NOVEL | ナノ

 以前、まだ自分の部屋を借りていた頃の話だ。夜更けに何気なく目が覚めるとベッドの横に立っていた彼が無言のまま私を見ていたことがあった。暗い部屋の中、私を見下ろす無表情の彼と目があった瞬間の息が止まるような感覚をきっと一生忘れられないと思う。
 びっくりしすぎて死んでしまいそうになったのでそんな風にするよりちゃんと一緒に横になってほしいと彼に伝えてからは私の眠っているベッドにちゃんと自分から横になってくれるようになった。
 そんなことを思い出したのは彼が私の前で眠ろうとする様子をまたなくしたからだ。彼は出会った時から眠りが浅く以前は誘わないと眠ろうとすらしない人だったけど、一緒に眠りたいと伝えてからはずっとそうしてくれていた。一緒にベッドに入っても眠るよりも私のことばかり見つめていた最初の頃に戻ったみたいだ。
 私が眠っている時間帯にベッドに入ってくれて一緒に横になってくれるのはいつもと変わらなかったけど、眠りについている姿自体はもうここずっと見ていない。ベッドに入っていても私の顔をじっと見つめているか、ただ目を瞑っているだけのようだ。
 私と過ごしていない時に眠っているようだったらまだ安心出来たと思う。ただ、私の傍が一番眠れると以前に告げてくれた彼の顔を思い出すととてもそんな風には思えなかった。
 私がベッドで目覚めるといつの間にか隣にいる彼は私の顔をじっとのぞきこんでいる。目をこすりながら彼の顔を見あげた。いつ帰ってきたのかは分からないけど、少なくとも私のように今まで眠っていたという表情ではなかった。
「……眠れない?」
「それより顔を見ていたかったから」
「恥ずかしい」
「可愛いよ。僕には名前が一番可愛く見える」
 本気の口調に、かけていた布団を引っ張って顔にまでかけた。すぐに彼の手が伸びてきて後ろから抱きしめられる。絡められた足先で足をなぞられる。
「ちゃんとあったかいね」
 私の足が冷たいのを彼は私より気にして、いつもそうしてあたためてくれるのだった。そのたびに私はたまらない気持ちになる。
「羊を数えてあげようか?」
 そう言うと彼が笑ったのが首にかかる吐息で分かった。羊の数よりも私の話を聞きたいと彼が言う。なんでもないような話をしながらお腹にまわっている彼の手を撫でた。彼は私の話をいつも聞きたがって、そう促されて口を開く私の取るに足らない話を大事に聞いてくれた。
 ふと思いついて、私は彼の片方の手を取って両手で包みこむように握ると、見様見真似で揉んでみることにした。
「じゃあマッサージしてあげるね。痛くない?」
「全然」
 大きくて厚くてかたい手のひらだ。私とは爪の大きさから指の太さまで大きく違う。自分の手を特別に小さいと思ったことはなかったけど、彼と手を重ねた私の手は嘘みたいに小さく見える。
 痛くないと言われてもちゃんと分かってやっているわけではなかったので私のせいで痛がらせて傷つけてしまうのが怖くてやわらかい力しかこめられない。そのうちにマッサージというよりただ撫でている状態になってしまう。
「そんなに恐る恐るしなくてもいいよ。くすぐったい」
 本当にくすぐったそうに言うのでなんだか嬉しくなって今度はその意図を持って彼の手の皮膚を指でなぞった。「こら」とまるっきり形だけの咎める甘い言葉に私も思わずくすくす笑う。
 笑ってから、今度はもう片方の手を握っていると彼があくびをした。額を首筋に押しつけられる。そんな彼にそうっと囁いてあげる。
「眠っても大丈夫だよ」
 彼の手もなんだかあたたまって来ているような気がする。その手をもっとあたためるために撫でてさすってあげた。私は彼にこうして触れられたら嬉しいしきっと心地良く思うから、彼もそうだといいなと思う。
 そうして撫でていたけど眠りにつくのにこうされているのは気になるかなと思って手を離すと、触れることをねだるように私の手の中に彼の手が戻ってきた。
「離さないで」
「うん」
「僕が寝てもこうしたまま手を離さないでくれる?」
「もちろん。ずっとこうしてる」
 自分の言葉にいかにも嬉しそうな響きがこもったことに気づいて照れそうになった。でもいいのかもしれない。嬉しいものは嬉しいしそう伝わってほしかった。
