NOVEL | ナノ

 以前に彼から贈られた箱が開いたのは私がその直前に割ってしまったマグカップを片付けていたときのことだ。その光景を目の当たりにした私はあまりのことに破片で指を切った。10月31日の夜のことだった。
 その箱はちょっとした大きさがあって見るからに頑丈に出来ている。触れてみると四辺を覆っている壁の一つ一つには厚みがあった。滅多なことでは壊れなさそうに思える重さと感触は木の質感を想像させたが実際に木でつくられていたのかは分からない。受け取ったときには既に鍵がかかっていて、私はその箱の中身を一度も見たことはなかった。贈ってくれた彼が言うには「助けてくれるもの」で「必要とされるときに自然と開く」という話だった。彼が私に伝えてくれていた箱に関しての言葉が本当にそのままの意味だとは理解出来ていなかったのだ。
 箱が突如として開いていく様子に凍り付いた私を後目に、中身が私の前へと姿を現す。現れたのは少年だった。箱は大きくはあったがとても少年が入っていられるサイズではない。
 その少年の透き通るような髪色やこちらを見つめる瞳の色は箱を贈った彼本人を鮮烈に思わせた。床にへたり込んだままの私の顔を覗き込んだ彼≠ヘくちを開く。
「手、怪我してる?」
 傷ついていない方の手を握られ彼≠ノ水道まで引かれたので呆然とながら促されままにに血を水で流した。そして切った部分を処置していると彼≠ヘ隣でその様子をじっと見守っていた。思わずこちらも彼≠見つめてしまうが、顔立ちもまたよく似ている。実際に見たことはなかったが幼い頃の彼はこうだったのだろうと何故か直感的に想像出来た。
「悟さん?」
「そうだよ、君の恋人の五条悟」
 思わず確認するように名前を呼ぶと彼≠ヘ私の知っている彼自身よりも高く幼い声でそう認めた。よくよく見つめてみるとその腕に人にはない無機質な関節があることに初めて気が付き、私は彼≠フ腕に手を伸ばした。そっと触れてみると限りなく人の皮膚に近い感触が手に伝わってくる。目を凝らさなければ分からないほどによく出来ていた。
 彼≠ヘ私に腕をとられたまま、されるがまま私を見る。
「……人形になっちゃったの?」
「君の恋人としての記憶を持ってはいるけど正確には本人なわけじゃないんだ。条件が満たされたから僕が起きた」
 恋人に似た姿をした人形が急に動きだして話をしているということに私はとても冷静ではない質問をした。視線の位置や姿が違っても話し方は彼そのものだ。条件? と聞き返した私に、彼≠ヘ私の目を見据えたまま答える。
「君の傍にいられなくなるときのために僕は僕を用意した。だから僕が起きた≠チてことは僕本人に何かが起きた」
 先程までと変わらない声色で告げられた言葉に私は自分の体温が一気に下がっていくのを自覚した。慌てて近くにあったスマホに手を伸ばして電源ボタンを押す。光を放つ画面に映るニュースの通知に渋谷という単語が重複しているのが視界に入った。それらに目を通す余裕もなく彼へと通話をかける。呼び出しのコール音だけが続き、急き立てられるようにかけ直すが繋がる気配はない。
 彼にこうして電話をかけたときに繋がらないということはままあることだったが、妙に嫌な予感があった。割ってしまっていまだ片付けられていないマグカップの破片を見る。マグカップを割った瞬間の気持ちを思い出し、自分の鼓動がどくどくと強く打っているのが耳の傍で鳴っているような大きさで聞こえていた。
 何度かけなおしても繋がらないスマホを片手に冷えた私の顔に、彼≠ヘ手を伸ばした。
「そんな顔しなくていいよ。まだ生きてる。分かる≠だ」
 温度のない私より小さな手が落ち着かせるためにか頬を撫でてくれる。「まだ」という言葉も「生きてる」という生死に関わるのだと思わせる言葉もむしろ不安を掻き立てさせたがそうして頬を撫でる手の動きがいつもと同じで、そのことに気持ちを静められてしまった。頷くと彼≠ェわずかに唇を綻ばせて、自分が起きた¥鼾、つまり彼自身が会いには来られない状態になったときに私に安全な場所に移ってほしいと考えていたことを彼≠ヘ私に伝えた。
 そうして話をしてくれる途中で突然彼≠ヘ話を切った。立ち上がった彼≠ェ何かを感じているようにこちらではない場所を見つめたまま固まって、そしてそれまでとは違う圧を感じさせる声ですぐに私に部屋を出る準備をするように促した。
 つい数秒前にどこにいたいか尊重すると話をしていた彼≠ェ突然真逆のことを言い出したことに驚くものの、そういう様子になった私の知っている彼は有無を言わせないことを知っていたので彼≠フ言葉に従う。貸してほしいと頼まれて渡したスマホで彼≠ェ誰かと話し始める横で部屋を出る用意をした。
 準備の最後に上に羽織る。通話を終えていた彼≠ノも何か上に着るかを尋ねると彼≠ヘ首を横に振り、私の手に手を伸ばした。手を繋いだまま共に部屋を出る。
 そのときにはまだいくらか動いていた交通機関を彼≠ェ言うままに乗り継いだ。そうして向かった場所に現れた迎えによって私は都内を離れた。移動の最中、先ほど私が目にした比ではないニュースの通知がスマホの中で夥しくなっていたが現実味のなさに、やはり確認せずにそのままにした。私の手を引き続ける彼≠フ顔を思わず見る。彼≠ヘ私の腕を引き、屈ませると「僕が傍に居るから」とこちらに囁いた。握ったままの彼≠フ手の感触は私の心を慰め続けてくれた。
 安全な場所として送られた先の彼によって用意されていた家へと移った私は、それ以降の生活をそこで過ごしていた。帰れなくなったからだ。メディアは日夜、10月31日に起こったことやそれに纏わる被害や影響を報じている。あの日の結果、首都機能は移転され世情は激しく動きを見せていたがこの家の中は静かだった。
