01

 ――ある一つの噂がある。
 街の東の森を抜けたところにある洋館には、人間ではない男が住み着いている。その男はこの世の者とは思えないほど美しく、見るもの全てを惑わせる。そうして惑わせた者を屋敷の中に招き入れたあと、血を吸うのだ。
 もう何人も犠牲になっている。しかしどういうわけか、男はその洋館から離れることはなく、この街にやってくることもない。だから、その洋館に近づくな。何があっても、決して。
 それは幼い頃から街で囁かれていた噂だった。信じている人がどのくらい居たかは分からない。多分、危ないから森には行くな、という意味なのだと思う。少なくとも、自分はそう思っている。
 その噂が少し変化したのは、ここ最近のことだった。血を吸われるだけではなくそのまま殺されてしまう、というものになった。遊び半分で森に行った子供の親か誰かが、二度と行かないようにと噂をより怖いものにして、近寄り難くするためだろう。
 だって、血をすべて吸い尽くされて殺された人の死体を見つけたことはないし、そう言ったことが街で事件になったりもしていない。そんな奇怪なことがあったら、大事件に発展するはずなのだから。
 それに、自分は知っているのだ。

「アルガ!」
「……また来たのか。物好きにも程があるな、お前」

 こちらを一瞥し、呆れたように溜息を吐いたのは、確かにこの世の者とは思えないほど美しい青年だった。女の自分でも嫉妬してしまうそうなほどサラサラの黒い髪に、今は既に本に視線が戻ってしまっているが、空のような青い目をしている。どこか異国の血を思わせる容姿は、実際にこの国ではない者の血が流れているらしい。
 アルガと言う名の彼は、随分前に空き家になっていたこの洋館を買い取り、住み着いた。こんな辺鄙なところに住まうなんて変わっていると思うが、人との交流が苦手な彼にはとても心地いい空間なのだとか。
 彼と知りあったのはたまたまだった。此処からそう遠くない別の街に用事があって出かけた際、帰りが遅くなってしまって、夜になる前に帰ろうと近道になる森を抜けようとしたのが駄目だった。入ったことのない森で見事迷い、陽も落ちてしまって途方に暮れていた時に見つけた洋館。そこに住んでいたのがアルガだった。
 初めは渋っていたが、放り出して万が一でもあったら寝覚めが悪い。だから今夜だけは泊まっても良い。その代わり陽が昇ったらさっさと帰れと、一夜限り留まることを許してくれたのだ。
 噂を聞いていたので有り得ないと思いつつも僅かに恐怖を抱いて過ごした一晩は、当たり前だが何事もなくあっさりと明けて、教えてもらった道を行くと無事に街へと帰れた。
 やっぱり噂は噂でしかなかったのだ。そう思い、泊めてもらったお礼の品を持ってもう一度洋館に訪れ、会話をし――そんなことをしている間に、いつの間にか彼と居るのが心地良いことに気付き始めた。
 そうして分かったのだ。彼に、アルガに、恋をしていると。
 それからはアルガが何も言わないことを良いことに、何回かこうして洋館を訪れるようになった。迷惑かもとも思ったが、物事をはっきりと言う彼が来るなと言わないのだから、きっと許されているのだろう。

「相変わらず暗いなあ、この洋館は」
「森の中にあるからな。陽が当たらない」
「じめじめしていて嫌にならない?」
「別に。気にしてない」

 アルガはそう言うが、少しは気にした方が良いと思う。だってまったくと言って良いほど陽が当たらないのだ。開けても何も変わらないから、と言う理由で閉め切ってあるカーテンだが、本当に開けても何も変わらないほど、この洋館は暗い。
 確かに森の中も暗かったが、少しは光が差していたように思う。奥の方にあるからと言って、少しも光が当たらないなんて。この洋館を建てた者は、何を考えてこんな所に洋館など作ったのだろうか。

「こんな暗いところに居ると、気が滅入っちゃわない?」
「俺が何の為に此処に住んでいると思っている? 此処なら、人もそう来ないだろ。人と会う位だったら此処に住んでいる方がマシだ」
「そうだけどさ。人を避けるにしてももう少し場所ってもんがあるでしょ」
「辺鄙な場所にあって、変な噂も流れているから、好都合だったんだ」
「噂? ああ……て言うかあれ、アルガが此処に住む前から流れてたの?」
「……ああ。前の住人が居た時からのものじゃないのか? 誰もこの洋館を訪れなんてしないから、住人が居なくなっても気付かないだろうし」

 本を読みながら話すアルガは、こちらを見ない。会話に応えてくれるのだから話すのを嫌がってはいないのだろうが、少しはこちらを見てほしいな、なんて思いながらも、会話を続ける。

「ふうん……でも、本当によく住む気になったなあ。吸血鬼が居るって言われてたのに」
「……お前、信じてるのか?」

 何気なく呟いた言葉に、アルガは読んでいた本ではなく、こちらに視線を向けている。その目に宿っていた感情が何なのかは、彼の視界に入れたことが嬉しくて、気付かない。

「まさか。吸血鬼なんて信じてないよ! そんなの、居るはずないじゃん!」
「……じゃあ、もし俺がその吸血鬼だって言ったらどうする?」
「は?」

 思いがけない言葉に、目を丸くした。アルガの視線は逸らされずにこちらに固定されたままだ。珍しい。彼は滅多に自分を視界に入れることはないのに。

「な、に、言ってるの、アルガ?」
「この洋館がこうも暗いのは、吸血鬼は陽の光が苦手だから。いつも飲んでいるワインは実は生き物の血で、お前をこの洋館に招き入れているのは、いつか吸い殺すためだと言ったらどうする?」

 言いながら本を読みながら飲んでいたのであろう、血のような赤いワインが入ったグラスを揺らす。
 確かにアルガはいつもワインを飲んでいた。それも、血のような色をしている赤ワインだけ。白ワインを飲んでいるところは見たことがない。それにこの洋館。確かにこれだけ完璧に陽が当たらない様に設計されているのも可笑しい気がする。
 そうして、人と関わるのが好きではないアルガが、自分を招き入れる理由。それが本当に彼が言っていたとおり、自分を吸い殺すためなのだとしたら。
 だとしたら、自分は――。

「……なんて、冗談に決まってるだろ。何本気にしてるんだ。これも血の筈ないだろ」

 呆れたような声音と共に差し出されたグラスからは、確かに酒の香りがした。本物のワインである。

「まさか本気にされるとは思わなかったな。そんなに俺は人間には見えないか?」
「ほ、本気になんかしてないってば! ちゃんと冗談だって分かってたよ!」

 とはいえ、彼の雰囲気が何処となく人間離れしているのは本当で、その容姿が更に拍車をかけていた。だって本当に綺麗なのだ。人間とは思えないほどに、彼は。

「もう!」
「何処に行く?」
「今日はもう帰るの! ……そろそろ時間も時間だし」
「そうか」

 暗くて分かりにくいが、もうこの洋館に着てから結構な時間が経っている。もしかしたらいつもより遅いかもしれない。そろそろ帰るべきだろう。親にこの場所に来ていることが知られないためにも。

「じゃあね」
「ああ」

 扉まで歩いて、ちらりとアルガを見やる。視線は相も変わらず本に向いていて、ちっともこちらを見ない。名残惜しいのは自分だけか、と溜息を吐きつつ部屋を出て行こうとすると。
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