視線が私に向けられるのはほんの一瞬で、気のせいと言われても否定できないようなものだ。だけど私はもうわかってしまう。あの視線を直接肌に向けられたことがもう何度も繰り返されているからだ。
ねだるような、乞うようなあの瞳を間近で見てしまったら視線に気づかないでいられることなどきっと不可能だった。本人ですら無自覚であろうあの視線に、私は応えようと思った。できることだったらなんだってしたかったし、いつだって私はすべて差し出したいと思っていたからだ。
気配を消すように息をひそめる。足音を可能な限り忍ばせているけれど、きっと頭領は気づいている。なによりもほかの人間に気づかれないよう、できるだけの配慮はしているけれどすでに気づいている人はいるかもしれなかった。
いつもだったらきちんとする入室の許可もとらずに私は障子を静かに開けた。これは私の『わがまま』なので、頭領に肯定の返事をさせるわけにはいないのだ。
後ろ手に障子を閉める。頭領はいつものように座卓に向かっていて、仕事を片付けていた。視線をこちらに向けない頭領の隣に、私は静かに座る。
「仕事、あとどのくらいですか」
「もう少しで終わるよ」
「私にも手伝えるものですか」
「いいや。それにすぐに終わるものなんだ」
「終わったら、お時間いただけますか」
返事の代わりにてのひらが伸びてきて、机に広げられていた資料を覗き込んでいた私の首に触れた。おろした髪のしたの、人に触れられることもない無防備な部分に触れられてびくりと体がはねる。じっと、頭領がこちらを観察するようにこちらを見ていた。今度は私が視線を合わせないようにしてその指先の感覚に耐える。
指先が首筋を滑っていき肩を抱いた。抱き寄せられて私の体は頭領の胸の中におさまる。頭領のにおいが、した。
「名前」
低い声で名前を呼ばれると体中に電流のような感覚が走った。てのひらが背中に添えられる。薄着だからか、手のひらの大きさだとか体温が生々しい。
私は顔をあげた。頭領の顔は昼間みたようにやつれていて、仕事の大変さを物語っていた。だけど頭領はそれを誰にも告げることはない。きっとだれにも。
疲れた顔をしているのに目だけはぎらぎらと輝いている。その瞳に少なからず恐れを抱いたことを気取られぬように気をつけながら私はふたつの手のひらで、頭領の頬を挟んでくちびるを押し付けた。それからとりあえず、何度かくちびるを押しあててみる。私からすすめるべきなのはわかっていたけれど、勝手がよくわからないのだ。
そうしてつづけていたらついにもどかしくなったのか、頭領は私の肩をつかむと舌でくちびるを割り開いた。そのまま舌が中に入ってきてくちのなかを蹂躙する。まともに反応できていない私の舌をいじめながら、頭領は私に手を伸ばした。パジャマとしてきていたティシャツのなかに手のひらがもぐって、腰のあたりを指の甲が撫でる。そのまま腰骨に降りていった指がひっかけるようにしてズボンとともに下着を脱がそうとしているのを感じて、慌てて体を離そうとした。だけどそれを押しとどめるように肩をつかんでいた手にも力がこもった。逃げようとしていると思われたのか、キスが深くなる。力で抑え込まれれば完全に力負けするので反抗のためにやわく舌をかんだ。逃げようとしていないと伝えるために、甘えるようにもう一度かむ。
わかってくれたのか、くちびるが離される。頭領のくちびるはてらてらと濡れていて、それが自分のものでぬれているのだわかったとたんにおなかがじんとうずく。
「じぶんで、脱ぐ、ので、待って、ください」
頭領の目を見るのが怖くて、視線をあげずに私はよろめきながら距離をとった。背中に手を回してつけていた下着のホックを外す。ついで下を脱ごうとすると後ろから抱きすくめられた。びっくりしてあげかけた声はキスでかき消される。手首をつかまれてそのまま畳へと押し倒された。
「ちょっとなのでま、」
「待たない。名前ってさ、もしかして俺のこと焦らすの好き?」
「そういうわけじゃ、というかふとんで、」
「一回したらね。そうしたら布団に行こう」
今度こそ手のひらが直接私の太ももにふれた。下着越しに撫でられて、濡れてるね、と耳に吹き込まれる。その声は楽しそうだったので、ならもうそれでいいかという気になる。それは私の心情としてもだし、名目としてもだ。頭領が満足してくれるならそれ以上のことはない。
◇
頭領はすべてにおいて優れた人だ。大概のことは片手で片付けてしまう。だからかな、頭領は人には頼るということをしない。
頭領はすごい人だ。私は頭領を尊敬している。たぶんこの先生きていったとしても、頭領以上に慕うことができる人間は出てこないだろう。そんな頭領だったけれど、完璧だというわけでもなかった。冷静に見えて熱くて、たぶん見た目よりずっと甘い。あとすごく真面目だ。気を抜けばいいのにと思うところで抜くことができないし、自分にかかわるところで起こる悪いことは全部自分の責任だとでも思っているふしがある。昔から、器用に見えるのに変なところで不器用なところは変わらなかった。それこそ頭領と呼ぶようになるずっと前から。
もちろん頭領はそういう部分を持っていても、他で補うことができる人だ。私はそれが悪いと断じたいわけじゃなくて、そういう部分の助けになりたかったのだと、そういうことだった。
