NOVEL | ナノ

 まさしくしまったという顔をした荒北と目があうと顔に水がかかるのは同時だった。正確にいうと荒北の表情を認識してから、何かが顔にかかるのが分かって目を閉じたので荒北がそういう顔をしたのが先だったのかもしれない。
 制服の胸元がびっしょりと濡れそぼっているのを感じながら、目を開く。悪びれない、いつもと同じひょうひょうとした顔をしながらホースを持っている新開と、それとはまるっきり逆のこちらから視線を逸らしたそうな荒北が目に入って目元が思わずひくついた。

「……ねえ」
「やっちまったな」
「これ見て第一に発する言葉がそれかな?!」

 他人事のような声を出した新開に思わず声をあげるものの、すぐに悪い悪いと、あんまり悪いとも思っていないような声で言うのでもう怒る気も失せてくる。
 そんな会話をしているうちに荒北が地面に置かれている見慣れたバックの片方からタオルを取り出してこちらに放りなげたので、遠慮せずに使わせてもらうことにする。一瞬悪いなと思ったものの被害を受けたのもこのタオルを洗うのも私なのだった。
 受け取ったタオルを首にかけてホースの元の水道を止めていた新開に目をやる。なんでホースなんて持ってるんだろう。

「ここで何やってたの?」
「新開のヤロウが水撒き任されたっつーカラ手伝ってたんダヨ」
「最初は普通にやってたんだけどな。今日暑いだろ? 掛け合いになったらヒートアップしちまってな」
「なるほど」

 よく見ればわきにある花壇の土はしっとり濡れ切っている。けれどそれ以上に普通のグラウンド部分の土や脇にある白いコンクリートの部分もほとんど濡れ切っていた。どんだけ撒いたんだよと改めて二人に視線をやると私以上にびしょ濡れである。本当にどんだけ遊んでたんだよ。
 制服を絞ってから制服をふいて、荒北にタオルを返す。髪から水が滴っていたのでそのまま背伸びをして荒北の髪の毛をタオルでごしごしとふく。最初は嫌がるように抵抗の声をあげていたものの、無視してふいているうちにおとなしくなった。荒北は意外とこういうときは素直だ。

「新開もちゃんとふきなよ。いくら夏でも風邪引くから」
「なんだ、俺にはしてくれないのか?」
「荒北こういうの適当だから特別。新開は自分でやって」
「オイ」
「本当のことでしょ」

 まあこのままでも乾きそうなほど暑いけどと思いつつ、きちんと水滴をふき取った。それからいつもならこういう時には一番に騒いでいる東堂がいないことに気が付いた。もうすぐ部活なのにいないのは珍しい。東堂は律儀なのでいつも時間に余裕を持って行動をしているからだ。

「東堂は?」
「進路で呼ばれてるってヨ。遅れるから伝えとけっつってた」
「あー、いつもの」

 東堂が進路でもめているのは私たちの間では浸透しきった話だった。東堂自身から改めて聞いたわけではないけれど、そういうのはなんとなくわかる。
 大学に進学予定の私や他の三人のレギュラーとは違い、東堂は大学には進学しないらしい。特進に在籍しているうえに比較的優秀な成績を残している東堂には大学に進学してほしい先生達とは二年生のころからもめていた。このまま夏に優勝すれば推薦もくるだろうし、もったいない気はするものの東堂は意見を変えるつもりはないようだった。

「じゃあ今日は東堂遅いかもね」
「いい加減あきらめりゃあいいのにネ。人にどうこう言われて意見変えるタマじゃねエし」
「まあ先生も期待してるんだろ。尽八は成績もいいからな」
「東堂なんだかんだすごいもんね」
「名前チャンはもうちょっと焦った方がいいんじゃナァイ?」
「そんなこと言ってる荒北より私成績いいからね?……文系教科は」
「理系進学の人間と比べンのヤメロ」
「名前も髪濡れてるから拭くか?」
「話とぶね?! あー、でもありがと」

