※「偶然と、それから」と同じ設定 ――AM4:30 エスカ・バメルの朝は早い。 恐らくこの王牙学園の寮の中で一番早いのでは、と我ながら自負している。朝食前の点呼は毎朝6時半と決まっているが、その二時間前に起きなければいけない理由が彼にはあった。 「おい、ミストレ…」 のそりと、まだ眠気も覚めぬまま隣のベッドの脇に立つ。サイドボードの時計がけたたましい音を撒き散らすのにも関わらず、動きもしない毛布の塊。持ち主が反応しないまま虚しく響き続けるアラームの音を止めて、塊を揺する。 けれど、ううん、と言葉にならない呻き声を上げるだけで、それは一向に起き上がりはしない。 「ミストレ」 もう一度名を呼ぶと、ようやくもぞもぞとその毛布の中から一本の手が這い出てくる。 細い腕だ。白魚の、と彼の取り巻きが称するその腕が、けれどどんな惨状を生み出すかをエスカは知っていた。知っていたはずだったのだ。 「エスカ、バ…」 「おい、ほらもう4時半だ――」 その手につられて、つい顔を寄せたエスカの言葉が途切れる。後頭部をがしりと掴まれて、その力の強さにぎょっと、身を引く間も無く―― ぐ、と一瞬引き寄せられたかと思うと、それを反動にして思い切り投げ飛ばされる。身を庇うより先に、冷たい床に背を強かに打ち付けて、広がる痛み。衝撃に息が詰まる。 「…っ!」 ベッドの上からは、相変わらず規則正しい寝息が聞こえてくる。誰が、何の為にこんなことを…と一瞬憤りが胸の内に沸きかけもするが、今更だ、という声とそれどころではない、という声が頭の中に巡る。 立ちあがって出来るだけその白い手から距離を取りつつ、毛布に手を伸ばす。一気に力を込めて引き抜けば、反応しきれなかったのか抵抗も少なく、その中身が露わになった。 毛布が無くなったことで、寒いのか更に身を縮こませて眠る様からは、先程の凶暴さは窺えない。胎児のように手足を丸まらせて。整ったその顔は、不機嫌そうに顰められてはいるが。 「おい、起きろってば」 「ううん…まだ…ほっとい、てよ…」 「起こさないと、怒るのはお前だろ」 飛んでくる拳を避けながらも、声は止めない。何故なら、止めればそれよりももっと酷い仕打ちが待っているのを身を持って知っているからだ。 ――けれども激しい攻防の末、結局彼が起きたのは5時を十分ほど過ぎた頃であった。 「ああもう!エスカバの馬鹿!役立たず!」 罵声を上げるより先に、手を動かしたらどうだろうと思うのは自分だけだろうか。一通りの罵りを浴びせた彼――ミストレーネ・カルスは、ちらりと時計に再び目をやって、ようやく我に返ったようで。そうだ君に構っている暇なんてないんだ、とぶつぶつと呟きながら洗面所に足早に消えた。誰も構ってくれなんて、端から言っていない。 ばたばたと、忙しなく動きながらも喚き声が聞こえる。それを聞き流しながら、エスカも自身のクローゼットから自分の軍服を取りだした。ズボンを履き替えて、アンダーシャツの上にジャケットを羽織って、エスカの準備は終了。けれども相変わらず洗面所からは喚き声と共に物音と水音と、それからドライヤーの音。 (何に時間がかかっているんだか) 女でもあるまいし、時間をかけるような場所なんてエスカには思い浮かばない。化粧をするわけでもあるまいし、毎日毎日よくやるものである。 手持無沙汰に自分のベッドに腰かけて、目に入った本に適当に手を伸ばした。手に取ったのは戦術に関する本だ。何度も読んだそれに目新しいものなどないが、ただただ文字を追う。そうしてしばらく。物音がぴたりと止んで、顔を上げる。目の前にはモスグリーンの軍服。 「はあ…間に合った」 腕を組んで、わざとらしく溜息を吐く仕草はやけに様になっている。先程まで騒音を立てて慌てふためいていた者と同一人物とは思えない。綺麗に同じ高さに揃えて結われた青緑色の髪の毛が、彼の動きに合わせて軽く揺れる。 「全く、もうちょっと早く起こせって言ってるだろ」 「俺は起こしたぞ」 「オレが起きない限りは、起こしたことにはならないんだよ!」 確かに、正論かもしれなかった。けれど理不尽な言葉である。その理不尽さに一旦は口を開くものの、しかしそのまま何も吐きださずに口を噤んだエスカにミストレーネは、きゅうと目を細めてこちらを見下ろした。 「…何だよ」 「いいや、何でもないよ」 そうして、行くよ、と短く言ってこちらに背を向ける。すたすたと、歩を進めてそのまま扉を抜ける彼の、妙に偉そうな背中をエスカは緩慢な動きで追った。 「おはよう」 食堂に入ったエスカに声をかける者があった。そちらに視線をやれば、トレーを手に持った背の高い少年。普段から柔和そうな目元を更に緩めて、少年――サンダユウ・ミシマは、毎朝大変だな、と笑った。 「俺たちの部屋まで聞こえてきたぞ」 「あー…悪い」 「いや、偶然早く起きてたから聞こえてきただけで」 別に、と言ってのけるサンダユウの言葉が嘘だと、エスカは知っていた。