NOVEL | ナノ

 定期考査の前以外でも習慣的に流川くんの勉強を見せてもらうようになったのは付き合い始めてからだった。それに加えて流川くんのバスケへの励み方を間近で見守る機会を得たことで自らを律する気持ちにさせられるので私の勉強への意力はつられるように高い位置を維持し続けることになっていた。流川くんの自主的な練習を学校内で待つ隙間の時間を必然的に勉強に充てるようになったことだとか、行動としても習慣を得ることになった私は私自身の結果や実際に教える際の余裕を得る成果を出すことが出来た。
 流川くんと私の並びがバランスを欠いているということは私が最も分かっていた。だから少なくとも、他のことでくらいは流川くんの力になりたかった。恐らく流川くんに言えばどうでもいいと断じ、勉強を見てもらうために一緒にいるわけじゃないとも言い切ってくれるのだろうなと想像することが出来るのに、そんな風に思った。私は流川くんからの好意を感じるたびに、それを嬉しく思いながらどうしても心のどこかで流川くんと私の並びのアンバランスさを感じずにはいられなかった。
 その日に私の家で流川くんと一緒にこなしていたのは提出課題だった。休みの日に屋内で過ごすときは私の家で過ごすことが大概だ。私の家は私以外の人間が存在していることの方が珍しくて、流川くんのお家に連絡を欠いたり心配するような時間を超えたりするようなことをしなければ融通が利いたからだ。
 なんとなく集中力が切れてきたころだったのもあってちょうど向き合っていた課題の文章に出てきた『逆鱗』という単語の由来を、以前に古典で学んだときの記憶を脇道に逸れるように思い出していた。流川くんの集中力も私と同じように途切れているのを感じて、つい文章の中のその単語を指で示しながら由来の龍の話をしてしまう。
「触れるとすごく怒る逆さの鱗が喉にあるんだって」
 戯れに、隣で並んでテーブルについている流川くんの喉に手を伸ばしてみる。がっしりとした肩と繋がっている彼の首はこの近さで改めて見ると私とはそもそも太さが違った。伸ばした指先に皮膚の下の喉仏の存在を感じて、意図せずに得たその感触に思わず手が跳ねる。改めて、指の甲だけで撫でてみた。
 流川くんの逆鱗という言葉を想像して、答えをいくつか頭に思い浮かべてみる。分かり切った答えだ。流川くんの逆鱗は流川くんの人生から今までもこれからも切り離せないような、大事なもの。分かり切った答えだ。
 喉というより喉仏に夢中になって触れていると、されるがままの流川くんと目が合った。撫でられるがまま受け入れている流川くんの様子は大きくて泰然とした猫のようだ。
「流川くん、猫みたい」
 そう言うと今度は流川くんの手が私の喉に伸びてきて確かめるようになぞられる。流川くんの手は大きくて、そうされていると片手だけで私の首のほとんどを覆うことが出来てしまうのが試されなくても分かった。いとも簡単に絞められてしまいそうだなと思う。
 そのうちに流川くんは喉ではなく、私の頭に手を伸ばして撫でた。そして無言でいっぱい撫でられる。力任せじゃなくて加減されているのが伝わってくる穏やかな手つきだった。
 首をすくめながら身を任せていると流川くんはくちを開いた。
「それはアンタ」
 私の顔を覗き込んだまま、流川くんは表情を変えずに撫でるのを続ける。本当の猫を撫でてあげるときもこうして撫でてあげるのかなとも思った。
 流川くんは頭を撫でていた手で今度は髪に触れた。私とはなにもかもが違う流川くんの手が、私の髪に間に入って、さらさらと撫でる。梳くように動いた彼の指がやわらかく髪を引っ張った。そうして触れられていると頭皮から首の後ろのあたりに甘い痺れが走って、幸せで、ぼうっとしてくる。
 髪に視線を落としていた流川くんが顔を上げた。目が合う。表情を変えた流川くんはその大きな手を私の頬に添えて、そのままくちを重ねた。一度くっついた唇はそのまま角度を変えて再び重なり、熱を帯びたものになっていく。いつの間にか背中を撫でていた流川くんの手の動きに、キスの合間に小さく声が漏れた。体が自然と震えてこのままずっと触られていたくなる。でも流川くんとまだ片付けていない勉強の範囲の存在があった。
 体を離そうとしたこちらの動きを流川くんは太い腕で強く抱きしめてなかったことにしてしまったので、私は迷いながら流川くんの舌を軽く歯を立てた。流川くんの体がびくっと反応する。と同時に離されたくちで深く息を吐いて、頭を流川くんの鎖骨のあたりに押し付けた。