「もしかして僕のこと大好きだ?」
「もしかしなくても大好きだよ」
 しみじみとした言葉にそう返すと僕はきっともっと好きだよと首筋と肩のさかいに唇を押しつけられた。わざと痕が残るようにしているのを感じて思わず小さく悲鳴をあげると彼は静かに声を出して笑った。
 そうやって抱きしめられてくっついたまま、いつの間にか眠っていた私が朝に起きる頃には彼の姿はなく、彼がいないと寒々しさすら感じる広いベッドの上を見ながら、私は少しでも彼が休めてくれただろうかということを考えていた。
 彼のその変化を感じるようになったのはクリスマスを過ぎた後だった。クリスマスの周辺も彼はもちろん仕事で忙しく、いつも通りに深夜と朝の狭間に時折帰ってきては私を抱きしめて一緒に眠って、また仕事へと発っていた。
 あの日、既に日付が二十五日になっていた深夜、帰ってきた彼に顔をのぞきこまれ名前を呼ばれたけど、眠たくてちゃんと答えられなくて、そうすると彼は私の髪を撫でた。それから彼はいつもみたいにベッドに入って私と手を繋いだけど、その手は彼の手だと思えないくらいに冷たくてびっくりした。彼の手がそんな風に冷えているのは初めてのことだった。
「冷たいね……。外、そんなに寒かった……?」
「うん、少しね」
「そっか……」
 冷えた彼の手を可哀そうだと思っていつも彼がしてくれるように、温度を渡すように、撫でてあげた。そうしていると彼の手にぬくもりが移って、それが嬉しくて、あたたまった手に指を絡めて握ったのを覚えてる。彼の手をあたためたことに満足して、私はもう一度眠りについた。
 彼の変化(と言っても明確に言えるのは眠る様子が見えないということだけだったけど)に私は違和感を覚えていた。具体的に何がおかしいと感じているのかと問われれば難しいけど、いつもと同じだと言われたら首をかしげてしまう。
 そんなことがずっと心にあったからだろうか、忙しい生活を変わらずにこなしている彼自身よりも、何もない私の方が彼のことを考えすぎて物理的に足をとられることになった。
 白い天井が目に入ってぼんやりしている意識を自覚する。どこか夢見心地のまま重さを感じるおなかに目をやると彼が顔を伏せていた。その手には彼自身のサングラスが握られている。
 ここがどこなのか、そしてなぜ彼がいるのか、疑問に思ったことで記憶がじわじわと溢れ出す。
 帰路の途中、階段で足を踏み外したこと。切れた皮膚から流れていく血が服に染みていくあの感覚を思い出してから、彼がここにいるということは迷惑をかけたということだと理解すると思わず力を入れたせいかこめかみのあたりが痛んだ。
 鈍く痛みが響く頭に手を伸ばすと何かが触れた。包帯だ。しっかりと巻かれているのを指で触れて確かめていると、おなかの上の彼が身じろぎする。
 顔をあげた彼の瞳が私を捉える。目があって、彼の表情が見えた。強張った顔をしていた。
「おかえり」
 頬に手が伸びてきて、そっと触れられる。指先のあたたかさに私は彼の名前を無意識に口にした。出したつもりの大きさよりずっと小さく掠れてしまった声を聞きとってくれたらしい彼は表情を緩める。それでもよったままの彼の眉に随分心配をかけさせてしまったことが分かって申し訳なくなってしまった。
 駅の階段から落ちて頭を打ち、病院に運ばれたというのがことの顛末らしかった。意識がない間に大きくなっていた事態にいたたまれない気持ちになった。私が帰宅していないことに気づいた彼が私のスマホに連絡してそれを病院が受けてくれたようだ。忙しいはずなのに駆けつけてくれた彼は、私の意識がない中でも検査をつき添ってくれていたようだ。
 ベッドに座ったままの私を抱きしめながら「良かった」と言った彼の声音やその腕の感触を忘れることはないと思った。そうして抱きしめられていると彼が私のために心を震わせていることや本気で心配されていることが分かって、痛みよりも何よりもその事実に泣きそうになった。彼に駆けつけさせてしまったことも申し訳なかった。
