NOVEL | ナノ

 彼に愛を向けてもらえる価値が本当に自分にあると思ったことは一度もなかった。私にあるものは彼を好きだった気持ちだけでそんな自分が彼の傍にいることを許されていることをずっと奇跡だとも感じていた。
 彼の隣でと過ごすすべての瞬間に私は幸せを感じたし、彼によって愛情を示されたら嬉しかった。でもそう感じながら彼が次の瞬間には正気に戻ってしまうのではないかとも思っていたから「もう離さない」と言われたときは彼にもらった愛情の中でも特に嬉しかった気がする。
 いつかは夢が覚めるという考えは例え事実だったとしても取るに足らなかった。一緒にいられるなら、せめて一緒にいられるうちは、彼のことだけを考えて彼に好きだと示したかったから。彼のどこか寂しいところにいつも胸をかきむしられながら彼を愛しいと思った。そちらの方がずっと重かった。
 彼のことが大好きだけど、自分が彼の隣にいることが正しいと思ったことなどない。だから、――だから、彼と一緒にはいられない人生を改めてもう一度歩むことになったとき、それは仕方ないように思えた。奇跡に二度目はなくて、あるとしたら夢の中くらいでしか許されない気がしたから。
 なるべくしてなったことで、だから二度目を送る意味はもうどうでも良かった。意味は彼を失ったあとにすべてなくなっている。そうやって生きていくのだろうと思った。その姿を人込みの中でみとめたときにも気持ちは変わらなかった。
 一目で彼だと分かった。彼は周りにどれだけの人がいようともよく目立って、どんな人間だって彼が同じ空間にいたら見つめずにはいられなかった。私は彼を愛していたから特別に目を惹かれている自覚があるが、彼に強い感情を抱いていない今日通り過ぎた他人にとってもその存在による影響力に変わりはないだろう。どこにいてもそうなのだなと思った。
 遠くから見つめることになっても眩しいばかりの、恐らく友人と笑いあっている姿を数秒目にしたあと、私は視線を背けて人込みの中を通り過ぎた。彼が翳りのない笑みを浮かべて生きているということを知ることが出来ただけで満足を覚えた。今の人生に価値を感じたことはなかったけどその光景を目に出来たことには意味はあると思った。もう終わりでもいいとも思った。彼に声をかけられたのはそれからしばらくしてのことだった。
 私はその日ベンチに座っていた。何をするでもなくぼんやりと地面に視線を向けていた。そうしてただ何もせず過ごしていると光が遮られ、私は考えることなく自然と顔を上げていた。目の前に人が立っている。私が座っていることを差し引いても高い身長だ。太陽が逆光になって顔が見えない。
「なあ」
 それでもその声で目の前の存在が誰なのかがすぐに分かった。思わず目を細めた私に、見えていないということが分かったのか彼が体をずらす。そして私の目にはっきりと彼の顔が映し出された。記憶の中よりも若さを感じる彼の上には日による金色の光芒が降り注いでいる。そういう特別が良く似合う人だ。
 サングラスをしていても彼の瞳の色が隙間から見える。彼だけに許された特別な色彩も変わらなかった。
「こんなところになんで一人でいんの?」
 聞き慣れない話し方だったが、彼の声は酷く懐かしかった。黙ったまま顔を見上げている私に、彼は首を傾げる。
「ナンパじゃないつもりなんだけど。さっきからずっと何もしないでここにいるだろ。誰か待ってる?」
「好きな人を待ってるの」
「マジ?」
「嘘だよ」
 私は時々、昔に彼と待ち合わせたように、その思い出に近しい場所で彼を待つことをしていた。来ることはないと分かっていて私は彼を待っていた。つまり思い出に浸るためでもあった。だから待っているのは嘘とも言えるだろう。
 ベンチの隣に彼が腰かける。ベンチの上で開かれる足は相変わらず長かったがその雰囲気は私と同年代のように見えた。彼の容姿が歳を重ねても年相応に見えることを知っていても成人しているようには見えない。私の知っている彼との差異を言葉にすることは難しいのにそれでも感じる顔立ちの幼さは私の目には新鮮に映った。
「名前は?」
 問われて答えると彼は噛みしめるように何度か呟いた。当たり前みたいに彼は私の名前を呼ぶ。その光景が昼間の夢みたいで、切なくなった。
 彼は私にいくつかの質問をして私はそれに答えた。質問の中にはプライベートなものもあったし雑談の延長みたいにとりとめもないものもあった。話の合間に彼が自分のことを話してくれたので質問せずとも私は今の彼は同年代どころか同学年であることも、話の中で何度も名前を出されるような特別に親しい友人がいることも、幸せに過ごしているということもよく知ることが出来た。