「……やっぱりアンタの方が猫」
 そのまま彼を抱きしめて頭を擦りつけるようにくっついた私に流川くんの声が降ってくる。本当に猫みたいに鳴いてみようかな、そうしたらもっと撫でてくれるかなという考えが頭をよぎったが、それをして勉強の続きが出来なくなってしまうのはお互いに困るので我慢した。
 勉強を再開し予定していた分を終えてから、ケーキとともに既に冷えていた紅茶を淹れなおして流川くんに出した。ケーキには種類があったけど問いかけると選んでいいと言われるのを分かっていたので、確認のつもりで「こっちが私でいい?」と気分で選んだ方を指して聞くと頷かれる。
 私は甘いものが好きだった。種類も問わず、なんでも好きだ。流川くんもそれを知っているのだった。こういう場面だといつも私が選ばせてもらっていた。
 今日の分の勉強を一通り終えたことに肩の荷が下りた気持ちになりながらケーキを運ぶ。くちの中に広がる幸せの味に自然と頬がほころぶのを自覚した。噛むごとに感じる香りに生地に練り込まれているのが紅茶だと気づく。甘くて爽やかで美味しい。
 目の前のケーキにそうして夢中になっていると刺すような真っ直ぐな視線を感じる。視線の持ち主である隣の流川くんは、手を伸ばして私の頬にかかっていた髪を耳にかけた。指先に誘われるように顔を上げる。
 そんなに見られていると照れると伝えても意味がないのを既に知っていた。「でも見たい」と目を見て言われるだろう。私はその声を頭の中でいつでも再生できる。
 自分が夢中になっていたケーキをフォークで切り分けて流川くんのくちに運んだ。彼は素直にくちを開けてくれる。美味しい? と聞くと頷きののちに「甘い」という言葉が返ってきた。流川くんは私のように甘いものが特別に好きなわけでなかった。でも一緒に食べてくれるし、(甘いものに限らず)くちに運んでも食べてくれる。されるがままのその様子を見たくて私はいつも彼に自分の好きなものを差し出す。
 ケーキを自分のくちに運ぶのを再開して楽しむのを続けていると、やっぱり流川くんは私を見ていた。流川くんの瞳にはそうしてただ誰かを見ているだけでも美しさの魔力がある。私は流川くんを好きだから、その姿を美しく感じる気持ちよりも強く、彼をかわいいと思った。
「アンタが食べてると美味そうに見える」
 思ったことをそのままくちにしたというような調子で言われた言葉に、もう一度彼のくちに運んであげた。特別な関係になる前にも言われたことがある、流川くんがよく言う言葉だった。私が甘いものを食べる姿を流川くんはいつも凄く見ている。私も流川くんのバスケをしている姿から目を離せないからそれと同じなのかもしれない。絶対的な違いがあるとしたらバスケをする流川くんの姿を見て心を動かさない人間はいないだろうけど食事をしている私の姿を見ることに魅力を感じるような人間はほとんどいないだろうことだ。
 無意識のうちにフォークを動かすのを止めた私に、今度は流川くんが自分の分のケーキをフォークで差し出してくれたのでくちをあける。くちを閉じて咀嚼する私を流川くんはケーキに向けるよりも熱心な瞳で見つめていた。
 そうしてケーキを食べ終えて紅茶も飲み終えた私はカップを置く。最後までじっと様子を見守っていた流川くんが、カップから手を離したのを見計らって腕を私に伸ばした。こちらが食べ終えるまで"待て"をしてくれていた流川くんはその時を待ち望んでいたように、私を抱き上げてベッドに下ろす。
 重ね合わされた流川くんのくちの中はさっきまで食べていたケーキの甘い味がかすかにした。深いキスをしながら流川くんが私の服を脱がし、その下に触れていく。触れられながら、こちら見下ろす流川くんの喉仏をさきほど触れた感触を思い出して、思わず見つめた。
 体中を大きくて厚いその手で直接撫でられるとそれだけで強く高揚した。流川くんの手が私の髪を、頬を、肩を、そして衣服や下着に隠していた部位に触れて、その手の熱さで私の心も体も犯していく。流川くんの腕の中で流川くんの肌のにおいに包まれていると、それだけで私はその気になる。
 私の着ていた衣服は完全に剥ぎ取られ、何も身につけない姿のまま流川くんに見下ろされる。流川くんは全てを脱がせることが好きだったので気づいたらいつもいつの間にかそうなっている。(服の脱がせ方もそうだったし、それ以外でも)流川くんには上手だなと思わされるけど世の中の男の人はみんなこうなのか、それとも流川くんだけが特別なのかは知らない。私が知っているのは流川くんだけだったから。
