右阿部2で配ったペーパー
渡し損ねた方がいるので…
阿部隆也。
美丈夫ではないが不細工でもない。容姿にこれといって特徴のない彼であるが、あえて目に付く点を上げるとすれば、過ぎるほどの視線の強さと、それに反するように甘く垂れ下がった目尻を持つ目元だろう。
しかしその日、いつものようにグラウンドに現れた彼のたれ目は真一文字に引かれた黒色に覆い隠されていた。
「オハヨー。今日、いつもより遅いね。あ!さては三橋へのストーカーでタイホされちゃった!?」
まるで何らかの犯罪の重要参考人のように目線の入れられた阿部の姿を水谷は無邪気に笑う。
水谷の声に答えることなく振り向いた阿部は探るように空に手を伸ばした。
すぐに手は水谷の頬を見つけ、柔らかいそれの上をペタペタと歩きだした。そして、程なくして見つけた軟弱な首筋をきゅっと締めあげた。
「こら!」
遠巻きに見ていた花井が慌てて止めにはいる。
「だってコイツムカつくんだもん」
「だっても何もない!」
くたくたになった水谷を背中に隠して背筋正しく怒る花井を「母ちゃんみてーだな」と田島が遠くで笑う。
「・・・・・・で、どうしたんだよ。それ」
塗り潰された目元を指さされると、阿部は昨夜のことを思い出して忌々しく皺を寄せた。
「昨日、榛名がきて、取られた」
ベッドに入り、さあ寝ようと脱力していたので抵抗する間もなかった。ベッドの下から現れた榛名は「それ欲しいから、くれ」と言うと、あっと言う間に阿部の目玉を二つ持っていってしまった。
「あ、ほんとだ。これ目線じゃない。修正海苔だ」
ぱりぱりしながら水谷は言う。
「水谷、食うな」
角をちぎられた長方形の下には、友情・努力・勝利を信条とする少年誌では目も当てられないようなグロテスクな光景が広がっているのだ。
「目ェ見えねぇのか」
こくんと阿部は頷いた。
「だから今日は頼むぞ」
三橋に言うのとは全く違うどこかおどけたような口調は犯行声明のようにも聞こえる。
早速、花井のユニフォームの裾を掴む阿部に
「がってん!頼まれたよー」
と顔を出した水谷が言う。
「オメェには頼んでねぇ」
それを阿部がまた狙いだし、自分を挟んで猫の仔のように争う二人に、花井はやれやれとため息をついた。
榛名の右肩に掛かるエナメルバッグから垂れ下がる悪趣味なバッグチャームに気づいた秋丸は「聞いてくるなら教えてやらんこともない」という榛名の視線に急かされて、うんざりと指をさした。
「だいたい察しがつくけど、それどうしたの?」
「タカヤの!」
「うん」
「やっぱタカヤと言えば、このコナマイキな目だよな」
「お前は予想に違わない男だね」
「早めに返しなよ」という秋丸の注意を右から左に聞き流して、榛名は落ち着きなく動く二つの目をうっとりと見つめた。
じろりと忌々しく榛名を見上げてくるその目はあの時のまま変わることがない。阿部の残骸が西浦高校でどれだけあのヒョロピの世話を焼こうが、この目は榛名を映して逸らさない。
恋をすると人は強くなる。ならば恋した相手を手中に収めた時、人はどうなるのだろうか。
榛名を睨むべく険しく引き締められた瞼を撫でると、まるで賢者の石を手にしたかのような万能感が榛名の胸を包む。しなやかな睫毛に指先をくすぐられると、後ろ髪が逆立っていくような錯覚にとらわれる。
二限目の終わった休み時間、阿部の目元からそれは溢れだした。
頬を伝う白い粘液は年頃の男子なら誰しも馴染みがある。だが阿部は、今、こんな時間に、自分の目元からそれが溢れだしたことが信じられなかった。
まさか、あのド変態・・・・・・。
まず疑ったのは、眼病ではなく榛名である。阿部の目は彼の元にあるのだ。
急いで顔を洗い、榛名へ電話を掛けた。一秒たりとも待たされることなく電話は繋がった。いつものことだが、レスポンスが早過ぎて怖い。
「タカヤ!」
「うるさい!」
少し上擦った榛名の声に阿部は確信を持った。実に不本意なことであるが、その声音を阿部は何度かベッドの中で聞いたことがあった。