 そうしているうちに午後の日が落ちていく。夕陽が私達の座っているベンチやベンチのある公園を染めていく中で私は立ち上がった。そして彼を振り返ろうとした瞬間に腕を掴まれる。私の腕をつかんだ本人を今度はこちらが見つめると、彼もまた立ち上がり一歩踏み出した。
「前に会ったことない?」
「ナンパじゃないって言ったのにナンパだ」
「本気で聞いてんだって」
 青く澄んでいる彼の瞳が夕日によって翳り黒々としている。私は彼の目を見つめたままでいた。すると彼の手に力が込められる。それに合わせて手の骨が軋んだ。
「……俺の名前、聞かねえの」 
 言葉の代わりに視線で促して、彼が自ら口にした名前に「知っている」と心の中で呟いた。私が最も呼んで求めた名前であり、世界で一番大好きな人の名前だ。
「五条くん」
「悟でいい」
「……悟くん?」
「うん」
 迷って、さん≠ナはなくくん≠つけて彼の名前を呼ぶと彼は満足そうに微笑んだ。その笑みがあまりにも可愛くて苦しかった。
 それから彼は笑った顔を少し歪めるようにして口を開き言葉を言いかけ、それを躊躇うようにしてからまたここに来るかを尋ねた。手を掴んだまま私を見つめている彼が「また会いたい」と言葉がなくても視線で訴えかけている。距離の近さが、彼の瞳の感情の迫力を増させていた。熱烈さに負けて意図せずに後退りそうになった。
「来るよ」
 そう言うと彼は真面目な顔で数度頷いた。
「俺もまた来る」
 私はそれに頷き返した。そして私はその場所に二度と訪れなかった。他の場所で待つこともしなくなった。
 過去に縋るよすがの行為をなくすと送っていた学生生活はそれまで以上に引き延ばされるような感覚があった。特にしたいこともない中で流されるように勉強をしていたのをもっと打ち込むようになった。前よりも幅のある進学を考えることが可能になったが以前の記憶があるからというより他にしたいと思うこともないから取り組んでいる姿勢という要因の方が恐らく大きかった。
 そうして変化の起きない日常を送っていた私の元へと彼はあの日のように突然姿を現した。私がよく訪れる図書館の入口に立っていた彼は私を見つけると、そこにいるだけでざわつくように通り過ぎていく周りの人の気配など目に入っていないかのように目の前まで歩いてきた。見つめるというより見下ろされる他には出来ないという距離で、彼は怖い顔をする。
「言うことあるだろ」
「ここにいるのがよく分かったね」
「違ぇよ! ……あの時、ここに来るって言ってただろ」
「そっか」
 そう言えば伝えた気がする。よく覚えていたなと思った。彼が話したことはよく覚えていたが、自分の話したことに自信はなかった。私の反応にため息をついた彼は突き刺さる周りの視線の中、手を引いて私を外に連れ出した。外に一歩出たとたんに差す日の光に思わず空を見上げて手を翳す。そしてまた二人で近くのベンチに座った。
 座った瞬間に彼は私に手を出した。何を求められているのか分からずとりあえず自らの手を乗せると彼は驚いた顔をして、それから眉を寄せたまま私の手を握った。
「手じゃなくてスマホ」
「どうして?」
「連絡先」
 繋がれていない利き手ではない方で鞄からスマホを出す。そしてスマホを操作しようと彼の手の中から利き手を抜こうとすると強い力で握られた。間を置いて手を離されるがその一瞬だけで指に痺れが残った。
 目的の画面を起動して彼に向けて見せると、彼は自らのスマホも出してその画面をいじった。目的を果たした彼が大きなその手で私にスマホを返してくれる。彼の手がモノを持つと相変わらずなんでも玩具みたいなサイズに見えた。
「逃げたら今度も会いに行くから」
「そこまでするの」
「するよ。無理にでも聞いとけばよかったって後悔したから」
 強引な連絡先の交換の仕方をしたのに、彼は私の様子を伺うように私を見つめた。座ってなお体格による差があるのに上目遣いみたいな視線だ。
「怒った? そんな嫌だった? 俺と会うの嫌で来なかった?」
「……待っててくれたの?」
「待ってた」
「ごめんね」
 情けない声が出た。その声を聞いた彼の方が面食らった顔をした。
 待っている#゙のことをそれまで想像出来なかったけど(待つ≠フはいつだって私の役目だった)彼の顔を見ていると待ちぼうけを食らわされている彼の姿がまざまざと頭の中に実感を伴って投影されて、自分がしたことなのに悲しくなった。来てくれる人を待つのは幸せなことだけど来てはくれない人を待つのはどういう気持ちになるかを私もよく知っている。
 彼は表情を緩め「会えたからもういいよ」と、優しくしようとしてくれるのが伝わってくるやわらかい声で私に言った。声に含まれる優しさに目の前が揺れた。座っているのにバランスを崩しそうになったと思ったのにそれは錯覚で私の体は実際に微動だにしていなかったようだ。頭が揺らされるような感覚は私の中だけで完結していた。彼から与えられる声に滲むその優しさを私はよく知っている。
