最果てまでワルツ | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



 カウンセリングの頻度は以前から変わらず三ヶ月に一度。ここ最近はアララギさんによって内心が暴かれるのが恐ろしく、毎回どうにか行かない口実でもできないかと子ども染みた逃走願望が過ぎったが、今日は不思議と落ち着いていた。暴かれる内心を、すでに自ら蓋を開けて見てしまったからだろう。

「今日は顔色がいいですね」

 珍しい、とばかりに言うアララギさんは、本当に目聡いというか鋭い。まだ顔を合わせて五分も経っていない。「最近の調子はどうですか?」「まあまあです」というやりとりをしただけだ。

「そうですか?」
「ええ。声のトーンもいつもより生きています」
「『生きています』って……」

 ここしばらくのオレは死んでいたとでも言うのか。表し方はともかく、顔色や声色の違いを見抜ける洞察力には頭が上がらない。心理師という職は彼にとって天職の一つかもしれないが、その腕を振るうに相応しい場所はまだ他にもあるだろう。

「……以前、仰いましたよね。『変わることは決して悪いことではない』と」

 一年ほど前か、それくらい。カウンセリングが終わって帰るとき。あのとき彼がオレにかけた言葉は、説いているようにも慰めているようにも受け取れ、当時のオレにとってすんなり染みるものではなかったが、ずっと引っかかったままだった。

「だから、ま……そういうことです」
「そういうこと、ですか」
「ええ、はい」

 言葉にするのは難しかったため、かなり曖昧な伝え方をしてしまったが、アララギさんの垂れた目が喜ばしいとばかりに弓形になり、手にしたペンはカルテの上を少し走る。

「なかなかできないことですよ。人は変化を恐れるよう作られているので」
「はあ」
「私も昔、怖かったんですよ。それまでがむしゃらに目指していた医療忍者を諦め、別の道を行くというのが」

 トン、とペンは軽く突き立てられ止まる。

「今までに費やした時間や努力を振り返ると、すぐには決断できませんでした。私は子どもの頃から医療忍者になると決めていたので、『医療忍者以外の自分』が想像できませんでしたから。才能がないとはっきり分かり、さんざん引き伸ばしてようやく諦めたときも、毎日考えていましたよ。こんなことなら、いっそ全て投げ出して逃げたいと」

 アララギさんは自身を振り返って、かつて抱いた逃走願望を吐露した。
 医療忍者を目指していたものの諦めたことは知っていた。長い付き合いだし、彼が考え事をする際、ペンを親指でこする癖があることも知っている。
 けれどアララギさんはカウンセリングでのみ顔を合わせる存在であり、彼はオレにとって常に『聞き手』であった。そんなつもりはなかったのだが、アララギさんにも今日まで築いてきた人生があることが一切頭になかった。

「逃げたい、ですか」
「逃げたかったですね。医療忍者になれないという現実がどうにもつらくて、忍であることもつらかった。でも、たとえ医療忍者でなくとも、仲間を助けるやり方はいくらでもありました」

 紙に立てていたペンを放して机に置き、空いた両手を組んで、アララギさんが真正面からオレに向き直る。真剣な雰囲気に、思わず背筋が伸びた。

「元々、私が医療忍者を目指したのは、仲間が傷を負い死ぬことを無くしたかったからで、それは正式な医療忍者でなくてもいいと気づいたんです。傷口を塞ぐのは、何もチャクラでしかできないわけじゃない。道具を使えば誰にだって縫合できます。何だったら私にできるか、何が今は求められているのかを探しました。それで、その頃は忍の精神面におけるケアが十分ではないと考え、そちらの勉強を新たに始めたんです。里から遠く離れた前線は神経が日々削られます。心を病んでしまうことは多く、そのせいで命を落とすことも珍しくなかったのはご存知でしょう。その前線でこそ、心の均衡を保たなければならない。体の治療は医療忍者に任せて、心の怪我を私が支えようと思いました。そういうやり方で、仲間の死を無くしたかった」

 わずかな抑揚をつけ語られた彼の生き方は、逃走願望を捨てその場で踏み止まり、自らの力で新たな道を開拓した、立派なものだった。
 自分が心から望むことと向かい合い、自分ができることを探すというのは簡単なことではない。巡りあう運も必要だが、本人の意志の強さが何より問われるだろう。

「形は、何でもいいんです。きっとね、変化を受け入れたカカシさんの根っこの部分は、今でも変わっていないでしょう? 貴方の守りたいものも、譲れないものも、恐らく、『そう在りたい』と思ったときと変わらない。ただ、名前や見てくれが違って、それでちょっとだけ、気持ちの向け方が違う。それだけですよ」

