「波江さん、今日はもう上がっていいよ」 雇い主が青白い顔で言う。 ここのところ立て込んでいた仕事がようやく片付きそうな兆しを見せた頃合で、もう少しすれば綺麗に片付くというのに、ここで私を帰そうとするのは、こいつが切羽詰まっている何よりの証拠だ。 どうせここのところの忙しさで、ろくに食事も睡眠もとっていなかったのだろうけど、それだけでこうもなんて、軟な男だ。 どうせ何を言っても無駄な労力をお互いに消耗するだけなので、そう、と一言返して帰り支度を始める。 「お疲れさま」 心にもないような言葉をおまけにつけてくる、こういうとことが嫌いだ。 そびえ建つ高層マンションを見仰ぐ。 この一室は一体いくらなんだろうなどとどうでも良い疑問が浮かんだ。このまま帰って、誠二を愛でたらいい。あの調子じゃ雇い主は明日になっても回復しないかもしれない。そうしたら久々の休日だ。 それなのに、私は踵を返していた。ただの気まぐれだ。 音を立てずに部屋まで戻ると、案の定、油断しきった様子でソファに丸まっている雇い主の姿があった。毛布がほとんど覆いかぶさった状態で横になっているものだから、黒い頭の端と指先だけがちょこんと見えた。 ソファのすぐ前に置かれているローテーブルには、飲みかけの水と中身のない薬の梱包がいくつも散らばっていた。それは薬局などで簡単に手に入る類のものではないことが自分にはわかる。それどころか、実に無理な飲み方をこの男はしている。 「馬鹿ね」 「君も大概意地が悪いね」 ゆるりと身体を持ち上げて、私を見やって溜息を吐きながらも、彼はそこを動こうとはしなかった。 間近で見ると、その顔はほとんど透明に白く、どうかしていると思いながらも、美しいと感じてしまった。顔だけはいいのだ、この男は。 「何か作ってあげるわ」 「どういう風の吹き回し?」 疑いの眼差しをあからさまに向けられる。もっともなことだ。けれど理由などなかった。なんとなく思いついただけ。 「そんなこともあるでしょう、何がいいかしら」 「……、そうだね、鍋が食べたいかな」 「そう」 「本当につくってくれるの?」 「しつこいわね」 「まあ、いいや。ありがたく恩恵に預かるとしよう」 「そうしなさい」 諦めたようだ。それがいい。だって本当に裏などないんだもの。 「じゃあ、俺は仕事を片付けるか」 「……馬鹿なの?」 見栄っ張りにも程がある。起き上がり息をするのもやっとというていで良く言ったものだ。 実際眩暈でもするのか身体を支える腕はぴんと張りつめ、視線はどこかへ伏せられたままだった。 「ひどいなあ」 「……知らないわ、私はしばらくキッチンにこもらせてもらうから」 どうせこうでも言わないと、いつ私が来るかとびくびくしてろくに横にもなれないのだろう。 「驚いた、君がお人よしだったなんて」 この男は馬鹿ではない。だから暗に意図が通じるのはいいのだが、それを一々茶化すのがいけない。そのまま黙っていれば良いものを。 「うるさいわね、一生帰らないわよ」 「それは、参ったよ、よろしくたのむ、ちゃんと帰ってくれ」 「分かってるわ」 なぜこんなことをしているのかも分からないまま、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの呼吸を背中を感じながら、私は台所に立つのだった。 鍋がぐつぐつと沸きはじめたころ、ふと覗くと、彼は先ほどとまったく同じ体勢のままでそこにいた。これは、起こさない方がいいのかもしれない。こちらが何と言おうと、少しでも余裕があるならば、この男のことだ、起きてすました顔をしているに決まっている。それこそ仕事をする振りでもして。 一度、火を止めておくことにした。鍋は勢いを急速に萎えさせていく。 彼には少し子どものようなところがある。 見た通りに装うそれではなくて、きっと彼自身も無意識なところなのだろうけれど、ふとした仕草や、振る舞いがとても幼い。それは、甘えることを忘れていた人がふと思い出したように、その秘めていた衝動を隠し忘れるような、そんな振る舞いなのだ。 奇しくも、どこかで見たような光景に、わたしはむずむずとした不快感を抱くよりほかない。 指に絡める髪の毛は、誠二のそれより細く絡まってくる。案外くせ毛なのかもしれない。 くすぐったいのか、なんなのか、身をよじらせる、そのたびにぐりぐりと移動する鎖骨の線はぎっしりとしていて、いくら細いと言えど、肩幅もある。ふとこういう瞬間に、これが男なのだと思い出す。体格も誠二とそう変わらない。この男は案外着やせするタイプなのだろうか。 いずれにせよ、こういうとき、この男は抵抗をしない。 なみえさん なによ なんでもない 鼻先にふと匂いを感じた。 昔住んでいた家の匂い。あの家にも、そう、私と誠二しかいなかった。生き方を選べるような余裕はなかった。いくつも時が経って、そんなことを気に留めるのも忘れるように変わってしまったけれど。 なみえさん、帰っていいよ、俺寝そう、本当に すでに寝ぼけた口調で、子供のようにつぶやく。 分かってるわ、帰るわよ それでも、もうしばらくは、自分はこの手を止めないのだろう。 お鍋、温めてから食べてね ……結局またひとり鍋か ご愁傷さま 彼が復活したときには鍋に付き合ってやろうかと柄にもなく考えながら、柔らかい髪をもう一度すいてみた。 -------- 男らしいざやをかきたかったのに、なぜかこうなった |