 久しぶりの感覚に「やはり彼なのだ」と心から思った。強く自失するのを感じながらただ目の前にいる彼を見つめる。彼は膝に頬杖をつくようにして視線を逸らした。
「彼氏いんの?」
「いないよ」
「……いるから余計に嫌がられたんじゃないのって傑が言ってた。違う?」
「違う」
「じゃあまた、今度はちゃんと会えるか?」
 私の顔を覗き込む彼の顔立ちはいつだって変わらず完璧そのもので、なのに表情には必死さが滲んでいた。私が知っている彼はそんな様子を見せる記憶がほとんどなかったから不思議に感じた。また腕を掴まれる。ぎょっとするほど熱い手だ。自らの腕に指の痕が残る様子を今から思い描けるほどに強い力だった。
 私はいくらかの逡巡を置いてから今度こそ気持ちを伴って頷いた。「よしっ」と嬉しそうに笑う彼はあの日に公園で見たように可愛かった。その顔に私がまたその期待を裏切ったらどうするんだろうと思った。彼の笑った顔は記憶と重なるのに、その上で感じる今ここにいる彼だけの無邪気さに、裏切りたいわけでも傷つけたいわけでもないのに私に裏切られる姿を何故か想像してしまった。
 その日から彼との交流が始まった。彼はよく私に連絡したし会いに来てくれた。接するうちに彼に常識を否定する特異な力を持つ背景はなく(そう言うには彼の持つ来歴は少し聞いているだけで燦たるものだったけど)一般的≠ネ学生だということがよく分かった。
 彼は以前と変わらずに愛されて育っていて、なんでも持っていてなんでも出来て、周りに人もいて、本人の性格も変わっていないように見える。でももう彼は特別に危ない場所に向かわなきゃいけない立場にはないのだということを実感するたびに私は全身から力が抜けて立っていられなくなるような感覚を覚えた。
 私の知る彼は私をたくさん愛してくれたけど、一緒にいるとどうしようもなく寂しくなるようなところがあった。きっとそれは彼自身の持っていたいつかを予感させる喪失の気配だった。
 今、私の隣に座って外で一緒にアイスクリームを食べている男の子は眩しくて輝かしくて、傷の気配がない。私は学生時代の彼を知らなかったがもともとはこうだったのかもしれない。じっと見つめていると彼は自らのアイスクリームをスプーンですくってくれた。それを差し出されるまま口にしてから、私も彼とは違う味の自分のアイスクリームをすくって彼の口に運んであげた。
 今も彼が甘いものを好きだと私は思い込んでいたけど彼と出会って特別に好きなわけではないと言われて彼を見つけた瞬間より驚いた。その時に私は、彼は必要があって食べているうちに好きになったと教えてくれたことがあったのをを思い出した。今の彼にはその必要がないのだろう。
 私は彼を好きになる前から甘いものは好きだったけど一緒にいるうちにもっと好きになった。彼と一緒に食べるのが好きだったから。
 嫌いではないが好きでもないと言う彼は、それでも当たり前みたいに一緒にいつも食べてくれる。あまりにも普通に一緒に食べてくれるのでついどうしてと口をついて尋ねたとき、彼は記憶の中よりもまだ幼い顔に表情を浮かべずに「お前の顔見てるとなんでもしてやりたくなる」とそう言った。一緒に食事をすることを差すには不釣り合いなくらい重い言葉だったのにそれを冗談だと思わせる空気は存在しなかったし、その言葉が言葉通りになんでも≠ネのだろうことを私は一緒にいるうちにうっすらと理解していた。
 太陽の光に彼の髪が反射してきらきら光っていて、その様子をまだぼんやりと見ていると「溶けるだろ」と手を掴まれて引き寄せられる。今度は彼が私のアイスクリームに直接齧りついた。至近距離のままでじっと見つめられる。サングラスの向こうにある色彩のことを考えながら見つめていると彼の方が先に視線を逸らした。
「なんで俺がこうなのか聞かねえの」
 「普通のやつは最初に聞く」と自分の色彩に見惚れていたのを理解している彼は視線をアイスクリームに向けたまま言う。聞いて欲しいのかもしれない。望まれるまま「どうして?」と尋ねた。
「俺の家の中で時々出てくんの、こういう髪とか目が」
「綺麗だね」
 そう言った自分の言葉は本当に綺麗なものを見つめたときと同じようにため息が混じった。夜の中で見た彼の髪や目の色が私の中で印象的に残っていたけど、今の彼と会うのは陽光の下だった。日の光の下の彼は綺麗だ。凄く綺麗で、でも私はその美しさに切なくなる。
 アイスクリームを食べ終えた彼とは違い私のアイスクリームは彼の指摘通りにとけかけていた。二種類のアイスがワッフルコーンの中で混ざっている。どろどろにやわらかくなっているアイスクリームをスプーンですくっている私に彼はもどかし気な顔をする。
「……俺に興味ねえの?」