 迎えに来てくれたのが自分の家の信頼できる人間だと彼≠ヘ言った。家の管理をしているのもそうらしい。
「いつまででもここにいていいよ。君はここで何をしてもいい。欲しいものがあるなら用意させるし」
 言葉通り、生活するのに必要なものも必要でないものもすべてが用意された。彼≠アと悟くんは(呼び分けるためにそう呼ぶようになっていた)時折誰かと連絡をとっている素振りはあったがほとんどを私の傍で過ごしていた。悟くんは私を守るために彼によってつくられたそうなので私の近くでしか活動が出来ない、そういう縛りがあるそうだ。
 彼本人の安否も確認してくれた悟くんから聞いた。命はあるが誰も会うことは叶わない状況らしかった。彼の周りの人も解決するために動いていてくれるらしい。伝えられた状況と呪霊という存在について公に発表されたことで彼がどういう仕事をしていたのかを私はより強く実感することになった。
「この体でも大概の相手を対処できるし、ここに呪霊は寄らないように処理されてあるから心配しなくていいよ」
 テレビの中で呪霊についてを映している公共放送を見る私の隣で悟くんはそう言った。呪霊は、悟くんと一緒にいるとそもそも私に寄らないらしい。彼本人といたときもそうだったそうだ。私はぼんやりと、悟くんやこの家やこの家で苦労なく生活できるようにされた手配について、彼はいつからそうしてくれていたんだろうと思った。
 同じベッドで悟くんと毎日眠った。悟くんに眠るという機能はなく目を瞑っているだけらしいが、それでも私のために悟くんは一緒にベッドに入ってくれた。
「ここにいるのいや?」
 そう聞かれたのは家に連れてきてもらってから少し経った頃だった。照明の薄い明かりの中、ベッドに横になっていた私をきらきらとした悟くんの瞳が見おろす。悟くんはその瞳を本来の彼の瞳とは似て非なるものだと言っていたが、この距離で見つめることになっても限りなく本物に見えた。
「元気がないね」
 悟くんの手が私の額に触れる。髪を梳くようにしてから、悟くんは小さな手でそっと撫でくれる。その行為もまた彼本人を強く思わせた。目を瞑ったらそう≠セと思ってしまうかもしれない。
 私は悟くんとずっと家の中で過ごしていた。ここに来てから外には出ていない。罪悪感を覚えるほど不自由はなく、自堕落と言ってもいいような過ごし方をしている。あの日に起こったことを考えれば本来はもっと困窮した状況に置かれていただろう。あるいはその前に命を失っていたかもしれない。それなのに私は彼の手配と悟くんによって恵まれた生活をしていた。
「本当に何もしないままでいるなと思って」
「しなくちゃいけないことがないのがつまらない?」
「ううん、そうじゃなくて……。私が、悟くんにも悟さんにも何も出来てないから……。いいのかなって……」
 私に彼のために出来ることはあるかと悟くんに尋ねたときに返ってきたのは「ここにいてくれること」という言葉だった。世情とはまた違う意味でも外は荒れているそうだ。これまでとは違う多さで呪霊が現れているらしい。少なくともそれらがある程度落ち着くまではここで過ごすことを願われていた。
 落ち着いたあとの話はしていない。その話題は彼がいつ帰ってくるのかという話に繋がるからだ。私はそれに逃避のように触れられずにいる。
「ここにいてくれるだけで、生きていてくれるだけでいいよ」
 その声音は他の話題をするときと変わらなかった。言葉に偽りはなく、ひたすらに本心からなのだと分かる。私も彼にずっとそう思っている。
「僕も、あと僕をつくった方の僕も、君がここで安全に過ごしてくれるのが嬉しいと思ってる」
 私は悟くんを見あげたまま、彼に手を伸ばして抱き寄せた。悟くんは抵抗することなく私の腕の中におさまった。彼の頭に顔をうずめるとやわらかい髪が私の頬をくすぐった。彼本人と比較にはならない体格と重さだったがそれでも悟くんは見かけの少年として以上の重さがあった。悟くんの質量は抱きしめ触れていると私の心を晴らした。
 胸の上にあるさらさらとした髪を撫でていると、悟くんは顔をあげる。
「慰めてあげようか、違うことで泣いたら気も紛れるでしょ」
 数度噛みしめてからようやく何を言われているのかを理解した。私の視線を受けた悟くんは言葉を続ける。
「その機能はないけど触れあうことならどうとだって出来る。しようか?」
 悟くんのその様子に冗談の様子はない。頷いたらそのまま小さなその手が私の衣服にかかるのだろうと感じさせた。
 顔を寄せられる。私はしっとりとした彼の白い頬に手を伸ばしてなぞった。額をくっつける。近くにある瞳は静かで、昂りは見えない。機能はないという言葉からすると欲求自体ないのかもしれない。触れ合うことになるとしたらまさしく私のためだけの慰めの行為になるのだろうと思えた。
「申し訳ないよ」
「どっちに? 僕は僕でもあるのに? 君との記憶も全部あるよ。君がどういう風に僕に抱かれるのかもよく知ってる」
 私は言葉の代わりに顔をもっと近づけてくちを触れ合わせるキスをした。くすぐったくなるくらい軽い触れ合いだった。手を伸ばして宥めるように悟くんの背中を撫でる。
「一緒にいてくれるだけでいいんだよ」
「いいの?」
「悟くんだってここにいるだけでいいって私に言ってくれた」
 彼のからだを引き、再びベッドの中で抱きしめた。
「十分だよ」
