NOVEL | ナノ

「今まで、ありがとう」
 そういってから、ぺこりと頭を下げる。その言葉はまぎれもない本心だった。彼はただ、何もいわない。私が彼の手に押し付けた退部届けに、じっと視線を落としている。
 白い手だなあと思う。室内スポーツだからだろうか。
 白いその手に、触れたことはない。けれど、その手は努力の手のひらであることを私は知っている。赤司くんは紛れもない天才だ。だけれど、その才能に彼は胡坐をかかない。けっして油断をいだかない。だから彼は誰にも負けない。
「……君もやめるのか」
「うん。全中も終わったしね」
「そうか」
 静かな声だった。私には赤司くんの考えていることなど皆目検討もつかない。けれど、寂しそうだと、思った。思っただけ、だけど。
 赤司くんはテツヤくんが辞めた時も、何も言わなかったそうだ。私には、二年間とはいえ、部活の仲間が離れていくことに寂しさでいっぱいになってしまうだろう。見ないふりをした緑間くん、気づいても動かなかった紫原くん。自分から切り離した青峰くんに、テツヤくんが離れた理由を分からなかった黄瀬くん。天秤にかけて、選び取った桃井ちゃん。そんな皆の中で、赤司くんは何を考えているのだろう。それだけがずっと不思議だった。知りたかった。彼は何も言わなかったから。
「寂しくなるな」
「あはは、お世辞をありがとう」
「いや、本当のことだ」
「……ずうっと思ってたんだけどさあ、赤司くんってこうなるのわかってた?」
 その言葉に、彼は何も言わず困ったような笑みを浮かべた。赤司くんのそんな表情をはじめて見たなあとぼんやり思う。彼はいつも勝気だった。そんな風に、自分の弱さを他人に見せる人ではなかったのだ。
 赤司くんのその笑みが肯定だったのか否定だったのか、私にはわからない。けれど、答えないということはいくら聞いても無駄だということだ。残念だなと思った。最後ぐらい知りたかったのに。
「黒子と、一緒にいくのか」
「あー、うん。受かったら、だけどね。一緒の高校受けようとは思ってる」
「……僕と一緒に来る、という選択肢はないのか?」
 その質問に、私は目を瞬かせた。予想外の質問だった。
 私は赤司くんが私にそんな風に求めてくれること、そんなことをずっと夢見ていた。夢見ていた瞬間だというのに、私の心は乾き切っていた。感じるのはかすかな痛みと寂寥だけ。感じると思っていた甘い感情は、一滴だって湧いては来なかった。
「光栄だけど、その選択肢は選べないかな」
「理由を聞いてもいいか」
「理由、なんて分かっているでしょう? 今のテツヤくんを一人にしたくないの」
 ほとんど無意識に、乾いた笑みが自分の顔に浮かぶのが分かる。この笑顔を浮かべるのにも、慣れてきた。笑っていれば何も言われない、そんなことが脳裏にあったからだろうか。私は、皆がばらばらに崩れ始めた瞬間から、自分でもこの笑顔を意識せずに浮かべてしまうようになっていたらしいのだ。自分でも知らなかったこの事実はごく最近、テツヤくんから教えてもらったことである。
 赤司くんの表情は、私の言葉になにも変わらなかった。何を考えているのか、私にはわからない。
「私も聞いてもいい? 他の人ではなくどうして私なの」
「自分でも分からない。ただ君と離れることが嫌だと思っただけだよ」
「……なあに、それ」
「僕は君のことが好きだったからね」
 ああ、と唇から声が漏れる。自分でもよくわからない感情が胸に湧くのがわかった。たぶん私は分かっていた。お互いに惹かれあっていたことを。決してこの恋は甘い結末をもたらさないことを、ただ知っていた。
 ―――それでも私は、この恋を後悔など出来ないことも知っていた。皆がばらばらになったこと。テツヤくんの退部。それらはどうしようもなく私を後悔させたし、自分が無力であることに吐き気がした。けれど、この恋は、この恋だけは後悔なんてしたくないと思った。
「私も赤司くんのこと、好きだったよ」
「そうか」
「初恋だったの。私、赤司くんが初恋でよかったと思う」
「僕もだ。君を好きになれてよかった」
「ありがとう、嬉しいよ。あ、あと一つね」
 一瞬だけ、言おうか言わないか迷う。けれど、結局言葉は私の声帯を震わせた。
「いくら勝利を重ねても、赤司くんはただの人間だよ。神様になんかなれない」
 私の声はかすれていた。そんな私の言葉に、赤司くんは目をぱちくりさせた。そんな彼の表情は少しだけ幼く見えた。今日は、赤司くんのはじめての表情をたくさん見る日だなと緊張の為に高鳴る心臓を感じながら思う。
 赤司くんの掌が私の頬に伸びる。指先が私の頬を撫でた。ガラスにでも触れるような、こわごわとした動きだった。
「知っているさ。僕は好きな女の子一人手に入れられない人間だ」
「あかし、くん」
「でも君を好きになれたからね。人間で良かったと思うよ」
 もう一度名前をよぼうとした唇を、彼の唇で封じられる。少しだけ乾いたその感触に、思わず目を見開いた。背中に回った手の温かさに、目を、つぶった。きっともう、この日を忘れることはできないのだろうなと思った。
 私はテツヤくんを選んだ。桃井ちゃんがテツヤくんではなく青峰くんを選んだように、私は赤司くんではなく、テツヤくんを選んだ。赤司くんに恋をしたことを後悔していないように、その事実も後悔はしていない。
 ああ、けれど寂しいなと思った。ひどい喪失感だ。決して涙は出てこなかったけれど。

神様になどなれやしない

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