 口の中でとけたアイスクリームはもはや液体になって私の中に落ちていく。なんの味か分からなくなった甘い液体を飲み込みながら拗ねた声で言う目の前の男の子の可愛いさに他人事みたいにドキドキした。
「俺はなまえにあるよ。なまえも俺と同じくらいもっと持てよってずっと思ってる」
 彼の口から私が自分に興味がないように言われるのは初めてだった。
 彼も私にいつだって愛情を示してくれたけど、私自身も彼を大好きだと思った瞬間にいつも伝えていた。一緒に居られる時間が限られていたから余計に時を惜しむように伝えた。いつか言えなくなるときが来てもいいようにって思っていたけど結局どれだけ伝えても足りなかった。大好きで大好きで仕方なくて、どうしようもなかった。言えば言うほどそういう気持ちになって、切なくて苦しくて寂しくて、愛しくなった。
 彼の言葉は正しくなくて、私はもう何もかもに興味がなかったけど彼にだけはあった。彼だけが私の特別だった。なんと言えばいいのか分からないまま口を開く。
「聞いてくれるなら、答えるよ」
 そう言うことじゃないという顔をされたが、それでも彼は私に素直に質問をした。
「好きなタイプは?」
「年上で、一緒にいると寂しくなる人?」
 目の前にいる彼の顔を見ながら、記憶の中の彼を思い出す。思わずふっと笑うと、彼は眉を吊り上げた。
「なにそれ。俺は?」
「一緒にいると幸せな気持ちになるよ」
「……それって好きってこと?」
 彼のことが死んじゃいそうなくらい好きだ。彼を失った人生は私には必要がなかった。彼が私には必要だった。でもその気持ちは今の彼には特に不要なものに思えた。
 何も欠けることはなく擦り切れることもなく生きている今の彼は私の目には完全≠ノ見えた。彼に翳りや傷が見当たらないことを実感するたびに胸があたたかな熱を帯びる。記憶の中の彼を思い出して、たまらない気持ちになる。
 あの頃、私は自らの抱えている愛情を伝えずにはいられないような、伝えなければおかしくなりそうな焦燥が常に心にあった。でもこうしてまた一人で生きるようになって今の彼と再び出会ってからは、満たされていた。
 彼には簡単にいなくなってしまうような気持ちにさせられたけど(私がそう言ったとき僕がどこに行くって言うの? ずっとここにいるよと彼は笑った。笑ってくれたのにどうしてかもっと不安になった)今の彼はそうではないからかもしれない。こうして一緒にいてもガラスを挟んだ向こうを見つめている感覚がした。
「なんで俺がこんなに必死になってんのか分かるだろ」
 彼の強いまなざしを感じながら私はふと傑くん(彼が傑≠ニ呼ぶので私は自己紹介されるまで名字を知らずそう呼んでいた)と顔を合わせたときのことを思い出していた。私は彼に親友がいることや彼の口から聞く話を知っていても、直接会うのは初めてだった。
 彼が傑くんを呼んだわけじゃなくて、二人でいるときに現れた傑くんの姿を見て彼はぎょっとしていた。偶然をくちにする傑くんが誘ってくれたときも納得していない反応をしていたが食事を三人でし始めてすぐにその場の空気はほぐれた。彼が席を外し二人になったとき、傑くんは会って見たかったけど会わせてもらえなかったからとさらっと言っていたので本当は思っていたより偶然ではなかったのかもしれない。だから私はかねてより思っていたことをそのときに伝えた。
「悟くんはあなたを親友だと言っていました。だから私、貴方にずっと会って見たかった」
 親友という言葉に傑くんははにかんだ。その表情は彼の装いや体格の良さから与えられる強い印象を一気に逆転させた。酷く魅力的な表情だった。彼は傑くんのことを自分よりモテなくもないと言っていたけどその言葉の意味がよく分かった。すごく女の人に好かれるんだろうなと思った。
 そして傑くんもまた彼を親友として慕わしく思っているのだろうということが言葉がなくてもその表情で分かった。
「悟があんなに甲斐甲斐しいところを初めて見ました。構いたくて仕方ないみたいだ」
「そうなんですか?」
「悟は世話を焼かせる方が得意ですよ」
 その本人はお会計のために店内にまだ残っていた。ウィンドウ越しに視線をやると、ぎょっとさせるほどにある高さのある背が見せる。
 彼はずっと距離が近かったし昔からそうだった。世話を焼くのも焼かれるのもコミュニケーションの延長として楽しんでしていた気がする。出会い直してからもほとんど最初からそうだった。そうなることが自然だというように気づいたときには以前のような形におさまっていた。
「悟はよく貴方の話をします。最近は特に楽しそうですね。以前は相手にしてもらえないことを拗ねていたので」
「ああ……」
 行くと言っても行かなかったことも全部伝わっているのを思い出す。彼のことを他の誰かの口からまともに聞くというの経験は新鮮で楽しかったが、自分のしたことを再度認識するたびの何度目かの罪悪感が心に広がった。
