NOVEL | ナノ

 ある日教室に入ると猫がいた。とても大きな白い猫だった。教室へと足を踏み入れた私に、すでに教室にいた二人からあいさつがされるのを猫に目を奪われながら私も返す。その猫へとふらふらと吸い寄せられるように私は近づいていた。
 猫は五条くんの席にいて、大きさのあまりに椅子から体を持て余していた。その姿を見て席の持ち主みたいだなと思う。窓から差している日の光を吸い込んで輝きを帯びている白く美しい猫は私が急に近寄ってしまったせいかブルーの瞳でこちらをどこか警戒するように見あげていた。
「この猫ちゃんどうしたの?」
「猫っていうかデカい獣みたいではある」
 硝子ちゃんが言った。確かに猫にしてはかなり大きい方かもしれない。最初に目に入った瞬間はもちろん、こうして改めて見つめるとその大きさを感じて驚いたがその大きいところもかわいいなと思う。
 じっと見つめていると目の前の猫が声をあげた。まるで喋っているような鳴き声の大きさと長さに思わず声に出た。
「鳴いてるのもかわいいなあ」
 近づいて、覗き込む。思わずその猫に手を伸ばしてしまった。猫は緊張したようにかたまっている。怖がらせないように様子を見ながら出来るだけそっと手を伸ばした。
「ごめんね、怖かったかな……?」
 優しい力で見た目以上にふわふわとした毛並みを撫でてみる。余計に猫はかたまってしまった。少しそうしていると「にゃっ」と一鳴きした猫が嫌がるようなそぶりを見せたので名残惜しさを感じながら手を戻す。
 顔をあげると、二人は呆然とした様子でこちらを見ていた。椅子を奪われている五条くんの姿はそこにはいまだない。
 さっきまで笑っていた夏油くんも顔から笑みを消していた。硝子ちゃんは椅子の上に座ったまま私から距離をとろうとしているようにも見える猫を指さした。
「ソレ=A何に見えてるわけ?」
 目の前に見えるものを素直に答えた私は硝子ちゃんに手を引かれながら保健室へと向かうことになった。保健室には昨日の任務の後にすでにお世話になっていたので逆戻りだ。そしてそこで昨日の任務での呪霊の呪力に影響を受けていることが発覚した。
 顔を出した夜蛾先生と硝子ちゃんは保健室で私にたくさんの質問をしてから顔を合わせると催眠に近い症状だという話をしてくれた。おかしいところがあるという自覚がないので私自身はつい平気だと思ってしまうけど、でも二人が言うならそうなのだろう。硝子ちゃんはおかしくなっている自覚が出来ないこと自体がその症状の一つのようだと言った。
 している錯覚が間違いだと突き付けられすぎると余計な影響が出るかもしれないとも言われた。私の脳に残っているらしい呪力自体は薄く、すでに祓われていることもあっていくらかすれば呪力は消え、認識も戻るだろうとのことだ。しばらくは様子を見た方がいいがそこまで構えなくていいとのことで、ほっとする。その間はみんなとはいつも以上に(私が術師志望ではないためもともと別れていることも多かった)授業や任務を別れて受けることになった。
 二人や、そしてお見舞いに来てくれた夏油くんの様子からすると今の私はかなりおかしいらしい。
「そんなに変になってる?」
「正直ちょっと面白い。強い後遺症が出るようなものじゃないから言えることだけど」
 硝子ちゃんに聞くとそう返ってきて、今の私がどうなっているのか自覚出来ないだけ戻って判明するのから逃げたい気持ちにもなった。
 他の人とは何かしらで顔を合わせたが五条くんは大きな任務についているそうで彼だけはあの日から姿を見ることがなくなっていた。代わりにあの大きな猫を寮内や校内で姿を見かける。猫はほとんどの場合、目と目が合った瞬間にその場から姿を消してしまうけど、時々、短い間だけ私の傍に寄って来てくれることがあった。
 高専内で姿を見るようになったあの猫は誰かが飼っているのだろうか? と聞くと、硝子ちゃんが「高専で飼ってるようなもん」と答えた。撫でたことがあるか? と聞くと、夏油くんは「私はいいかな」と答えた。
「遠くから見てもかわいいよね」
 思わず声に陶酔した響きが混じる。指がうずまるあのふわふわの毛並みが記憶にはっきりと残っていた。
 私のセリフが間の抜けた響きを帯びていたからか私の隣に座っていた夏油くんが浮かべた表情を誤魔化すように口元に手をやっている。
「あんなに大きいと抱っこしたら重いのかな。撫でてたときも緊張してたから抱っこは嫌がるかなあ」
「機会があったらしてやれば? 喜ぶだろ」
「硝子」
 夏油くんが制するように硝子ちゃんの名前を呼んだが、その声にはついに笑いが滲んでいた。そんなにおかしかっただろうか?
