だけど、抑え込もうとする理性の存在以上に頭の中に衝動のままに行動すれば怖がられるかもしれないという危惧が浮かぶと自分の歩みは自然とゆっくりになっていた。
あえてゆっくりと近づいていく間中、自分の鼓動は感じたことがないくらいうるさかった。拒まれたら嫌だとか、突如として頭に浮かんでくる考えは他人にそう思ったことは一度もないようなことだったから変な感覚だなと思った。それでもとにかくあの存在≠ﾉ負の感情を抱かれるのが嫌だった。
「なあ」
目の前に立った時、鼓動は変わらずにうるさかったが不自然な動揺が滲まない声が出てほっとした。緊張というものをその時に生まれて初めてした。
声をかけられてこちらを見上げた向こうは目を細めている。その仕草に見えて≠｢ないことが分かって急き立てられるような思いに駆られる。早く俺を見ろ！ 叫びだしそうだった。暴力的な衝動が心にある。だけど口は開かれずに体は黙ったまま横に動いた。体だけが至極自然な言動を保って動いていて、不思議なくらいだった。
「好きな人を待ってるの」という言葉には初めて会って話をする女に言われて受けるはずもない強い衝撃を何故か受けたが、隣に座って話をしているうちに暴力的な衝動は波が引いて、代わりに満ち足りる感覚があった。何を話しても何を話されても嬉しい≠ﾆ思えた。名前を呼ぶとまた初めての感覚で胸が満たされ、その名を口にしたくなった。俺が名前を呼ぶとなまえは静かにほほ笑む。その顔を見ていると余計にいくらでも呼びたくなる。
なまえが急に立ち上がった時、なまえを目にした時のあの暴力的な衝動が瞬間的に湧き上がってきて気づけばその腕を掴んでいた。なまえの顔を夕日が照らしているのを認識した時、初めて進んだ時の長さに気が付いた。
手の中でなまえの骨が軋む感覚がするがなまえは表情を変えなかった。俺が強くなまえを思うようになまえも俺を思っている＝B理屈ではない考えが頭にある。それは正しいはずだと言う心が俺の中にあるが、なまえを見ていると俺だけが求めているみたいで歯がゆかった。
口をついて出た「俺の名前を聞かないのか」という言葉は自分でも馬鹿みたいで嫌だったのに、名前が俺の名前を呼ぶとどうでもよくなった。俺がなまえの名前を呼んでいる時もなまえは同じ感覚なのだと自然と思えた。
なまえとまた会えるのだと思うと形容しがたい熱が体にもたらされたがその後に約束は簡単に反故にされた。恐らく来るつもりがないのだと気づいてしまっても待っていることを止められなかった。待っている間、「来るよ」と言うなまえの顔がずっと頭にあった。 「来る」と嘘をつくくらい俺が嫌だったのか？ 話しているときは嫌そうにしていなかったと思ったけどそうじゃなかった？ 会いたくないのか？ 強引にされるのは怖いかもしれないとらしくもなく迷ったりせずにさっさと連絡先を交換しとけばよかった。そういうことを考えながら正直に言えば傷ついた。怒りに近い感情すら覚えたはずが、再び会いに行った先でなまえを前にすると強引にしたことでなまえがどう思うかがやっぱり気になったし、なまえに自分から触れられるとまた緊張して、でも嬉しかった。悲しそうな声や顔を目にすると姿を現さないなまえに自分が感じたこともどうでもよくなった。なまえの話をした時に傑には『忠告』をされたが、なまえは彼氏がいるわけでもないらしかった。いたとしても俺がすることは変わらなかっただろ。
なまえは甘いものが好きで、食べているとどこ幸せそうに見えた。その顔を見ていると俺も幸せ≠感じたから特別に好きだと思ったこともないものをよく一緒に食べた。一緒に食べられるのが嬉しいとなまえが微笑むといくらでもそうしたくなった。なんでもしてやりたくなったし、なんでも与えてやりたいと思った。なまえが俺と一緒にいても、俺に興味がないんじゃないかと感じるほど何も求めないから余計にそう思うのかもしれない。
なまえと一緒にいると幸せ≠感じた。そこらへんのフィクションの中に存在するような陳腐な表現だったが、それ以外に表現が出来ない。
なまえと一緒にいると、その横顔を目の当たりにするようになった。なまえはここではない場所を時折見ているからだ。でも呼べば俺を見る。だからもっと構いたくなった。