 アララギさんの垂れた目が細くなり、どこか軽い調子で続けた。
 問われて振り返れば、サホを好きなのだと認めてからも、その前も、オレの根本にあるものは変わらない。
 オビトの意志を継ぐためにも、仲間や里を守りたい。サホを守りたい。
 あの横顔が曇るならばそれを払ってやりたい。
 ぎこちなく隣に並ぶのではなく、理由を用意せずともその隣を歩いていたい。
 口元は知らず緩んでいた。



 アララギさんが『生きている』と称したのは、意外とふさわしい表し方だったのかもしれない。

 サホが隣に住み始めた当初は気まずいばかりだったが、数ヵ月も経てば慣れてしまうもので、あまり会わないようにと気を遣うことも止めた。
 サホを避けるのが面倒になったというのもあるが、ばったり出くわしてもサホの表情は変わらず――嫌悪感を示さないというだけで、特に好意的ではないが――オレが近くで暮らしていることを不満だと訴える様子も見られないので、こちらが気にして疲れるのもおかしな話だと思ったのが大きい。
 隣同士になってからサホに接する機会が増え、完全にではないが、数年前に開いた距離は少しずつ縮まってきていることも影響している。
 さらに、サホがオビトを好きだと知っていたため、認めてはいけないと知らず封じていた気持ちを解いたことで、焦げるような胸の痛みが随分と楽になったことが、結局は一番大きな理由だろう。
 気持ちはサホに傾いているのに、そんなつもりはないと見ないふりをしていたから息苦しかった。
 肯定することでやっと齟齬がなくなり、心に余裕が生まれた。テンゾウ辺りに「最近はずっと顔色がいいですね」と言われるくらいだ。

 サホとどうなりたい、とは思わない。
 ホントは思っているのかもしれないけれど、現状は相変わらず芳しくない。数年前よりは改善されたとはいえ、いまだにサホとの間には深い溝がある。
 何より、サホはオビトが好きだ。他界して数年経とうとも、サホを動かすのはオビトへの想いだ。
 勝てないのに挑む気はない。意気地がないと言われたらぐうの音も出ないが、また数年かければ、オレたちの関係ももっと良くなるかもしれない。だったら、今はこの距離でそのときを待つのが一番いい。
 サホがオビトを好きという事実が、天地をひっくり返しても覆りそうにないのなら、それはそれで安心できる面もある。
 オビト以外の誰もサホの目に映らないのだから、横取りされるようなことは起きないはずだ。
 こうやって待てば、サホ自身もいつか変わるかもしれない。
 オビトへの想いに区切りがついて、他の誰かへ目を向けられる日が。
 淡い希望だけど、こればっかりは期待して願うしかない。



 最近にしては珍しく、夜が更ける前に暗部の詰め所を出た。隊長として責務は軽いものじゃないが、精神のバランスが安定している今はさほど苦ではない。部下も育って、イタチもロ班にすっかり馴染んだ。
 今夜の夕食は少し手をかけてみようか。食材を買って帰ろうかと思ったが、冷凍室に入れっぱなしの物を使いきらなければと、そのまま真っ直ぐマンションに戻った。
 階段を上がり、自室のある廊下に着くと、目的地付近に人影が一つ。自分の部屋の前に立つのは、隣人のサホだったが、その姿はいつもと大分違っていた。
 サホは普段から極力肌を露出しない。指の先までグローブで隠しているのに、今日は足や腕の見えるワンピースを着ている。いつもまとめている髪も下ろされ、華奢なヒールの靴を履いた足首の、きゅっと締まった細さが目立つ。
 オレに気づいて、玄関ドアからこちらへと移った顔も、やはり忍服を着用しているときと違う。李のような柔らかい色の頬に、長さを足した睫毛。

「なに?」

 肌に馴染む赤で仕上げた唇が短く問うた。視線はオレではなく手元に注がれ、大して数が入らないだろう小さなバッグに、役目を終えたばかりの鍵を仕舞っている。

「いや……」

 問われても上手い返しが出てこないまま、オレの部屋はサホの部屋の向こうだからと足を進めた。そのまま通り越してしまえばいいのに、歩はサホの前で自然と止まる。

「出かけるの?」
「そう」

 バッグの口を閉じたサホは、近づくとほのかに香った。洗った髪の匂いか、化粧品の匂いか、香水の類かは判別がつかなかったが、匂いを纏うことを厳禁とする生業を考えると、どう見たってこれから任務のわけがない。
 相槌を一つ返したオレの目は、着飾ったサホを上から下へと何度も往復する。少し前から背丈は変わらなくなり、髪の長さも一定の範囲で伸びたり切られたりを繰り返している。袖や裾から伸びた手足は白く、体型に沿った服が、体の凹凸をくっきりと目立たせる。

