NOVEL | ナノ

 「連れて行く」と言った流川くんは、その言葉通りに私を連れて部屋を出た。流川くんに手を引かれるまま外に出た私は、その後二度と婚約者と顔を合わす機会を持つことはなかった。流川くん(と流川くんの契約している弁護士)が婚約の解消の手続きをすべて担ったからだ。
 私自身が婚約者に何も話をせず流川くんに頼り切って解決してもらうことへの罪悪感はあったが、直接顔を合わせる意志を見せると「オレと別れようとしたときは顔も合わせようとしなかったくせに」と、流川くんが不満な様子を見せたのでその話は当人である私の介入を経ることなく終わりを迎えた。
 向こうの元に最後に直接会いに行った流川くんは、彼が帰ってきてから顛末を尋ねた私に「金を払って終わりにした」と端的に答えた。
「アンタとアレの関係が切れたって証明になんならいくらでも払う。アンタはもう二度とアレと会わない。だからこの話は終わり」
 流川くんと違って一括で出せる自信はなかったが貯金はあったし、そのお金は私からこれから流川くんに払っていきたいと伝えると「いらねえ」とこちらを睨むみたいに見つめて流川くんは答えた。どんな話があったのか、それ以上の詳しい話をしてくれるつもりはないようだった。
 彼を見つめていると「ああいうヤツがいいの」と拗ねた声で問われて、思わず目を丸くしてしまった。それからやっと婚約者が流川くんとは真逆のタイプだったことを思い出す。交際をする相手は誰でも良かったから、真逆になったのは偶然でしかなかった。
「流川くん以外の男の人ってみんな同じに見えるから考えたことなかった」
 私が特別なのは流川くんだけ。そうくちにすると流川くんは驚きを顔に出してから、くちもとに満足げな表情を浮かべて「オレもそう」と言った。
 その話はそれで終わったが当然気にはかかるので流川くんがいないのを見計らって日本の婚約解消にかかる慰謝料について密かに調べているといつの間にか後ろから現れた流川くんが私の抱えていたタブレットを取り上げた。
「……借りってことにしたらアンタはオレから逃げらんねえのか?」
 ボソッと言われた流川くんの言葉には本気が滲んでいて、私は苦笑した。
「もうどこにも行かない、流川くんが私をいらないって言うまでは」
「そんなこと一生言わねー」
 そうだといいなと思った。笑ったままでいる流川くんはむっとしたように私の手にあったスプーンを引き寄せると自分のくちに運んでしまう。
「頼まれても絶対言ってやらん」
 すくわれていたアイスクリームを飲み込んでから流川くんはそう繰り返した。だから私は流川くんのくちに自分からキスをして「嬉しい」と囁いた。
 私が日本を出て流川くんの元で暮らすための国内で必要な手続きを早急に終わらせたあとに流川くんは本当に自分の元に連れて帰った。それからはずっと流川くんの家で暮らしている。
 この家に初めて足を踏み入れる前、空港に降り立ちここにたどり着くまでに買ってもらったアイスクリームを手渡されて流川くんと一緒に食べた。そう言えば昔もこうして食べたなということを思い出しながら私はそれをくちに運んだ。
「甘いの久しぶりに食べた」
 そう言うと流川くんはびっくりした顔をした。甘いものというか流川くんと離れてからはそもそも食に対する関心自体が薄かった。くちの中に広がる味に、自分が甘いものが大好きだったことを思い出す。まさに幸せを味覚として感じて自然と頬が緩んだ。流川くんはそんな私を抱き寄せて人目も憚らずくちにキスをした。
 それから流川くんは私に甘いものをよく買って帰ってくるようになっていた。今、こうして食べているアイスクリームもそうだ。冷蔵庫にも冷凍庫にも常に何らかの甘い食べ物が常にある。その外にも。私はそれらを目にするたびに、くちにする前から幸せを感じる。流川くんの愛情そのものだからだ。
 今度は自分の手でアイスクリームをすくって流川くんのくちに運ぶ。以前と違って流川くんがくちにするものは計算されているので与えたいだけ与えるというわけにはいかないがそれでもやっぱり差し出した私の好きなものを流川くんがくちにする姿はやっぱり好きだった。
 じっと彼を見つめていると流川くんは私の手からスプーンを抜き取った。そして今度は私のくちに運んでくれるのでそうして何度も飲みこんだ。
「こんなに幸せでいいのかな」
 流川くんが動きを止める。彼は手にしていたスプーンをまだ残っていたアイスクリームに刺すとそのままテーブルに置いた。並んで腰かけていた広いソファーの上で抱き寄せられる。
「オレのことだけ考えて、オレのものでいればいい」
 語調の強い言葉を放った流川くんの瞳には不穏な光があった。底なしの深さを思わせるその瞳の光は酷く静かだったのに恐ろしくてゾクゾクした。ずっと見つめていたかった。別れる前には見ることがない瞳だった。私がそうさせたのだ。
「二度と離さねえ」
 その声の響きにうっとりする。この家に連れて来られてから、流川くんの私に対する態度には以前からは考えられない支配的な気配が滲んでいた。多分流川くんがそう望まない限りは私は日本にも帰してもらえないかもしれない。
 でも私にとって最も重大なことはその流川くん本人が私の隣にいて、そしてこうして「離さない」と言ってくれるということだった。最も願ったものなら腕の中にあったから、だからもう、なんだって良い。
 深くくちづけられながら押し倒される。流川くんの大きくて重い体にそうしてのしかかられると檻のようだ。買ってもらった指輪の嵌まった手を流川くんの背にまわす。もう出してはもらえない囲いに自らの意志で縋って、目を閉じた。

EUPHORIA

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