、箱は空っぽになった。



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