NOVEL | ナノ

 不意にぶつかってきた衝撃と重さに思わず声が出て、顔を上げる。隣に座った五条くんが私の肩へ腕をまわしてこちらの顔を覗き込んでいた。そしてそのままもう片方の五条くんの手のひらが顔に伸ばされ、思わずぎゅっと目を瞑ると、彼の手が私の額のあたりから眉間に触れる。
 指の腹で撫でられている感覚にゆっくりと目を開けると、至近距離の五条くんの瞳とサングラスの隙間から目があった。
「顔怖いけどなに見てんの? なんかあった?」
 顔が近づけられすぎて私には五条くんのキラキラした瞳くらいしか視界に入らない。五条くんの手が離されたとき、思わず確かめるように自分で顔に触れてみるがとっくに表情は情けなく形を変えていて熱を持っていることだけが分かった。
 私が膝に置いて読んでいたクリップファイルを五条くんが持ち上げ、それに視線を落とした。
「ちょっと前に私も声をかけてもらったんだ。だからちゃんと読んでおこうと思って」
「名前も行くの?」
 挟まれた書類に目を通していた五条くんがこちらを見て首を傾げた。書類にはまだ解決に至っていない任務の詳細が記載されていた。術師ではない私は任務に関してほとんどの場合は後処理という形で関わることが多かったのでとても珍しい機会だった。書類に私の名前は書かれていなかったので余計に不思議に思ったのだろう。
 五条くんが書類をその長い指でなぞりながら、からかうような表情を浮かべる。
「つまりビビってるよ〜ってこと?」
 私は首を横に振った。緊張してると言うと五条くんはもう一度クリップファイルに視線を落として、書類をめくった。彼がじっくりと書類を読んでいるのを感じて、なんとなくそわそわする。
「この日俺の任務入ってないし行ってやろうか?」
 書類に視線を向けたままの五条くんが、すぐ近くの店に行くのについて来てくれると言ってくれたときと同じ軽さの声で言うので、くすぐったくなった。私にとっては珍しくても五条くんがいつも指示されている任務とは難易度が離れていたのに、そう声をかけてくれたことが嬉しくてつい頬が緩む。
「大丈夫だよ。せっかくだから勉強してくるね」
 優しくされていると感じて、表情だけでなく出した声まで弱くなった。
 読み終えたらしい五条くんが私にクリップファイルを戻そうとする。受け取るために手を出すと五条くんは代わりに自分の手を出して私が出した手をぎゅっと握るとよりこちらによりかかった。握られた手が五条くんの膝の上に置かれて、重さをかけられる。
 五条くんは何も言わないままこちらによりかかっていたけど私が椅子の上で崩れるのを肩にまわした彼自身の腕で支えていた。そのせいで距離がますます近くなる。頭を肩に乗せられて、私はドキドキする気持ちを抑えながら息を潜めた。
「この内容ならそんな顔してまで心配することないって」
「……うん」
 私にだけ聞こえるような声量で言われ胸がぎゅっとなる。私も五条くんにだけ聞こえるように「ありがとう」と囁いた。
 しばらく互いに何も言わずそうしていると、五条くんは掴んでいた手を視線の高さに持ち上げた。大きさが全く違う五条くんの手のひらが、上向きにした私の手を目の前で掴んでいる。繋いだ手を五条くんはしばらく何をするでもなくじっと見ていた。
 そして五条くんは繋いだ手を引いて立ち上がった。互いに立ち上がるのと同時に手を離されるとそれまで体温を感じていた部分が冷たくなった。
 五条くんは私を呼びに来てくれたらしい。一緒に夏油くんと硝子ちゃんの元へと戻り、その道すがら、私の少し先を歩く五条くんの姿を思わず目で追った。高専の制服の、光を吸う黒い生地に包まれた背中を見つめながら、五条くんが私にかけた声の柔らかさが反芻され、そうしているだけで切なくなる。でも幸せな切なさだった。
 連れ立って教室へと戻って硝子ちゃんの隣に座ると、彼女は私に耳打ちをした。
「今日アイツでしょ。大丈夫だった?」
 私は硝子ちゃんの目を見て笑みを浮かべ、平気であることを伝えるために頷く。五条くんから返してもらったクリップファイルを持つ指先が硝子ちゃんの言葉に反応するように意図せず動いて握って誤魔化した。