 滑らかなラインをしている悟くんの肩に顔をうずめる。壊れそうなくらい私に抱きしめられるのを悟くんはされるがままでいてくれた。悟くんが言うにはこの子供のからだでも見た目通りの腕力ではないそうなのでそんな悟くんが私に抱きしめられたままでいてくれるたびに優しさを感じている。
「今日はずっとここで眠ってよ」
 その言葉への返答として私は彼の頬に自らの頬をすり合わせてから目を閉じた。衝動的な気持ちのまま、でも出来るだけ静かにベッドを抜け出してすぐに戻ってきていたつもりだったけど気にかかっていたのかもしれない。ごめんねの気持ちをこめて額をぐりぐりと押し付けた。
「ここにいるね」
 囁くと悟くんの腕の力が強くなり、私よりも強い力になる。その苦しさにほっとしながら、悟くんの腕の中で眠りについた。自分がくちにして伝えた通り、どこにもいかず、朝まで共に眠った。それからはずっとそうしている。
 それからはどうせならと今まで二人でしたことがなかったことをしてみることにした。これまでここまで休んだことがないかもと悟くんが言っていたので、休みがないと出来ないことだとか、そういうことをした。といってもそんなに大したことじゃなくて時間を気にせずに続けて一緒に映画を見るとかそれくらいだ。大きなソファーの上で二人で並んで見て、私が眠ってしまうと悟くんはベッドまで私を運んでくれる。腕力があるとは言っていたが、そもそも体格差が大きいはずなのに悟くんは簡単に私を持ちあげてしまう。
 食事を終え歯磨きをして、いつでもそのまま眠ってしまえるように準備をしたあと一緒にソファーで映画を見る。今日は前日に届いていたケーキもあったのでそれも食事のあとで食べた。
 残念ながら悟くんは食事をしないのでこの家にある飲食物に手をつけるのは私だけだ。食事をする人間は私一人だけなのに食材の他にそういう嗜好のための品が定期的に届いている。
 二人でしたことがなかったこととして一緒にお菓子をつくることも試したが私しか食べられないのが残念で数回で終わってしまった。だけど悟くんはお菓子づくりも料理も上手い。悟くんはやって出来ないことがないのでなんでも試してもらいたくなる。加速度的に悟くんの腕が上達するのをその恩恵を受けることが出来るただ一人の人間として実感していた。悟くんは味見が出来ないので、悟くんがつくるときに時々呼ばれては味わわせてもらっている。そのたびに物凄く贅沢だなと思った。
 悟くんと一緒にタオルケットをかけてソファーに座るのは映画を見るときのお約束になっていた。暖房を入れるようになった部屋で悟くんとくっつく。悟くんの温度のないからだは私とくっついているといつの間にか私の体温そのものになる。彼本人は真冬でも体温が高くてこちらからよくくっついていたので、今は立場が反対になっていた。温度を感覚として理解できるが寒さ自体は(そして暑さも恐らく)平気だと言っていたが、私よりかなり低い温度に触れるたびに心配になってつい悟くんを抱きしめたりくっついたりしてしまう。私をすぐにそうする彼本人もそうだったのかなと思った。
 この家の中には外と乖離されたような時間が流れていて、その時間の穏やかさに錯覚しそうになる。でもそれは幻だった。今こうしている間にも彼本人を助けるために人が動いている。動かすことの出来ない現実を考えるたびに酷く急き立てられる気分になる。
 解放のための準備が周りの人によって進んでいるという話を悟くんから聞いたとき、私はほっとして、でもほっとした分と同じくらい、ただ息をして大事な人が他の人に助けられるのを待っている自覚を改めて認識していた。
「今日はもう眠い?」
 私の膝の上にいる悟くんが、こちらを見あげる。手慰みに彼の頭を撫でていたがいつのまにか手が止まっていた。蒼い瞳がこちらを射抜くように見つめる。悟くんのその幼い顔立ちは、大人の彼よりも鋭利な美しさを感じる表情を見せるのが印象的だった。悟くんの顔を見ながら、ずっと考えていたことが思わずくちをついた。
「……みんなのところに行きたいよね。私、いなきゃよかったね」
 私がいなければ悟くんも彼本人を助けに向かえたかもしれない。あるいは他の、必要とされる悟くんの力を振るえる場所に。
 私は彼本人が自らの仕事に向けていた情熱を知っている。詳しいことを伝えられていたわけではなくても、それでも、彼といると垣間見る振る舞いや時折彼のくちから話される言葉から、彼の仕事に向ける感情を少なからず分かっているつもりだ。私はそれをずっと知っていた。でも悟くんはここにいる。何も出来ない私のために。
 私がベッドで眠っているとき、時々ベッドから抜け出す悟くんは外に出て連絡を取っていた。そのたびに私は、私の存在がここに悟くんを閉じ込めていることをずっと考えていた。
 私の問いに膝の上に乗ってテレビを見ていた悟くんは私の方を向いて座り直した。そして首に腕を伸ばされ、キスをされた。悟くんとはまだしたことがない深いキスだった。自分より幼く華奢な姿をした男の子にそのまま暴虐をつくされた私は、解放されたときには背もたれにぐったりともたれかかることになった。
 悟くんの細い指が私の濡れた唇を拭う。
「僕本人が出来ないことをするための僕だよ。つまり君と一緒にいることだ」
 悟くんは自分が私のためでなければ力を出せない縛りがあることを改めて教えてくれた。離れて動く距離にも制限があるのでどうしても行くなら私を共に連れていくしかないし、連れていけば君を守ることしか考えていない動きしか出来ないので助けにならない。それに私に付き添うためにつくられているので本末転倒だと彼は言った。
「そもそも僕は君がいなかったらつくられてないし。君のための僕だからここにいる」