 私にとってはその時の彼に関したことは大事でも、傷や事故自体は深刻なものではなかった。通院が終わる頃には痛みの記憶も薄れていたし、笑い話として話せる経験になっていたと思う。
 けれど、彼にとっては、そうではないのかもしれなかった。
 もともと連絡は良くしてくれていたけど事故をきっかけにその頻度が目に見えて増えた。生きてる? と言う連絡が来ると最初は笑ってしまっていたけど、笑いごとではないのだということを次第に理解した。あれ以来彼は私の前で目を瞑ることもしなくなった。
 彼は私といる時、常に私を見つめている。大げさな比喩ではなくずっと≠セ。彼のその様子は見つめていることを楽しんでいるようなものではなく、そうして見つめていないことに耐えられないような、強迫的な雰囲気があった。
 彼の帰ってくる時間帯がいつもより早くなって私がまだ起きている時間に顔をあわせる頻度も多くなった。私の顔を見るためだけにそうしているようだ。問いかけた時に返って来るのはこれまでと何も変わらないような彼の表情と「名前に会いたいから」という答えで、そう言われると「私も同じ気持ちだ」ということしか伝えられなかった。
 彼が何を不安に思ってそうしているのか分からなくて解決してあげられないことが寂しいと思う。一緒にいられて素直に喜んでいいことなのかと言われるときっとそうじゃなかった。それでもどうしても、彼とともにそうして過ごせるのは、心のどこかで嬉しいと思ってしまうのだった。
 私がシャワーを浴びて戻ってくると今日は先に部屋に帰ってきていた彼は既にドライヤーを手にして準備をしてくれていた。そんな彼の前にいそいそと座る。彼の手は心得たように、何もお願いしなくてもタオルで私の髪の水分をとってクリームを塗ると、ドライヤーで乾かしてくれる。彼の手つきは慣れたもので、安心感があった。
 私が彼の髪の毛を乾かしてあげるのを何度かしてから、彼が自分もしてみたいと言うのでいつもどうしているかを軽く説明すると「こういうの、初めてした」と言う彼自身の言葉とは裏腹に次の機会にはもうよどみのない手つきでしてくれるようになった。彼のその乾かし方は彼がいない時に自分で乾かす時もよほど真剣な手つきだった。
 抱きあう時とはまた違う丁寧さで触れられると、くすぐったさとともにとても大事に触れられていることを感じて幸せになる。だからその時間が、一緒に過ごす時間の中でも特に好きだ。
 されるがまま、夢見心地に目を瞑っているとドライヤーの音越しに彼が私に声をかける。いつもこちらがびっくりするくらい集中しているので、彼がそんな風に話しかけてくるのは稀なことだった。
「名前に聞きたかったんだけど」
「うん」
「本当は望んでしたの?」
「え?」
 主語のない言葉が指しているものに思いあたることはなく思わず疑問符で返した私をじっと見つめる彼の視線を、目があわなくても感じた。
「この前のこと」
 それが事故のことだと理解した瞬間に心の底から不思議で出た「どうして?」という言葉を聞いても、彼がまだ強い視線で私を見つめているのが分かった。
 「良かった」と言ってくれたわずかな震えを帯びた彼の声を思い出す。「駆けつけられる距離にいられて幸運だった」とも彼はあの時に言っていた。彼はよく遠くに仕事で向かうから、彼がいてくれる日だったのは私にとっても幸運なことだったんだと思う。もしタイミングが悪かったら、きっともっと彼に心配をさせてしまっていただろうから。
 彼が私のために駆けつけてくれたその後、もともと忙しいのをもっと忙しく過ごしていたのを目の当たりにしたのを思い出し、私は前を向きながら首を横に振った。あんな迷惑、わざとなんて絶対かけたくない。
 温風から冷風に変えられていたドライヤーが止まる。最後に彼が、いつものように髪にブラシを通してくれる。
「名前、その前辺りにずっと考えてこんでたよね。……逃げたくなるくらい悩んでた?」
 私が考えこんでいたのを彼が知っていることに驚いてから、私がそれを苦にしてあんな風に怪我をしたのだと考えていることに気づいて言葉を失った。
 ずっとそう考えていたのだろうか? だから目を離したくなさそうにしていた? 目を離したらまた同じことをすると思った?