「出会いの方法自体が強引だったみたいですけど、悟は貴方のことを大事に思ってる」
 店のすぐ傍で並んで待っていた傑くんの顔を見上げた。傑くんは背が高かった。彼と一緒にいるときのように見上げないと顔が見られない。
「貴方も悟のことが大好きなんですね」
 そう言って傑くんは私と視線を合わせたまま笑った。そしてその視線が前を向く。彼がそこにいた。
「なんの話してんの? 近すぎだろ」
 彼が私と傑くんの距離を離すように合間に手をやったので私は思わず傑くんの顔をもう一度見た。目と目が合った傑くんは苦笑している。その様子を見ていた彼は私の腕を引っ張って自分の方に寄せた。勢いによろめくと余計に手首をぎゅっと握られる。傑くんはちょっとおかしそうにしていた。
 このあと用事があるという傑くんと話をしたあと別れて、手首を握られたまま彼と別のお店にデザートを食べに行った。その道すがら、しっかりと食べていた二人の横で自分のペースで食べていた私に、彼は、他に食べたいものがないのかとか自分のものを分けてくれたり逆に私の食べているものを求めたり、たくさん声をかけてくれていたことを思い出す。手首を握られているからそう出来なかったけど、もし手を繋がれていたら握り返してしまっていただろうと思った。
 今=A彼が私を強く求めているらしいのだということは、一緒に過ごす中でもなんとなく感じることが出来た。雰囲気や振る舞いの柔らかさに差異はあれど彼は変わらず私に優しくて、傑くんの言うように大事にしてくれて、それは愛情が伴っていた。昔の彼とは違う素直さで彼は私を見つめている。夢みたいなことだと思う。でも夢みたいだったから、本当の夢の中のように現実味がなかった。
 思い出すことに夢中になって、視線を落としていた先にある手の中のアイスクリームはワッフルコーンの中で完全にとけていることに気づく。私はそれを一気に飲み干した。もう冷たくはない甘さが口の中いっぱいに広がって脳に沁みた。水が飲みたいなと今からしなくちゃいけないことから逃げるように思った。
「悟くん、私ね」
 彼を突き放すための言葉を考える日が来るとは思わなかった。私が言葉に迷う理由が受け入れるためではないと空気で分かったのか、彼は顔をこわばらせた。
「俺に足りないものある? ダメなところないだろ」
 私にとってはもちろんそうだ。そんな風に言うところも好きだ。
「デートとか、今までみたいにお前の行きたいとこどこでも一緒にいけるよ。お前が欲しいものもしたいことも俺はお前にあげられる」
「……」
「あと、……なんかあるか? 恋人って、……料理とか? そういうのしたことねえけどやろうと思えば出来るようになると思う」
 彼の情熱的なほどの言葉を聞くほど反対に、私は言葉に詰まって自分の眉が下がるのが分かる。私が上手く反応できないから彼の表情も怖くなる。怖いくらい真剣な顔で、彼が続ける。
「一緒にいると寂しくなるやつって言ってたけど俺ならお前の傍にいる。一緒にいるし、寂しくさせたりしない」
 私は思わず首を横に振っていた。彼の口からそんな風に言われると以前の彼の在り方が否定されるようで辛かった。よろめくように下がった私に彼は手を伸ばして強引に抱きしめる。彼はその腕で、拒むことが出来ない力で、私を抱いた。
 彼の腕の中で自らの顔を両手で覆わずにはいられなかった。黙って首を横に振るしか出来なかった。弱い抵抗をそれすら奪うように彼は腕の力を強めた。好きなタイプとしてあげた私の言葉は誰かを思った言葉だと彼は分かっているようだった。
 一緒にいられなくたって彼のことが好きだ。だからと言って一緒にいてくれると言う彼が違う≠ニ言いたいわけじゃない。どちらだって彼に変わりないから好きだ。彼が私にしてくれることや選択の是非は関係なくて、彼であるだけで愛している。
 ――戻ってきてはくれなくても、抱きしめてもらえなくなっても、私はずっと彼のことだけが好きだ。
「俺と一緒にいると幸せなんだろ。じゃあずっと一緒にいればいい。……離したくない」
 こみ上げてくるものに耐えながら、顔を上げる。彼は眉を寄せた険しい顔をしていた。私が何かを言う前に、彼が口を開く。
「やだって言うなよ。傷つく」
 それは彼が前に私にくれた言葉だった。私は彼を傷つけたいなんて思ったことはなかったから、もう二度と彼が傷つけられることがないことを願っていたから、だから頷いていた。頷いてから俯いた私を慰めるみたいに、彼が私の髪を撫でる。
 そうして私を抱きしめる腕から力が抜けていく。その感覚に全身に震えが走った。離されることが怖くなって、考えるより先に私は彼に縋っていた。彼は何も言わずに私を抱きしめ返してくれて、離さないでと心の中でだけ呟いた。私を抱きしめてくれる彼に対してなのか、ずっとそう言いたかった彼に対してだったのか、どちらに対する願いなのか自分自身ですら分からなかった。こらえきれなかった涙が一粒だけ落ちた。