 硝子ちゃんが言うアイツ≠ヘ特定の人物を示していて、互いに認識が共有されていた。その人は補助監督に属する人間で、御三家のような術師の家系に下される任務を担当しており高専に常駐しておらず時折高専に訪れる。一度話をする機会を持ってからその人が高専に訪れる際に声をかけられるのが常になっていた。
 以前に自分に振り分けられる任務の幅が狭く力になれることの少なさが申し訳なくなるという話をしたことを覚えてくれていて、私が行くことになった任務はその人が声をかけてくれたものだった。だから書類に正式に私の名前は書かれてはいない。声をかけてもらったのは私個人の実力を見込んだようなものではなく、その人によって図られた便宜だった。
「君はいい子だから力になりたいんだ」
 書類を渡しながら任務の説明をしたその人は、それまで向きあっていた姿勢から距離を詰めると私の耳に息がかかる距離でそう言った。私が思わず顔を見たことで近い距離で目があうとその人は笑みを浮かべるので、私は距離の近さから目を逸らすように頭を下げた。
 本人も有名な術師の家系にあるその人は補助監督という役職に就いてはいても、その中で特殊な立ち位置にいるような空気があった。だから、今回のような扱いをすることが出来るのだとも本人の口から聞いていた。
 会う回数が重なって話をするたびに距離が縮められている気がして、だからと言って具体的なことをされているわけでもなかったから深く考えないようにしていた。でも顔をあわせている際に偶然に通りがかった硝子ちゃんが、どこかぎょっとしたような顔をしたときに私はつい安心してしまった。私が覚える躊躇いは間違いじゃないのかもしれないと思えたから。
 硝子ちゃんはそれからその人が来るときに居あわせると、切り上げられるように間に入って声をかけてくれた。数度それが繰り返されたとき、硝子ちゃんは言った。
「五条に言わないの?」
「し、知られたくなくて……」
 私は五条くんと付きあってはいない。でも硝子ちゃんがわざわざそう確認するような扱いを五条くんは誰の前でも私にした。五条くんが私に与える視線だったり、声だったり、空気だったり、ふとしたときに感じる特別は凄く凄く嬉しくて、どうしようもなく舞い上がって、私の身に余る幸福で、でも考えると苦しくなった。だから私は五条くんとの関係が明確なものにすることから避けていた。
 言わなかったのは個人的な助けを求める特別な関係ではないという大前提の上、直接的に傷つけられていなかったこともあった。でもなによりも私がそんな風にされていることを五条くんに知られることは想像しただけで恥ずかしかった。私がそう扱われるのは私に魅力があるからでも価値があるからでもなく簡単だと思われているからだと自覚していたからだ。
 とてもそう言えないので曖昧な言い方で恥ずかしいと思っていることを硝子ちゃんに伝えると硝子ちゃんは私の顔をじっと見つめた。
「バレる方に賭けようかな」
「……そう言われると本当にバレちゃう気がしてきた」
「冗談」
 ふっと笑った硝子ちゃんはそれ以上は五条くんのことを言わないでいてくれた。
 硝子ちゃんが出してくれるようになった助け船のおかげで、その人との距離は改善されているような気がしていたがそこで言われたのが例の任務だった。縋らずにはいられなかったのは今の私には救いのように思えてしまったからだ。
 私は五条くんに好かれて嬉しかった。でも、本当はずっと怖かった。思ってもらっていると感じるほど見あわないと感じてしまうから。だから力になれることが増やせれば今の私よりもまだマシになれる気がして。
 でも結局そういう考えは私そのものみたいに中身がなくて、だからこうなるのかなとその人と共にホテルに通じるエントランスに足を踏み入れたときに、思った。
 その日の任務自体は本当に簡単に(私の知見が深くないことを差し引いても事前に伝えらえていた等級と概要よりも小規模なものであるように感じるもので、見ているだけで)終了した。すでに用意されていた送迎の車両に乗り込んだときに改めてお礼を伝えると任務の反省をするために場所を移す提案をされ、そのまま高専に向かうのかを私は尋ねた。するとその人は私の手を握るともっと良いように取り計らえると言った。