なまえが自分の隣にあることはごく自然なことのように思えて、だからなまえがどこか≠見つめるその瞬間は居ても立ってもいられない気持ちになった。ずっとこちらを向いていて欲しくなった。これも初めての感覚だった。なまえと共にいると感じたこともない衝動が自分を突き動かした。不思議なのはそんな自分に違和感すら感じないことで、しっくり＠ることだ。
「年上で、一緒にいると寂しくなる人？」
その言葉を聞いた時、何故なまえがそんな男を好きなのか全く理解が出来ないと思った。愛するなら、愛されるなら、傍に一緒に居ることが出来て、寂しくさせることがない方が良いに決まっている。自分がそう感じることにデジャブを覚えた。そう、昔にも思ったような。デジャブと同時に悲しさすらあった。そんなことを思った相手も経験もないのに。
そして「好きな人を待っている」という出会ったあの時のなまえの言葉は嘘なんかではなかったのだろうということに思いあたった。俺はなまえに対して一目でおかしくなったけど、なまえだって俺のことが好きなのだということを一緒にいて感じていた。だから俺以外にそんな相手が存在することは間違っているようにも思えた。思えたけどなまえが俺以外に誰かを選んで愛することは何故か納得できることにも感じて、デジャブを感じたときと同じような寂しさもあった。俺の中はめちゃくちゃだった。
「やだって言うなよ。傷つく」
それは考えて出した言葉ではなかった。でもその瞬間になまえは頷いた。なまえの表情に、俺がなまえに少しも傷ついて欲しくはないと思うように、なまえもそうなのだと分かった＝B分かると同時に愛しさでおかしくなりそうになった。おかしくなりそうな気持ちをまぎらわせるようになまえをかき抱いた。
なまえを手にしたとき、こうしたかったと心の底から思った。その瞬間に俺のものにしたというより、やっと自分の手に戻ってきたというような感覚すらあった。それまでに抱くことがあった荒れ狂うような気持ちは嘘だったかのように静かになった。
初めて抱いたときも、緊張よりも（緊張が起こる行為でもなんでもないがなまえといると起こることがないことが簡単に起こったから、そうなるかもしれないと思っていた）感慨の方が大きかった。会えば毎回抱きしめているのに百年ぶりくらいになまえを抱きしめたような気持ちになって（絶対に誰にも言えないしそもそも言う必要もないが）目が熱くなった。ぎょっとして自分の顔に触れた俺を見てなまえは黙ってこちらを抱きしめてこうしていられるのが幸せだと涙で濡れた声で言った。俺もだよと思った。
他人の面倒をみたいと考えたことすらなかったがなまえを見ていると自然に体が動いた。人の世話を焼くというのは初めてすることだったが、しようと思って出来なかったことが一度もないように、一緒にいるうちにどう動けばいいのかがすぐに身についた。世話を焼かれてされるがままのなまえは可愛い。なまえの世話を焼くのも焼かれるのも楽しかった。
なまえが好きな甘いものをずっと一緒に食べていると俺もいつの間にか好きになっていた。俺がマンションを借りるようになってからは特におままごとみたいな生活を送った。時々なまえに凝った料理をつくってやると喜んでいて、それを一緒に食べたのも楽しかったし、一緒にあちこちに、時々遠くに出かけるのも楽しかった。俺はずっとなまえとそうすることを求めていた気がする。
なまえがベッドから抜け出したあの日、俺はそれを一瞬夢の中であると錯覚した。なまえと一緒にいるようになって、なまえを失う夢を時折見るようになっていたから。無意識になまえがいる場所に手を伸ばして、シーツにぬくもりが残ったままであることを確認した瞬間に、それが現実であると認識した。
なまえのスマホも財布も置かれたままな代わりにいつもすぐ近くに履いていく最も出しやすい場所に置かれていたサンダルがなくなっているのを確認して、自分もマンションから外に出た。雨が降る中、濡れた地面になまえは足を滑らせて転ばなかっただろうかということを思った。
なまえがその場所にいることはすぐに分かった。そこにいる≠ﾆ何故か確信していた。なまえは俺が向かった先で、頭を抱えるようにしてベンチに座り込んでいた。なまえの濡れ切った髪を傍に立っている街路灯の光が照らしていた。その姿を見ながら、俺はなまえの元にこうして来てやりたかったのだと唐突に思った。