 ついでに言うと私以外に関わる元々保持しているはずの記憶の維持も難しくなっているらしかった。出来ることの条件をつけることで私を守るための力に繋げているとのことだった。本当に私を守るためだけに存在にしてくれているのだということを、そのときに実感した。
 分かった? と顔を覗きこまれて私は彼に縋りつくように抱きついていた。体温と共に体格差も逆転したことで、私は彼を包みこむように抱きしめられるようになっていた。涙が悟くんの着ている衣服を濡らす。悟くんはずっと私の頭を撫でてくれた。
 涙が落ち着いてきたころ、悟くんはくちを開いた。
「本当は、僕は僕の死後に動くはずだったんだよね」
「……うん」
「僕は君を守るために僕をつくったんだけど、僕がいたら名前は他の誰とも一緒にいられないだろうなとも思ってた」
「……」
「別の誰かが現れても名前は自分がいないと生きていけない僕を見捨てたり出来ないんだろうなって。そうやってずっと僕を好きでいてくれたらいいのになって思った。幸せになってくれればいいと思ってたけどそれと同じくらいに思ってたよ」
 悟くんの表情は変わらない。声もまたいつもと何も変わらなかった。悟くんはかすかに首をかしげて見せた。
「いなきゃよかったなんてもう思わなくなったでしょ。僕の方が名前に無理を願ってる。……君がどう思っていても僕は君を守るために動くし、僕と話したことが僕本人に伝わることもないから今なら何を言ってもいいよ」
 僕に対しての不満も全部聞いてあげる。悟くんはそう言った。でもその様子は不遜さすらあって不満を聞く態度というものではないんじゃないかと少しだけおかしかった。思わずほほ笑む。
「私は、嬉しかったよ。他の人と幸せになることを望まれるより、一生を他の人といられないように願われる方が嬉しい」
 悟くんは今まで見てきた悟くんのどんな表情より感情的にあっけにとられた顔をした。それから彼は目を細めて笑った。やわらかなほほ笑みに思わず目を奪われる。
「僕、名前のことが好き」
 凄い力で抱きしめられて、それまでの悟くんが私に触れるときの力は限りなく制御されたものだったのだなと分かった。私も悟くんが大好きだよと言いたかった言葉は悟くんの胸に抱きしめられたことで物理的に言葉にはならなかった。でも気持ちは伝わっていたのか髪をさっきより乱暴に撫でられる。
 その日を境に悟くんとの時間をもっと大事にするようになった。悟さんが悟くんと一緒にいることを望んでいるなら、なおさら応えたいとも思った。
 そして手を繋いで初めて家の近くを一緒に歩いた。私はここについたとき以来周りをほとんど知らなかったから、悟くんが先導して歩いてくれた。軽い散歩だったけど久しぶりに二人で外を歩くのは幸せだと思った。手の大きさや繋ぐ位置も体温も何もかも違うけど、一緒にいて感じる気持ちは同じだった。
「実現するのはちょっと遠いかもしれないけどもう少し落ち着いたらちょっと遠くに行ってみる?」
 私がそれに喜ぶと、悟くんもどこか嬉しそうな顔をした。日付は進み、12月に近づいて、気温も低まっている。悟くんの手はやっぱり冷たかったけどずっと握っていた。
 その次の日、悟くんは私を起こすと、作ってくれた(悟くんは際限なく凝った食事をたびたび作ってくれたがその日は特に雑誌に載っていそうな)食事を出した。そして私の前に座って食べる様子を見守っていた。
 いつにも増して二人で何もしないで過ごした。ずっと二人でソファーに横たわったままでいると悟くんがふと壁の時計を見あげた。
「名前に言わなきゃいけないことがあるんだ」
 悟くんがからだを起こす。そして私の顔を見おろしながら続ける。
「今日、僕本人が帰ってくると思う。さっき解呪を試すって連絡が来たからもう少ししたらかな」
 思わず呆然と彼の顔を見あげていた。悟くんはそんな私の頬を愛し気に撫でた。
「僕本人がいない世界で君を守るのが僕の役目だったわけだから、本人に戻って来られると、まあそういうことなんだよね。だから僕はまた動けなくなる」
 死以外をきっかけに起こされたことや他のイレギュラーも重なってまた起きられるか分からないし、起きても恐らく今日までの記憶もないかもしれないと感情の揺らぎがない平静そのものの声で悟くんは言った。彼本人が解放され、自分が動けなくなったらあの日迎えに来てくれた家の人間が私を本人と繋いでくれるのだそうだ。
「名前とこうやって時間を気にせずにずっと一緒に過ごすの、凄く楽しかったよ」
 彼本人が戻ってくるという衝撃と共に知らされたそれまで一緒にいてくれた彼との別れを受け止めきれずに声を失っていると、悟くんはこちらの腰にまたがって私にキスを落とした。きらきらとしたあの瞳が私を見おろしている。私が思わず彼に手を伸ばした。
「僕は君と一緒にいられる僕本人が嫌いだけど、僕本人も君と一緒にいた僕にそう思うだろうな」
 悟くんのからだは私が伸ばした両腕の中に落ちてきた。彼の名前がくちをついて出ても、返事はない。腕の中の悟くんのからだはそれまでの姿を変え、一瞬で手のひらに収まる白い珠へと変化した。
 もともと悟くんだったものを抱きしめたまましばらく呆けていた私は、出来るだけ厚くてやわらかな布を出してリビングのテーブルの上に敷き、その上におろした。そしてその前に座り私は何もせずにただ待った。しばらくして本当に彼が戻ってきたことが連絡される。私は息を深く吐いた。どれだけ早くても明日になるが時間が出来次第、そちらに顔を出すと本人が言っていると伝えられる。「分かりました」と答えたあと改めて強くお礼を伝えた。