 ホントきれいになったよね。

 幼い頃の美醜など、極端な例を除けば皆大差ない。サホも周囲に埋もれてしまうほどに、ごくごく普通の少女だった。
 それがどうしたことか、幼虫が蛹を経て蝶になる一連の流れを辿るように随分と垢抜け、形容するなら『きれい』が当てはまるほどに変わるのだから、ヨシヒトの『美の教育』とやらは成功と言ってもいいだろう。
 しかし、こんな姿で今からどこへ出かけるというのか。プライベートの予定なのは想像がつく。
 こんなに気合の入った格好でこなす予定? 夜が深まる頃合いから思いつくのは食事くらいなものだ。
 だとしたらどこで、誰と? ここまで手をかけるということは、高い店か? それとも相手が特別なのか?
 じゃあ、誰よ。誰と会うために、こんなにきれいにしてるの。

「――おい、サホ」

 後ろから声が飛んできて、振り返ったら見知った顔が階段の傍に立っていた。日に焼けた大柄な体に、鋭い目つき。こんな[なり]で医療忍者と言われても恐らく大多数がピンとこない。けれど男は治癒を得意とし、長年サホと班を組んでいた。

「あれ? どうしたの? 待ち合わせしてたよね?」

 体を傾け、相手を認めたサホが言う。待ち合わせをしていたよね、と。
 オレを間に挟んだまま、二人はやりとりを続ける。ナギサはサホが来ないので迎えに来たらしく、けれど互いの集合時間にずれが生じていたようで、ナギサはしばらく待ちぼうけを食らったようだ。

 まさか、ナギサと?

 誰が聞いても、これから二人で出かけるのだと分かる。
 じゃあ、なに? ナギサと出かけるために、こんなきれいな格好してんの? ナギサのために?

 なにそれ。それじゃまるで――

 早く行こうと、些か乱暴に投げたあと、ナギサは先に一人で階段を降りていく。サホがオレの横を過ぎる。女の匂いが舞うから、左手を伸ばした。

「――カカシ?」

 掴んだ細い腕が逃れようと動くので、指先に力を込めた。放せという声が腹立たしい。
 放したらナギサの下へ行くのだろう。めかしこんだその姿の意味が、分からないほど色恋沙汰に疎くはない。

「カカシ……痛いっ……」

 痛みを訴える弱い悲鳴が庇護欲を刺激し、力が勝手に抜け、サホの腕はするりと去っていく。前を向いたままなので、サホがどんな顔をしているかは分からなかったが、しばらくその場に立ち止まったあと、足音が響いてついにはナギサの後を追って行ってしまった。

 オレを置いてどこ行くの。

 なんで。どうして。お前がいつも見ていたのはオビトなんでしょ。お前がいつも向かいたい先に居るのは、オビトただ一人のはずでしょ。
 なのに、オレを置いてどこへ行くっていうの。
 オビトの目を持ってるのはオレだよ。
 ナギサじゃない、誰でもない。オビトの欠片はオレだけが持ってるのに。
 もう、いいの?
 オビトは、もういいの?
 お前が求めているのは、もうオビトじゃなくてナギサになったの?

 オレが知らない間に、サホはすでに変わってしまった?

 何年経っても構わない、いつかでいいから、サホの心がオビト以外に向く日が来るのを待とうと思った。
 だけど、その日はもうとっくに来ていて、おまけに次の相手は決まってしまったのだとしたら。

 じゃあ、オレはもう、いらないの?

 掴まえていた左手をぎゅっと握り込む。
 骨なんて折ってやればよかった。そうしたらサホはどこにも行かなかったのに。背中を焼くだけじゃ足りなかったのかな。



 部屋に入って数時間。冷凍室を開けることも風呂に入ることもせず、ベッドの上に四肢を預け、耳を始めとした感覚器官を主に隣室へと向けるが、音も気配も一切しない。
 もう何度確認したか分からない時計は夜中の11時。里を出歩くのがほぼ酔っ払いばかりの時刻だというのに、隣人はまだ帰って来ない。
 もしかしたら、サホはあのままナギサの家にでも泊まるのだろうか。手には小さなバッグだけだったからそれはないと思うが、すでに何度も行き来を繰り返し、一泊するには十分の荷物をナギサの家に置いているなら関係ない。

 ならやっぱり二人は、そういう関係になったわけ?
 誰にも暴かれないようにと焼いた背中を、ナギサに見せてるわけ?

