NOVEL | ナノ

「名字さん?」
 昇降口の傘立てを覗き込むようにしている人影に見覚えがあって思わず彼女の名前を呼んでいた。肩をゆらした彼女が、遅れてこちらを向く。その顔を今にも泣きだしそうに歪んでいて、どうしたのだろうかと軽い気持ちで声をかけた僕はぎょっとする。緑谷くんと小さくつぶやいた彼女に慌てて近寄った。
「どうしたの?!」
 名字さんといえばとても穏やかな人で、いつも笑っている女の子だ。女の子が目の前で泣きそうというだけでいっぱいいっぱいなのに、あの名字さんということがその焦りに拍車をかけていた。
 名字さんの目にはすでに涙がにじんでいる。なんといえばいいのかもわからずとりあえずポケットに入っていたハンカチを差し出す。名字さんはハンカチを受け取って握りしめるとくちびるをわななかせた。
「傘、なくしちゃって」
「傘?」
 こくんと名字さんは頷く。その拍子にぽろりと涙が頬を滑った。ハンカチを握りしめたまま名字さんが躊躇う様子を見せたので大丈夫だよと告げる。僕の言葉に名字さんは遠慮がちに目元をハンカチで抑える。
 もっと恐ろしいことかと身構えていたので少しだけ拍子抜けした。だけど彼女がこれだけ動揺しているということはきっと彼女にとっては大きなことだったのだろうと思いなおす。
「大切なものだったんだね」
「うん。もらったやつ、でね。差して帰ろうとしたら、無くて」
 ハンカチを握る彼女の手は震えていた。放課後に入って時間は大分過ぎていたけど、名字さんはずっとこうやって探していたのだろう。泣きそうになりながら一人で探していた名字さんを思うといても立っても居られなくて、思わず口に出していた。
「僕も探すよ」
「え?」
「一人で探すより二人のほうがずっといいと思うから」
 急き立てられるようにそう口にしてからはっとした。突然の僕の言葉に名字さんは目を丸くしてこちらを見ていたのだ。慌てて言い訳じみた言葉を口にする。別に何も考えていなくて、ただ役にたてたらって思って、と重ねれば重ねるほどおかしくなっていく言葉にますます焦っていたけど、名字さんはそんな僕の動揺をよそに口元を緩めてほほ笑んだ。
「ありがとう、緑谷くん」
 まさに花がほころぶようなという表現が正しいように笑う彼女に見とれそうになって振り払うように頭をぶんぶんと振る。名字さんはやっぱり笑っているほうがずっといいと思った。かっちゃんもきっと名字さんの笑った顔が好きなんだろうなと、なんとなく考える。