 今度は新開から差し出されたタオルを受け取る。なんだかんだ言って新開も余裕ぎみなんだよなあと思いつつタオルをもう一度首にかけた。髪に触れてみてみると、ぽたぽたとしたたり落ちている。
 と、腕時計が目に入った。着替える時間も含めるともうそろそろ動いたほうがいいだろう。
 新開のタオルは借りたままにすることにする。荒北に濡れたタオルはいつものようにかごに入れるように伝えてから、私はジャージに着替えるために二人と別れた。





「名前!」

 後ろから呼び止められて、声のする方へと振り返る。そこにはついさっき話に上がっていた東堂がそこにいた。まだ制服を着ているということはついさっきまでつかまっていたのだろう。今から部活に向かうのかもしれない。
 私のそばへ近づいた東堂は、私の来ている濡れた制服を見て首を傾げた。

「びしょ濡れだがそれはどうしたんだ」
「新開と荒北の水撒きに巻き込まれて思い切りぶっかけられた」
「それはまた……災難だったな」

 苦笑じみた笑みはそれでもおかしそうな色を強く含んでいたので東堂の背中を小さくたたく。夏服だからブラウスを洗濯できるけど、それでもそういう問題でもないのだ。遊ぶにしてももうちょっと周りを見ろというやつだった。
 
「だがこう暑いと水でもあびたくなる気持ちも分からんではないな」
「んー、まあ、だよねえ。水かかったせいでちょっとは涼しくなったし」

 部活の最中はそれこそ炎天下で走りに行く彼らを一番間近で見ているので、あんな風に遊びたくなる気持ちも分からなくないのだった。
 さんさんと輝く太陽が、東堂の開け放たれた窓を通して肩越しに見える。さっき少しだけ外に出たときですら汗がにじんだ位だ。今日も夕方までずっと暑いのだろう。

「今日もやっぱりまたいつものだったの? もう部活いけるの?」
「いやまだもう少しかかる。今日は大分遅れて顔を出すことになるかもしれん」
「わー、期待されてるとやっぱ大変だよね」
「ふっ、この俺」
「はいはいすごいすごい。東堂すごいねえ」
「心がこもっておらんぞ! あと途中で切るな!」
「思ってる思ってる」

 いつもの口上をばっさり切る。でも別に本当に思っていないとかではなかった。これは東堂だけではなくみんなに言えることだけれど(その中でも私には東堂が一番際立って見える)誰かから期待されて、その期待を重圧として感じずむしろその期待を自信に変えて応える姿はすがすがしさすら感じるくらいかっこいい。そういうところが、私はとても好きだった。
 面と向かって言えなくても、態度に出せなくても私は東堂のことをすごいと思う。

「む。というか名前、髪がまだ濡れているぞ。きちんと髪をふかないと風邪を引く。ちゃんとしろ」
「うそ、ふいたつもりだったんだけど」

 首にかけたタオルをとって髪を拭こうとした私の手を東堂の手が伸びてきて止めた。びっくりして東堂の顔を見上げた私に、彼は笑う。東堂の手は水をあびたはずの私よりも冷たかった。
 その手は私からタオルをとると、そのまま髪を取って拭き始めた。大切なものを扱うように優しい手つきに首筋にじわりと汗がにじむ。当たり前だけど東堂にも今までこんな風に触れられたこともなかった。他の誰かにだってない。
 その優しい手つきが妙に気恥ずかしかった。

「お前はこういうところが抜けているからな。もう少し気を使わねばいかんぞ」

 そういってやっぱり優しく触れるので、そんなことはないよって頭にほとんど反射的に浮かんだ言葉はどうしてだか声にはならなかった。なんとなく、そのまま東堂の顔を見る。私だって荒北の髪を拭いたのにあの時とは違う感じがして、それからその感覚は私が緊張しているからなのだと気が付く。触れているからではなく、触れられているからだろうか。
 そんなことを思うと同時に今まで気になって結局聞けていなかったことを聞きたいと思った。