 私は深く息を吐いて、今度は自分の意志で彼から体を離す。
「お水が飲みたいな」
 そう言うと、彼は当たり前みたいに私の手を繋いで「買いに行くか」とふっと笑って返してくれる。アイスクリームを食べたあとに残ったゴミを私の分まで手にして近くのゴミ箱に捨てた彼が私の手をぐいぐいと引っ張りながら言う。
「俺、自分からあんな風に声かけたのあの時が初めてだから」
 照れたように特別だと言う彼に、私は思わず息を詰めた。その言葉に応えるように彼の指に指を絡める。そして手を繋いで歩き出した。彼のここにある体温も離さないように込められた力にも、それらを感じるたびにまた泣き出してしまいそうで、私はくちを閉じる。
欲しいものもしたいことも俺はお前にあげられる≠ニ言った言葉を彼は実際に可能にした。彼は恋人として十全以上のものを私に与えた。それはもちろん幸せなことだったが、私が彼に最も求めていたのは生きていてくれたことだったから、出会って彼の姿を見つめられたときに私の願いは本当は叶っていた。
 髪を乾かしてからベッドに戻ってくると彼はベッドの上でスマホに目を向けていた。珍しいなと思いながら私は彼の横に滑り込む。彼がスマホに視線を向けたまま私の首の下に手を入れて頭を抱いて、髪を撫でた。彼の部屋にあるドライヤーのおかげで私の髪は以前よりも艶が増していた。無意識みたいに彼が私の髪に撫でるたびに選んで良かったなと思った。
 彼が一人暮らしを始める際に購入されたドライヤーは私が選んだ。関心のない彼の代わりに私が高機能なドライヤーをねだった。置いてある私が使っているヘアケア用品を使って彼の髪にドライヤーをかけてあげたあと、彼の髪がよりつやつやになって彼からも甘い香りがすると影響出来たみたいで嬉しかった。昔にも全く同じことを彼にして、満足したのを覚えている。
 手にされていたスマホが私も一緒に見られるように差し出される。画面に映っていたのはオープンテラスで私がデザートを食べている様子だった。一緒にリゾート地に旅行に行ったときの写真だ。
 しばらく彼の腕の中で一緒に見ていたが、景色や食事に関する写真よりも何かをしている私の写真の方が多くてびっくりした。カメラを見ている私も写っていたけど、何かをしていたり見つめていたりする私の横顔の写真もよく撮られていた。
「……楽しかったね」
 深い吐息の混じった私の言葉に、今度は明確な意思を持って彼が私の頭を撫でた。
 思わず目を閉じると脳裏に一緒に旅行をした思い出が蘇る。私が甘いものを食べたいと言うときに今まで付き合ってくれていた彼は、今では私と同じくらい彼自身も好きだと言うようになってくれていた。旅行の最中もそうして一緒にくちにした。
 写真を見つめていた彼に胸を衝かれるような思いになり、シャワーを浴びたばかりであたたまっている体ですり寄る。彼はスマホをサイドテーブルテーブルに置いてから私の首筋に顔をうずめた。
「なんかいつもと違くね?」
「違うクリームに変えたからかな」
「ふーん?」
 パッケージに書かれていた香りを彼に伝える。肌に顔を寄せられるとくすぐったくて私は彼の頭を引き寄せて抱きしめた。彼の髪をそっと撫でてあげる。
 白を基調とした部屋の中は、レースのカーテンだけが引かれた窓越しにやわらかく差す光でもっと白い印象を感じる。窓の向こうを見ながら幸せだなと思った。晴れた日の午後に私の胸の中にある彼の重さも彼の体温も、まるで白昼夢のように感じた。夢が覚めたら私はまた一人に戻ってしまいそうで、今ここで終わりになりたいなと凄く思った。
 再び一緒にいるようになって、また時が重ねられても、まるで私の望む夢の中みたいに関係は穏やかに結ばれていた。
 そんな関係の中で私は来ないと分かっていて以前の彼を待つことをまた続けるようになっていた。夜までそうしていたときに「何かあったのか」と彼に心配されたので散歩を始めたと伝えて、彼から連絡が来たら終わりにするようにしている。
 待ち合わせをするより私が待っている場所に彼が帰って来る形の方が多かったから、記憶の中にある外で彼を待った場所をまわるのは彼に出会ったときにはもう尽きていた。尽きてなお近しい場所をまわって彼が現れることを想像する。私より年上の、一緒にいると寂しくなるような彼が私の前に現れるのを、「ただいま」と言ってくれるのを、私を抱きしめてくれるのを、夢想する。それが叶わないことは誰より分かっているのに、それなのに目の前に現れるんじゃないかと思ってしまうことを止められない。