「……ないみたいだね」
 残念なことにふたりで探してみたものの、彼女のいう傘が見つかることはなかった。すでに一通り見たと言っていたので難しいかもしれないと思っていたけど、現実としてそうなってしまうと申し訳なかった。
 手違いかなにかで職員室の方に届いているかもしれないと行ってみたけどそっちも駄目だった。誰かに間違えて持っていかれてしまったのか、考えたくないけど盗まれてしまったのか、どちらかなんだろう。
 そっと名字さんを見る。すでに名字さんは泣いてはいなかった。だけどあの場面を見てしまったせいでいたたまれないような思いに駆られる。伺うようにしていた僕の視線と、名字さんの視線が絡んだ。名字さんは僕の顔をみて困ったように笑った。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「いいんだ。僕がしたいっていったんだから。……でも本当に残念だね。誰からもらった傘だったの?」
「爆豪くんからなんだ」
「かっちゃん?!」
 名字さんとかっちゃんが付き合っているというのは皆なんとなく知っていることだった。ただ、直接その話を聞いたのは初めてだ。名字さんとそういう話をしあうような間柄じゃなかったし、かっちゃんに聞いたこともなかった。
 本当に付き合っているんだなと、とぼんやりとしていた実感が質感を帯びる。かっちゃんが名字さんを特別として扱っているのは見ていて分かることだったけど、改めて言葉で聞くと不思議な感じがする。
 目を伏せた名字さんは、寂しそうに続けた。
「私ね、雨女なんだ。大切なときはいつも雨が降るんだよって言ったらこの前の誕生日買ってくれてね。うん、嬉しかったんだ」
「……そうなんだ」
「やだなあ、爆豪くん怒るかな。どうしよう」
 冗談めかすような口調だったけど、名字さんの声は悲しそうだった。怒るとか怒らないとかそういう問題じゃなくて、単純にかっちゃんからもらったものを失ったことが悲しかったんだと思う。
「大丈夫だよ。かっちゃんは名字さんがその傘を大切にしてたこと知ってるんでしょ?」
「……うん」
「今回のことは、その、残念だったけど、それよりもかっちゃんは名字さんがここで一人で泣いてたことの方がずっと気にすると思う」
 慰めるための言葉に、名字さんは眉をさげてそれでも静かにほほ笑んだ。
「緑谷くんにそういってもらえると、説得力が違うね」
「そ、そうかな」
「私、緑谷くんがちょっと羨ましい。きっと爆豪くんにとって一番特別なのは緑谷くんだから」
「ええ?!」
 思わず素っ頓狂な声をあげた僕に名字さんはおかしそうな顔をする。どうやら本気で言っているようだけど僕には全く心当たりがない。確かに仲は良くないけど、別に特別だとかそういうことでもないと思うんだけど。かっちゃんの気に入らないものなんてあふれるほど存在しているわけだし。それよりも僕には名字さんの方がずっとずっと特別に思えた。だってかっちゃんは名字さんをいつだってひどく優しい目で見つめている。
 あんな風に誰かを見つめるかっちゃんを僕は今まで一度だって見たことがなかった。それぐらいかっちゃんは名字さんを大切にしていた。
「すっごくくだらないことを言うんだけどね、この先いつか別れるときが来たら、私と爆豪くんはそれで終わりになっちゃうけど緑谷くんはどんなことがあってもずっと幼馴染でいられるでしょ? それがね、羨ましいんだ」
「……」
「それに、爆豪くんの心に一番影響を及ぼせるのって、やっぱり緑谷くんなんだよ」
「名字さん」
「なに?」
「今すぐかっちゃんに電話しよう」
「えっ!」
「かっちゃんにこのこと説明したら絶対迎えに来てくれると思う。名字さん今傘他にもってないんだよね?」
 僕が本気で言っているのがわかったのか、名字さんは困った顔をしてみせた。でも僕はやっぱりそれが一番いいと思ったのだ。そんな風に悲しいことを言うぐらいならかっちゃんにいますぐ会って慰めてもらった方がいいに違いない。僕は傘を持っていたし送っていっても構わなかったけど、それをするべきなのも彼女の隣に今いるべきなのもきっと僕の役目じゃなかった。
「この先、かっちゃんに傘のこと言わないといけないなら今のうちに言った方がいいと思うんだ」
「……うん」
「名字さん」
「……んん、分かりました。……緑谷くんって意外と押し強いね?」
 そのあと名字さんはかっちゃんに携帯で連絡したところ、やっぱり今すぐそっちに行くから待っていろと返事が返ってきたらしい。
 僕と名字さんが一緒にいるのはかっちゃんにとって面白くないだろうから、申し訳ないけど先に帰ることにする。いろいろありがとうと名字さんは笑ってくれて、その表情が僕が見つけたときよりは元気に見えて安心した。
 少し話をしてから正門の方へと向かった僕と入れ替わるようにしてかっちゃんが走ってきたのを僕は見た。僕に気づいた様子もなく玄関の方へと向かったかっちゃんに視線を向ける。向かえが来たことに気づいたのか昇降口から出てそちらに向かって走り寄った名字さんにかっちゃんは自分の傘を迷わずに傾けた。何かをしゃべっているのが見える。話の内容は聞こえなかったけど、名字さんが安心しきった笑顔をかっちゃんに向けたのが見えた。かっちゃんがそれに何かを答えて、名字さんの額を優しい手つきで小突く。それから当たり前のように彼らは手をつないで、同じ傘に入って歩き出した。その姿は幸せなカップルそのものだった。その姿は僕の目にずっと焼き付いている。当然のように自分の傘を差しだしたかっちゃんの姿も、名字さんが寄り添うようにかっちゃんの隣を歩いていたのもずっと目に焼き付いている。
 僕は今でも思うのだ。かっちゃんにとっての特別は、なによりもかっちゃんにとっての一番は、やっぱり名字名前さんそのものだったのだと。