 椅子に座りなおした私はやっぱりぼうっとしながらその時を待っていた。時間の過ぎ去るスピードが恐ろしく引き伸ばされているように感じる。私しかいない部屋の中は静寂が耳に痛かった。でも本来はあの日からこうして待たなければいけなかったのだろう。 
 私はいつの間にか玄関の前で鍵を開け放ったまま座りこんでいた。私が扉の動く音を耳にしたのはそのときから恐らく長い時間が過ぎ去っていた。
 扉が開かれ、夕日の光が家の中に強く差した。顔をあげる。目を焼くような茜色に輝く光を背に、黒を纏った彼がそこに立っていた。
「これ、いつから鍵開いたままだったの?」
 玄関の扉に視線をやってから、彼は私を見つめた。その瞳に私を映して、彼はほほ笑む。
「ただいま」
 その瞬間に私は彼の胸に飛び込んでいた。縋りつくように抱きついた私を彼が抱きしめる。嗚咽が喉を軋ませて痛かった。
「体、外にいた僕より冷え切ってるじゃん。もしかしてずっと待ってた?」
「……待ってた」
「待たせてごめんね」
 殊更優しい声を出されてもっと苦しくなった。彼が私の顔を覗き込み、濡れた頬を指でぬぐう。その手が熱いと思ったのは私のからだが冷えていたからか、私が悟くんの温度に慣れていたからか、あるいはどちらもだった。
「帰ってきてくれたから、もう……」
 首を横に振り、その手に自らの手を添えて握った。私が縋っていたからか彼は手を握らせたまま、もう片方の腕で簡単に私のからだを抱きあげてしまう。そしてそのままくちが重なった。厚い舌が私のくちを簡単に開かせる。キスをしながら抱えられて足がついていないことすら忘れた。
 気づいたときには玄関の扉の磨りガラスの向こうはすっかり日が沈んで闇に呑まれていた。彼が私から顔を離す。さっきまでキスしていたとは思えない顔だ。
「お風呂入ろっか」
 彼は私を抱きあげたまま勝手知ったる様子で家の中を移動した。悟くんもそうだったなと思う。そして彼の言葉通り一緒にお風呂に入った。
 リビングに戻って来てから冷蔵庫にあったケーキを出すと彼は分かりやすく喜んだので良かったなと思った。良かったと言っても用意したのは彼の家の人だったから改めて彼本人にもお礼を言う。
 彼はリビングのテーブルに私が置いていた悟くんが姿を変えたその珠玉に視線をやると指先でつついた。
「どうだった? 聞いたけどちゃんと動いてはいたみたいだね」
 一目見ただけでそれの正体が分かったらしい。私は彼の近くにあったそれを自分の方へと引き寄せた。そっと指先で触れてみる。
「凄く助かったよ。ここに来るまでに守ってもらったし、本当にずっと一緒にいてもらっちゃった」
「どうしても本番でしか出来ないことだったからさ。直接確認も出来ないしで気になってたんだけど役に立ったみたいで良かったよ」
 彼の横顔に私を見あげる悟くんを思い出す。本当によく似ているが、表情のつくり方が違うんだなと悟くんといるときから思っていたことを考えた。
 彼は切り分けて食べていたチョコレートクリームのタルトを私のくちに運んでから、フォークで悟くんだったそれを差した。
「僕の人格そのものだから君のことが好きだったでしょ」
 悟くんが私に大好きだと言ってほほ笑んだあの表情が、その言葉で脳裏に甦る。何も答えずに彼の顔を見つめていると、彼は何かに気づいたように首を傾げる。
「好きって言われたんだ?」
「悟くん、私より小さくてかわいかった」
「悟くん!?」
「同じ名前だからそう呼んでたの」
「僕も呼ばれたことないのに……」
 私が撫でていた悟くんだったそれに彼が乱暴に手を伸ばそうとするので慌てて手のひらで庇うように隠した。
 タルトを食べ終えた彼は私をまた抱きあげてベッドに運んだ。お風呂を上がったあとに空調を入れていた寝室は充分にあたためられている。一緒にお風呂に入ったときに冷えた場所にずっといたことを咎められ十分以上にあたためられることになったからだはいまもぽかぽかしていて少し汗ばんでいた。私の体温は彼の肌とほとんど同じになっている。
 ベッドにおろされてキスをされながら私は彼の背後にある時計で時間を確認する。また戻らなければいけないことも聞いていた。まだ猶予があることに、ほっとする。伝えられた時に、持っていたスマホが壊れて解放されたあとここに来るまでに直接話せなかったと謝られて、そんなの帰ってきてくれたからどうでもよくて、首を横に振った。
 最近はずっと私が悟くんを包むように抱きしめていたから、私よりも重く私よりも大きなからだに抱きしめられるとより自分との肉体の差異を改めて思い知らされる気がして肌がざわついた。
「抱かせた?」
 向い合いながら、自らの上の衣服を脱いだあと私の衣服を上下ともに脱がせてしまった彼は、確かめるように首筋から肩にかけて指先で羽のように軽くなぞった。
「私を守るための体だからそれ以外の機能は削ぎ落されてるって言ってた。つくったから悟さんも知ってるんだよね?」
「なくたってどうとだって出来るだろ」
 その言い方にデジャブを覚え、目の前の彼と悟くんは本当に同じ存在なのだなと実感した。私は顔を逸らし、つい笑っていた。
「笑うところじゃないよ」
「悟くんは悟さんなのに」
 彼が私の手を取る。ほとんど完治していた私があの日にマグカップで切った傷痕を彼はその指でなぞった。手のひらにくちづけが落とされてくすぐったさに震えて身をよじる。毎晩悟くんが薬を塗ってくれていたおかげもあって、痕が残っているといっても目を凝らさなければ分からない傷だったのにすぐに気づかれて、申し訳ないような嬉しいようなくすぐったい気持ちになった。