「もらえるお金も増えるよ。戦うのが苦手なのに関わる任務の幅を広げたいのってそのためでしょう?」
 握られている手に力をこめられて、顔が強張った。私は思わずこの車の中にいる唯一の他の人間である運転席の方に視線をやる。それから車両も含めて今回の任務に関わるすべての手配をしているのが目の前にいる人だということに思い至り、体温が下がるような気持ちになった。
 誤魔化すような笑みを顔が勝手にかたちづくる。冗談ですよねと言う自分の声は乾いていた。
 私に顔をよせたその人は私が五条くんと親しい関係にあることを指摘した。そして五条くんについて触れ、憧れてもまさかまともに恋人になれるわけもないのだから、自分と親しくした方が将来的に見ても賢いと説明した。
 言葉が出て来ずに黙り込み思わず身を引いた私を見てその人は少し沈黙すると、そういう態度をとられると私から目的を持って近づかれたのだという説明を彼にすることになるかもしれないとも口にした。
 もちろんそんな意図があったことはない。でも私の身勝手な願いで求めた便宜は事実で、それを分かったうえで任務に赴いた自覚があった。
 五条くんの横顔が頭に浮かぶ。彼が私を見て浮かべた笑みを、伏せた視線を、私の頭に触れて撫でるその手の大きさと感触を、やわらかい声を向けられた瞬間を、すべて≠思い出す。
 急速に心が冷えていく。「五条くんにだけは言わないでください」と声を絞り出して頭を下げると目の前の人は握っていた私の手にもう片方の手も重ねた。
 車の中は午後の日が窓から入って眩しいくらいで、そんな日のあたたかさに思わず目を瞑ると脳裏に、五条くんの髪に光が透けるその色がよぎった。綺麗だなと何度となく見つめてしまったから、特に目に焼き付いていた。
 これから起こることではなく起こったあとに五条くんと顔をあわせることを考えると私に触れたいなんて思わないぐらい必死に逃げようかなと頭に浮かんだけど、それをして伝えられることがどうしてもよぎって体は動かない。
 そして車はホテルに到着した。必要な場所としてどうでもいい場所を選ぶのではなくわざわざ私の金銭感覚では手が届くのは難しいホテルにわざわざ車が止まり、こういう場所にだって連れてきてあげるからという言葉をその人が言うのを聞きながら、五条くんの言う通り任務は心配することなどなかったなと考えた。逃避だった。
 でもそれまでに想像させられたことなど吹き飛ぶようなもっと怖いことが私の身に起きた。腕を引かれてエントランスに入ったそのとき、そこにいるはずのない人を見つけ立ち尽くした。私がそれまで散々勝手に頭に浮かべていた五条くんだった。
 五条くんと目があう。引かれたままの腕が、今まさに五条くんの目に入っていることに強い恥を感じて私は考えるより先に目を逸らして下を向いた。
 求めれば、それがこんな風に何かが起こりかける日が来る前だったとしても、特別な関係じゃなくても、五条くんはきっと助けてくれたはずだ。言えなかったのは見捨てられることが怖いからじゃなくて、知られることだった。なのに、見られてしまった。
 隣にいるその人も気づいたようで私に続いて足が止まる。五条くんが私達の前へと足を止めたのが彼の靴が視界に入ったことで分かった。そしてその瞬間に、五条くんはその長い脚で私の隣のその人を蹴りとばした。早すぎて何をしたのか見えなかったけど下ろされた五条くんの足の動きで分かった。私の手を離し強い勢いで床に倒れ込んだその人の腕を掴むと、五条くんはさっき入ってきた出入り口の方へと引きずり始める。
「コ、コイツから頼んできたんだ」
 その人が私の方を指さして叫び、私はますます立ち竦んだ。起きた出来事と声の大きさに周りの視線が集まるのを肌で感じる。五条くんが、顔を上げてしまった私を見た。
「そこで待ってろ」
