NOVEL | ナノ

 月が綺麗だったから、家を出た。ただの思いつきの行動だった。
 誰にもいわないで、夜にひとりあるきをすることが歓迎されることではないということは分かっていた。それでもあまりにも月が綺麗だったから、思わず外にでてしまったのだ。
 家にかえって私を迎えるのは大層鋭いお小言だろう。特にこのことを知った彼に向けられる言葉はきついかもしれない。けれど、それでもいいと思わせるような魔力が、今日の月にはあった。ついでにいうと今日、彼は帰ってこない。家の人間が彼につげたとしても、本人のいる日に逃げ出すよりはずっと簡素な説教で済むかもしれないという計算は少なからずあった。
 桜が咲き誇る鮮やかな夜の景色は抜け出してもいいと思えるほどに美しく、私としては大満足だ。次に見ることができる機会はきっとこの脱走のおかげでずいぶん長い先になるだろう。昔は何も言わなかったのに最近の彼は私が家の外に出ることにひどく難色を示す。どうしてなのかはわからないけれどそれが私を守るためのものであるとはわかっていたから、どうこう言おうとも思えなかった。どうしてと聞いたところで彼は自分が告げなくていいときめたことに関しては貝のようにくちを閉ざしてしまう。それは長くとはけいしていえないけれど、短いともけしていえない結婚生活の中で学んだことだった。
 風がふいて、花を揺らす。桜のあまいかおりが鼻をくすぐった。少し肌寒い。もう少しきちんとした格好でくればよかったと思うけどあとの祭りだ。今更着替えに帰ったらここには戻れないだろう。
 黄金に輝くまあるい月を彼も見ているのだろうか。戦い以外に興味がないようにみえて彼はうつくしいものが好きだ。
 そんなことをとりとめもなく思案していたからだろう。私はうしろからあらわれた気配に一切気づかなかった。気配をけしていたのかもしれないけれど、もともと忍びの教育をうけていない私にはその違いは分からない。思わず月へとのばしたてのひらを、いつのまにか姿をあらわした彼は、とった。

「……何をしている」

 一瞬のことで息をのんでよろめいた私の体を彼がだきとめる。私を軽々と扱うその力強さは、見知った彼のものだ。こちらを見下げる瞳は赤い色に変化している。写輪眼だ、と思った。こうして間近で見るのは初めてだった。
 複雑な文様の入ったその瞳は私に答えを求めていた。

「月を見ていました」
「月だと?」
「綺麗ですよね、今夜の月」

 赤いままの瞳が、こちらの意図をさぐるように見つめる。いくばくかの時がすぎたあと、その赤はいつもの漆黒へと移り変わった。
 私のてのひらを握る彼の力はまるで握りつぶしてしまいそうだと思うほどに強い。そのてのひらも私自身のてのひらから力を抜いて反抗の意志がないことを示せば、ようやく力を抜いた。

「月なら家から見ればいい」
「……本当のことを言うと桜が見たかったんです。桜は家から見えないでしょう」
「どうだかな」

 本当は逃げたかったんじゃないかと、そう鼻で彼が笑った。彼がそんな風に明確に、私の反意を疑う言葉をくちにするのは久しぶりのことだった。それこそ結婚したばかりでお互いに情もなにもなかったあの時期以来である。
 ただ、私の手を握るてのひらも、支えるために肩にそえられていたてのひらもけして外そうとはされなかった。どちらも、こちらをひきとめられるくらいには力が入っている。それは明確な違いだった。

「昔ならそうだったかもしれませんね」
「……」
「今は一度だってそんなこと、思いもしませんよ」

 私はまっすぐに彼の瞳を見つめる。ただまっすぐ、なにも他意などないのだと、真意なのだとそう伝えるように。そんな私の視線に根負けしたように、マダラさまは視線をそらした。静かな溜息とともに悪かったと、そう謝罪が降ってきて、顔を緩める。
 けれど次の瞬間には思い切り彼の眉間にしわが寄った。

「だがお前もなにも残さずに姿を消したりするな。家に帰ってお前が消えたと聞かされる俺の身にもなってみろ」
「うっ。……だって帰ってくるの明日だって聞いていたので」
「そんなに外に出たいのなら俺に直接言え。少なくともこんな風に誰にも告げずにいなくなるな」

 それからもう一度深くマダラさまは溜息をついた。よく見ればいまだに彼は忍装束だ。もしかしなくても彼は家に帰って私がいないと聞かされて着替えることもせずに私を探したのだろうか。
 疲れているだろうにと胸が痛む。私だって彼に迷惑をかけたいわけじゃなかったのだ。そんなこと今更いっても遅いのだけど。
 マダラさま、と小さく名前を呼ぶ。私の声に視線をあげたマダラさまに、私はそっと桜を指さした。

「本当に綺麗ですよね」
「……ああ」
「満月も綺麗で。……この月をマダラさまも見ているのかと思って、見ていました」

 迎えにきてくれてありがとうございますと、そう告げ終わる前に抱きしめられた。
 私もそのまま抱きしめ返す。かたい背中の感触や確かに聞こえる心臓の音、汗と血の匂いにまじって確かに感じる彼のにおい、すべて久しぶりで、なんだか目に涙がにじみそうになる。もっと感じるために私は彼を抱きしめ返す力を強めた。胸の奥に湧き上がるのはひたすら愛しさでしかない。
 私の耳に、彼がくちをよせる。髪を撫でられるままに、私は囁かれる言葉に耳を澄ませた。
 
「お前のことを信じていないわけではない」
「……はい」
「だが不安なんだ。俺はお前を失うことが怖い」

 押し殺すようなその声に私は目を剥いた。初めて聞く彼の弱音だった。
 にじんでいた涙がいよいよこぼれ落ちてしまいそうで、ごまかすように私は彼の胸へと顔をうずめた。しがみつく手に力がこもる。
 どうして泣きそうになるのかもわからなかった。ただその弱音がどうしようもなく胸を打ってならなかった。苦しかった。胸が痛くて苦しくて苦しくてたまらなかった。
 だからわざと明るい声をあげた。私がすべきなのはその言葉に泣くことじゃないと思ったから。

「わたしは、どこにもいったりしません。ずっと隣にいます。なにがあったって隣に。」
「分かっている」
「……嫌だと言われても一緒にいたいです……」
「ああ」

 どことなくおかしそうな声音だ。面白がっているのかもしれない。それでよかった。彼にはいつだってそうであってほしかった。幸福の中にいてほしかったのだ。
 こうやってずっと隣にいられればいいと、言葉通りに思う。

「だから、心配なんてしなくていいです。私が隣にいるのは、ずっと愛してるのは、後にも先にもひとりだけですよ」

 頬にそえられていたてのひらが、滑るようにしてあごにうつる。少しだけ持ち上げられたので私は思わず目を閉じた。そんな私をみて、彼がふっと笑った。何度こうしたって感じる恥ずかしさと胸をくすぐる感触は慣れない。ふってきたくちづけに酔いしれるように私は彼の首に腕を回した。
 一度くちびるを離されたので、今度は私からくちびるをおしつけてから首筋に顔をうずめた。髪を梳く彼の指先も、私を抱きしめる力強さも、私に見せてくれた弱さも、なにもかも愛しかった。きっと私はこの日を忘れないだろうと思う。

 その次の年、私は死んだ。うちは一族に対する仇討ちだと私を殺した男は言った。
 私は私が死んだことで彼が何を思ったのか、何を始めるのか、一生知ることができずに逝くこととなる。

あどけなくしたたかだったきみはもはや記憶に為った

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