元々猫は人並みに好きだったけどあの猫と出会ったときからずっとその存在が頭から離れなかった。時々私に近づいてこちらを見つめるあの青い目も、白い毛並みも目にするだけで幸せな気持ちになる。そんな例の猫を夜に初めて見かけたのは、見かけるようになって少なからず経った後だ。
 寮の共有スペースの廊下にその猫が歩いていたのを見つけたとき私は思わず駆け寄っていた。猫はいつも私が駆け寄るとぎょっとしたような反応をしていたが、最近は慣れたように足を止めてくれた。
「猫ちゃんだ、こんばんは。久しぶりだね」
「……」
 猫はあのブルーの瞳でじっと私を見ている。
「猫ちゃんはいつもどこで寝てるの?」
 猫は鳴いて答えた。お返事をしてくれるような鳴き声が可愛くて「かわいいね」と思わず声に出すと、猫はそれっきり鳴いてくれなくなってしまった。毛並みに廊下の照明の光が反射して輝いている。やわらかそうな毛並みを直接目の当たりにすると手が疼くような気持ちになった。
「いつも眠っている場所があるのかな? 今日は私の部屋に来ない?」
 私がここから離れたら向かいたい場所に向かうのだろうか? この猫がどこで夜を過ごしているのかは知らなかったが、これまでの様子を見ていると決まった場所があるのかもしれない。だけど聞いてしまった。猫は返事に困っているというように私を見たまま固まった。
「抱っこしていい?」
 猫にそっと手を伸ばす。本当に大きな猫なので抱えるのはちょっと一苦労かもしれない。でもこの前撫でていたときに緊張していた様子だったから出来るだけ優しく抱きしめてあげたい。そんなことを考えているとその猫は私が抱える前にまるで場所が分かっているように私の部屋の方へと歩き出して、どこか呆れたような声で鳴いた。
 部屋に辿りつき、猫の手足を拭いてベッドに下ろした。私にされるがままの猫はまさに借りてきたように静かにしている。
「ご飯は食べた? 」
 誰が食事の管理をしているんだろう? 少し考えてからちょっと待っててねと声をかけて部屋にあった林檎を剥き、小さく切って皿に出した。皿を手に戻ってくると猫ちゃんは変わらずベッドの上で待っていてくれて思わず「待っていられていい子だね」と頭をそっと撫でてしまった。大人しくていい子なのはもちろんだけど撫でたくて撫でてしまったようなものだった。
 手を拭いてから小さく切った林檎の欠片をそっと猫の口元に差し出す。嫌がる様子を見せたらやめて置こうと思ったが少しの間を置いて口を開いてくれたので、すべてをそうして食べてもらった。猫が食べられる果物とは言え少量のみを出したが(食事を用意しているであろう誰かがいて、その誰かの許可も取らずに余計に食べさせるのも気が引けた)口を動かしてシャクシャクと静かに咀嚼している姿はずっとこうして手ずから食べさせてあげたくなるかわいさだった。
 すでにシャワーも浴びて着替えているので私もベッドに入る。猫は一緒にベッドに入ると狭さを感じたがくっつけて嬉しかった。
「猫ちゃんは大きいね、メインクーンとかなのかな?」
 あんまり詳しく知らなくてごめんねとベッドに一緒に横になりながらその毛並みを撫でる。近くで見ると改めて毛並みの良さを感じる。手をかけられているのがよく分かった。愛されているのだろう。猫の毛並みはほとんど乾かされていたがまだかすかにしっとりしていた。
「夏油くんが言ってたんだけど毎日お風呂に入れられてるって本当なんだね。こんなに綺麗だ」
 猫はそこでかなり不服そうに鳴いた。
 しばらくそうしてふわふわの毛並みを撫でていると喉を鳴らす音が聞こえてきて、思わずその喉を撫でる。
「喉鳴ってる……。かわいい……」
 そう言うと猫は、撫でていた私の手を手を出して拒んだ。拒むために伸ばされた手を取って指でそうっと肉球を確かめる。
 手の中にある猫の手の感触に私の欲望が心に兆して、気づいたときには私は猫の胸元に顔をよせていた。猫は一瞬の沈黙を置いて弱くにゃあと鳴いた。
 慌ててすぐに体を離す。これ以上怖がらせないように宥めるようにそっと背中を撫でた。
「ごめんね、急にされたら怖かったね。大丈夫だよ。怖くない、怖くないよ」
 ゆっくり体を寄せて小さい声で囁きながら背中を撫でていると猫はもうされるがままでいてくれた。
 堪らなくなって、猫の額にキスをして優しく抱きしめた。出来るだけ力を入れすぎないように全身で抱きしめると毛並みの下のしっかりとした体の輪郭が伝わってくる。大きな体はあたたかかった。そうしていると人間より早い猫の鼓動まで感じられて「命」が腕の中にある感覚に私は思わず頬ずりした。
「本当にかわいい」
 猫が強くみじろぎをする。ふわふわの毛並みが頬や首筋にぶつかってくすぐったい。