 そう言ってその人を外へと連れ出した五条くんを追いかける勇気を持たず、その場所で馬鹿みたいに凍り付いていた私の元へ、彼はしばらくして戻ってきた。五条くんは今度は私の腕を掴むと中のエレベーターの方へと引っ張った。
 そうして歩き出されて五条くんの歩幅と早さについていけなくて縺れるようにして転びそうになる。五条くんはそれでも私の腕を掴んだまま歩みを止めなかった。
 エレベーターに乗ると一緒に歩いていたとき以上に閉塞感を覚えて、私は五条くんをまた見られないまま床の模様に視線を向けていた。暖色系の照明に照らされた箱の中で私は息を出来る限り殺すようにした。
 ロビーへとたどり着き、五条くんがフロントの方へと向かう。天井の高さと大きな硝子の連なる窓から入る光は解放感があってとても綺麗だったけど光景とは裏腹に私の心臓は緊張で早鐘を打っていた。そのときになってようやく五条くんを見上げる。五条くんは私の視線に構わずにチェックインを済ませると手続きをしたらしい部屋へ連れだって向かった。
 室内へと入ったとき、五条くんは私から手を離した。部屋はぎょっとするほど広くすべての家具が揃っていたが、五条くんは迷わず奥まで進んだ。私はそれにのろのろとついていく。寝室にある一つの大きなベッドに座った五条くんは私を手招きした。私はそれまで以上にのろまな動きで五条くんの元へと歩き、彼の前に立った。死刑宣告を受ける心持ちでずっと顔を下げたままだった私の手を、五条くんが引っ張る。そのまま一緒にベッドの上へと倒れ込んだ。
「なんでこんな簡単に部屋までついてくんの」
 その声は私がしたどんな想像よりも優しくて、目が熱を帯びて、慌てて耐えた。五条くんは深くため息をつくと私をベッドの上できつく抱きしめる。私の頭を自分の胸元に顔をうずめさせて髪をいつもより強引な手つきで撫でた。そして五条くんがどうしてここにいるのかを話してくれた。
 五条くんは硝子ちゃんからあの人の言動のことを聞いたらしい。任務が決まったあのあと、硝子ちゃんにだけは伝えていた。それまで助けてもらっていたのに相手からの任務の誘いに応じたことに罪悪感があって、だからこそ任務についての報告をしていた。
「俺は知らなかった。なんで?」
 五条くんが横になったまま私の目を見て言う。逸らしそうになって、こらえた。今日のことも、今日に至るまで彼には言わなかったことも、それで結局こんなことになったことも、私自身の拙劣な対応も、それでも来てくれた五条くんのことも、これまでの五条くんとのことも、頭を巡った。
 五条くんが好きだ。好きだから言えなかった。好きだということすら、言えないと思った。
 どんな言葉も口に出来ずに、首を横に振る。五条くんの表情が強張った。
「俺が名前のことどう思ってるか分かってるよな。俺は名前もそうだと思ってるけど」
 必死に自分を落ち着かせた。声が震えそうになるのを、深呼吸をして必死に宥める。動揺がこれ以上声を揺らさないように堪えながら、ゆっくりと声を出した。
「五条くん、ここまで来てくれてありがとう……」
 それが五条くんの求める言葉じゃないことくらい分かってた。でもそれしか言えなかった。
「でも私、……わたし、は、五条くんにそう言ってもらえるような存在じゃないと思う」
 自分で言葉にしているのに、五条くんを拒んでいることと、五条くんを拒んで今までのようにはいられないだろうこれからを思うと当然のように泣けてきてそれを我慢するのが辛かった。
 肩を掴まれる。五条くんが私を真っ直ぐに見る。五条くんが躊躇いもなく私に向ける視線の強さに、大好きと口走りそうになる。
 五条くんが大好き。でもその大好きを思ったときにでも≠ェ心に浮かんだ。大好き、でも私なんかが? って思う。大好き、でも五条くんと付きあうことになったら終わりの日がいつかが来るのかな? 大好き、でも私のことを好きだという五条くんの気持ちは私には見あわない。大好き、でも大好きだから怖いよ。
 そうやって自分のことしか考えられなくて本当に私は好きって言ってもらえるような存在じゃなかった。
