カラスとヒト



ここは動物たちも滅多に足を踏み入れない北の森を超えた市街地です。木々の鬱蒼と茂り、狂暴な肉食動物たちの住処となっている北の森を超えることの出来ない人はここを自分たちの生活区域と定め、縄張りとして住み着いていました。お蔭で邪悪で姑息で利己的なヒトの手が北の森の向こうの丘の先や谷の森に及ぶことはありません。そしてまた北の森やまたその向こう側に住む、狂暴な動物たちが彼らの土地を犯すことは滅多にありませんでした。

珍しいな。
リヴァイは住処の大木に作られたツリーハウスの窓から北の森の面した大きな木を見上げてそう思いました。北の森と市街地との境界線を守る番人のリヴァイは北の森に住む動物たちにとっても、市街地に住む民にとっても特別な存在で皆その段違いの強さを恐れています。その能力を見込んで市街地に住むエルヴィンが番人の役に任命したわけですが、民は北の森からの動物たちよりも異常なほど強い彼自身を恐れていたので、リヴァイが市街地の中心部から出て行ったことに何よりもずっと安心していました。

そんな恐ろしいリヴァイを北の森の動物たちも十分に警戒していて、境界線には小鳥の一匹も飛んで居ません。人も動物も居ない境界が番人の仕事場でした。

なのに、今日はその境界に一匹の烏が見えるのです。リヴァイは窓際にかけていたライフルを握り、構えるとスコープで大木の枝の先に座る大きな黒い翼を背負った烏を捉えます。


「…………ッ!?」


もう少し。トリガーに指をかけてあとは引き金を引くだけだったというのに、枝に座っていた体が傾き、ゆっくりと落下していったのでした。リヴァイは戸惑いました。自分が打ったわけでもなく、また誰かが打った様な音も聞こえませんでした。独りでに木から落下した大きな烏が気がかりで、リヴァイは部屋を出て、その場所へと急ぎました。

少し抜かるんだ泥交じりの土を踏みしめながら大きな大きな針葉樹の元へ行くと、足を踏み出す様に土から盛り上がった根っこにその体が横たわって居ました。近づいて覗き込んでみるとその体はびっくりするくらい傷だらけで、とても落下した時に出来たものとは思えないほどの出血です。烏の特徴でもある漆黒の大きな翼も近くで見ると抜け落ちていて、剥げたところから肌色の地が見えているところもありました。

その時、リヴァイがどうしてそんなことをしたのか彼自身にも全く分かりませんでした。しかし、体が勝手に動いたのです。リヴァイはぐったりと倒れる体を抱いて、担ぎ、自分の家へと持ち帰りました。


「おい…」


声をかけてみますが、返ってくる気配はありません。背中の大きく開き、胸にぴったりと張り付いた黒の前掛けに耳を当ててみると確かにすぐ傍で自分と同じ命の音が聞こえます。零れる息さえ小さくて確認できませんでしたが、リヴァイのその手で眠る彼は確実に生きています。リヴァイはその体を一先ず玄関に置くと、大きなタオルを濡らし、傷から出る血と落下した時に付着した泥で汚れる彼の体を丁寧に拭き取ります。慎重にしているつもりでも弱った彼の黒羽は時にぷちりぷちりと抜け落ち、玄関に落ちました。

頬を拭き取りながらしっかりと顔を見てみると、全く別種というのに自分とほとんど変わらない肌触りに不思議な気持ちになりました。生き物をこの手に包み込んだのはいつぶりだろう。確かな温かさの受け渡しがそこにはあり、リヴァイは得も言われぬ気持ちでした。


「ん"……ッ」


ぴくり。
何もせずのぞき込んでいた顔の眉間が寄り、見詰めているとゆっくりと瞼が開き、吸い込まれるような闇色の瞳が虚ろに見えます。しかし、その瞳に一瞬の閃光が宿った途端、彼の目は大きく見開かれ、リヴァイの体は抱えていた翼によって大きく弾きつけられました。非常に混乱している様子で狭い玄関先だというのに大きな翼を目一杯に広げ、また壁にぶつかり、ばさりばさりと羽が舞い散っていくのが見え、リヴァイはライフルを抱えると銃口を窓の外に向け、一発鳴らしました。