 声も動作もかわいすぎて強く抱きしめてしまいたくなるけどこれ以上強引なことをして本気で嫌がられたくなくて我慢する。
「もう乱暴なことしないから、嫌わないでね……」
 猫の耳がピクリと動く。すると頭をこちらの体に押し付けられた。猫の方からこちらに触れてくれたことが嬉しくてドキドキしてしまう。凄く嬉しくて、嬉しさを伝えたくて、そうっとそうっとその頭や首元を撫でてあげる。
「いいよって言ってくれてる? 君はやさしいね。いい子だなあ」
 こちらに向けられているお腹に手を伸ばす。太くてふさふさなしっぽがゆっくりと揺れているのを確かめて、そのまま撫でた。抱きしめたときも感じたけど猫の肉体のしなやかさが伝わってくる。筋肉質な子なのかもしれない。
 猫はしばらくそうして撫でられていると、急に起き上がって腕を私の上に置いて乗りかかるようにした。全部の体が乗っているわけではないのに猫のサイズと比例するような重さを感じて、猫より大きなネコ科の獣をなんとなく想像する。抱きしめているときもどちらかというと私が抱きついていると言ってもよかった。
 猫は私をじっと見ていた。ブルーの瞳は空にも見えたし海にも見える。綺麗な瞳の中にある瞳孔が動くのをぼんやりと見つめながら、私は猫の頬に手を伸ばして、口を開いた。
「猫ちゃん、五条くんに似てる」
 毛並みも目も同じ色で綺麗だね。そう続けながら、私は五条くんの目をこんなに至近距離で、真正面から、見たことなんてなかったけどもしこうやって見つめたらこんな風に綺麗なのかもしれないと思う。私は五条くんに好かれてはいないので、それが五条くんに許される日が来ることはきっとなかった。
「猫ちゃんが五条くんだったら私とこんな風に一緒にはいてくれないかな」
 五条くんは私以外の人間の前では雄弁だったけど、私の前では驚くほど無口だった。時々そのギャップを目の当たりにさせられるとびっくりすると同時に私と話すことはないと突き付けられている気持ちになった。
 猫が姿を現した日に入れ替わるように任務に旅立った五条くんはまだ帰ってきていない。帰って来ても彼は私とは話さないので変わりないと言えばそうかもしれない。
「どうしてるかな? 五条くんなら大丈夫だとは思うけど……」
 今頃任務をこなしているはずの五条くんは、こうして彼のことを考える私と違い、私のことなど任務がなくても頭にないだろう。私の心配はきっと必要ともされていないがそれでもここまで長い期間だと心配をせずにはいられなかった。
「強いと大変だ。なんて、嫌ってる私に思われる方が嫌かな」
 本人には言えないことを言葉として口にしてから恥ずかしくなった。自分で考えておいてさざなみが起こる自分の胸の中の気持ちを誤魔化すように、猫の頬に伸ばしていた手を首へとまわして自分の上に引き寄せる。そして顔を近づけ鼻と鼻とをくっつけた。
「あはは、ちゅーしちゃった」
 猫の首筋を撫でながら今度は反対の首筋に顔をうずめてキスする。そして重くてあたたかい猫の体に縋りついた。
「いい子、いい子。かわいくていい子……」
 そのかわいい耳もとで囁くと猫の体が震えたのが分かった。ふわふわの太いしっぽがパタパタと動き私の足を撫でてくすぐる。それがさっきよりくすぐったくて顔を首筋に寄せなおして顔をうずめたまま思わずふふと笑い声が出た。
「ずっとこうしていたいな」
 思わず言葉にすると猫は自分から私の顔に顔を近づける。口と口がくっつきかけ、その寸前でまるで迷うような動きを見せた猫はその横の頬にキスをした。私はそれをすべて目を開けて見ていた。
私の肌を撫でてくすぐる毛並みにまた声が漏れる。嬉しさとその感触にさっきよりくすくす笑う。
 そして、今度はこちらに完全に体を預けてくる猫の体を抱きしめ直した。
「私が眠るまで一緒にいてくれる?」
 猫は返事をしない。代わりに、しっぽが変わらないリズムで私を優しく叩いている。その感触から離れてしまうということに耐えがたさを感じながら「電気を消してくるね」と声をかけベッドの間接照明だけを残して消してすぐにベッドに戻った。
「待っててくれてありがとう」
 そう伝えてから猫の隣にもぐりこむ。
「眠るまでって言ったけどいつでも自分の場所に戻ってもいいからね。今日はたくさんぎゅってさせてくれてありがとう」
 もう一度猫の体を引き寄せて撫でた。こちらを見ている瞳は光量を絞られた照明に照らされ光を帯びている。私は猫の体を撫でながら眠りについた。

 俺を見かけた瞬間に駆け寄ってくるその姿に足を止めたのはあまりにも必死に走って来ていたからだ。俺の元までやってきた名前は俺がその場で足を止めて待っていたのを見て肩を微かに上下させながら嬉しそうに目を細める。