 私が首をもう一度横に振ると、五条くんは私にキスをした。動揺に声が出て、開いた口の中に五条くんが舌を入れる。私はそのキスに理性を忘れた。されるがまま受け入れた。縋るみたいに五条くんの衣服を掴むと、五条くんの私の肩を抑える手に力がこもって、それからは互いに夢中になった。キスってこんなに気持ち良いんだなと思った。それしか考えられなくなる。
 五条くんがキスをするのをやめたとき、横向きになっていた体が完全に上を向かされ彼は私を組み伏せた。
「そんな顔してんのになんで俺のこと拒むの?」
 自分がどんな表情をしてるか自覚があった。それでも顔を背けた。怖れに拘泥する気持ちがそうさせた。
「ご、ごめんなさい……」
 五条くんは何も言わずしていたサングラスを外して、ベッドの端に放った。広いベッドは乱暴な動作をされてもサングラスを受け止め落とさなかった。それを見届けたあともう一度重なったくちびるに目を閉じた。
「お前が好きって言わないなら止めない」
 どこか濡れた声が耳にかかり、五条くんの手のひらが私の衣服にかかる。高専の制服以外を指定されていたことで私は私服だったし、五条くんもそうだった。制服を着ていないお休みの五条くんが硝子ちゃんから話を聞いたというシーンを、それからここに来るまでの五条くんの姿を頭の中で想像した。
 私の任務の時間はそもそも早い時間だったけどその予定の時間よりも早まって終わった。時間について書類を見たあの時に覚えていてくれたのかな。五条くんの方がここに先にいるのはもしかしなくても急いで来てくれたのだろうか。どうしてここだって分かったんだろう。ホテルなんかに向かったって知った五条くんを思うとまたどうしようもない恥ずかしさを感じた。
「他のこと考える余裕なんかあんの」
 五条くんのことしか考えてない。私は薄く目を開いた。
 キスの間に衣服が乱され、下着がむき出しになっていた。明かりの下で自分の体が五条くんの前で晒されていることに、耐えがたさを感じて隠そうとすると手を握られた。拒むことは出来ない強さだったけど、力で支配する意志を感じない強さだった。その手に傷つけられると少しも思わなかった。五条くんの手の握り方にすら甘さを感じた。
「もしかして止めてほしくない? そうされたいから黙ってる?」
 額をあわせるようにして、五条くんが冗談めかしてそう聞く。至近距離の五条くんの瞳を見つめ返すと、五条くんは軽いキスを頬にしてから私の胸元に触れて顔をうずめた。
 大好きな五条くんと抱きあって、キスをして、体は簡単に反応していた。自分の体がこんな風に反応するのをそれまで知らなかった。肌がゾクゾクして、感覚が敏感になって、手を置かれるだけで体が何度も跳ねた。
「かわいい」
 吐息の混じったその声に滲む高揚が、五条くんがこの状態になっても保っていた余裕が薄れているのを感じさせて、余計に私の体は駄目になる。その言葉が嬉しくて、恥ずかしくて、苦しくて、ドキドキして、死んじゃいそうで、言わないでと思わず口にすると、五条くんは耳元で「すぐ照れんのもかわいい」ともっと囁いた。
 五条くんの手が私の肌の上をなぞっていく。その触り方は本当に嫌というほど優しくて、触れられているだけで五条くんが私をどう思っているかが伝わった。五条くんの手は大きくて、指が太くて、私のことなんて簡単に壊せる形をしているはずなのに、その手は私を損なわせるための動きをしなかった。
 口を開けば声が出そうで、私はくちびるを噛みしめた。乱暴にされたら私は自分から受け入れただろう。腑に落ちて、納得して、望んで五条くんにしてもらっただろう。でも五条くんはそうはしなかった。この行為には愛情だけしかなかった。だから耐えることになった。
 骨ばった指先が私の最もやわらかい部分に触れて表面を撫でて、私は堪えきれずに声をこぼした。途切れ途切れに言葉にならない声が出て、五条くんの男の人のかたい指が私の手を握るときのことを思い出した。あの手で自分の中を触れられていることを実感する。
 その指に奥を広げられる圧迫感にそれまでと違う声を私が出すと五条くんは動きを止めて、私は途端に「あっ」と思う。面倒だと思わせたと思ったら、怖くなった。