「テメーこんな真っ昼間っから何してんだ、しかも学校で!体操着に着替えるだけでももうちょっとかかるぞ!」
「ナンノコトダヨ」
「とぼけんな!返せ!俺の目、今返せすぐ返せ!今日終わったらそっちいくから、覚えておけ!!」
「タ、タカヤからデートに誘ってくるなんて珍しいじゃねーか。・・・・・・でも、俺だって忙しーし。だけどタカヤがどうしてもって言うんなら」
「黙れ!」
まだまだ文句は山のようにあったが、始業チャイムにつつかれ、阿部は押し潰すように電話を切った。
だが、この電話がいけなかった。三時限目終わりの休み時間にもまた目元から粘液は溢れだした。
「返す」
返せ返せと催促してみたが、あの変態味噌煮込みがそう簡単に頷くはずがないと阿部は推測していたが、交渉は存外あっさりと進んだ。
いや、進んだなどというものではないだろう。榛名は花井に先導されてゆるゆると歩く阿部の姿を認めるなり、吐き捨てるように言って、ファミレスの少しガタついたテーブルの上に目を乗せた。
「で、ハゲ。お前は帰れ。俺はタカヤとしか約束してねぇんだけど」
「この禿は俺が言って着いてきてもらったんです。ありがとな、花井」
無事榛名の向かいに腰掛けた阿部は、花井を見上げる。
見上げる角度が少しずれていることが今の阿部の状況を表している。今ばかりは、阿部をうらやましく花井は思う。
人を殺さんばかりの榛名の目を見ることがないからだ。
テーブルを這い回っていた両手が汗をかいたお冷やを見つけて「はい、ごほうび」と花井に差し出した時には、「お礼が水かよ」より「そもそもそれ榛名さんの水だし」より、ただただ「やめてくれ!」と思った。
逃げるように帰った花井を見送り、半日ぶりに戻った阿部の眼球には、不機嫌な榛名の顔が映った。
「タカヤ、テメー、なんで今日、西浦の奴らと手ぇ繋いでたんだよ」
低い声で榛名は唸る。
「だって、前見えないし」
あっさりと言う阿部は後ろ暗いことがないので悪びれることもない。しかし、その清廉潔白なすまし顔が榛名をより苛立たせる。
「もしかして、それで機嫌悪いんですか?アンタのせいなのに?」
相手を宥める術を知らない、それどころかそういった発想すらないことは、クレオパトラの鼻より罪深い阿部の欠点だ。
「テメェ!」
ここで落ち合うより少し前、榛名は待ちきれずこっそりと西浦へと向かった。そこで見た光景に榛名はショックを受けた。
そこには、つらつらと部員に手を引かれる阿部がいた。
最もタカヤらしい阿部の一部を手に入れて、榛名は阿部の全てを手にしたような気持ちになっていたが、それは全くの勘違いであるのだと神様に鼻先を叩かれた気がした。
「お前は、なんもわかってねぇ!俺がどんな気持ちだったかわかるか!?」
「わかりません。俺のアイデンティティが視神経のごとく目元に集まっていると思うその発想も」
やっぱりわかってねぇ、と榛名は思う。
榛名はただ単に”阿部隆也”が欲しいのではない。”自分を見ている阿部隆也”が欲しいのだ。
「・・・・・・ちょっと、その減らず口貸せ」
阿部が「断る」と言うより早く、唇を引きちぎられた。この阿呆が、と阿部は修正海苔の下で剥き出しの歯を食いしばる。
「そんなことするなら、もう元希さんとは一生口ききません」
紙ナプキンにそう書き殴り、突きつけると、榛名は「そうじゃねーよ」とニヤリとした。
唇を持った左手を、榛名は見せつけるようにゆっくりと持ち上げると、チュッと唇を重ね阿部に返した。
「馬鹿が」
苦々しく吐き出す阿部の頬がじわじわと赤く染まっていったことに、榛名は溜飲を下げた。
「あーあ。どこを奪えば、タカヤの全部が俺のモンになるのかな」
「ありませんよ。そんな部分は、もう」
悩む榛名が、阿部がきっちりと着込んだ学ランの下。愛でられ色を変えつつある乳首よりももっと下の胸の奥の奥にある阿部の大切な部分を、ずっと昔に奪っていることに気がつくのは、いつのことになるのだろうか。