 こんな風にこちらの姿を見た瞬間に自分から駆け寄ってくるのも、目が合うだけで表情を輝かせるのも、嬉しそうに遠くから手を振る姿も、向けられるのは初めてだった。そのたびに居ても立っても居られないような、暴れたくなるような気持ちを抱いては押し殺した。
「猫ちゃんだ、こんばんは。久しぶりだね」
 すでに表情を緩めている名前は、そう言って俺の顔を覗き込む。本来の名前ならありえない距離感だ。名前が俺にこんな顔をすることはない。
 返事をしないままいまだ名前を縛っている呪力をこれまでしてきたように確認した。日が経つことにより呪力は薄まり、消えかかっているがいまだ残っている。
 力≠ナ終わることなら俺は名前の状態を目にした瞬間に手を伸ばしていた気がする。でもそれで解決する話じゃなかったから、可能なことは名前の状態や出ている影響を確認することくらいだった。そのたびにさっさと消え失せろよとその呪力に強く思って、酷く気に入らないのに戻ったら*シ前は俺にこんな風に笑うことはなくなるだろうということが頭をよぎると理由もなく嫌な気持ちになる。
 傍にいるだけで嬉しそうにする名前が尋ねてくる質問に思わず返事をしてから、返ってきた「かわいいね」という答えに閉口した。姿と同じように俺が何を言っても猫の声に変換されて聞こえるらしい名前と会話をすることは不可能だと初日に気づかされて反応するのを止めたが、気を抜いて返事をすると名前はいつも「かわいいね」と言った。
「今日は私の部屋に来ない?」
 さっき以上に閉口せざるを得ない言葉に思考が止まって黙りこむと、名前はさらに続けた。
「抱っこしていい?」
 手を伸ばされる。どうやってお前が俺を抱っこ≠キるんだよ。呆れた気持ちになりながら本当に抱きかかえて運ぼうとする前に、俺は名前と共に部屋まで向かった。
 それまで先導していた俺が部屋の前で足を止めると名前はこちらを見てにっこり笑い、俺の手を取って部屋の中へと連れて行った。当然のようにベッドまで手を引いた名前は俺を座らせると、自分も隣に座ってあたたかく濡らしたタオルで俺の手を拭いた。それからすぐにベッドから下りて林檎を切って戻ってくる。返事をしない俺の面倒を見ながら名前はくるくると忙しなく動いた。
「待っていられていい子だね」
 頭を撫でられ、当たり前のように口元に差し出された林檎を口にしながらマジで猫扱いだなと思った。傍から見たら馬鹿みたいなままごとだった。それでも拒まなかったのは、呪力に支配された名前の前で、名前が錯覚している俺がする行動がどんな影響を及ぼすのかは誰にも分からないことだったからだ。それに嫌なわけでも、なかった。
 当たり前のように俺をベッドの中に入れて名前は一緒に横になる。そもそも二人で入ることを想定していないだろう名前のベッドは俺まで入ると隙間もないほど狭かったが、名前は俺に嬉しそうに擦り寄って俺の髪を撫でた。いつもは絶対に見せない表情で、名前は躊躇いもなく俺に触れる。その様子に複雑になりながら、受け入れる。
「喉鳴ってる……。かわいい……」
 喉なんか鳴ってないしそもそも何が可愛いんだよ。突如かけられた言葉に対して不服の言葉が喉まで出かかった。
 言葉を飲み込んで名前の手を掴んで離すとそのまま手を握られた。名前の手が俺の手のひらの感触を確認するように撫でてくる。指が俺の手をなぞる感覚に耐えがたさのようなものを感じて、今すぐに突き放してしまいたい衝動とずっとそうさせていたいという欲求が重なったその時、名前はあろうことか俺を抱きしめて胸元に顔をうずめてきた。
 薄くて頼りない、両腕におさまる簡単に折れそうな体の存在感に首の後ろ辺りがそれまで以上にざわついて、自分のものとは思えない声が口からこぼれた。
「やめろって……」
 その瞬間に、名前はすぐに体を離した。名前が瞬く間に自分の腕からすり抜けたことに声を出したことを思わず後悔した。しなければ失わなかった≠ニ思った。喪失すら感じた。
 でも名前は体を離したのと同じくらいあっさりとまた俺の体に触れた。なんのために強張ったのか分からない体を撫でてくる。
「ごめんね、急にされたら怖かったね」
 別に何も怖くない。反射的にそう思ったが、何故かその言葉で名前に近づかれたり、名前が俺の傍で笑っているとざわつく感覚を思い出した。
 どうやって名前が俺を脅かすんだよ。頭ではそう思うのに、自分が抱く得体の知れない感覚が怖れに似ているとその時に気づいてしまった。
「大丈夫だよ。怖くない、怖くないよ」
 自分が抱いていた感覚が怖れに似ていると自覚させられて、その上でそうして恐れた名前に囁かれながら背中を撫でられ続けているとおかしくなりそうだった。それなのに強張っていた体は名前に撫でられていると力が抜けた。自分の状態を気持ち悪くすら感じるのに拒めない。