「……ね、東堂」
「どうした?」
「ずっと気になってたんだけどさ、東堂ってどうして特進を選んだの?大学にいかないんだったら一般の方がよかったんじゃない?」

 いつから東堂があの選択を考えていたのかはわからない。ただ少なくともクラスを選ぶ時期には頭に浮かんでいたはずだ。ならどうして東堂は特進を選んだんだろう。一般の方を選んでいたら少なくとも先生にだってこんなに説得されたりしなかっただろう。東堂だってそのことは分かっていたはずだ。
 東堂は私の髪に落としていた視線を一瞬だけこちらに向けて、それからもう一度視線を落とした。その視線に、余計なことを聞いてしまっただろうかと思ったけれど東堂の口元にはいつものような笑みが浮かんでいて、少し、安心した。

「なに、家との約束だ。自分のしたいことを選ぶならすべてにおいて納得できる結果を出すとな」
「ああ、だからあんなに成績いいんだ」

 だから、といったものの別にそんな理由がなくても東堂はきっと真剣に取り組んでたんだろうなと思った。
 東堂は勉強においては、ううん、勉強じゃなくても手を抜いたところをみたことはない。それこそあの二人と騒ぐときは騒いでいるけれど、すべきことはきちんとしている人だった。東堂はそういう人間だった。

「大学行かないのにさ、勉強しなくちゃいけないの、嫌じゃなかった?」
「愚問だな」

 私のぼんやりした声と対照的に東堂は明確で、迷いのない声で、言いきった。自分でも愚問だと思った。
 窓の外から入ってくる太陽の光が東堂の背中を照らす。東堂のその様子は自信に満ちあ溢れていて、不遜にすら見える。だけど、だからこそかっこいい表情だった。容姿の良さだけじゃなくて、東堂の人格がそう見せるものだった。
 その表情がひどくまぶしいもののように見えた。今まで見えていたものが一瞬にして色を変えたような錯覚に、息が止まる。心臓の音が私のなかで大きくゆっくりと鳴り響いていた。
 それから、何かが変わったわけじゃなくて気が付いてしまっただけなのだと分かってしまった。

「させられていたわけではなく、俺自身が納得して自分で決めたことだ。だから嫌だと思ったことも大変だと思ったこともない、なにせ自分で選んだことなのだからな」
「……うん」
 
 毒がゆっくりと回って体を侵すように、緩やかな自覚が体に満ちていく。そんな私の髪に触れていた東堂の手が、なぞるようにして毛先まで触れてそのまま離れた。と思ったら、そのまま髪の毛をひと筋すくわれる。指先が一瞬だけ首筋に触れて、その箇所からあまったるいびりびりとした感覚が走った。自分のなかの何かが変えられるようなそんな感覚が恐ろしいのに、嫌だとはちっとも思えない。

「ずっと思っていたのだが名前の髪は美しいな」
「そう、かな」
「ああ。触れてみるとよくわかる。っと、あまり不躾に触るものではないな」

 東堂、と口にしたかったはずの言葉は声にはならなかった。そうかなという言葉ですら震えていたからもう駄目だったんだと思う。頭の中は妙に冷静なのに体だけが追いついていかなかった。
 いつもだったら俺の方が美しいとか、俺にみとれているのかとか、そういうセリフをぽんぽん吐くのに今日に限ってそんなこと言わないんだからずるい。そんな風にいってくれたら、違うって返せるのに。茶化してしまえるのに。全部笑いとばして、きっとなかったことにできるのに。
 そんな自分でも理不尽だと自覚している思いがあふれて、でもそれ以上に言葉にできないようなあらがえない熱だけが、胸の奥にじわじわと広がっていく。

「……東堂、」
「ん?」
 
 汗がにじむ。始まるべきじゃなかったものが、私のなかで進み始めてしまったのだと分かって、心臓がひりひりと痛んだ。真っ暗で、底なんて見えない穴に突き落とされたみたいだった。浮遊感と、もう手遅れなのだという自覚が私の体を包む。
 その感覚は恐ろしくて、それでもやっぱりいやだとは思えなくて、私はもう何も言えなくなった。
 きっと今、東堂が私の期待した通りの言葉を言ったとして、それを笑い飛ばせたとして、この自覚してしまった気持ちが消えてはくれないのだろう。どうしたらいいのか、私には本当にもうわからなかった。

グリーンエデンブルー

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