 でも五条くんは私が焦りを滲ませた顔を圧迫感のせいだと思ったのか、口を私の耳によせ「痛くしないから」と安心させるために出されたと分かる声で言った。
 「大丈夫」と五条くんが私に言い聞かせて、気を紛らわせるためにかキスをしてくれる。気持ち良さを与えるための触れ方をしながら指でより奥を広げられて頭がくらくらした。
「キス好き? 俺も」
 キスすると良さそう、五条くんが言う。「俺も」という言葉に誘われて自分からも舌を恐る恐る差し出すと五条くんのキスはもっと熱を帯びた。
 されることにぼうっとしてしまうと足を広げさせられる。五条くんが体の位置を変え、その箇所に口づけたとき体が無意識に跳ねた。目の前の光景も感じている彼の舌も信じられなかった。震えた私の体に構わず、五条くんが舌を動かす。
 私が彼の指と舌で達すると五条くんは顔を上げ満足そうな顔をした。その表情はしていることを想像させないあどけなさすらある表情で、そんな風に笑われるのが大好きといつも思ってしまう顔で、だから胸を強く締め付けられた。
 五条くんは私の体から完全に力が抜けきるまで何度かそうして続けるとやっと動きを止める。息を深く吐いた五条くんが上の衣服を脱いだ。そして自分のベルトに手をかける。思わず目をぎゅっとすると五条くんが吐息で笑ったのが耳に届く。
「俺は名前に全部触ってやりたいけど名前は?」
「……」
 そう言われると迷いが沈黙に滲んで、それが分かったのか五条くんはますます笑った。
「じゃあ今度ね」
 私は思わず完全に目を開け五条くんの顔を直視した。今度があるという彼の言葉に私が驚きを顔に出したのを見た五条くんも驚いた顔をする。それから、五条くんは私をエントランスで見つけたときよりも呆れた顔をした。
「お前を俺のにしたくてこうしてるんだけど分かってる?」
 五条くんが私の上へと体をよせる。顔をじっと見つめられながら、私も彼の顔を見上げた。その整った顔には汗が滲んでいた。
「お前が欲しいからこうしてんだよ。俺がお前を好きようにお前も俺を好きなんだってお前にも言って欲しくてしてんの」
 五条くんが私のこめかみにキスをする。「力抜いて」という五条くんの言葉で、反対に力をこめてしまった私の体と彼の体が重なった。
 それまでとは違う重さに五条くんと繋がっているという実感をしてぎゅうぎゅうと体の奥が反応する。その実感に体が疼いた。たくさん撫でられながら奥までゆっくりと押し進められて泣いているみたいな声が口から漏れる。
 たまらなくなって五条くんの名前をいっぱい呼んだ。私が名前を呼ぶと五条くんは苦しそうに顔を歪めながら笑った。
「ここ、こんなに小さいのに俺の入っていっぱいになってる。俺のためって感じ」
 気づいたときには彼の背中に手をまわしていた。好き。好き好き好き。大好き。そういう気持ちで心がいっぱいになる。その気持ちを言葉に出来ないのに体は五条くんにくっつきたがってくちびるを噛みしめる。
「すっげーかわいい」
 掠れた熱っぽい声が吐息とともに私の首筋を掠めた。その声や吐息や五条くんの体温や体の重さが心だけじゃなくて体まで強く反応させた。
 滲んだ汗で張り付いた髪を五条くんがよけて額にもキスする。抱きしめられているみたいにされていっぱい密着した互いの体が熱い。五条くんがゆっくりと体を動かす。出したことがない声が勝手に出て、私は首を横に振った。こんなのおかしくなる、五条くんじゃなきゃダメになると気づいたときには口にしていた。
 五条くんが笑う。ちょっと怖い笑い方だった。五条くんは私の耳もとで私を好きだと何度も繰り返した。その言葉に浸漬された私はますますおかしくなって、涙が出た。動かされなくても指でなぞられなくても言葉だけで私の体は喜んだ。
「好きって言われるたびに喜んでんのもかわいー」
 重なっている肌から全部が分かっているのか五条くんに甘い声で言われて眩暈がする。
「名前も俺が好きって言って」
