榛名に対して毛ほどの信用も抱いていない阿部くん






「兄ちゃん、早く!場所無くなっちゃうよ」
「花火なんざどっからでも観れんだろうが」
「こっからじゃ遠いじゃん!」

子供体温というものが、こちらを子供扱いすることで先輩面したい馬鹿と母親の幻想ではないらしいと知らせる熱い手に引かれ、人のあいだを縫って歩く。
もう反抗期を迎えてもおかしくない歳になるというのに、昔と変わることなく懐いてくる弟は可愛いものだが、兄としては一緒に祭りに行く友人もいないのかと心配になる。

「兄ちゃん屋台で何買う?」
「そんな金ねーよ」
「大丈夫!お土産に焼きそば買ってくるって言って、お父さんからお金もらったから!」

ペロリと舌を出す笑顔は我が弟ながら、憎たらしいほどのちゃっかり者である。
ちなみに俺はお母さんに「お金ちょうだい」といってきっぱりと断られた。
投げるなら家計を握る母ではなく父に、ストレートではなく変化球ということか。こういう点で弟は捕手に向いていると思うのだが、如何せん、シュンは打つ方に夢中である。

「にしても、スゲー人だな」
「そう?毎年こんなもんだよ。てか、これからもっと増える」
「まじかよ」
「兄ちゃん、毎年、花火観に行かないもんね」
「来年からも行かねぇな」

連なる人波を眺めていると、ふと、その向こうに水面に浮かぶブイのようにひょこりと飛び出した頭を見つけた。
ピョコピョコと意思を持って揺れるアホ毛は見間違えようがない。

「兄ちゃん!?どうしたの!」

榛名だ。
なぜ奴がここに!?……と思うのは愚問だろう。
地元の花火大会だ。ある者は暇を持て余し、ある者は気分転換に、浮かれた雰囲気に誘われるがまま、うんこに群がるハエのごとく火薬と金属粉の燃焼の見物へと参じるのだろう。

「騒ぐんじゃねぇよ……!お前のその無駄口で今まで何人の命が散っていったと思っている……?」
「なに急に数々の修羅場をくぐり抜けた一方で心に一生癒えない傷を負う鬼軍曹みたいなこと言い出してんの!?」
「いいから黙れ……!」

まだ幼さを残す弟の頬をふにふにすることで黙らせ、前方に注意を払う。
いくら相手が野生動物であるとはいえ、これだけの人混みのなかだ。それに加えてこちらは風下。
不幸中の幸いというべきか、こちらが先に気づくことができた。このまま警戒を怠らなければ、上手くやり過ごすことができるだろう。

「あれ、タカヤじゃん」

などと、思っているうちに見つかる。
偶然見つけたように榛名は言うが、奴は前方を歩いていたことを忘れてはならない。つまり、花火会場に向かう人の流れをかきわけて、榛名はこちらにやってきたのだ。

「あっ!榛名さん!」

目の前の男に、兄がどれだけの屈辱を味わわされたか知らない無垢な弟は、慇懃に背筋を正す。
やめろ、脊柱起立筋の無駄使いだ。

「……………………………………おい、タカヤ。ダレだ、コイツ」
「弟です」
「ああ!タカヤおとーと!」

初対面の相手にも「兄弟?」と言い当てられることが示すように、俺と似ているらしい弟の顔を榛名が覚える気配はない。

「あれ?タカヤ、ユカタじゃねーの?」
「浴衣?」
「ユカタ。ユカタの方がいーのに」

榛名の口ぶりは、花火大会において浴衣でないことが世紀の大罪とでもいうようだが、辺りを見渡しても小さな子供を除いて浴衣を着ている者などいない。
当の本人である榛名もTシャツにジーンズと、俺とそう変わらない格好をしている。