バンッ―――――、部屋中に大きく響いたその時、烏は動きを止め、リヴァイをしっかりととらえます。その眼には強い憎しみと怒り、そして恐れが見えました。


「落ち着け、チキン野郎。俺が手を加えなくても、放っといたら、てめぇは死ぬ。治療してやるから、大人しくそこに座れ。」

「ヒトの言うことなど信用するか…。」

「死ぬぞ」


リヴァイは窓の外に向けていた銃口でしっかりとその大きな翼を捉え、烏の動きをぴたりと止めます。銃口を下げぬまま、ゆっくりとすり足で近づき、距離を詰めていくと、睨み付ける大きな瞳の瞳孔が開きぐぐぐと食い入るようにキツい視線になりました。


(動くな…、)


祈りのように胸の内でつぶやきます。
ひらひらと視界の端で玄関の床へと羽が落ちていき、床はどんどんと黒へと染まっていきました。こつん。額へと銃口が触れると、薄い皮膚の向こうの確かな骨格を振動で感じます。


「…グッ…ゴホ…、ッ」


祈りの言葉は届きました。
大きく翼を広げたかと思うと鈍い声と共に口から赤黒い飛沫が飛び散り、ビタビタビタと音を立てて床へと落ちます。翼は空気を失ったかのように休息に萎み、銃口に触れていた体は傾き、床へと叩きつけ垂れました。

リヴァイはライフルを投げ捨て、駆け寄ります。体に触れると浅い呼吸がひゅーひゅーと音を立ててはいるものの、顔は白く生気を失っていました。重たくなった体と翼を抱えるようにして、胸に抱いた。腕の中で白い肌の下から確かに感じる鼓動。どくん、どくん。リヴァイの鼓動も同じように鳴りました。







「名前」


扉の向こうから聞こえた声で浅い眠りから目が覚めました。俯せになっていた体をゆっくりと起こしているうちに扉は開き、目つきの悪いヒトの顔が覗き込みました。腕にはたくさんの包帯と救急箱が抱えられていて、名前は顔を歪めました。今からあの薬品臭いもので治療されると思うとうんざりします。


「体を起こせ。包帯を変える。」

「リヴァイ、勘弁してくれ。今朝はもういい。ヒトの手当は薬品臭くてかなわん。」

「足も翼も落下の影響でまだ折れたままだ。傷も深い。」


羽根を広げろ、というリヴァイの言葉を無視して、名前はふわふわのシーツに体を戻して、枕に顔を擦りつけます。ベッドで寝るという習慣のなかった名前にとってこの寝方は腰に負担がかかりますが、今まで寝る時に感じることのなかった頬に触れるふわふわの感覚を気に入っていました。傷負いの自分をなかなかベッドから出してくれないリヴァイでしたが、名前はこの布団の感触を気に入っていたので酷いと思ったりしませんでした。むしろ、薬品くさい消毒液のほうが名前はずっと嫌いです。


「おい、名前」


大きく開いた背中に折りたたまれた黒い翼をゆっくりと撫でると、名前はふるると震わせてからまだ羽根の生え揃わない折れた翼をぎこちなく開きました。リヴァイはほんの少し開いたそれを濡れたタオルで丁寧に掴み、驚くほど丁寧な動きでゆっくりと広げます。

痛む顔を見せないように枕に顔を埋める名前にお節介なことはわざと聞いたりしません。枕を掴む手にぎゅっと力が入り、シーツに皺が寄るのを見るだけで十分だとリヴァイは思いました。

ここへ来た時の名前の傷は酷いもので、ワイヤーや杭でつけられた傷が体中にあり、傷口から銃弾が零れることもありました。リヴァイはその一つ一つをピンセットで取り除き、傷を広げないように消毒をし、手当をしました。毎日、毎日、抜け落ちた羽を掃除して、夜、痛みに呻き声が聞こえれば例えどれほど深い夜でも部屋へとかけて行き、開く傷の手当をし、痛みに打ち震える体にそっと寄り添いました。