「……死んじゃいたくなるくらい悩んでたとしてもあんな風に死のうとなんてしないよ。本当にするならもっと、誰にも迷惑をかけないように考えると思う」
 そんなことあるはずがないと分かるように、わざと冗談だと分かるような口調で言ったはずなのに、彼は手を止め、私の肩を掴むと自分の方を向かせる。向かいあった私を前にして、彼は適切な言葉を探しているが見つからないと言う顔をした。とても珍しい姿だった。その姿に私は自分が言葉を誤ったのを悟った。
 肩に置かれていた彼の手を握り、自分が口にしたのが良くない冗談だったことを謝って、私自身が本当に何も悩んではいないことを伝える。彼は私の目をのぞきこみ、その言葉を黙って聞くと、深く息を吐く。そして私の手首を握るとそのまま寝室へと引きずるようにして連れて行った。
 彼に整えてもらった髪を彼自身の手で乱されながらいつもより少しだけ強引に抱かれる間、私は彼の中のどうしようもない気持ちに触れられた気がした。彼の中にある寂しさに似たその気持ちは触れあっていると私にも近しい気持ちを抱かせた。同じ気持ちを分けあいながら触れあうとその寂しい気持ち自体とは裏腹に、溶けてひとつになっているような、言葉にもしがたい幸福な心地になった。
 髪を、今度は彼の手によってとかされながらその腕に抱かれていると、彼は静かに言った。
「本当は考えてなかったことくらい分かるよ」
 「そういうタイプじゃないよね」と自分で口にしてから、それでもまだ気になったのか「考えてないよね?」と念を押されるので頷く。ちゃんと顔を見て頷いても納得しているようには見えなかった。
「不安なの?」
 彼と抱きあっている間に感じた気持ちを聞いてみると、彼はどこかぼんやりした口調で不安? と言葉を繰り返した。
「今まで不安になったことがないからどういう気持ちなのか分からないんだよね。……でも、名前が言うならこれがそうなのかな」
 なんだか迷子の子供みたいに居心地が悪そうだと思った。その口調自体が私にはどこか不安げに聞こえる。
自覚していないだけで今までにだって彼は不安を抱いたことがあったんじゃないかなと顔を見つめながら私は思った。
「名前も不安になったことがある?」
「人並みにはあるかな」
「僕に対しても?」
 私の前で眠らなくなった彼のことを、恐らく誰の前でも、一人の時ですらもまともに眠っていないのではないかと想像をした瞬間を思い出して黙った私に、彼はふっと息を吐いた。
「割ったら何を考えてるか目に見えて分かったらいいのに」
 この中をさ、という言葉とともに頭を撫でられる。頭皮越しに彼の指の太さと力の強さを感じて思わず身震いした。
「割っても大好きって気持ちしかこぼれてこないかも」
「いいね、見てみたい」
 彼の言葉に、割れた私の頭からこぼれる愛情を想像してみる。こぼしたらこぼした分の責任をとってほしいと伝えるとこぼれない分の責任も僕のだよと言われた。ならいいかという気持ちになってくる。
 気だるさを感じながらも私は彼の顔を見つめていた。彼が口を開く。
「眠れない?」
 それは彼の方ではないのかという意味をこめてじっと見つめ返すと、何が言いたいのか伝わったのか彼が苦笑いをする。
「怖い夢を見るならずっと手を繋いでる?」
 私がそう言うと彼は目を丸くした。「優しいね」と、彼自身こそ優しい口調で言う。口にしてから気づいたが手を繋ぐと言っても以前も今も変わらずよくしていることだから考えてみると改めて申し出ることでもなかったかもしれない。
「眠れないわけじゃないんだ。ただ、眠るより名前の顔を見ていたいと思ってるだけ」
 彼の言葉にはそれ以上を尋ねても答えてはくれないだろう予感があった。だから私ももう聞かなかった。休んでほしいだけで、無理に聞き出したいわけではなかったから。
 眠り≠ノついては聞けても、彼の変化が始まった私の事故以前の、二十四日あの日に何があったのとは、何故か、どうしても聞けなかった。だから全く違う、どうでもいいことを口にした。
「そんなに眠ってる私の顔が好き?」
「眠っている時も起きてる時も、この顔が失われることがあっても好きだよ」
 彼は私の頬を撫でた。この上なく愛情の滲んだ手つきだ。なんだか泣きたくなった。