 名前が俺をまっすぐに見つめる。名前は俺の顔に顔を近づけて額に口づけるとその体の全身で、でも大して力を入れなくたって引き離せる力で俺を抱きしめた。
「本当にかわいい」
 額に残る感触に呆然としているところに頬ずりされて、口角が引き攣った。名前は俺の顔を見てはいなかったが咄嗟に自分の口を手で隠す。見せられるはずがないと思った。
「もう乱暴なことしないから、嫌わないでね……」
 名前の言動によって揺れていた頭の中がその声の弱さに一気に冷えた。声のか細さに、乱暴なことなんてしてないだろ、そもそも名前に乱暴されたところで俺がどうにかなるわけないと否定したくなる。そう思ってもいつもそうであるように言葉は(そもそもなっても伝わらなかっただろうが)声になることはなかった。
 かなり迷ってから、頭を名前の肩に押し付けた。すると名前はこちらの髪をまた撫でて、今度はその手が首筋へと降りて行った。
「君はやさしいね。いい子だなあ」
 どこかうっとりした響きを帯びた、甘すぎる声に奥歯を噛みしめる。強い我慢をしている自覚があるのに、自分が今何を我慢させられているのか異常な動きをしていることだけを自覚している頭では理解が出来ない。
 名前の手が、しばらく撫でていた首筋から腹の方へとゆっくりと下がっていく。その手が動きを止めて、こちらの気配を伺っているのが分かるが動けなかった。拒んでいないと受け取ったのか名前が腹を撫でて来る。あやすようなその手の動きは名前にその意図は最初から一つもないと知っていても生々しい感覚として響いた。
 気づいたときには名前を押し倒して上になっていた。突然そうされた名前は自分が置かれている状況から逃げることもせず、されるがまま、俺の目を見つめている。
 拒む様子すらない名前は俺に手を伸ばした。
「猫ちゃんは五条くんに似てるね」
 名前の口から出てきた名前に衝動に突き動かされかけていた体が止まる。言葉は続けられて、どうやら見た目が似ていると言いたいらしかった。名前にどう見えているのかは知らないがこれまでの言動からしても遠い存在へと錯覚をさせているくせに本来の要素も反映させているのかもしれない。
「でも猫ちゃんが五条くんだったら私とこんな風に一緒にはいてくれないかな」
 自分の言葉を疑いようもなく信じている目の前の女に今すぐに現実の光景を見せてやりたくなった。
「どうしてるかな? 五条くんなら大丈夫だとは思うけど……」
 その言葉に滲む「嫌わないでね」と言った時と近しい弱弱しさに、俺を見て浮かべる名前のいつもの困った顔を思い出す。実際に現実を見せた時、眉を下げきった見慣れたあの表情や俺から気まずげにすぐに逸らされる視線が現れるのかと思うと、今この瞬間に、いっそ取り繕うための表情すら浮かべられないようにしてやりたくなった。
「強いと大変だ。なんて、嫌ってる私に思われる方が嫌かな」
 そんな声でそんなことを言われる方がよほど嫌だった。そもそも嫌だなんて言ったことないだろ。思ったこともない。弁解染みた言葉が訳も分からない焦りと共に浮かんでくる。
 睨みつけるみたいに見つめることしか出来なかった俺の首に、名前が手を伸ばす。名前は自分の上へと俺の体をもっと引き寄せると顔を近づけ鼻と鼻とをくっつけた。
「あはは、ちゅーしちゃった」
 照れくさそうな声に自分の中に重く沈めていた、どうにかしたいのに対処も出来なくなっていた感情が破裂する錯覚を抱いた。胸の奥から喉まで詰まっている気すらして無性に苦しい。その感覚を誤魔化すように、届かないと分かっていても「さっきも勝手にしただろ」と言葉を絞り出そうとした俺の首を名前がまた撫で、首筋にまで口を押し付けてくる。名前はさっきよりも強い力で俺に縋りついた。
「いい子、いい子。かわいくていい子……」
 甘くてぬるい声を耳に吹き込まれて、意図せず体が震えた。俺がどんな気持ちになっているのかも知らない名前の笑い声が首筋を撫でる。
「ずっとこうしていたいな」
 馬鹿みたいに無邪気に微笑んで名前に言われて、俺もそう思っていることをその時に心から認めてしまった。だからもういいだろと思った。そうしてぎりぎりまで顔を寄せて名前の頭を今もなお支配している呪力をその眼で目の当たりにさせられることになる。名前にはいまだあの呪力が荊のように絡みついている。
 名前に触れたとして、名前の中では今の認識に即した事実の改変が行われることが今までの様子から想像がついた。何をされても名前は自分がされていることを理解出来せずに、されるがままだろう。
 猫に抱かれると思うはずもない。じゃれているとでも認識して、でも名前は笑って俺を受け入れる。そんな光景が頭に浮かび、それで何が悪い? と思った。