リヴァイにとって、名前はくたびれ追いやられた世界へ堕ちてきた小さな天使。幸せの青い鳥ならぬ、幸せの黒い烏でした。


「しかし、境界線の守人が、北の森の怪物を看病なんていいのか?ヒトらしくもない。」

「俺の仕事は北の森の連中から街を守ることだ。連中が街に危害さえ食わなければ、諸悪の根源を匿おうと市街地の家畜共は知ったこっちゃない。ヒトの悪意で鼻が捻じ曲がりそうな悪臭を放つあの街を追われた身だ。だが、境界線は北の連中のものでも、街のものでもない。まぎれもなく俺の領域だ。ここでは俺が正義だ。」


なるほど、皆お前が怖くてこの境界を侵さぬわけか。
包帯を引いて締め付けをキツくすると枕を抱え込んでいた名前があ"ッと声を上げて、リヴァイを睨みつけます。


「痛…ッ、もう少し手加減しないか。はぁ…、しかし、諸悪の根源というのは心外だな。最初に領域を犯してきたのはお前たちヒトだ」

「………………。」

「生き物たちは、丘向こうや谷の森、竹の崖など皆天敵との住み分けを計り、必要以上の争い事が起こらないように最低限の食料を確保できる土地で住んでいる。それが、ここはどうだ?お前たちがこの地を選んだ理由は、住み分けを測りたいからではない。北の森が越えられないからだ。俺たち狂暴な禽獣の住む北の森は他のどこよりも強い生き物の住処。お前たちはそれを越えられなかったから今ここに居る。つまり、住み分けなど毛頭考えていないのだろ。いつでも、チャンスさえあればお前たちは必ず森を侵そうとするに違いない。」

「飛べねぇ烏がよくしゃべるな。傷に触るぞ。」


「お前も分かってるはずだ。お前が死ねば、この境界はヒトによって必ず侵される。」


すでに始まってるんじゃないか。俺がそうされたように。
境界の守人のリヴァイは市街地のヒトが密かにこの場所に足を踏み入れていることを知って居ました。決して多くの人数ではありません。守人のリヴァイを恐れないごく少数の人間です。けれど、その人々は確かに境界に趣き、北の森の様子をうかがっているのです。自分の能力を疑い、時に境界の様子を見に来るのだろう。リヴァイはその程度に思っていましたが、あの日墜落した名前に出会った時、それはそんなに簡単なことではないと気が付きました。

ヒトが北の森の領域を密かに侵し始めているのです。
ほんの少しの力―――今は見つかれば、狂暴な生き物たちに踏みつぶされてしまうほどの小さな勢力であることは間違いありません。しかし、リヴァイという民をも恐れる守人が居なくなってしまってはどうでしょう。その小さな勢力は街に眠るヒトの強欲を焚きつけ、必ず北の森へと進撃するに違いありません。賢いエルヴィンはそのことを理解して、リヴァイをここに置いたのです。


「俺は侵そうとするヒトを一人で八つ裂きにしてやるつもりだった。兄弟たちの居る森を危険にさらさないためには危険な芽が小さなうちに摘み取っておきたかったからな。…けれど、俺一人では役不足だった。屈辱的にもヒトの手を借りて生き延びる自分に、ここに来た数日は打ちひしがれていたな」