 大きな手の中に包まれて手を撫でられていると、あの小さな手を握っていたときとはまた別の安心感とドキドキする気持ちがあった。ずっとそうされていたい気持ちを感じながら、私は彼の手の中から自らの手を抜いて彼の頬に触れた。彼が私にしたように、彼の頬から手をおろしてからだを撫でる。見える傷はない。治したからないだけなのかもしれない。彼は自分の傷を特別に治すことが出来るということを知っていた。でも、残るような傷がないことに安心してしまう。
「名前」
 食い入るように見つめていた視線をあげる前に、抱き寄せられていた。あっという間に下着が外されて直接抱き合う。互いに熱を帯びたからだがくっつくと熱いくらいだった。そうしているだけでからだの中の血液の温度まで上がっているような気さえする。肌にぶつかる彼の吐息すら熱かった。
 私とは全然違うからだが、私をベッドの上で押しつぶすようにかき抱く。触れている彼の肌もまた汗ばんでいくのを感じる。
 暖色の光の下の彼の肌は、あたたかく眩しく見えた。同時に、視界の端に入る光が届かない場所の影がより濃く見える。からだの外にも中にも与えられる圧迫感にすすり泣くみたいな私の声だけが室内に響いていた。無意識に力がこもったからだは縋ることばかりに意識がいく。
「こっちだよ」
 彼に呼ばれて、自分が視線を虚空に向けていたことに気づく。目だけを動かし彼の顔を見つめる。濡れた視界の中、彼が私を見おろし、笑っていた。
「狭いなあ」
 笑っているのに出される声には苦しさも混じっていて、同じように感じていることに力が抜ける。その声や体温や肌の感触や伝わってくる鼓動のすべてが、今ここに彼がいて、私の腕の中で生きている事実を実感させた。
 もともとままならなかった呼吸すら奪うように彼が深くくちづける。その激しさに頭の中が白く霞み、それすらも気持ちよくなる。何もかもを奪われるのが気持ちいい。彼に奪われているという自覚ですべての感覚が鋭敏になる。気持ちよさで体中がざわついていた。気もちよくて苦しくて切ない。でも苦しいほど実感したから、その苦しさが際限なく欲しかった。
 終えたあとも彼は離れずにいた。私の胸に自分の耳を押し付け、いまだ早い鼓動に耳を澄ませている彼の髪を撫でる。
「君が僕を待ってるって聞いたとき、嬉しくて、……なんて言えばいいのか分からないな」
「うん」
「君を守るためにあの僕をつくったんだし、大丈夫だって考えてた。実際そうだった。でも僕を待ってる君の顔を見たときほっとした。僕ってほっとするんだって思ったよ。君がここで僕を待っていてくれてよかった」
 吐露される強い勢いの彼の言葉を黙って聞いていた。静かな声だからこそ重さがあって、私がここにいることが彼にとっても少しでも意味があるのだということが分かった。嬉しかった。
「名前に言わなきゃいけないことがあるんだ」
 その言葉は悟くんと同じものだった。自分の顔が強張るのを自覚する。言葉の中身を知る前から、言わないでと心が叫ぶ。
 抱きしめているせいで私のからだがかたく竦んだのが分かったのか、彼は顔をあげて私を見る。彼は眉をさげ、酷く優しい表情をした。見たことがない顔だった。
「まだ終わってないんだ。だから今度こそ僕が始末をつけてくる」
 もしそれがちゃんと帰って来れると言い切れるものだと分かっていたのなら彼はそういう風に言わないだろうと思った。彼のその表情にも言葉にも予感があった。
「勝てるように頑張るよ」
 じゃあまたこうやって、絶対に帰って来てくれる? そんな風に聞きたいことがたくさんあったのに、言葉になることはなかった。喉が締め付けられたように痛みを覚える。
 ――私は彼本人が自らの仕事に向けていた情熱を知っている。どう願っても彼は自分の意志でその場所に向かうだろう。ならちゃんと送り出してあげた方が彼のためになれる。引き留めることは出来ない。行かないでとは言えない。
 自分の気持ちが何一つ言葉にならない代わりに目から再び涙が落ちた。彼は起き上がり、膝の上に私をのせると今度は自分の胸に抱いた。
「僕のためにいっぱい泣いちゃってかわいいね」
 私は思わず緩みきった力で彼の胸を叩く。「いたた」と少しも痛くなさそうな声で彼が言う。
「そんなに僕が好き?」
 頷く。やっぱり声が出なくて、代わりに何度も頷いた。好きで、好きで、どうしようもなく好きだ。分かり切った返事に彼は本当に嬉しそうにしていた。
 彼が目を細めて笑った。その笑みに「ここにいるだけでいい」と私に言った悟くんのことを思い出す。彼もまた、私が幸せを願われたくはないと伝えたらあんな風に今みたいに笑ってくれるのかもしれないと思った。悟くんは彼であり、彼は悟くんだから。
「僕も君が好き」
 甘さだけが滲んだその声が私だけに向けられることに眩暈がするような幸福を感じる。奪うみたいに強引な強さでキスされて、私は彼の首に縋って応えた。彼の太い指が私の髪を優しく撫でる。
 彼はその日≠ェ12月24日に決まっていることを教えてくれた。それまでにすべきことがあって忙しくなるけど出来るだけ顔を見に帰って来られるようにすると彼は言った。実際に彼はその言葉を叶えてくれた。だけどどう考えてもそれまでとの忙しさに輪をかけているのが伝わってくる。それでなくとも大事な日が近づいている中で、彼はここに来ている。大丈夫なのかと何度か聞いてしまいそうになって、でも聞かなかった。自分の忙しさを最も理解している彼がしてくれていることを尊重したかったから。