 名前が浮かべている俺≠受け入れているように見える微笑みに、結局名前の口ではなくすぐ横にキスをして、それで終わりにした。何をされかけたかすら分かっていない名前はむずがゆそうに身をよじり、嬉しそうに笑い声をあげる。行き場のない気持ちを誤魔化すように名前の体に完全に体を預けてきつく抱きしめた。苦しいだろ、少しはそう思って欲しいと思ったのに名前はむしろ嬉しそうにくっついてくる。
「私が眠るまで一緒にいてくれる?」
 ずっと嬉しそうにしている名前の様子に、こっちが滅茶苦茶にされているのに平気そうなところが許せない気持ちと、その姿を見ていると何かが堪らなくなる気持ちと、目を逸らしたくなる気持ちと、すべてが相反して胸に満ちていた。返事はしなかったけど名前はやっぱり機嫌が良さそうに笑ったまま「分かっている」というように電気を消しに行く。
「待っててくれてありがとう」
 隣に戻って来る名前は俺の体に寄り添いながら、撫でてくる。
「眠るまでって言ったけどいつでも自分の場所に戻ってもいいからね。今日はたくさんぎゅってさせてくれてありがとう」
 今更戻ってもいいなんて言うなよと噛みついてやりたくなった。お前がこの部屋に手を引いて招き入れたくせに。
 俺を撫でていた手の動きはしだいに動きが遅くなり、名前は眠りに落ちる。それを見届けながら名前の体を抱きしめ直した。名前を抱いたまま頬に触れるがそうしてしばらく触れていても起きる様子はない。眠っているのに青褪めている頬に手の甲で触れ、額にかかる髪を払う。
 名前本人の呪力が強くないせいで余計にこの呪力を拒み切れずにいる。影響が出ない程度を考えながら接しているところから自分の呪力で名前に包んだ。意識しなければ認識出来ないスピードだったが、それでも名前を支配していた呪力が俺の呪力に明確に塗りつぶされていく。手ごたえを感じたことにほっとした。様子を見るのに留めずにさっさとこうすればよかったかもしれない。
 そうして名前に触れているとやわらかい髪が俺の手にかかる。その感覚に指を絡めた。眠ったままの名前が目を強く瞑ったまま俺の手にすり寄ってくる。名前の方がよほど猫みたいだった。
 考えてから、名前の頭を撫でてやった。名前の表情が眠っているくせに嬉しそうに緩む。その顔を見下ろしながら俺にしきりに「かわいい」と囁いた名前の声が脳裏に甦った。
 表情だけでなく、手に触れている髪の感触や伝わってくる体温もその薄くてやわらかい体も、名前のすべてを感じながら思う。
「どっちがだよ」

 隣にいてくれた猫の体温と呼吸を感じに安眠出来た気がする。目覚めたとき、体は軽かった。だけど私の体の上には何かが乗っていて、その重みを物理的に感じていた。
 眼をこすりながらあの猫がまだいてくれたのだろうか? と思う。でもなんだか感触が違う気がして自然と私は目を開いた。私の上には人の腕が乗っていた。息を呑み顔をあげると、いるはずのない五条くんと目が合った。
 彼の背後にあるカーテンの隙間から朝日がこぼれているのが見える。自分の置かれている状況が全く理解できず視線を戻して恐る恐る五条くんの顔を見あげた。
「……」
「……」
 五条くんの表情はいつもより険しく、でもどこか眠そうな顔だった。私は五条くんの瞳をその距離で見つめながら、昨夜あんなことを思ったのにすぐにこんな風に見つめるとは思わなかったなと逃避のように思った。
 思わず目を逸らし、自分の上にあるのが猫ではなく五条くんのこちらを抱く腕だったことを改めて視界に入れて理解する。五条くんがここにいる理由も何故こんな風に抱きしめられているのか、その腕にどう反応すればいいのかも分からない。置かれた状況に頭がいっぱいになっていたがハッとして部屋中を見回して猫の姿を探す。
 体を起こしかけるが、そうしようとした私を、五条くんがはっきりとした意志を持って抱き寄せてベッドへと戻した。
「ね、猫ちゃん」
「いねーよ」
 それは五条くんがこの部屋に来たときにはもういなかったということだろうか? 昨日帰って来たの? 私の部屋に五条くんが来たときに猫を見てないってこと? どうしてここに? 頭の中が疑問符でいっぱいになる。
 五条くんは私の手をとると自分の頭へと引き寄せた。そして生まれて初めて彼の髪に触れる。その感触に酷く心がざわついた。
「撫でねえの」
 こちらを見据えてそう言う五条くんに私の手は考えるより先に動く。私の手は彼の髪を撫で、自然と彼の首筋にまで降りた。
 無意識に彼の体を撫でた自分にびっくりして指先が震える。おずおずと手を離そうとすると、彼は私の手を自分の首筋に置かせたままその上に自らの手を重ねて制した。頭の中に昨夜の記憶が今目の前で起こったかのように蘇り、私に撫でられるあの猫の姿が目の前にいる彼の姿に重なった。