「女であるまいし、そんなもん着てくるわけないでしょ」
「俺の連れはユカタだけど」
「! もしかして榛名さん、デートですか!」

つい先ほどまで凶悪なメンチを切られていたというのに、何事もなかったかのように笑うシュンは、俺の弟であるから当然だが、榛名より確実に人間が出来ている。
「連れ」という単語に目敏く反応した弟が、青々しい好奇心を瞳いっぱいにキラキラと輝かせる。
兄の乾いた生活を前に揺らいでいた"甘酸っぱい高校生活"という理想は、某週刊少年誌におけるラブコメ戦国時代が生み出した妄想ではなかったのだ!と思っているのだろう。殺すぞ。
しかし、大変おモテになるらしい榛名は、弟の期待する通りの"甘酸っぱい高校生活"を満喫しているらしい。
俺が榛名を発見したときのように、一際位置の高い頭を見つけたのだろう。肩で息をした浴衣の女が、後輩に絡むのに忙しく振り返りもしない榛名のシャツの裾をいじらしく引っ張った。
乱れたあわせ襟からわかる潰しきれない大きさの胸に、榛名の性的嗜好が透けている。

「なー、タカヤァ」
「なんすか?」
「オマエ、金持ってる?」
「持ってないですけど……、じゃなくて」

なぜ球場や人混みから一人の見つけて欲しいなどとは微塵も思っていない後輩を見つけ出すことはできるのに、弱い力で服を引っ張るいたいけな手に気づくことはできないのか。
「呼んでる」と顎で合図を送ってやって、やっと榛名は振り返った。

「あ、俺、コイツと行くから。バイバイ」

一体何が悪いとばかりにあっさりと、榛名は言う。
「コイツ」と指差されたのが浴衣女であったなら、どれだけよかっただろう。それならば「間違ってもああいういけすかない男になってはいけないよ」とシュンを諭せばいい。
しかし榛名は俺の手を掴むと、浴衣女をシュンごと置き去りにして走りだした。

「あっ、兄ちゃん!」
「タカヤ貰うぞ、タカヤおとーと!」

呼び名が戻っていることから考えて、今、アスファルトを蹴る一歩一歩のあいだにも、榛名の鳥頭はシュンの顔を忘れようとしているのだろう。
しかしそれより残酷なのは、浴衣女へは残す言葉もないことだ。もしかしたら榛名はすでにその存在すら忘れてしまっているかもしれない。


ともすれば肩の触れ合う人ごみを走るという行為は、れっきとした迷惑行為であるはずだ。
しかし誰も榛名を注意することなく、それどころか榛名のために道を作るように人混みが割れていく。

「おい、コラ!」

このままでは海すら割れそうであったので、阿部は脱臼覚悟で榛名の手を振り払った。

「タカヤ、手ェ、アチい!コドモ体温?」
「ウルセェ!」
「なに怒ってんの?」
「怒ってねぇよ!」

そう。俺は怒ってなどいない。そんな義理はない。

「……いいんですか、さっきの人?」
「うん」
「うんって……」
「タカヤと他じゃ、断然タカヤだろ」

明日は我が身、と、俺は思う。
どれほど歯の浮く台詞であっても、榛名の言葉に軽薄さはない。その言葉の下には、常に踏み潰され引きちぎられた無残な死骸があるからだ。
明日を待たずとも、今「タカヤ」である俺が一瞬先には「他」になっている可能性は多分にあるのだ。

「それよりさ、なんか奢ってやんよ!デート行くなら持ってけって、母ちゃんが金くれたから」
「デートってそれ、さっきの人と行くからくれたんだろ」
「なんで?タカヤと行ったらデートじゃねぇの?」

榛名のお母さんは、デートに掛かる費用は男が払うべきという行き過ぎたフェミニズムより先に、デートとは何かを榛名に教えてあげるべきである。

「あぶく銭か……」

残忍に生きる榛名に対し、教訓を残すことなく消えていくだろう数枚の野口に自分を重ねる。

「……なんか腹にたまるもん食いたいです」

どうせ泡のように消えてしまうのなら、奢ってもらえるうちに奢ってもらった方が得というものだろう。

「ノド渇いた。ラムネ奢ってやるよ」
「腹にたまるもんって言ってんだろうが!」
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