リヴァイは羽と足の包帯を変え、添え木も代えてやると、また濡れたタオルでふわふわと艶のある羽根を一枚一枚綺麗な濡れタオルでふき取ります。


「しかし、お前は不思議だな。欲という欲もなく、こんなところで守るに値するかも分からぬ人間たちのために不当の扱いに屈するとはな。」

「不当な扱いに屈したわけじゃねぇ。俺は街の中で家畜みてぇに暮らす豚共と同じ穴のムジナになるくらいなら、一人で居た方がいいと思っただけだ。」


「まぁ、こちらとしてもお前という砦は、貴重だ。」


そう言って、闇色の瞳を細くしてくすりと笑う名前にリヴァイは黙ります。何も答えずに、ほんの少しだけ小さく口角を上げました。


「傷が治ったら、俺はこの北の森の兄弟たちのために最善を尽くしたい。」


例え怪物の住む森と呼ばれても、俺たち兄弟とっては故郷だ。
翼をゆっくりと畳んでベッドの横の小さな窓を覗き込んだ先には、青々とした木々が見えます。例の通り、小鳥の囀り一つも聞こえませんでしたが、名前はそれを愛おしそうに見つめていました。その横顔は清々しく、ここへ来たときの荒々しい気配は一つも感じさせませんでした。



名前の傷はリヴァイの懸命な手当のお蔭でよくなっていきました。切り傷やかすり傷は消え去り、落下の衝撃からの内出血のあとももうどこにもありません。足も歩けるところまで回復し、あとは翼が飛び立てるほどまで回復するのを待つばかりです。名前は部屋の中で動き回る様になり、リヴァイの仕事や掃除を手伝うようになりました。境界線の見回りを一緒に行い、名前の作った木の実ベースのヘルシーな朝食を二人で食べるのがリヴァイの密かな楽しみでした。

しかし、その後、名前が翼を羽ばたかせる時間はリヴァイにとってあまり好きな時間とは言い難いものでした。


「リヴァイ、見てくれ!もう片翼は問題ないくらい動く!」


大きく美しい黒い翼を動かしながら嬉しそうにそう言う名前にリヴァイは別れの兆しを感じていたのです。彼と自分の関係は傷を癒すことでなりたっていました。その傷がなくなってしまうというなら、一体どうやって彼をここへ止めておく理由がありましょう。あれほど北の森を愛する彼です。きっと帰ってしまうでしょう。リヴァイはそう思うと、恐くなりました。―――あの最強のリヴァイが?街の人が聞いたらきっと大笑いするでしょう。あの誰よりも強く、非道と言われたリヴァイがたった一人の烏を手放す絶望を恐れているのだから。

幸せの鳥の舞い降りた世界は、夢のようでした。
最初は決して穏やかなものではありませんでしたが、献身的な手当を通して心の距離は近づき、今では簡単に触れられるところにその美しい翼があります。それを手放すなんて、リヴァイは考えたくもありませんでした。出会う前の、誰も居ない孤独なこの境界線に戻りたくはありません。

名前が翼をはためかせている時に、リヴァイは初めて出会った時と同じ祈りを動きの鈍い片翼にかけていたのです。


「やめとけ、名前。無理して、また悪化したら時間かけて手当した意味がなくなるだろうが。」


時間稼ぎをするようにリヴァイはいつもこう口にするのでした。



その宵――――、隣の部屋から聞こえる音にリヴァイは目を覚ましました。名前の部屋からです。梅雨も近づき、少し湿気立ってきた頃なので塞がったばかりの大きな傷が痛みだしたのかも知れない。そう思うと心配でリヴァイは名前の部屋を訪ねます。キィと小さな音を立てて扉を開け、隙間から部屋の中を覗きます。


(………!?)


リヴァイは驚きました。いつも名前の眠るそのベッドが空っぽになっていたからです。扉を開け、ベッドへと近寄りました。シーツと布団に黒い羽が絡みついていて、リヴァイはついさっきまでここに名前が眠っていたことを知ります。リヴァイはいつも朝になると名前の羽を掃除していたので、ここに落ちている羽根は今宵落とした羽根に間違いないと思いました。

では、どこに?
リヴァイの胸がどっどっどっと激しい音を立てて唸ります。ひゅう、開けた扉から廊下へと風が抜け、顔を上げました。するとその先には開いた窓が見えます。到底、名前の抜けることの出来ないような小さな窓。リヴァイは勝手に逃げてしまうことを恐れて、わざと小さな窓のある部屋を用意していました。その窓が開いているということは―――、やはり逃げようと思ったのだろうか…?