それが彼の優しさだと。けれどそれを指摘するのも野暮だ。彼のこういうところが、きっと―― 「ほら、エスカバ行かなくていいのか?」 サンダユウが示した先には、取り巻きの少女たちと談笑しつつテーブルに座る彼の姿。一瞬だけ視線が合って、それまで笑みを湛えていた瞳は、ふっとそれを消した。口元だけが小さく動いて。何を言いたいのか、読唇術の心得が無くったって分かる。伊達に共に過ごしてはいない。 「…行ってくる」 「はは、頑張れ」 ひらひらと、苦笑するサンダユウに手を振ってみせる。トレーに適当に食べ物を載せて、ミストレーネの元へと向かうと取り巻きの少女たちはそれぞれで食事を取っているらしい。一人テーブルに着く彼の向かいにトレーを置いた。 エスカが席に着くなり、彼は無言で自分の皿の上の物を選り分けて、こちらの皿に移す。どんどんと緑色を増していく皿に耐えかねて、エスカは口を開く。 「おい」 一瞬、自分の口から発されたものであると錯覚してしまう程のタイミングだった。けれど自分のものではない。ミストレーネの視線がゆっくりとエスカの背後に向けられて、途端にその少女めいた顔立ちを台無しにする程に顰められる。 「朝食はその日一日の体調を整える重要なものだ。選り好みせずに食べろ」 「…煩いな」 「…バダップ」 振り返れば、赤い瞳がエスカを通り越してミストレーネを真っ直ぐ射抜いていた。相変わらず何を考えているのかよく分からない瞳だった。同室のサンダユウなら分かるのだろうか、と思ったところで、先程別れたばかりのサンダユウが苦い笑みを浮かべながら近づいてくるのが見えた。 「お前も軍人ならそれを理解していると思ったが」 「理解してるよ。理解した上で、これらは必要ないと判断したんだ。必要なものはサプリメントで補給してる」 「サプリメントばかりに頼るなどと」 ヒートアップする戦いを余所に、サンダユウは落ち着いたものであった。エスカの斜め前つまりミストレの隣に座るとフォークを手に取り、エスカにも視線で食事を促した。王牙学園のナンバー1とナンバー2の口喧嘩をBGMに緑色でほぼ占められている皿に手を付ける。 バダップとミストレーネは、例の一件で少しは和解したように見えた。けれど、バダップの力を認めたと言えど、ミストレーネは彼の物言いがどうも気に食わないようであった。癖なのだろう、彼には少々上から物を言うようなところがあって。それはミストレーネの性格では到底許し難いもののようであった。訓練や、講義中であれば彼も何も文句は言わないのだが。バダップはエスカたちをまとめる将として、私生活へも何かにつけて口を出してしまうのであって、ミストレーネにはそれが堪らないのであった。 しばらくしても止まない言い争いに、エスカと談笑していたサンダユウが、一つ息を吐いて顔を上げる。 「ほら、バダップも食べないと時間がなくな――」 「そんなことばかりしていると、今に痛い目を見るぞ」 ガタン、と盛大な音が食堂に響いた。椅子の倒れる音。名を呼ぶ間も無く。エスカが彼を引き留めようと立ち上がった時には、ばだばだと足音を立てて彼が走り去ってしまった後だった。 「バダップ、あまり強く言ってやらないでくれ」 「エスカバ、お前は…」 「分かってるよ」 バダップの物言いたげな視線を振り払って、エスカは食堂から足早に出る。 言われなくとも、分かっていた。自分が彼に甘いことくらい。 ――思うにミストレーネは、拒否されることが恐いのだ。 それに気付いたのは、同室になって幾許も経たない頃のことであった。些細な言い争いは頻繁にあったが、その日のものは特に酷くて。 エスカはその時初めて見たのだ。あの、高慢そうな態度を崩さないミストレーネの―― 「お前、案外打たれ弱いよな」 「…煩い」 自室に戻れば、ベッドに腰かけて俯く彼の姿があった。その頭に手を伸ばすと払われて、なんだか少しだけ安心する。それ程弱ってはいないらしい。 「ほら、これ食えよ」 食堂から取ってきた携帯食料を渡せば、エスカバの癖に気が利く、と憎まれ口を叩いてみせてようやく顔を上げた。こちらを見上げる大きな瞳、その睫毛が少しだけ頼りなさ気に揺れる。 「さっさと食べて訓練行くぞ」 「分かってるよ」 言われなくてもね、と受け取った携帯食料を開封してもそもそと口に運ぶ。 「…チョコ味が良かった」 「知らねえよ」 調子が戻ってきたかと、ふ、と声を漏らすと何笑ってんだと、咎められた。別に、と頭をくしゃりと撫ぜると、不満そうにこちらを睨みあげる。髪型を乱した、と文句が飛び出るのかと身構える。 「また明日」 「ん?」 「明日も、起こせよな」 「……はいはい」 手を差し伸べれば、彼はすう、とアメジスト色の瞳を細めて、その白い手をこちらに伸ばすのだった。それを、掴むエスカの思いなど彼は知ることはないのだろう。けれど明日も、エスカは彼を起こすのだ。 ....................... ある論客の朝 |