声をかけるとなまえは弾かれたように顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃになっているその顔になまえが酷く傷ついていることが一目でよく分かった。思わず手を伸ばしたその頬は冷えきっていた。
なまえが感情を昂らせることを俺は見たことがなかった。なまえは激しく怒ることも逆に泣くようなこともない。喜んでいるときも唇を綻ばせて音を立てずに笑っているだけだ。そういうところも好きだったけど、もし俺の為にそんな風に泣いてくれるなら俺はきっと嬉しいのだろう。傷つけたいと思ったことはなかったが、自分のためにそうしてくれるならきっとかわいい≠ﾆ感じるだろうことをその顔を見ながら理解した。
力任せに抱きしめるとなまえの体の脆さと冷えた体温がよく分かった。されるがままの冷たい体はいつもよりもっと弱弱しく感じた。しようと思えば俺はなまえをいくらだって力で好きなように出来る。その絶対的な力の差があっても俺はいつも心をどうしようもなくされている。
「こんな風に雨の中飛び出すくらいにソイツが好き？」
体を離してやると、なまえは俺をぼんやりと見つめてた。「悟くんに似てる」と言う声すらもぼんやりとしていた。
自分の目が見開かれるのを自覚して、同時に笑い声が喉からこぼれる。自分の声ではないように聞こえた。すべてが遠ざかっていく錯覚が起こる。雨音すら聞こえない。なまえしか視界に入らない。
「俺は俺の隣にいないなまえの幸せを願ったりしないよ」
ずっとそう考えていたみたいに口が自然と動いた。俺の中にもう一人の俺がいるみたいで、でも俺自身の心からの言葉だということが、俺には理解出来た。もう二度となまえを離さない。
俺はなまえを離したことなんてないし離すことを考える機会もなかった。そんな話をなまえとしたこともないのに、どうしてそんなふうに思うのか自分でも分からない。でもそう思った。次はもう離すことはないと。
頭に血が昇っていく感覚があって息がし辛かった。抑えきれなくなりそうだった。
「俺が一緒にいられないのになまえの隣にいようとするヤツなんて全員嫌いだ。それが俺に似てるヤツだろうと、俺がもう一人いたとかそういう話でも、……むしろ俺が隣にいるなんてもっと嫌だな」
なまえはまた泣きそうな顔をしながら笑った。そして俺を引き寄せてキスをした。鼻先がぶつかる距離で、冷えた唇が「離さないで」とか細い声で囁くから、胸をかきむしられるような思いにさせられながら「頼まれてももう離さない」と抱きしめて応えた。暴力的な衝動が静まっていく。その感覚には覚えがあった。
手を繋いで一緒に帰った。傘を買うよりも帰る方が早かったから互いに濡れきったまま帰った。エレベーターの中でなまえの細い指がこちらの指を撫でて体をくっつけてきた。なまえの顔を見ると目を細めている。どこか甘えるような仕草にその口を塞いでぐちゃぐちゃにしてやりたくなったが代わりになまえのほっそりとした肩を抱いて耳に口をよせる。
「シャワー浴びたらなまえがドライヤーかけてよ」
また次に置いて行かれる≠謔､なことを想像するとぞっとした。どうすればいいだろうと思う。誰にも奪われないように閉じ込めてしまいたい衝動を強く自覚した。そのくせ声だけは甘えるように囁いてやった。
出会った瞬間に感じたあの暴力的な衝動はただ静かになっているだけでいつだって自分の中にあったのだとなまえに自らキスをされたあの瞬間に気づいていた。気づくことになった衝動の重さを感じながら、なまえに何も気づかせないように、何も知らないふりをして、くすぐったさに小さな声をあげるなまえの頬にキスをした。
二度と離さないと言った俺に頷いたのはなまえで、なまえ自身がそう望んだのを見た瞬間の充足の想いは言葉に出来ない。きっとなまえは俺が感じたものを理解していないだろう。なまえに望まれた瞬間を知っているからこそ奪ったってなまえの意志が伴わなければ意味はないと知っている。それでももはや何があっても自分が彼女を手離すことはないだろうと分かった。二度目は必要ない。
天国はいつも雨
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