NOVEL | ナノ

 本当に突然頬がぬれた感触がして、私は思わず目を瞬かせた。ほとんど何も考えずに手を頬に触れさせてからその手を見ると、そこには至極透明なぬるい水滴がついていた。一瞬それがなんなのか本当に分からなくて唖然として、それからはっとした。涙、だった。
 私の目の前にいた東金執行官にも、私が流しているものが涙だとわかってしまったらしい。近い距離で話していたのだから、当然といえば当然だった。
 いつもの冷静な表情を崩した東金執行官に、申し訳ないなと、そう思った。涙がこぼれている割に頭の中は冷えている。泣き止まなければと分かっているのに、そのくせ涙はけして止まらなかった。てのひらでおさえてみても、涙は止まるどころか手をしとどに濡らすばかりだ。

「ご、ごめんなさい。どうして泣いてるんでしょう、私」
「……名字監視官」
「おかしいな、こんなつもりじゃなかったんですけど」

 その話をしていたのはただの世間話のついでだった。深い思い出話をくちにしていたわけではない。すでに資料となって、皆に知られているような情報をなぞるように話していただけだ。泣いてしまうようなものじゃない、執行官としての“彼”の話。ただ、それだけだった。
 向き合えていたはずだったのに、と自分が情けなくなった。自分が置いていかれたということを思い知らされたあの日から、私は確かに進んでいるはずだった。色相だって、その事実を示している。あの日濁りかけた色相はすでにクリアカラーに戻っていた。
 彼を過ぎ去ってしまった過去だと割り切ることはけしてできない。それでも当たり障りのない話をできるくらいには、平気になったはず、で。
 体から力が抜けるのがわかった。力のぬけた私の体はふらりとよろめく。崩れると、頭に浮かんだその瞬間私の体は抱きとめられていた。誰か、なんてこの場には一人しかいない。
抱きとめられた体は、そのまま抱きしめられる。頭を胸に押し付けられるようなその動作は確かにこちらを思う優しさを孕んでいた。

「すみません。ですが、泣き顔なんて見られたくないでしょう」

 彼と同じ煙草のにおいが鼻を掠めて、私はその言葉に答えることができなかった。
 このご時世、煙草なんてものは存在が少なくなってきている。もっと簡単で健康を害さない嗜好品なんてものは数え切れないくらいあふれているからだ。だからこそ煙草をすっている人間が二人いて、その銘柄が同じであることなんてよくあることなのだ。それでも、その事実は私に大きなことだった。もう彼を思わせるようなその腕の力強さに、すがりついてしまいたいと思ってしまうくらいには。
胸の奥に何かがせりあがってくる。ずっと封じこめていたものだった。消そうと思ったてできなくて、目をそらすことしかできないものだった。

「と、うがね執行官は、彼と似てます」

 茶化すような声音を心がけて、それから失敗してしまったことを悟った。私の声は中途半端に明るくて、その明るさはうつろだった。
指先でスーツをつかんだ。力が入りすぎて、皺になってしまったかもしれない。だけど手を離すこともできなかった。こんな風に抱きしめられるのは久しぶりだったのだ。なにせ私を抱きしめる人なんて彼しかいなかったのだから。
東金執行官は私の言葉になにも言わなかった。その事実に昔、彼にも同じように泣いているときに抱きしめてもらったことを思い出した。あの時の彼も、何も言わずに、私の言葉を受け入れてくれた。
喉のおくが締め付けられるような感覚がして、嗚咽がこぼれる。胸の奥が引き攣れるような痛みに満ちていて、その痛みはきっと後悔だった。

「……本当に、よく似てる」

 ほとんどひとりごとのようなそれは自分でも分かるくらいにか細かった。あまりにも小さい声だったので、東金執行官に届いたかどうかは分からなかった。ただ、その言葉はあんまりにも情けないものだったから、聞こえてなければいいと、そう思う。
 こんな風に泣いてしまえば、彼と私の間に何かがあったのだと察しの良い彼なら分かってしまうだろう。それでも、探ろうとせずにただ黙って抱きしめてくれることが、本当に嬉しかった。

 もし私たちの始まりを定義するならきっと、この瞬間こそが始まりだったのだろう。



「あなたは煙草が苦手なんだと思っていました」
「……そんな、ことは、ないんです、けど」
「でしょうね。でもオレが煙草をすっていると近づこうとはしなかったでしょう」

 懐かしい話をするなと、すでに複雑なことを考えられないようになっている緩んだ思考の中で思った。
触れる側と触れられる側、どちらが劣勢なのかなんて分かりきったことだ。すでに呼吸をすることすらままならない私のうえで、彼は少し笑ってこちらを見下ろしている。
 彼の敬語はこういうことをするときですらはずれることはなかった。それが意図してのものなのか、もう癖になっているのか、聞いたことはない。ただ前者なのだろうなと私は判断している。

「たばこ、は、さけてた、から」
「彼を思い出してしまうから?」

 相変わらず口元に笑みは浮かんでいたけれど、その言葉にはとげがあった。
 彼が慎也くんのことを口にだすこと事態が珍しかったし、分かりやすく皮肉を口にだすということはもっと珍しい。私は、そっと視線を彼に向けた。こうやって何度も体を重ねた今でも、私たちの間で、明確な言葉として彼の存在を表すことなどほとんどなかった。頭に思い浮かべることは、互いにあったとしても。
 一度だけ、慎也くんも同じ煙草を吸っていたと、そう伝えたことがある。そうですか、といつもと変わらない声音で返してくれたので、こうして再び会話にあがることになるとは思わなかった。流されていたのかとも思ったのに。
 
「めずらしい、で、すね。そんな風に、いうの」
「思ったんですよ、いつまで代わりでいればいいのかと」
「……かわり?」

 私の声をかきけすように、彼は私のおくへとおしすすめた。水音とともに、私のくちからは情けない声が漏れた。
 かたい男のひとの指が私の肌を撫でる。男のひとのからだは女である私とはかたさが違う。女である私とは違うそのかたさにふれるたび、わたしは自分が柔らかいのだといやというほど実感する。

「彼はどんな風にあなたを抱いたんですかね」
「っひ、あっ、ああ」
「教えていただけるなら、それをなぞって抱いてもいい」

 いつもより乱雑な動きに、脳裏が白く瞬いた。いつもの比較的優しい動作に慣れきっていた私の体は、それを耐え切れない。無理やり上へ上へと上っていく感覚に私は思わず彼の体へとすがり付いた。
 肌に思わず爪を立てる。少しだけ顔をしかめた彼は髪をかきあげた。首筋から滲む汗が肌を伝って、私の元へとたれる。

「あっ、ああ、ん、や、やさしく」
「……優しく?」
 
 私の言葉を不穏なほど甘い声音で繰り返した彼は、その言葉とは裏腹に激しい動きを繰り返した。
 私のなかをうごくその動きに、私のくちからはあえぐような呼吸と声しかもれなくなる。涙によって潤む視界の中で、くちびるを重ねるためだろう、距離が近づけた彼の首に手をまわした。くちびるを重ねるまえに、ほんの一瞬目があう。けれど、その事実はすぐに次の動作によって飲み込まれる。舌を絡ませて、お互いの体を抱き寄せ合った。
 体を支配する熱に、私は彼のことを思う。どこまでも私の特別だった、きっと特別であり続けるであろう慎也くんを思う。
 それでも今この瞬間を、私の体を抱く彼のことを愛しいと思うのも、また事実なのだ。

ユニラテラルの籠は回れど

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