 彼は私を膝の間に抱えながら持って帰って来てくれたケーキをくちに運んでいる。私も彼と同じケーキを食べていた。今日は桃のショートケーキだ。
 私一人のときにも一人で食すのは難しい量の生菓子が届くことがあったので調整をお願いしていたがそれも今は最初の量に戻されている。もともと甘いものをよく食べる人だったけどここ最近は特に良くくちにしているのを見ていた。そうせずにはいられないくらい大変なスケジュールをこなしているのを隣にいるだけの私でも感じている。
 つけられていたテレビにはニュースが流れていた。ニュースで報じられる大部分の内容は悟くんと一緒に見ていたときから変わっていない。彼にもたれかかりながら、ぼんやりとテレビを聞き流す。
「……無理しないでね」
「ここに来るより来ない方が耐えられない」
 小声で伝えた言葉にはすぐに返事が返ってきた。
 私が悟くんとしていたことを彼はしたいと言っていたが、時間の関係でやっぱり難しく、それでも一緒に過ごすことをしてくれている。悟くんとどう過ごしていたかを初めて話したとき、彼は私が悟くんと呼んでいることを伝えたときと同じ反応をしていた。
「僕より先に名前とハネムーンみたいなことしてるじゃん」
 と言われてそう言われればそうかもしれないと思った。一緒にいた最中も感じていたけど、過ぎ去ったあとに、よりその時間の楽しさを実感していた。出かける約束を果たすことは出来なかったけど悟くんは分かっていてしたのかなとあとから気づいて寂しくなった。あれからあの悟くんが姿を変えた珠は彼に回収されている。手つきが怖かったので大事にしてねと強く念を押しながら渡した。
 彼はテレビを消すと私を抱えあげて寝室に向かった。帰ってきた彼は時間を惜しむように私に触れるようになった。私の顔を見に帰って来てくれる頻度はむしろ今まで一緒にいた中で最も多いくらいだ。おそらく意識的にそうされている。それが余計にいつもとは違うのだという自覚を私に持たせた。あの日がきっかけだったのかだったのかもしれないし、その日が近づいているからかかもしれない。言葉にされなくても今までと変化を感じていた。
 なんにせよ彼は時間を割いてここに帰って来てくれて、そして二人で食事をして、二人で抱き合って、短い間一緒に眠ってくれる。限られているはずの彼の時間の中、最大限の行動で示されていた。
 外がどうあろうとこの家の中だけはやっぱり静かで、そうするために彼が力を尽くしているのを私は既に悟っていた。だからこそ私は自分の意志でここにいる。外からは雨の音が聞こえていたがそれが余計に世界と隔絶しているような錯覚をより感じさせていた。
 世界に二人きりを思わせる部屋の中で、あの瞳が私を見ている。目の前にいる彼がすべてになる。かつてなく抱きあうことで、私のからだは彼のからだとこれまでにないほどに密着した感覚を覚えるようになっていた。隔たりが消え一つになっていく感覚はどんどん深く濃く、馴染んでいく。こうして開かれ彼と繋がるために自らのからだが存在していることを本心から感じる。私のなにもかもをとかしてしまいそうなその感覚に、その日が近づいていく焦燥が混ざる。
 彼にこれ以上ないほどの愛情で抱かれている実感がその日が来ることへの恐ろしさを異常にかきたてる。今こうして彼が抱いてくれるのに切なくて、私は彼の名前を何度も呼んだ。呼べば呼ぶほど苦しくなった。私の様子がおかしいのに気づいてしまったのか、彼が表情を変える。
「僕のこと見て、名前」
 息を整えようとしたのに上手くいかない。まずいと思うのに感情が昂っていくのが分かる。深く向き合わないようにしていた気持ちが広がっていく。からだの制御が効かなくなって思わず自分の顔を手で隠そうとした。でも彼はそれを許さなかった。大きな手が私の手首を握って顔から離してしまう。痛みを感じさせないための力加減で、でも拒むことを許さない力だった。
 酷い顔をしている自覚があったのに、彼は目を逸らさずに私を見ていた。あんまりにも真っ直ぐ見つめられるから顔がもっと歪む。
「僕はここにいるよ」
「……うん」 
 囁くその声は言い聞かせるようでいて優しい。抱きしめられて、おかしかった自分の呼吸が落ち着いていく。続きをねだったが彼は私に軽くキスをしてそれでおしまいにした。それまで彼が纏っていた気配が変化する。
「今日はもう抱き合って寝よっか」
「やだ……」
「やだって言わないで。傷つくから」
 行っちゃいやだと言ったら少しだけでも行く気にならないでくれるかなと思ったけど私は彼を傷つけたいわけではなかった。行かないでなんで言えない代わりにやだって言ってごめんねと謝ると彼は好きって言ってくれたら許そうかなと冗談めかして言う。
「僕のこと好き?」
「死んじゃいそうなくらい好き」
 私の素直な気持ちの告白に彼は自らの腕の中に私を強く強く、痛いくらいに閉じ込めた。一生こうして閉じ込められていたいと思った。
 進む日付を惜しむように過ごす日々の中で、しておきたいことはあるかを改めて彼に問われたので悟くんとしたように彼とも手を繋いで外を一緒に歩きたいと願った。彼は叶えてくれた。
 その為に用意されたコートを着込み、マフラーまで彼の手で巻かれる私とは対照的に彼自身は上に軽く羽織っただけの恰好だった。ちゃんと着こんでも外の染み入るような冷たさの風に悲鳴をあげる私とは裏腹に彼は平気そうだ。
 話しながらしばらく一緒に歩いているうちに日が傾き、空が染められていく。暮れていく日の中で彼の髪に日没の色が映る姿を私は改めて目に焼き付けた。
