※不幸せな話。
 不謹慎なネタ。
 苦手な方は注意。




彼の人の実家の庭園に勝るとも劣らない色とりどりの花が芳しく咲き誇るその場所に、フィリップは立ち尽くしていた。
まるでこの世のものとは思えないほど、一分の隙も無い美しさ。チューリップ、コスモス、ポインセチア…フィリップに分かる花の名などこれぐらいしかないのだが、四季など関係なく視界の届く限り一面花で埋め尽くされている。
花を踏みつぶしてしまわないように慎重に歩いていくと、しばらくしてさらさらと澄んだ水の流れる小川が目の前に横たわっていた。跳んで行けば越えられるような、越えられないようなそんなぎりぎりの幅の川。こちら側とはうってかわってその川の向こう、そちらには青い花だけが咲き誇っている。
――薔薇だ。
青い薔薇。
眩んでしまいそうなくらい、青い、青い薔薇が一面に咲き誇る。その中に紛れるように、とけ込むように彼は立っていた。どれだけ見てきただろう。彼の背中を、フィリップが見間違える筈もない。
「エドガー」
口から彼の名が漏れる。
そう大きい声で呼んだつもりはないのにゆっくりと彼は振り返った。
彼の、周りの青薔薇よりも深い色をした瞳はフィリップを見るなり驚いたように何度か瞬いて、それからゆるりと優しく細められた。
「――――」
音は聞こえない。
けれども、彼の唇が動いたのが確かに見えた。
「エドガー、今何と」
今何と言ったのか、そう問おうとしたフィリップの声はごうごうという音によって遮られた。
音のする先、小川の上流に目をやる。
轟々と、濁流。
静かに流れていた筈の小川を飲み込むように、水流が川岸に立っていたフィリップをも逃げ出す間もなく浚う。溺れそうになりながらも、川の向こうに必死に目を向ける。
彼は変わらずに青い薔薇の中に立っていて穏やかにこちらを見ていた。














「エド、ガー」
呟いた声が己の耳に届く。
ぼやけた視界に映る、見慣れぬ天井。
違和感を感じてそっと目元に手をやると、いつの間に溢れだしたのだろうか。滴がフィリップの指を濡らした。
その滴が夢の中の奔流を思い出させた。
なんだか、不思議な夢だった。
夢に心乱される年頃なんて、もうとうの昔に過ぎたと思っていたのに。
夢の中での、彼の唇の動きを思い出す。
いったい彼は何と――
「……っ!エドガー!!」
は、と我に返り、隣のベッドに目をやる。
そこには本当に人がそこに寝ていたのだろうかと思うほど綺麗に整えられたベッドと、その上に畳まれた備え付きの部屋着。
「やられた……」

フィリップたちイギリス代表は、親善試合の為ここアメリカを訪れていた。
久しぶりに再会したマーク・クルーガー、ディラン・キース、アスカ・ドモン、そして壮絶なリハビリの末まさしく不死鳥のごとく返り咲いたカズヤ・イチノセ。
FFIでも顔を合わせたメンバーとの再戦は、最高潮の盛り上がりの中雌雄の着かぬまま終わりを迎えた。次の世界大会で決着を付けようと、お互いを讃え合った後は親睦会という名の酒盛り・どんちゃん騒ぎに発展して。
そんな中、エドガーとフィリップの二人だけは、押しつけられる酒をどうにか切り抜けて、酔いつぶれるチームメイトをそのままにホテルへと早々と引き上げた。
――君は気にせずに楽しめば良かったんだ。
ホテルの部屋に帰って尚、そうぶつぶつと呟くエドガーにフィリップは苦笑を返した。
他のチームメイトはまだ数日アメリカに滞在する予定であるが、エドガーだけは実家の用事で母国へ一足先に帰ることになっていたのだ。当然のごとく自分も共に帰ると主張したフィリップにエドガーは気にするな、と何度も言った。
エドガーとは長いつきあいである。
幼い頃から、堂々とした立ち振る舞いに反して、日常生活において不器用な面のあるエドガーに何くれと世話を焼いていたら、もはやそれはフィリップの癖のようになってしまっていて。治すこともできないそれをフィリップは治すつもりもないのだが、けれども最近のエドガーはそのことについて気に病んでいるようだった。
自分のせいでフィリップが己を削っていると思っているらしい。
そんなことはない、とエドガーがそのことを持ち出す度にフィリップは主張するのだけれども彼は諦めていないらしかった。エドガーはそれもフィリップが遠慮して言っているのだと思っているらしいのだ。
――実際、遠慮等ではなく本当にフィリップにとってエドガーの隣というのは定位置になりきっていて、そうではない自分というのはもはや考えられないのであった。
――流石にそんなこと、とても口には出せないけれども。
今回も、残れ、いや着いていく、とその問答が何度繰り広げたか分からない。
明日は同じ飛行機に乗ると言い張って荷造りも万全なフィリップに、エドガーも諦めたと思ったのだけれども。