 体を満たす常軌を逸した歓びに怖くなって「やだ」とぐずった私に五条くんはそれまでより強く動いた。もうまともな言葉が出てこない私を五条くんが揺さぶる。足の先まで気持ち良さで満ちていて肌のどこを五条くんの体で触れられても気持ち良かったけど、そうして強くのしかかられると五条くんにそうされているということが私をもっと駄目にする。
「こんなになってるくせに俺の事好きじゃないの? 好きだからだろ、誰にでもなるのかよ」
 俺のこと大好きって顔で抱かれてるくせにと続けたその声は怒っていてそれまで優しくしてくれていたことがよく分かっていたからこそドキドキした。五条くんだけ、と思わず呂律のまわらない声で言うとそうだよなと五条くんが嬉しそうにするから私も嬉しくなった。
 何でダメ? と甘えるみたいな声で五条くんが出して尋ねる。髪をその指先で撫でられながら、五条くんに甘えられていることにもともととけて完全になくしかけていた理性の箍が完全に外れ切った。
「こわ、こわい……から……」
「何が? 俺がいて何が怖いの?」
 彼の指が髪を梳き毛先まで行きついて、ゆるく引っ張った。
 おそるおそる五条くんのことが好きだから怖いと小さく口にすると、五条くんはぽかんとしてから「俺が好きすぎるってこと?」と聞いた。
「いいじゃん、俺もお前が好きだよ」
「……うん」 
「なんで同じなのに怖いんだよ」
 五条くんはそう言ってくれたのに、それでも思ったことしか言えなくなっていた私の口は「怖い」と続けた。
 涙や汗で濡れて大変なことになっているだろう頑なな私の顔を見つめてそれでも五条くんは頬を緩め、「べたべた」と顔を引きよせてキスしてくる。五条くんのきらきらした瞳が、涙で滲んでこういうときまでもっときらきらして見えた。
 自分もおかしいことを言っている自覚があるぐちゃぐちゃの私を見て五条くんが愛しそうに目を細めるから、だから、だから、もう。もう。
 私は五条くんの首筋に腕を伸ばして縋った。五条くんの耳に口をよせて、彼が私にしてくれたように「好き」と伝えた。五条くんが大好き、ずっと好き。大好きだから怖くて、でもやっぱり好き。
 五条くんは私のことを抱きしめ返すと「俺もだよ」と言って頭を撫でてくれた。ぬるい涙がまた私の頬をこぼれていった。
「好きなのに、ちゃんと言わなくて、ごめんなさい」
 五条くんは答える代わりに私の口を塞いだ。角度を変えて何度もされて溺れる気持ちになった。
 五条くんの動きがこれまでよりも強引になる。でも乱暴じゃなかった。私が気持ちよくなってしまうのを五条くんが分かるように、私も五条くんがそうであることが分かって幸せだなと思った。
 投げ出していた足を五条くんの腰に絡める。そうするともっと自分の奥まで受け入れることが出来て、その充足感に思わず私も頬が緩んだ。
「何笑ってんの」
 好きだなって思ったから。でもまたキスをしたから言葉にはならなかった。
 五条くんが達するまでに私はまたたくさん高められた。五条くんはその間、私に言い聞かせるみたいに、確かめるみたいに、でも独り言みたいに、何度も「俺のだ」と呟いた。
 五条くんが動きを止めたとき、私は久しぶりに呼吸をした気持ちになった。狭まって五条くん以外は不鮮明だった視界がゆっくりと戻ってまともに見られるようになる。私の体を拘束するような強固さで抱きかかえていた五条くんに終わりにもっときつくきつく抱きしめられてから体を離されたとき、私自身の体そのものが軽くなったような錯覚すらあった。
 五条くんがゴミ箱へと手を伸ばしたあとにぼんやりしたままの私の体を拭く姿を、されるがまま私は見上げていた。たくさんのことが起きすぎて肉体的にも精神的にも茫然としながら、そのときに初めて避妊をされていたことを理解した。処理をしている姿を見すぎていたからか、五条くんが「して欲しくなかった?」と笑った。
「言っとくけど俺はいつそうなってもいいから」
 口調は軽かったが、平時と変わらない声音の本気だと分かる言葉そのものには重さがあって、つい目を丸くなった。五条くんがそれを目撃していたらまた指摘されたかもしれない。
 それから部屋と同じように広い浴槽にお湯を溜めて一緒に入った。五条くんはお風呂の中で私を後ろから抱きかかえながらあの人のことについて話した。