 どちらからともなく歩みが止まり、二人で夕日を独占しながら見つめる。近くには他の建物も人影も存在していなかった。家はそういう場所にあった。周りの空間は歩き回れる距離は存在しているもののある程度でとざされている。ここに連れてきてもらったとき同様に知っている人の手を借りなければ私は家から出ても恐らく外に出ることが出来ない。
 空の端に広がる重くて濃い暗闇があっという間にすべてを呑み込んでいく。私は彼の顔を見あげながら尋ねていた。
「いつから考えてたの?」
  悟くんといたときに抱いた疑問が過ぎっていた。――自分がいなくなったあとのことをいつから考えてたの? 彼はふっと笑ってから答えた。
「あの僕をつくって置いて行こうと考えたのは嫌な予感を少し前から抱くようになって、その時から。ここを用意したこと自体も割と最近。でも僕がいなくなったあとの君のことは君を愛したときから考えてた」
 私は思わず彼のからだに縋り、くちに出していた。
「置いて行かないで」
 彼が目を丸くしている。でも言葉は止まらなかった。
「悟さん以外の誰もいらない。悟さんと、に、二度と会えなくなっても、ずっとずっと好きでいる。他の誰かと幸せになんてなれない。なりたくない」
 燃え盛るような、あらゆるものが混ざった感情に何もかもを焦がされそうだった。悟くんから伝えてもらった僕がいたら名前は他の誰とも一緒にいられないという言葉がリフレインする。
 私はそれが嬉しかった。でも彼が悟くんをつくらなくても、代わりの自分を私に残さなくても、それでも私は彼をずっと好きでいた。彼を失ったあとに誰かと人生を歩むことなど考える必要なんてない。彼を失った人生を私は欲しいと思わない。平気になるくらいなら、そうじゃなくなる前に終わりたかった。
「どれだけでも待ってるから。ちゃんとずっと待ってるから。帰って来て……。お願い……」
 彼は何も言わずに私を抱き寄せてキスをした。世界を染める茜色の残影が眩しくて痛いくらいで、目が潤んだ。彼が私の瞳を覗きこむ。肩を掴まれた。指先にこめられた力は痛いくらいだったけど私は彼の瞳だけを見ていた。
「この前名前と引き離されることになったでしょ。名前が僕から離れても幸せにはなって欲しいと思ってたし実際あの瞬間に願ってたんだけど、こうも思ったんだよね。僕のいない場所にいる名前の幸せを願うのは一度で十分だなって。二度目はいらない」
 彼が言葉を止める。一拍の間を置いて私に確認するように問うた。
「僕は名前を二度と離さない。それでもいい?」
 私は一度だけ深く頷いた。そこに言葉はいらない。彼が私を離さないと言ってくれるのなら他に必要なものなどなかった。彼にそんな風に言ってもらったのなら、見送るのがどれほど怖くても彼の帰りを待っていたようと思った。
 それから、手を繋ぎなおして一緒に家に帰った。帰る途中で彼は、悟くんがそうしたように前触れもなくびっくりするようなことを言った。
「代わりの僕が消えたとき最後にあの珠だけ残ったでしょ。あれって僕の骨で出来てるんだよ。僕をつくるために使ったから」
「……………………どこの骨?」
「内緒」
 驚きすぎて出してしまった的外れな質問に彼は軽やかに笑い声をあげた。
「僕のことも名前にいくらでもあげる」

 私はその日の前日の昼に彼を見送ることになった。玄関で尋ねられた「明日、向こうで僕の姿を見ていることも出来るけどどうする?」という質問に私はかたまる。迷いに迷ってくちを開こうとして、その前に彼の方が先に答えを出した。
「ここで待っていてくれる?」
 私がどう答えるかを彼は最初から分かっているみたいだった。
「世界で一番格好いい恋人の僕のこと見ててほしいけど、でも名前は僕が傷つくの見たら泣いちゃうもんね?」
 からかうような顔をしていた彼が私の顔をじっと見つめ、真面目な顔になってから言う。
「もう一回抱いておけばよかったかな」
 首を横に振る。私は彼の腕を引いて屈んでもらい、両頬に手を伸ばした。手を添えて彼の視線を感じながらそっとキスをした。今生の別れを惜しむようなことをしたら本当にそれで最後になってしまいそうだったから、これだけが良かった。
 彼を送り出すということに、脳裏に焼き付いている悟くんが腕の中で姿を変える様子がずっと頭の中で繰り返されては、鼓動が早まる。目の前で彼を失うことを連想してしまう。それでもくちを開いた。
「ちゃんと待ってるね。だから終わったらいっぱい抱きしめて」
 彼の首に腕をまわして抱きしめると、彼もまた抱きしめ返してくれた。強く抱きしめられすぎて彼の鼓動が私のからだに直に伝わってくる。私とは違い緩やかなままの、当たり前に動いているその鼓動が愛しく思った。こうやって当然みたいにその鼓動が動き続けて欲しかった。ずっとずっと生きていて欲しい。
 彼が今からどこに向かうのかを、危ない場所だと分かっていて送り出すのは初めてで、それは想像していたよりずっと怖いことだった。でも彼は私を二度と離さないと言ってくれた。だから私は耐えることが出来る。その言葉をくれた彼へ応えるためにも。
 それでもこの抱擁が永遠であればよかったのにと、彼の腕から抜けていく力を感じながら思った。
「頑張ってくるね。帰ったら一番に名前からキスしてよ」
「……もう今したい」
 そう言うと笑った彼の表情や今度は彼からしてくれたキスや私の髪を撫でた指を、この先何があっても私は忘れないだろう。彼の存在や愛情を全身で感じながら、彼がこうして再び戻ってきてくれることを私はただひたすらに待ち望んでいた。

朝焼けみたいに呪ってほしい

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