 想像は止まらず、むしろ加速して、比例するように苛立ちが一向に収まらない。二人で今何をしているのか。どこに居て、何を喋っているのか。
 例え話ではなく、本当に血管が切れてしまいそうだと思い始めた頃、少しこもった音が響いた。あれは鍵を開ける音。
 倒していた体を起こし、ベッドに座ったまま、耳を傾ける。イサナなら明確に聞き取れるだろうが、生憎と自分が利くのは鼻だ。
 ベッドから降り、物置き代わりの部屋に入って、隣室と繋がっているベランダに出た。隣から室内の明かりがそのまま漏れていて、カーテンを引いていないのだと分かる。
 二人以上なら交わされるだろう会話など聞こえない。なら、部屋に戻ってきたのはサホ一人と判断してもいいはず。
 帰ってきた。どこかに泊まることなく一人で。
 ホッとして、ベランダの手すりに両肘をつき、顔を手で覆って安堵の息を漏らした。
 帰ってきた――けど、あいつはあんな格好してナギサと出かけていた。その事実はどうにも変わらない。
 再び腹の底がぐつぐつと煮えて、身を返し手すりに背を預けると、躊躇うことなく殺気を放った。
 対象は隣室。無視できないほど分かりやすく、サホが張っているだろう結界にわざと触れてやろうかと思い出した辺りで、隣の窓ががらりと開き、薄い隔て板の向こうに隣の住人の顔が現れた。

「何なの? こんな夜中に、そんな殺気出して」

 そろそろ切らなければ、と考えていた前髪の間をすり抜け見えた顔はオレをきつく睨んでいて、数時間経っても化粧は崩れていない。髪の乱れもない。

「ねえ、聞いてるの?」

 答えないオレにサホが追及するが、聞いているよなど返してやる気はない。
 それだけ手をかけて着飾ったのはナギサのため?
 あいつとどういう関係なの?
 さっきまであいつと何してたの?
 訊きたいことは山ほどあった。

「オビトオビトってうるさい割には、あっさり鞍替えするんだね」

 なのに出てきたのは問いかけではなく、サホを貶すためだけの罵詈雑言だった。
 サホはオレの言葉の意味が分からないのか、見せるのは純粋な戸惑いだけ。

「班の元メンバーだったよね。オビトにあれだけ執着してたくせに、サホって案外器用なんだ」

 回りくどく、且つ嫌味ったらしく。できる限りサホを傷つけ[そし]る言い方を選べば、ようやくサホの顔が険を含んでいく。

「あの種をナルトにやったのも、もうお前にはいらなかったんだよな。咲かせる必要なんて、とっくになくなってた」

 恋に破れたら植える種。咲かせて想いに区切りをつける花。サホがコイヤブレを育てて花を咲かせたなら、左目じゃなくてオレを見てくれるかもしれないと期待を抱いていた。
 でも、サホには種などいらなかった。オレが知らない間に気持ちに折り合いをつけて、別の恋をちゃっかり見つけて育んでいた。
 オレなんかいらなかった。やっぱりオレは望まれていない。

「――ばっかじゃないの」

 低い声が、宵の空気を鈍く裂く。

「ナギサと待ち合わせしてたのは、ヨシヒトのお祝いのためよ。三人で集まる前に、ヨシヒトへのお祝いを買うために先に二人で待ち合わせしてただけ」

 ナギサと二人で過ごしたのではなく、そこにはもう一人、班のメンバーだったヨシヒトも居た。
 なるほどね。三人揃ってクシナ班だった。三人で会っていたのはごく自然なことだろう。

「その割には、随分気合の入った格好してるね」

 だからって、そんなに手をかける必要があるのか。共に任務を通して長い時間を過ごした間柄だろう。気楽な格好や化粧をしない顔などを今更恥じる仲ではないはず。
 オレの嫌味に、サホがいかにも『まるで分かっていない』とばかりに短い息をついた。

「ヨシヒトがいっつも、わたしに『きれいにしろ』ってうるさいの、知ってるでしょ。ちょっとでも手を抜いた格好をすると、顔を合わせている間ずーっとうるさいから、だから最初からバッチリ決めていかないと面倒なの」