枕元の目覚まし時計は電池が抜かれていた。
自分で思っていたよりも疲れ果ててぐっすりと眠りこけてしまっていたらしいフィリップ。その枕元で、アラームのスイッチが分からずにこそこそと電池ごと抜くエドガーの様子が脳裏に浮かぶ。
丁寧に畳まれた部屋着の上に、チームメイト等の帰国と同じ日付の入った航空券を見つけた。これで帰れと言うことか。
腕時計に目をやる。
10時30分を数分回っていた。
確か離陸は9時だったか。
盛大に寝過ごしている。
けれども――
フィリップはばたばたと身支度を整える。
今から急いで空港に向かえば、次の便には間に合うかもしれない。
昨夜にまとめた荷物と、航空券をひっつかんで。
――このまま、引き下がるのも妙に癪だったのだ。
何だかここで引き下がりたくはないな、という妙な矜持があった。
追いかけて、ガツンと今度こそ――あなたの側に居たいだけなのだと。献身とか、そういうものではなく
エレベーターを待つのすらもどかしいと、階段をかけ降りてホテルのロビーへ。
監督やチームメイトにはあとで連絡すればいいだろうかと、コートのポケットに放り込んでいた携帯電話に目をやった。
(メッセージが、一件…?)
着信履歴と共に表示されたそれは、エドガーの番号からであった。
謝罪だろうか、と急ぐ足は止めないままに携帯電話を耳に当てる。
フロントに鍵を渡しながら無機質な女性の声を聞く。続いて、聞きなれた彼の低い声。
『フィリップすまない。…けれど』
ありがとうとフロントに短く礼を言って、早々に踵を返し正面玄関へと向かう。
ロビーを横切るその時、そこに設置されているテレビに人だかりができているのに気付いた。
何があったのだろうと思いながらも意識は携帯電話から流れてくる彼の声に。
『私は、先に行っているから』
人だかりが発するざわめきは大きく、ともすれば彼の声を掻き消そうとする。
うるさいな、そう思ってフィリップはちらりとテレビの方に目をやった。
『君はアメリカ旅行を楽しんで』
足が止まる。
飛び込んできた、映像。
携帯電話を当てていない、もう一方の耳から入ってくる言葉。
意味が分からなくて、分かりたくなくて、ただただ単語が羅列されてゆくような感覚。

イギリス行きの――
エンジントラブルで――
生存者は――
酷い――

『後からゆっくり来たまえ』

耳に届く彼の声は、こんなにも穏やかなのに。
「つい、らく」
嘘だと。
夢だと。
お願いだから。

『待っているよ』

するりと手からすり抜けた携帯電話は、大理石の床に落ちて、盛大にその音を立てた。
世界が、壊れた音だと。
そうフィリップは思った。




あなたの声はもはやはるか遠く



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本当にずっと書きたかった。エドガーって早死にしそうです。
しかも飛行機事故か、もしくは銃で撃たれて死にそうです。