だからこういう関係に私がいざなった。頭領が弱っているときに割とずるい手段を使ってなし崩しにして、無理やりさせた。信頼を裏切る方法になったことはずっと引っかかっているけれど、頭領が自分でため込むしかなかったいろいろなものを、こういう形で私で発散できているのだから、よりよい結果なのだと思う。
ぼんやりとした思考の中で、私は天井を見ていた。結局二回畳の上でして布団にうつった。それからはずっとつながったままだ。頭領に気持ちよくなってもらわなければいけないのに私ばかり気持ちよくされている気もするがあまりにも楽しそうなので指摘もできない。気を使ってそうしているわけではなくもともとそんな感じなのだろう。私が必死になればなるほど楽しそうだし、もういいからと言っても許してくれない。割と疑惑はあったけど、確信を持っていえる。頭領はサドだ。
額のうえに置いていた腕を取られる。力の抜けた手のひらを握りしめて頭領は自分の頬に添えさせた。そうしてほほ笑む頭領に、とろけていた思考にひやっとしたものが走る。
「何か考えてる? そんなに余裕あるんだ」
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「今ここで俺とこういうことしててさ、ほかに考えなくちゃいけないようなことってある?」
馬鹿みたいな自覚はあったけれど、そういうことを言われてしまうと嬉しくなる。私という存在が頭領にとって重要なものであるような、必要とされているような、錯覚を覚えるからだ。
返事の代わりに頭領の、私とは違い少ししか乱れていない着物を手で引く。視線でキスをねだると希望通りにくちづけがふってくる。いつも通りに気持ちよかったけれど、本当は私、このキスの仕方だって知ることはなかったんだなあって思うと、少し、切なくなった。
◇
「あれ、起きた?」
身じろぎをすると、頭領の言葉が聞こえた。光がまぶしくて目をこする。いつの間にか眠っていたらしい。脱がされた服を私はきちんと着させられていた。
ふとんに横たわっていた重たい体を起こす。視界に入った座卓の上は広がっていた資料が片付けられていた。その代わりに二つの湯飲みと急須が置かれていた。そのひとつで、頭領はお茶を飲んでいる。ふとんを占領していたことに気づいてしまい、申し訳なくなった。
「寝てていいのに」
魅力的な提案だったけれどこのまま寝ていたら朝まで絶対に起きられないので首を横に振った。ふらふらと座卓に近づくと、飲むかどうかを聞かれたので素直にお願いする。
用意されていたもうひとつの湯飲みにお茶を入れる頭領の姿を、じっと見た。始まる前にまとっていた張りつめていた空気が緩んでいるのを見て私は自分の役目を果たせたことをいつも通りに安心する。
差し出された湯飲みを受け取ってくちをつける。喉を通るお茶は熱く、ぼんやりとしていた思考をはっきりと覚醒させた。
「おいしいです」
そうしてちびちびと飲んでいた私の隣に頭領は立ち上がってわざわざ移動した。じっと見られているのを感じる。始まる前のあの緊張感のある空気じゃなくて、穏やかな空気だったから私は何も言わずにこちらを見ている頭領を伺った。そんな私の様子に気付きながら頭領が髪に、ふれる。撫でるというよりは、触りたいから触っているというような手つきだった。
触れられた場所からむずがゆいような心地よさを感じる。さっきまでの空気の余韻に引きずられるように、胸にもたれかかろうとしてはっとした。途中で動きを止めた私の名前を、頭領がいぶかしげな声で呼ぶ。いたたまれないような気持ちでそっと距離をとろうとするけれど、その前に頭領が私の体を抱きよせた。
こういうのは良くないと思いつつ、どうすればいいかわからなくて、抱きしめられたままでいる。さっきまでもっと深くつながっていたのに、こうやって改めて優しく触れられると恥ずかしかったし、ほかにも言葉にできないようないろいろな感情が沸き上がってたまらなくなる。
その手のひらが離れるのは惜しかったけれど、触れられたままでいたらもっと惜しくなることも分かっていたので私はその手のひらをぎゅっと握る。
「頭領、今日もお時間ありがとうございました」
握りしめた手のひらをそっと押し戻した。それからその手を離し、立ち上がる。
「もう戻りますね」
「もっと休んでいけば?」
「ありがとうございます。でもこのまま休んだらきっと朝までいちゃうので」
頭領の顔はいつもの表情が読めないものへと戻っていた。熱された空気の中でみた男性としてのものでも、ぴりぴりとした空気をまとったものでもない、本当にいつもの私たちの頭領の顔だ。そんな顔で何かを言おうとするので、私は手のひらでくちびるをそっとふさぐ。優しいことを言われる予感があった。だけどその言葉はきっと私が受け取るものではないと思う。だから止めた。聞いたらその優しさに張りつめているものがとけそうだった。
そういう優しさはいつかできるだろう、私の役目を担う女性に言ってあげなくちゃと苦笑する。私は立ち上がって頭を下げると、部屋を出た。すでに外は白んできていて、夜があける予兆を迎えている。その景色に私は小さくあくびをかみ殺した。
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