――それは、たしかに。ヨシヒトの美に対する異常なまでの意識の高さ、それをサホにも同等に強要する姿は背景に馴染むほどにいつものことだ。いつの間にか決まっている流行りを取り入れなければ小言を、髪に艶がなければ冷めた目を向ける。美に関しては一切妥協しない。月下ヨシヒトという男の悪癖だ。
 それを踏まえて考えれば、サホのこの気合の入った格好にも納得がいく。自分のためでも、愛する誰かのためでもない。ただただ鬱陶しい相手を黙らせるための矛であり盾であった。

「え…………あー……そう、そうね。いや、そっか……」

 とんだ勘違いをしていた。もっとあらゆる要素を照らし合わせるべきだった。
 そうだ、ヨシヒトだ。班を組んで解散した今も、自分の使命だからとサホを鍛え続けるあいつに会う。一言でも説明されたらすぐに理解し、むしろ手間をかけねばならないサホの苦労に同情心すら湧いたかもしれないのに。

「あんた、わたしのこと馬鹿にしたのね。オビトのことを引きずってるくせに、他の男と付き合う、尻軽な女だって」

 驚いて伏せていた顔を上げると、激しい怒りをあらわにするサホと目が合った。自分の非を思うとサホに合わせる顔はないが、勘違いをしたことは謝らねばならない。
 違う、尻軽な女だなんて思ってない。ただお前が、オレから離れて行ったと思ったから、だから。
 そんなつもりじゃないと、否定の言葉を口にできはしたが、それからが続けられない。

「オビトを忘れられるなんて、そんなことできるわけない!」

 悲鳴にも似た声を上げて、隔て板から覗いていたサホの顔は引っ込み、大きな音を立てて窓が閉まる音が響いた。

「サホ!」

 慌てて隣のベランダへと移ったが、すでに窓には鍵がかかっており、きっちりと遮光カーテンまで引かれて、室内を見ることは叶わない。

「サホ、サホ。ごめん。サホ、ごめん」

 呼びかけ謝罪を続けるが、反応は一切ない。そっと窓に手を触れてみるとパチンとはじかれた。サホが施している結界だろう。指先の痺れが、そのままサホの拒絶を示しているようだ。
 この結界をすぐに解くのは無理だ。今となっては封印術や結界忍術についてはサホの方が長けている。時間をかければ解術は可能かもしれないが、いつになるかは分からない。
 ここで呼びかけ続けても、サホはきっと出てこない。長年の付き合いで把握しているあいつの性格と、オレがあいつに何をしたのかを考えれば、応じてくれるはずなどないとすぐに諦めた。
 自室のベランダへ戻り、部屋へ入り掃き出し窓を閉め、先ほどまで転がっていたベッドに再び身を投げた。
 頭と心がごちゃごちゃしていて、吐き気がこみあげてくる。
 そんな中でも、サホの心が、ナギサにも誰にも移っていないことには心底ホッとしている。
 しかし同時に、オビトを忘れることができないと叫んだあいつの声に打ちのめされてもいる。
 ナギサに心を移したことに対して強い憤りはあったが、見方を変えれば、他の男へ心が移るほどにオビトへの想いに区切りがついたとも受け取れる。
 つまり、オレがその『他の男』になれる可能性がある。
 もし仮にナギサや別の男がサホに近づいたとしても、追い払える自信はある。だってそいつらは生きてる。

 オビトにはどうやったって勝てないんだ。

 生きている奴なら力でねじ伏せてやれる。でも死者に生者は敵わない。
 勝ち逃げされたなどと、みっともないことまで考え出した。
 けれど、そうだろう。オビトはサホの心を奪ったまま、永遠の存在になってしまった。ずっとこのままサホの心を捕えて続けて、あいつの一生を縛り続ける。
 サホの目がオビト以外に向けられる日など来ない。待ち続けても、その日は訪れない。サホはオレを置いてどこにも行ったりはしないが、いくら傍に居てもオレを見てはくれない。
 オレを睨んだ目には涙が滲んでいた。サホの想いがどれだけのものか、いやというほど理解しているのに、どうしてあんなことを言ってしまったのか。
 嫉妬だ。分かってる。オレは嫉妬したのだ。そんな見苦しい感情、何故抑えられないのかと他人を見て呆れていたが、実際に自分がその立場になってみれば、なるほどこれは考えて堪えられるなどという範疇ではない。
  自身が負った分だけ傷つけたい。同じ痛みを与えて苦しめたい。けれどいざ傷つけたらとんでもない後悔に押し潰される。誰にも何の利もないと分かっているのに、とにかくあいつに思い知らせたくてたまらなかった。

 もう泣かせたくないのに。もう傷つけたくないのに。
 一番守りたいものを、なぜオレはいつも守れない。



24 棘さえも君に

20200223


Prev | Next