「猫ちゃん?」
 不思議なほどの確信が私の中に満ちていた。それこそ目が覚めたような気持ちになった。頭の中で点と点が繋がり、そして自分があの猫にしていた言動が思い起こされ言葉を失った。私は目の前にいる彼を散々猫として扱って、部屋にまで連れて来てしまった。
 とんでもないことをした自覚に一気に血の気が引く。顔を見られず、彼の胸元に視線を下ろした。五条くんは私と同じように制服ではなく私服を着ている。五条くんもまた自分の部屋に戻って眠るところで、そんな彼をこの部屋に引っ張ってきてしまったんだなということに気づいた。
「五条くん、ごめんなさい」
 本当は横になったまま言う言葉じゃない気がしたけど、さっき引き留めるようにして伸ばされている腕の力はきつく、起きることは出来そうになかった。
 これが五条くんでなかったら照れの方が強かったかもしれない。でも嫌っている私≠ノそんなことをされた五条くんの反応を想像するとぞっとした。これ以上触れていることにも躊躇いを覚えて手を彼の手の中から先ほどより強く引き抜こうとすると、五条くんは何故か私の手をそれよりも強く握りしめる。
「五条くん」
 弱り切った声がつい口からこぼれる。離して欲しいと私が言うのは違う気がして、言えなかった。だって五条くんもきっと私にそう言っただろうし、私はそれに応えなかっただろうから。
 でも五条くんの手は私が彼の名前をそんな風に呼んだ瞬間に緩んだ。私が五条くんの手から自分の手を離し彼の腕からも抜け出そうと体の距離をとろうとしたとき、五条くんはぎょっとするような早さと力で私の体をベッドの上に押し倒した。
 今度は左の手首を強く掴み直されベッドに押し付けられる。五条くんは私に顔を寄せた。そして吐き捨てるように言う。
「散々触ってただろ。俺だって分かったら触りたくなくなんの」
 五条くんに触れることではなく、五条くんに触れて拒まれるのが怖くて、想像するだけで傷つきそうになるだけだ。でもそれを彼に疎まれないように伝えるのは難しく思えた。
 五条くんの顔を見あげ、恐る恐る目を合わせる。私といるときの五条くんの態度を自覚するようになってからそんな風に意識して目を合わせたのは初めてだった。
 そして目にした眉をしかめている五条くんの表情は私が想像した嫌そうな表情ではなく、むしろどこか悄然としているようでまるで拗ねているみたいで、それまで自分から五条くんと体を離そうとしたのに、気づいたときには掴まれていない方の手を彼の頬に伸ばしていた。私の意識を置き去りにして、私の体は昨日までの錯覚でとっていた距離から抜け出せていないみたいだった。
 五条くんの顔を見つめながら私は、頬に伸ばした手で、今度は自分の意志で、撫でた。恐る恐る彼に触れた私の動きを、五条くんは嫌がらなかった。 
錯覚が間違いだと突き付けられすぎると余計な影響が出るかもしれない≠ニ話されていたことを恐らく五条くんも聞き及んでいたはずだ。だから五条くんは私にされるがままでいてくれたのだろう。五条くんは私と多くを話そうとはしなかったけど、彼の前で私が危なくなると必ず手を貸してくれたから。きっとそのときと同じだ。だから私は、五条くんが私のことを好きではなくても、会話をしてくれなくなっても、五条くんが特別だった。だから五条くんにもっと嫌われたくなかった。
「……迷惑かけちゃって、ごめんね」
 今度は彼と視線を合わせて伝えた。五条くんは何も言わずに私の体に顔を寄せた。首筋に顔をうずめられる。突然の五条くんの行動に思わず小さな悲鳴を噛み殺し損ねた。彼の髪が肌にあたる感覚は猫の毛並みを思い出す。
「別に」
 五条くんの声は小さかったけど、お互いにくっついていたからちゃんと耳に届いた。
 こんなに近いと全身で五条くんを感じて頬が熱くなってくる。動揺している私と違って五条くんは静かに瞼をとじていて、先ほどより眠そうだった。
「もしかして、……寝てない?」
 五条くんが目をあける。じっとこちらを見た後その瞼はすぐにとじてしまった。
「五条くん」
 囁く声で呼ぶと「うん」という返事が返ってくる。それが嬉しくて何度も呼んでしまいそうになって私は唇を噛みしめる。
 一番心地良い位置を探すように彼は体を動かして頭をぐいぐいとこちらに押し付けてくる。その仕草に本当にあの猫が五条くんだったんだと強く感じた。
「こんなにくっつくの、嫌じゃない?」
「昨日ずっとこうだった」
 目を瞑ったまま彼が言う。眠たいからか彼の声はいつもより柔らかくて、だから私は手持ち無沙汰にしていた手をそっと彼の背にまわした。するとますます体重がこちらにかかって確かに大きな獣みたいだと思った。でもやっぱりかわいいなとも思った。