リヴァイは大きな三日月に誘われるように窓を覗き込みました。すると、昼間片翼を動かしていた家の前の野原に名前は居ました。気が付かないうちに玄関から出たのでしょう。名前は小さな星の散りばめられた夜空を見上げて、ゆっくりと目を閉じていました。


(…………名前…?)


何をするつもりでそこに居るのでしょう。
ひとつ、ふたつ、瞬きをして、ゆっくりと目を開いた名前。ヒュウウと先より強い風が吹いて、リヴァイが目を細めると視線の先に大きな黒い翼が拡がりました。昼間の片翼ではなく、広く逞しく美しい両翼です。

昼間は動かなかった片翼。飛べないと思っていた片翼が遠くで風を受け、開いた時―――、リヴァイは衝動的に玄関の方へと走り出しました。









両翼が風を受け、開きます。


(もう飛べる…)


名前は確信しました。皮肉にも一抹の痛みの走ることのない本当の翼を取り戻したのです。しかし、名前の心は決して晴れやかなものではありませんでした。このことがリヴァイにばれてしまえば、もう――ここに居ることは出来ないと知っていたからです。

北の森のために最善を尽くしたい。それはリヴァイという砦を何者からも守ることです。しかし、本当はそんなの体のいい口実でしかありませんでした。名前はリヴァイに惹かれていたのです。人間なのに欲がなく、荒々しくも優しいリヴァイ。気高く孤高にこの何もない更地のような境界で生きる命に寄り添いたいと思っていました。

でも、なんといっていいか分からず結局この日まで名前は翼の動かないフリをするしかありませんでした。しかし、それも何れは知れることになりましょう。別れを告げられるのを待つくらいなら、いっそ何も言わず姿を消すほうがいいのではないか。名前の心は迷っていました。

人間と禽獣―――争い事の減りつつあるこの世界で、天敵同士身を寄せ合うということは稀ではあれ耳にはしてきました。狼と羊が、猿と犬がどれほど仲良く身を寄せ合えたとしても、人間と禽獣では抱え持つ世界観の差異が違います。理性という殻の中に隠したどろどろとした欲望が解き放たれた時、彼らは奪うことへの正義を唱っては我が物顔でその命への有難さも忘れ奪い取るのです。それは"生きるための搾取"とはかけ離れた、名前たち禽獣が経験したことのないまさに"殺戮"呼べるものに違いないのです。そんな人間と理解し合えるはずはない。そう思う気持ちに反して、リヴァイの顔が浮かぶのです。


「名前…」


脳裏で思い浮かべた声が意外にも近くで聞こえたことに名前の体がびくりと跳ねます。素早い動きで振り返れば、同じ葦の長い草原の中にリヴァイがこちらを見据えて立っていました。宵闇色の瞳に確かな閃光を宿しています。もう言い逃れることは出来ない。名前は自然と力の加わった眉間に逆らうように瞼を押し上げ、リヴァイをしっかりと見つめました。二人の間を夜のひんやりとした風がびゅうと抜け、ざわざわと草木を揺らします。


「リヴァイ…」

「帰るのか、森に」


リヴァイの向こう側に大木が、そしてその向こうには散らばるオレンジの星たちがいくつも見えました。そっと振り返れば、後ろで木々たちが陰口を叩くように密やかながらも騒めいています。


「俺たちは烏。禽獣はお前たち人間とは決して理解し合えないし、暮らせない。」

「俺と話せ。こっちは人間と禽獣がどうだとか、そんな建前の話は最初からすっ飛ばしてんだよ。」


聞きたいのはお前と、俺の話だ。
その時のリヴァイは曖昧な言葉選びを決して許そうとしませんでした。息が詰まりそうなほど射竦める圧迫的な視線に名前は耐えきれず視線を逸らし、唇を小さく噛みます。


「名前、てめぇは俺に欲がないと言ったな。確かに俺は金も欲しくねぇ、名誉も、権力も、そんなもんはゴミクズ以下だと思ってきた。自分よりも強いものが居るこの世界で人間どもの奢りで作り上げた小さな社会の天辺で鼻を高くしてるくせぇオヤジどもになりたいと思ったこともない。だが、今一つだけ―――俺にも欲がある。何か分かるか?」