 そうしているうちに私はやっぱりいつの間にか眠りについてしまう。微睡みながら感じた、彼が私の髪を撫で、額に口づけてくれた感触に喜びを抱いて、同時に、眠っている彼に私がそうしてあげられる時はもう来ないのかもしれないなと直感してしまった。
 彼の私に対する確認癖はゆっくりと、確実に、強まっているようだった。離れている時の連絡の頻度は以前と比べることもできない。それはあれから仕事を辞めた私がずっとこの部屋にいると分かっていてもだ。確かめて確かめても、むしろ確かめるほど、そのすぐ後に良くない変化が起きているかもしれないと思っているようだった。
 以前から彼は、帰って来た時や行ってしまう時に私の髪を撫でてくれた。送り出す時は寂しい気持ちにもなったけど、そうやって慈しまれるように撫でられるのが好きだった。でも今は慈しまれるというより惜しむように彼は髪を撫で、私の体を抱きしめる。彼によって、これ以上はないくらいに大事に、愛されているのを自覚するたび、私も彼に返せたらいいのにと思った。だから、――その時≠ェ来ても、私は迷わなかった。
 本当に珍しく彼に昼夜の休みがあったその日、それまで見ていた映画の話をベッドで一緒に横になりながら話をした。どんなにこうしていても一緒には眠れないことをやっぱり寂しく思いながらも、私の手をずっと握っている彼の手を握り返す。彼が私の隣で眠りにつくことは完全になくなってしまっていたが(眠っている間に何かが起こるかもしれないと思っている様子だった)その代わり、あの日に私が手を繋ごうと声をかけた時から、一緒にいる時間のほとんどを手を繋いで過ごすようになっていた。不安なのかと私が問いかけたあの日、彼の中の気持ちは不安という名前を自覚したことでより明確なかたちを持ってしまったようだった。
 どれだけ不安定な兆候があっても、顔をあわせて一緒にいる時の彼の様子に大きな変化はなかった。彼は私にずっとずっと優しかった。彼は私を見つめてくれて、私にほほ笑んでくれて、愛をこめて触れてくれて、大事にしてくれた。彼のすべてには私に対する愛があった。
 私は彼を大好きで、だから彼の愛情を感じたら嬉しかった。でもその変わらなさこそが彼の不安定さを見ているようだった。どうしてそんなに不安を抱いているんだろうと私にまで不安として移ったけど、こうして手を繋いでいると私も安心した。
 映画の主人公がヒロインと現実の世界でも結婚した話をしていた時、つまり、少しもそういう流れではなかった話の最中に彼は私の目を見て尋ねた。
「僕のことが好き?」
「大好きだよ」
「じゃあ僕に殺されてもいい?」
 彼は私の様子をうかがうようにじっと見つめていた。冗談だと受け取って笑えばよかっただろうか? 私がそう言えば彼は笑ってくれるような気がした。でもとてもそんなことは言えなかった。脈絡のなさこそが私に彼の本気を感じさせた。
 黙ったままの私に大きな手が伸びてきて、首に触れる。ただ手を添えられているだけで力がこめられていないのに、すでに重みによる圧力がある。
私と手を繋ぎたがる彼のあたたかいその手が、病院に駆けつけてくれた日にかけてくれた言葉のように本当にわずかに震えているのを感じて、その時、自らの心が人生で一番凪くのを感じた。
 私は彼の手に自分から手を添えた。彼の手をいたわるように撫でて、その手の上から私の喉を握るようにした。彼の手は厚かったからきちんと握って力をこめてあげることは出来なかったけど、意図は伝わったはずだ。
「いいよ」
 彼の目を見て、答える。殺していい。殺されていい。彼の望むようにしてほしい。頭を割って中身を見たいと言われたあの時と同じで、心の底からそう思えた。
 彼がここまで不安を持ったきっかけを私は知らない。でもやっと分かった。彼が不安を抱いているのは私を愛しているからだということを、その時にようやく理解してあげることが出来た。
 本当なら受け入れるのではなく彼がもうそんな不安を抱かなくて済むようにどう安心させてあげればいいのかを考えて、彼の隣でずっと手を握り続けることが正しいと頭の中では思った。でも頭の中では確かにそう考えられるのに、彼に求められたなら応えてあげたいと思った。彼が愛しいから、彼の愛情に私も愛情で返してあげたいという気持ちが正しいと感じる考えを凌駕する。彼もこういう気持ちだったのかもしれない。