 あの日のように、春冷えの雨の日だった。朝から黒く立ち込めた雲は咲いたばかりの桜をすべて散らしてしまうように雨を降らせていた。
 かっちゃんはそんな中傘を差して立ちすくんでいた。あの時と違うのはかっちゃんの近くにあるのが名字さんではなく雨に濡れて黒く光る墓石だということだ。彼女はすでに名字さんから爆豪に名字がかわったのだから名字さんと呼ぶのは正しくなかったけど、僕にとっては名字さんは名字さんだった。
 ただひたすら立ち尽くすかっちゃんの背中に、僕はなんて言えばいいのかもわからない。
「かっちゃん」
 僕の呼びかけにかっちゃんは喪服をまとった肩を揺らした。何時間そこにいたのか、傘を差しているのにかっちゃんの肩は風に揺さぶられた雨によって濡れて黒く染まっている。
「大丈夫?」
 結局迷ってできてきた言葉はそれだけだった。かっちゃんは傘を傾けて僕の方に振り返る。かっちゃんの目元は、赤く腫れていた。
 名字さんと僕はクラスメイトだった。自分より年を重ねている親戚を失ったことはある。けれど、自分に近しい同年代の人間の命が失われるということは初めてだった。辛かった。だけどかっちゃんの苦しみはそれどころではない。
 かっちゃんの気持ちが分かるなんてことは言えなかった。想像もできない。だけどかっちゃんがどれほど名字さんを愛していたのか、僕は知っていた。かっちゃんには名字さんでなければいけないことを、たぶん誰より、僕が分かっていた。
「何が?」
 かっちゃんの声は不思議と穏やかだった。それがすでに感情が降り切っていたからなのかを僕は想像をしたくなかった。
 名字さんが殺されたのは大規模なヴィランの襲撃に巻き込まれたからだ。ヒーローが駆り出されて、それでも手は間に合わなかった。こうしている間もその後処理に世間は負われている。何も終わってはいないからだ。
 僕は恐ろしかった。かっちゃんが、かっちゃんの一番守りたかったものを失って、そのあとどうなってしまうのか。かっちゃんはきっと名字さんを殺したヴィランを殺したいと思っているはずだ。でもヒーローにそれは許されない。そうしてしまった時点でヴィランになってしまう。
 僕の心配が顔に出ていたのか、かっちゃんは鼻で笑った。まるで学生時代の、なんてことない日常の続きのようなしぐさだ。いつも通りに見えた。
「なにくだんねー心配してんだ。俺がヴィランに堕ちるとでも思ってんのか?」
「かっちゃん」
「堕ちねーよ。殺してやろうかと思ったけど、殺したら名前は泣くからさあ。俺にずっとヒーローでいろって言うんだよなあ?」
 けらけらと笑いながらかっちゃんは言った。墓石に振り返って、まるでそこに名字さんがいるみたいに、そう問いかけてみせた。
 当然だけど返事は聞こえない。だけどかっちゃんは満足そうな顔をしてやはり声をあげて笑った。そうでもしないと気が狂いそうだというような必死な笑い声だった。ひとしきり笑うとかっちゃんは、笑みを消す。かっちゃんの顔からなんの表情がなくなる。怒りも悲しみも苦しみも、見て取れなかった。だからこそ僕はそれを怖いと思った。
「でも許さねー。許すわけねえ。だから俺がヴィランを全部捕まえんだよ。全員だ。この世から全員消してやる」
 吐き捨てるようにそういって、かっちゃんは僕をそばを通り過ぎる。傘の柄を握るその手の指には彼女とお揃いだった指輪が今もはめられていた。きっとその指輪が外されることはかっちゃんが死ぬまでないんだろう。
 大切なときはいつも雨が降る、とそう言った彼女の声がよみがえる。こんな日までそうならなくても良かった。終わりがこんな形なんてきっと誰も望んでないよ。ねえ、名字さん、きみはかっちゃんの心に一番影響を与えるのは僕だって言ったけど、やっぱり違う。それはきっと名字さんだった。もうここにはいない名字さんだった。
 そう問いかけてみても、やっぱり返事が帰ってくることはない。その代わりにかっちゃんに笑いかけていたあの安心しきった表情が胸に浮かんで、僕はただ悲しくなった。

かつての棲み処も春は来ますか

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