それは端から見れば如何ほどに小さく、くだらない欲でしょう。でもそれはリヴァイにとって大きく、大切なたった一つの欲なのでした。ここで手放すわけにはどうしてもいかないのです。一歩、一歩、ゆっくりと傍へと歩みを始めたリヴァイを名前は目で追います。


「見当もつかん…」

「なら教えてやる」


強い風が吹き、長い草がしなりました。その瞬間、名前の目には確かにそれが目に入ったのです。星よりも眩しく、月の光よりも鋭く光沢を魅せるそれがリヴァイの手には確かに握られているのです。名前はそれを見て、ほんの少し口角を上げました。


「欲があるとは聞いて呆れる。欲がなく、荒々しい殺気を飼いならしてこそ、人間と禽獣の境界の守人が務まるのではないのか。」

「欲のない人間なんていねぇ」

「それで一人前のヒトになったつもりか?リヴァイ」


お前にヒトになって貰っては困る。
名前の笑みは深まり、闇色の瞳がしっかりとリヴァイを捉えました。とくん、とくん。その途端に、リヴァイの鼓動は応えるように早くなるのです。



「しかし、一つしかない欲ならば、その一つを失えば元通り。お前はまたヒトとも禽獣とも成らない―――まさに"怪物"だな。」



名前はそっと北の森へ振り返ります。そして、大きな二つの翼をリヴァイに向けて見せつける様に開くのです。その時でした。ぐいと翼から後ろへと引っ張る力が伝わり、名前の体は傾きました。無機質で冷たい斧の刃先が首から肩、肩甲骨へと掠め、奮い立つ慟哭の声と共に片翼の根を打ち付けたのです。

名前の胸が詰まりました。あまりの痛みに声を上げることも忘れて、額には脂汗が滲みます。追って全身が沸騰したかのような熱があふれ出し、突然出来た皮膚上の風穴に血管は暴れ出し、血が飛沫の様に吹き上がりました。

ふいに体を強く抱きしめられ、背中からリヴァイが体ごとくっつけ、その大きな傷口を塞いでいるのだと気が付きました。耳元では荒くなった息がぜぇぜぇと聞こえ、時々不規則に息を吸い込む音も聞こえました。


「ぐぁ…、ぅ"…」


名前の左肩から溢れる血があっという間にリヴァイの深い緑色の服を宵闇の色へと染めていきます。一つの鼓動で傷口がしとどに濡れる度にリヴァイはより強く抱える腕に力を入れます。全身が心臓になったかのように大きく鼓動する名前の青白い横顔に流れる生理的な涙をリヴァイは濡れた左手で拭いました。ゆっくり、ゆっくりと足が崩れていく名前に寄り添うようにリヴァイも土に膝をつき、月の光よりも白く輝く首筋に顔を埋めました。


「よかった…」


名前が小さく呟いた言葉で、リヴァイは鳥肌が立ちました。覗き込んだ瞳は虚ろでもそこにはぽろぽろと大粒の涙が伝っていて、唇は弧を描いています。これほど酷い仕打ちをしたというのに、彼の顔には怒りや悲しみの一つを見えず、ただ安堵した表情があったのです。リヴァイの胸はぎゅうと締め付けられ痛いほどに軋みました。腕の中で白い肌の下から確かに感じる鼓動。どくん、どくん。リヴァイの鼓動も同じように鳴ります。


「名前…?」

「リヴァイ…、――く…傷を塞いで、くれ…。せっかく………、―――に、死んでしまう…――」


ひゅうひゅうと息の抜ける音にかき消され聞き取り辛くもくみ取れたその言葉にリヴァイははっとしました。慌てて自分の服の袖を千切るとそれを丁寧に名前の肩口から脇へと傷口を塞ぐように巻き付け、すでに重さを増し始めた体を抱え、大木へと風のように駆け出したのでした。





めでたし…、めでたし…。


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