「大好き。好きにしていいよ」
 私は彼を好きだ。だから殺されてもいいと思った。殺したいと思うのが彼の愛情ならそれすら嬉しかった。彼が私を愛しているからそうしたいのだと思ったらどうされたっていいと思えた。なにをあげることになってもいいよ。好きだから、愛されたら嬉しい。私も彼を愛している。ずっと一緒にいたいし、手を繋いでいたいし、殺されてもいい。彼が求めてくれるなら今ここですべて≠あげてしまいたくなった。
 彼は表情を消していた。私が手を添えた自らの手に視線をやって、それから、私の顔を見る。暗闇の中でも輝くようなその瞳に見つめられて、彼の手に触れてもらった瞬間を思い出す。彼はいつだって私に愛を持って触れてくれた。彼に触れてもらう瞬間はいつだって幸せなものだった。だからきっとこれ≠熏Kせなことだ。受け入れることを示すために、目を瞑る。
 彼の手に力がこもる。閉じた視界が白くなる。頭の中が白に塗りつぶされていく。階段から落ちた時に私は自分が死ぬことを想像したりはしなかったけど、ずっとそうやって死を遠いものとして生きてきたけど、彼の手によって自分の終わりを初めて感じた。それでも怖くはなかった。自分が心から彼を受け入れることが出来ているのが分かって、彼にもそう伝わったらいいなと思った。
意識が遠のくのを感じて、でもはっきりと途切れるその前に彼の手は離された。
 その瞬間にそれまで奪われていた空気が喉に入ってきて、私はせきこむ。せきこみながら骨が折れそうなくらいきつく抱きしめられてもっと苦しくなった。「どうしたの」と聞こうとして、頬にくっつけられた彼の頬が濡れていることに気づいてしまう。
 首を絞められた私よりも苦しそうな声を彼が喉の奥から漏らす。その声を聞きながら彼の背に手をまわした。彼のその抱擁で、いつもの抱擁はもちろん先ほどの私が首を絞められた時の力もたくさんの加減されていたことを知る。
それでも恐らくこの抱擁すらも彼の本気ではないのだ。こんな時でも私を本気で抱きしめることが許されない彼を、そう抱きしめようとはしなかった彼を、愛しいと思った。抱きしめていた片方の手を、彼の柔らかな髪に手を伸ばして撫でてあげる。
「泣かないで」
 大丈夫だよと彼に囁く。こんな風に傷つけたかったわけじゃない。喜んでほしかった。応えてあげたかったし彼が私をたくさん愛してくれるように愛してあげたかった。だけど彼にこうして縋られることにも私は幸福を感じている。彼に幸せでいてほしいと思うのに、彼が私のために不安を感じながらこうやって抱きしめてくれることが嬉しい。
 永い間そうしてから、彼が抱擁をとく。強すぎる抱擁から解放されるとくらくらした。大きなその手で確かめるみたいに頬を撫でられる。さっきまで私の首を絞めていたその手にすり寄った。
「そんなに僕のことがそんなに好き?」
 彼がほほ笑んで聞くので、私も笑うことで答えた。私が笑うと彼は口づけてくれる。熱烈な口づけに体の力がますます抜けた。
「僕も好きだよ。殺して自分のものにしてしまいたいのか生きて傍にいて欲しいのかもう分からないくらいに」
 口づけの合間に「名前が好きだよ」と囁かれる。そうせずにはいられないというように言う彼の気持ちが私にも分かる。私も彼を愛しているからだ。
 一緒にいてほしいと彼が言うなら喜んでずっとそうしたいと思った。殺してしまいたいと彼が言うなら喜んで今そうされたいと思った。どちらでも構わなかったし、どちらを彼が選んでも私はきっと幸せなのだろう。
体から抜けていく力を自覚しながら、それでも今度は私が彼を強く抱きしめ返す。私よりも大きな彼を腕の中に抱きしめながら、こうしていられるなら私は他には何もいらないと心から思う。
 彼が「だから、次は止めてあげられないかもしれない」と甘えた声で耳打ちをする。その声はやっぱりどこか震えていて、彼自身は心のどこかでその瞬間≠ゥら私に逃げてほしいと考えているのかもしれないなと思った。それを知りながらそれでもその背に自ら縋りつき、私は彼にすべてを預けて、渡した。

愛の淵底

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