「降谷っ!」
私の呼ぶ声が耳に届いたのか、降谷は足を止めた。駆け寄ってから、息を大きく吐く。降谷はいつもと何も変わらない表情で、私を呼んだ。
「先輩」
あまりの変わりのなさに、明日からも今までのような日常が続いていくのではないかという錯覚を一瞬だけ覚える。まっすぐと私を見つめる降谷の瞳は、静かだった。
もっと寂しがってくれればいいのにと思う。そう思っているのは私が寂しく思っているからかもしれない。
皆が動いている中で、私達だけが立ち止まっている。何も言わずにこちらを見つめる降谷に、私は微笑んだ。
「朝にあえなかったからもう会えないかと思った」
「朝は部活のほうで忙しかったので」
「そっか。……ねえ、もしかして見送りに来てくれたの?」
「はい」
ほとんど冗談だった言葉を間髪をいれずに肯定されて少しだけ面食らう。ああ、でもこういう子だったなあと、今更思った。意外と律儀なのだ。私がすっかり忘れてしまっているようなことを彼に指摘されることが実は前々からあった。
そういうところはきっちりしているのに、見た目とは裏腹に少し抜けている彼のその人柄が、私はとても好きだった。
「最後なので送らせてもらえませんか」
その言葉ににもちろんとうなずく。このまま別れてしまうのは寂しかったし、断る理由なんてなかったからだ。
私の返答に少しほっとしたような表情を見せた降谷の背中をたたく。このまま別れてしまうのも寂しかっただろうけど、きっとこんな風にちゃんと話をしてから別れるほうがもっと切なくなるだろう、だからといって断るという選択肢なんてどこにもなかったけれど。
「このあとは何かあるんですか」
「んー、友達と打ち上げしようって話になってる」
桜並木の道を二人でゆっくりゆっくり歩く。いつもよりずっと遅い私の歩みに、コンパスの違いもあるだろうに降谷はあわせてくれた。そういう優しさが愛しかった。
まだつぼみでしかないサクラは近年に比べて開花が遅くなっているらしい。今年の冬は寒かったからしょうがないと納得はできるもののやっぱり寂しい。去年の卒業式はどうだったんだっけ。
「いよいよ降谷も二年生だねえ」
そう何の気なしにぶやいてみた。だけどあんまり実感はなかった。私にとっての降谷は後輩の男の子なのだ。この子の下に後輩ができるっていうのは不思議な感じがする。降谷先輩ってよばれるところを見れないのは残念だ。
「こうやって降谷と話せなくなるの、寂しいなあ」
「話せなく、なるんですか」
「まあ、直接あえなくなっちゃうしね」
お互いにメールアドレスは知っているものの、もともとあんまりメールをしない降谷とはメールを交わしたことは数えられる程度でしかなかった。きっとこれからもそうだろう。わたしもあんまりメールを送るのが得意ではないし。
降谷と話せていたのは学校という接点があったからだ。話し始めるようになったのも偶然ともいえる出来事が重なったからで、本来だったらこうやって話すこともなかったはずだ。
私と降谷には同じ学校に通っていたという共通点しかなかった。それも今日までだ。
「でも試合にはね、応援には行こうと思ってるよ」
「……それでも、絶対会えるってわけじゃないんですね」
「私、部外者だしねえ。応援のたびってわけにはいかないかな」
「寂しい、です」
その言葉に思わず足が止まる。でも私より先に降谷の足のほうが止まっていた。いつだって私をまっすぐ見つめていた瞳は伏せられている。
じわりと、本当に最後なのだという実感が心に滲む。こうやって一緒に帰るのだってもうできない。
「降谷」
もしも一緒の学年だったら、と思った。でも駄目だ。きっと同じ学年だったら出会ってもいない気がする。この形だからこそ私達は出会えたし、近づけたのだ。
「大丈夫だよ。私がいなくたって、降谷は大丈夫」
不謹慎だとは思いつつ、別れを惜しんでもらえることが嬉しかった。こんな風に言葉で伝えられるとは思っていなかったから尚更だ。このまま、こんな風に言葉を続けられたら泣いてしまいそうだった。