 五条くんいわく、私以外にも行われたことがあり、このホテルもお決まりだったらしい。アイツの家≠ワで行って確認したと五条くんが低く平坦な声で言うので私は肩を揺らした。私の肩にお湯をかけて、撫でた五条くんは額をこちらに押し付けるようにして言った。
「アイツは二度とお前の前に現れないよ。もう終わりだから」
 終わりとはどういう意味なのか分からなかった。私の頭は倦怠感とお風呂の熱さによって全然まわらなくて何を言及すればいいのかも思いつかなかった。
 自分との付きあいをこなす方が将来的に見ても賢いと言われたことを思い出す。その言葉に中身はないことも知っていたけど五条くんとのことを指したまともに恋人になれるはずもないという言葉には今でも道理があるように感じた。でもようやく、それでもいいと思えた。五条くんが私を好きだと言うその声や彼が私を抱きしめる肌の感触を知ってしまったから、引き返せない自覚をした。
 黙り込んだ私の名前を五条くんが呼ぶ。もう私みたいに言うことを聞かせられる人がいなければいいなとも思ったからそれを口にすると五条くんは「自分のことで怒れよ」と言いつつ私の頭をいつものように撫でてくれた。 
 お風呂を上がって髪を乾かしてベッドに戻って、五条くんが冷蔵庫から出したらしい水を飲んだ。窓の外の日はいつの間にか暮れて来ていてその眺望は昼間とはまた違い素晴らしいものだったけど、私は私の体に腕をまわしている五条くんの体温の方に気を取られていた。私をベッドの上でも抱えている五条くんの体温は私より熱くて、五条くんの体温が高いことを以前から知っていてもこうして感じることに改めて感慨を覚えた。
 五条くんはいつの間にか手にしていたルームサービスのメニューが綴じられた冊子を私にも見せた。
「なんか買いに行くか食いに行ってもいいけどどうする?」
 私はルームサービスのメニューではなく五条くんの手に目をやって手と手を重ねた。五条くんが私の手を握ることはあっても逆はなかったからこうするのは初めてかもしれない。この手が私に触れてくれたことが、記憶がはっきりと残っているのに現実味がなくてふわふわしていた。幸せすぎたからかもしれない。
「あれじゃ足りねえ?」
 五条くんが私の顔を覗き込み、明日もこの部屋取ってるから今からずっとしてもいいけどと五条くんがからかうように言う。
 いろんな意味で私はいっぱいいっぱいでめちゃくちゃになっていたけど五条くんに余裕がなかったのは最後くらいだった。五条くんには足りないこともなんとなく分かっていた。いいのかなと思いながらその手を撫でていると彼は私を抱き上げて顔を向きあわせるように横向きに膝に乗せた。
 視線の近さに改めてドキッとしてから、なんとなく自分からキスをした。けど上手くいかなくて頬になった。
 頬に手を伸ばされ額同士をすりよせられる。互いの目しか見つめられない距離で目があって、瞬きと共に自分の目が濡れる感覚がする。
「まだ怖い?」
 五条くんは私の返事を聞く前に私の頭を引きよせて「こっちだろ」とくちびるにキスをした。
「でももう俺のになったから関係ないよな」
 「怖くても離さない」と五条くんは、私の目を見て言い、抱きしめた。
 五条くんの声には荒らげられた感情はないのに絶対的で、それ以外を許さない響きがあって、向けられた中で最も怖い声音で、でも私はそれに心底安心して彼の背中に手をまわした。彼の言葉への答えとして自分に出来る限りの力で彼に縋って、目を瞑る。
 子供みたいに笑う五条くんの顔を、それから、至近距離で見据えることになった見開かれた彼の瞳孔が脳裏に浮かんだ。五条くんはきっと私の想像が届かない怖い人でもあった。抱きあう前とは違う意味でも、五条くんは愛されるには恐ろしい≠ニいうことを思い知っていた。
 だけど私はそれすら含めて五条くんが好きだったから、だからこうして彼と抱きしめあっていられるなら、私はもうそれでいい。

嗜欲の日

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