 私の部屋に連れて来られて眠れなかったのかなと思うと可哀そうになって、彼の背中に伸ばした手で昨日したみたいに、でもきっと昨日よりずっと遠慮がちに撫でた。しばらくそうしていると、五条くんは言った。
「……別に、嫌だと思ったことない」
「えっ」
 それが私の猫へと向けた言葉への返事でもあるのかなと気づいたのはその大分後のことだった。その瞬間の私は五条くんにもっと強く抱きしめられていっぱいいっぱいだったから。
 彼の頭を抱きしめるような形から今度は私が五条くんの胸に顔をうずめる形になって、私はもう眠りにつくことなど出来ずずっとそうしていた。彼の背をなんとなく撫でながら、五条くんもまた目を瞑っているだけで眠っていないことを感じていたが、それでも抱き合ったままでいた。私はもう彼を猫だとは認識していないのに、ずっとこうしていたいと昨日とは違う切実さで思ってしまった。
 手を止める。近すぎて視界は五条くんの私服の胸元の生地しか見えなかったけどぼうっとしながら目をあけていた。滑らかな生地の向こうに五条くんの体があって、体温があって、鼓動を感じる。「命」が腕の中にある感覚がやっぱりして、これも昨日と同じだったけどなんとなく切なくなる。五条くんがいなかったのは大きな任務じゃなくて私の錯覚のせいで、でも五条くんが危ない場所にいないこと安心してしまって、迷惑をかけてしまった状況なのにドキドキして、ここにいてくれることに嬉しくなってしまって、どうしようもない気持ちになる。
「五条くん、本当に猫みたい」
 ちゃんと五条くん本人として見えるようになっていたけどまるで甘えているみたいだと思ってしまいそうな動作が猫みたいで、ただ猫を愛するように五条くんを思えなかったくせに、私はいつの間にかそう口にしていた。
 私の声はさっきまでの五条くんの声よりよほど小さかったし声自体がほとんどその上質な生地に吸い込まれてしまった気がしたけど、彼の手に肩を掴まれて体を離され目を合わされたとき、五条くんの耳にも届いてしまったことを知った。怒られるかなと思ったけどあの猫が五条くんだと気づいたときよりは怖くなかった。五条くんが私を抱きしめる仕草が優しいと思ってしまったこともあるかもしれない。でも向き直った彼の顔に表情はなくて目が怖かった。私が反応を起こすより先に五条くんは私の首にもう一度顔を寄せる。そしてそのままキスをした。生まれて初めての感覚に震える。私が震えているのを五条くんは分かっていたと思うけどそれでも何度もそうやってキスした。
 私自身もこうしてキスした覚えがあって、やりかえされているのだと思った。なら我慢するべきなのかもしれない。でも最初はただ触れさせるキスだったのがなんだかどんどん雰囲気が変わっていって、それに伴う感じたこともないゾクゾクした感覚に五条くんに縋る。
 いつの間にか衣服も緩められて首筋から胸元と鎖骨の間まで場所が変わりっていく。うわごとのように名前を呼ぶと彼は動きを止めた。顔をゆっくりと離してから五条くんは息を吐く。
「猫にならちゅー≠キんだろ」
 五条くんは猫じゃない、猫じゃないからドキドキして耐えられない。と思わず気持ちをこめて言葉にすると五条くんは聞いたこともないくらい深いため息をついてから私の胸とお腹のあたりに額をぶつけるように落とした。遠慮のない動きは結構な衝撃で、痛いわけじゃないけど思わず声をあげると五条くんはじっとりした目でこちらを見あげた。でもむしろ五条くんの額の方が痛みを感じていたかもしれない。そう思うとつい五条くんの額を撫でてしまった。
「そんなに可愛い?」
「……かわいい」
 そうっと撫でているとちょっと皮肉っぽく五条くんに聞かれて私は思わずそう答えてしまった。おかしくなってしまった後に私は彼に何度なくかわいいと伝えてしまったけど、それは五条くんを見て言ったものではなかったと彼は分かっていてそんな風に言ったのだ。でも私は今、彼を見て、彼にそう思っていることを伝えてしまった。
 反応が思ってもみなかったのか、五条くんはそっぽを向いてしまった。
「あっそ」
 私は、迷いつつ額に置いていた手を動かして彼の髪を後ろに流すように梳いた。綺麗な髪だなと猫に思ったように思う。違う存在に錯覚させられていたのに感じることは同じなようだった。
 そうしていると、いつの間にか私を見あげていた五条くんと目が合い、思わず頬を緩める。その瞬間に五条くんの目が丸くなった。五条くんが体を起こす。勢いに既視感を覚えながら腕を掴まれ今度こそ′と口がくっついたとき、私は思わず目を瞑った。目の前にいるのが猫ではなくて五条くんだったから、そうした。

思慕する獣

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