それでも降谷のその寂しさは消えることを私は知っている。今こうやって寂しく思ってくれていても、新しい生活が始まればきっと私のことなんて心の隅に追いやられていくにちがいないのだから。
「私がいないのだっていつか当たり前になるよ。だから、大丈夫」
悲しんで欲しいと思っていたくせに、いざこうやって別れを惜しんでもらうと、素直にうけいれることができない私の性格はきっととてもゆがんでいる。欲しいものを欲しいといえない、本当に思ったことを伝えることができない自分の性格がただ憎らしい。今更直せるようなものでもなかったけど。
卒業なんてしたくない。関係が変わるのも嫌だし、降谷ともうあえなくなるのだって嫌だ。もっと傍にいたい。だけどそれは"ただの"先輩が言える言葉ではなかった。そんなこと関係なしに、言えたらよかったのに。
「先輩の中で」
「うん」
「僕は過去になるんですか」
「違うよ。降谷の中で、なるの」
ちりんちりんとベルがなった。なった方向に視線を向ける。それが自転車のベルであることに気づき、よけようとした瞬間、降谷は私の腕を引いた。
あっけなく降谷に引き寄せられた私の後ろを自転車が通過していく。巻き起こった風に私の髪がなびいた。
伏せられていた降谷の瞳が私をじっと見つめている。かばわれるために引き寄せられたと遅まきながら理解するものの、私の体は降谷から離れようとはしなかった。
「僕は先輩を過去にしたくないし、過去にもされたくないです」
なんのてらいもなく口にされた言葉に、声が詰まる。どうしてそんな風にまっすぐ言葉を口にできるのだろう。
子供みたいだと思った。そんなことは無理だって分かってるのに、口にだしてしまうことだとか、恥ずかしげもなく言い放っちゃうところ特に。だけどわたしは、そんな風にいえてしまう降谷がとても、とても、うらやましかった。
「かわいい後輩ができれば、私のことなんてどうでも良くなるよ」
「そんなことないです」
「彼女でもつくってみるとか」
「興味がないです」
「じゃあ私が彼氏をつくる」
「駄目です」
握られた手にぎゅっと力が込もる。二歳も下なのに、私よりもずっと大きいその手は硬い。
顔が近かった。今までこんなに近くなったことがないから、どきどきする。だけどどきどきする理由はそれだけじゃない。降谷だから、だ。
「忘れたくないとか、忘れて欲しくないとか、ただの後輩は言っちゃいけないんだよ」
「……ならどういう関係だったらいいいんですか」
「恋人、とか」
「じゃあなりましょう」
「…………えっ? 今なんていったの?」
「なりましょうって言ったんです」
降谷の顔は真面目だった。というかちょっと自信満々だった。冗談を言っている雰囲気ではない、というか降谷は冗談が苦手だ。
本気、なのだと分かってしまって、言葉が出てこない。あっけにとられながら降谷を見つめる私の態度をどうとったのか、降谷は私の体をそっと抱きしめた。
「この先も、先輩と一緒にいたい、です」
その声は、今まで聞いたことがないような声だった。なんて表現すれば良いのか分からないような声だ。だけど降谷もこんな声を出せるんだなと思った。
かたい筋肉質な感触が私の体を包む。伝わる体温に、頭で考えるより先に、腕が降谷の背中にまわっていた。
「私も一緒にいたいよ……! 馬鹿!降谷の馬鹿!」
あっと、思った瞬間にはもう視界が滲んでいた。声で私が泣いているのが分かったのか、降谷が動揺したのか雰囲気で伝わってくる。私の表情を確認するためにだろう、私の体から腕を放そうとした降谷に対抗するように、私も腕に力を込めた。
できる限り腕に力を込める。苦しいですっていう降谷の声がちょっとだけ嬉しそうで、ますます涙が出てくるのだった。
そんな中で花の甘い香りがふっと鼻をくすぐった。春はもうすぐそこだ。
スウィート・スプリング・マジック
×