 そのうち一人で眠っていると夢に見るようになった。夢の中では待ち合わせをするまでもなく彼が現れる。私は起こってしまった≠アとをすべて忘れて彼といつもしていたみたいに会話をして、彼を抱きしめて抱きしめられて、それを幸せだと強く思う。思った瞬間に目が覚める。
 夢に支配され一人でいると生活に支障が出ていたが、彼の前ではこれまで通りの生活を送れた。彼の前でだけ私は元に戻る。彼とはそれまでと変わらずに過ごした。
 その日は彼と一緒に彼の家で映画を見た。見た映画はサスペンス映画で、大事に思う人間が人を殺したとき自分の手を汚してでもその幸せが自分が傍になくても願おうとするという話だ。大事なその存在によって日々がどれほどの色鮮やかさが増したのかが描写されたあとに慟哭のシーンが挟まれエンドロールに至る。数度見たことがある映画だったが、私は涙が頬に伝うのを感じながらテレビの向こうのエンドロールをぼんやりと見つめていた。隣に座っていた彼は何も言わずに私の肩を引き寄せて涙を拭った。
「すぐ泣く」
 優しい声に余計に切なくなった。自分がいなくても相手が幸せに生きてくれるならいいと思う気持ちならわかる。そのせいでどうなることになっていいと思う気持ちも。でも私が出来たことなんて一つもなかった。
 私は彼の首に腕を伸ばして抱きついていた。テーブルの上にあるマグカップには中身が満たされていることが頭をよぎったが、彼にベッドに行きたいと囁く。彼は私の体を簡単に抱き上げると寝室の扉を開けた。
「どうせなら俺のために泣けよ」
 そう言ったのに彼は泣かせるためではなく丁寧に丁寧に私に触れた。それが愛情を伝えるための行為なのだとすべての触れ方から感じた。
 彼が私の衣服をほどくように簡単に脱がせ、彼もまた衣服を脱いでくれる。空調の効いたあたたかな空気の部屋の中で裸で抱き合うとそれだけで苦しい気持ちになった。私の髪を梳き、背中を撫でる体温の高い手が、私の肌のすべてをなぞって互いの体の境目をなくしていく。私は彼のことが大好きだったからこそ一つになりたいと思ったことはなかったけど、そうなったらもう離れなくていいのかなと今更思った。
 抱かれながら、こちらを見下ろす彼のあの青い瞳のまなじりが私と目が合った瞬間に柔らかく緩むのを見たとき、私は彼の言う通りに彼のために泣いた。急に涙をこぼした私に、口元まで緩ませた彼が私にキスする。彼の体の重さを感じながら、そのままとけてなくなりたくなった。
 そのあともベッドの上で二人で横になっていると、彼は私の髪に手を伸ばして頬にかかっていた髪を耳にかける。彼は私の目を覗き込んだ。
「お前が人を殺すことになってもお前が泣かなくて済むように俺がちゃんとなんとかしてやる。でも離れない」
 冗談みたいな口調なのに声音に冗談めかした様子はない。私は彼の言葉をただ受け入れて、口を開いた。
「……何かがあったら、相手をどうしてでも悟くんは生きてね」
 悟くんが生きていてくれるのが一番嬉しい。そう口に出したとき、やっと言えたと思った。私は、例え私の元には帰って来てくれなくても、生きていてくれるならそちらの方が良かったとあの時≠ノ思った。大好きだから、彼に生きていて欲しかった。
 私の髪をまた梳いていてくれた彼の手が、私の頬を撫でる。その手に私は思わずこぼれるように笑った。
 そして一緒にお風呂に入ったあとに今日は彼に髪を乾かしてもらった。代わりに彼の体の至るところに自分にするようにスキンケアをしてあげた。また私と同じ甘い香りを身にまとっている彼に抱きしめられながら、眠りについた。そして彼の隣で彼の夢を見た。
 目を開けて自分がいる場所を理解したとき、心臓が強く打っていて呼吸をするだけで自らの早い鼓動が分かった。それこそ本当にあの時≠ンたいだった。私は、彼と私が乗ってもまだ余裕がある大きなベッドに膝をついて這い、必死にベッドから下りる。一度だけ振り返り、部屋の端から彼を見つめるとまだ眠りについているのが分かった。
 私は急き立てられるように部屋を出ていた。専用の鍵を使い、玄関と繋がっているエレベーターを降りる。部屋の中では音すらも隔てられていたが、マンションの入り口にたどり着いたときに雨が降っていること知った。だけど耐え切れずに私は夜の中を走り出していた。
 息が完全に上がりながら走って、気づけば最も近い公園のベンチに座りこんでいた。ここに彼と待ち合わせをしたことなどない。だから来ない。彼は帰らない。どんなところにいたって、待っていたって、私の元に戻ってくることはなかった。
 自分の中で最も奥に封じていた激しい気持ちが蘇る。彼は自分のするべきことを果たした。誰より凄かった、いなければ叶わなかったと行方を見守っていたのだという人にも教えてもらった。
 でも私はただ彼に生きていて欲しかった。たとえ私の隣じゃなくても、彼が生きていてくれるなら、それより良いことなんてなかった。
 彼が果たしたことを責めたいなんて考えるはずない。それでも彼に生きて欲しいと思った。彼本人が納得をしていても思った。彼を愛していたから思った。ずっとずっと思っていた。
 雨が髪も何もかもを濡らしていくなか、膝頭に顔を押し付けて私はいつまでもそうしていた。するとふっと声が差した。
「なあ」
 ずっと求めていた声に私は弾かれたように顔を上げていた。
「こんなところになんで一人でいんの?」
 今はもう同じくらい聞き慣れた話し方に、私は口を手で押さえながら彼を見上げた。出会った日のように彼の後ろを太陽は差さない。辺りは暗闇にとざされ、傍にあった街灯が私達のいる場所だけを照らしていた。暗闇の中にあっても街灯に照らされる彼は、彼自身が光を放っているかのようにすら見えた。あの日と違って彼の顔に表情はない。
「誰か待ってる?」
「……好きな人を待ってるの」
 重ねられたあの日と同じ言葉に自然と言葉がくちからこぼれた。あの日も本当は私にとっては嘘じゃなかった。帰って来てくれた彼の顔を一目でいいから見たかった。それだけを願っていた。
「じゃあ今日は好きな人≠ノ迎えに来てもらってよかったな」
 しゃがみこんだ彼は顔を近づけ、私と改めて目を合わさせた。涙と雨で濡れた頬を彼が午後にしてくれたようにぬぐうがその上をまた濡らしていくばかりで渇くことはなかった。
 彼は私の視線に目を逸らさずに微笑む。笑っているのに強い視線で見つめられてぎくりとした。
「俺のところに帰って来て」
 彼はそう口にした瞬間に、こちらの腕を引きよせて力いっぱいに抱きしめた。そのまま殺してしまいたいのだと言うような勢いでされる激情が伝わってくる抱擁だった。私はそれを彼の体温とともに全身で感じながら背に手をまわした。こうして抱きしめられると酷く脆いモノになってしまった感覚がする。
 「崩れてしまいそうだ」と思った。そのまま本当に殺されたいなとも思ったのに私が彼に塗ってあげたクリームの甘い香りが強くして、それに泣きたくなった。ずっとこうして抱きしめて欲しいだけだった。
「なまえのことを見てるとどうしようもなくなる。どうなってもなまえが好きだよ」
 体を抱きしめていた彼の片腕が離れたと思った瞬間、その手が頬に添えられる。目と目があって、私はまぶたを閉じる。互いにすべてを雨に打ち据えられながらキスをした。既に冷えている私の体とは違い、彼の手がいつもより熱くてここまで走ってきてくれたのかもしれない。生きている、とその時にこれまでの中で最も強く思った。
 体を離されたとき、彼の熱い体温がまだ自分の体に残っているのを感じた。だから離されることに耐えられた。
「こんな風に雨の中飛び出すくらいにソイツが好き?」
 ソイツという言葉が誰を指すのか分からなくて、ぼんやりと彼の顔を見上げる。それから私が彼以外の人を思っているように誤解するような言葉を告白の時に伝えてしまったことを思い出す。私はぼうっとしたまま悟くんに似てると言った。その言葉で悟くんの瞳が見開かれるのを私は見ていた。
 ハハと彼が笑う。初めて見る笑い方だった。私はただ彼に釘付けになるように見つめていた。
「俺は俺の隣にいないなまえの幸せを願ったりしないよ」
「……」
「俺が一緒にいられないのになまえの隣にいようとするヤツなんて全員嫌いだ。それが俺に似てるヤツだろうと、俺がもう一人いたとかそういう話でも、……むしろ俺が隣にいるなんてもっと嫌だな」
 自分の表情が酷く緩んでいくのが分かった。彼が今私に贈ってくれた言葉に以前の彼が私にくれた言葉を思い出していた。同じ¢カ在なのだ。悟くんは悟さんだし悟さんは悟くんなのだから。
 私は彼の体を強引に引き寄せて私からキスをした。そのときやっと思いが果たされた=B吐息のぶつかる距離で、小さな声で「二度と離さないで」と囁くと「頼まれてももう離さない」と彼は言って私をもう一度抱きしめてくれた。
 彼は私の手を握って夜の中を歩き出した。その手に導かれるままに歩き出す。
「迎えに来てくれてありがとう」
 一歩先を行く彼にそう伝えると彼は、私を振り返らずに言う。
「なまえが嫌がっても来るよ。俺はなまえのことが、なまえが俺を好きになる前からずっと好きなんだから」
 彼の姿もまた雨が降る深夜に外に出るための恰好ではなかった。本当に急いで来てくれたんだなと思う。でもきっと私の方が先に好きだった。
 彼の指に指を絡めて握り返しながら彼の「離さない」という言葉が叶わないときは、今度はその前に自分で終わりにしようと思った。次はもう耐えられずに狂ってしまうだろうから。彼のことを愛してきっとすでにおかしくなってしまった頭で、そう思った。

天国はいつも雨

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