「ヨケーなこと考えんな」
 耳に吹き込まれて思わず体が震えた。額同士がくっついて、あの瞳で目を覗き込まれる。私は甘えるように額をもっと擦り合わせた。
 感触を確かめるみたいにいろんな場所に触れてから私の体が"そう"なっているのを確認すると流川くんは笑った。美しい顔立ちが浮かべる笑みなのにどこか恐ろしく感じる、意地悪な笑い方だ。その笑みを見ると私はもっとダメになる。
「他のこと考えてたくせにオレにこうなってる」
 なじる様な、でもどこか甘い声に震えた。激しいことを何一つされていないのに目の前がちかちかした。
 流川くんが自分のシャツに手をかけて全部を脱ぐ。自らのシャツをベッドの下に落としてからベルトに手をかけて緩める仕草に私は彼の名前を意識せずに呼んでいた。 
「……流川くん」
 目の前の彼が視線を上げる。言葉にされなくても「なに?」とこちらに問いかけているのが分かる。彼の名前を呼び、当たり前みたいに反応をしてもらっているのが物凄く恵まれた、とても特別なことだと思えた。
「つけなくてもいいよ」
 私は少し前から薬を飲み始めていた。それは流川くんの存在をきっかけとする以前から服用を考えていたことだった。
 もともと影響が出がちで伏すことが多かった症状が正しくなれば体調としての単純なメリットのみならず時間が得られると思った。時間を得ることが出来るなら、流川くんと一緒にいたかった。改善されて実際に得られる時間が数字にすれば短いと言えるものであっても、増やせるなら増やしたかった。どれだけ時間があっても多すぎることはなかったし、こんな風に何の翳りもなく一緒に過ごせる時間は短いということを私はよく分かっていたから。
 飲み始めの最初の期間も十分に過ぎていた。薬が合うかどうかや体調についても確かめて、このままならこれからも飲み続けていけるだろうことを病院でも確認している。
「このまま流川くんにしてほしい」
 必要な薬を飲んでいることを説明すると流川くんの鋭い瞳は驚きに見開かれ、そして見つめられるだけで汗が滲むような、ゾクゾクするような光を帯びた。私はその瞳に見惚れてドキドキした。
 目を伏せて耐えるように深く息を吐いた流川くんの様子からは言葉がなくてもゾッとするほどの強い興奮が伝わってくる。流川くんはさきほどよりずっと乱暴な仕草でベルトを外し、のしかかるようにして私にあてがう。私の体を自分の大きな体で閉じ込めた流川くんの荒い息が頬に触れた。彼が興奮してくれている事実が何より気持ち良かった。気持ち良すぎて鳥肌が立っていた。
「いれる」
 私から願ったのにそれでも最後にしてくれた確認の問いに私は流川くんの首に腕をまわしてねだった。その瞬間に自分のなかを奥まで犯される。深くまで流川くんを受け入れる感覚に反射的に喉の奥が締まり、掠れた高い声がそこからこぼれた。
 腕の中にある流川くんの肉体は熱くて汗ばんでいた。響いた私の声まで流川くんのくちによって食べられる。そうされていると呼吸も出来なくて、苦しくて、でもそれも気持ち良かった。頭がおかしくなりそうなキスの合間に、流川くんの耳へと囁く。
「こうされるのはじめて」
 呼吸がままならない、呂律のまわらない舌で伝えたい言葉を必死に紡いだ。
 私のこういう経験が流川くんとすることがすべて初めてであるように、流川くんもまたそうなのだと以前教えてくれたことがある。だからこうやって隔たりなしに体を重ねるのも私が流川くんにとって初めてのはずだ。
 流川くんの初めてを一つずつもらうたびに、私の人生の中で最も価値あるものだなと思った。流川くんの初めてを私なんかが奪ったことに声をあげて笑いたくなる。同じくらい、これからさきの未来で流川くんとはもう一緒にいない私がその価値を噛みしめる寂しさを想像する。
 私は流川くんしか知らないから、こんなに頭がおかしくなるくらい気持ち良くて泣けてくる行為が"普通"なのかも知らない。それでも、他の男の人と試したことがなくても、こうなるのは流川くんだけなのだろうということを私は心のどこかで悟っていた。
「私にこうしたの、流川くんがはじめて。流川くんだけ」
 流川くんに初めて抱かれたときと全く同じセリフを私はくちにした。恍惚の滲んだ私の声は熱に浮かされているようにも聞こえた。流川くんの喉が鳴る。彼の浅い呼吸や早い脈を触れ合っているところから感じる。流川くんが私の言葉によって煽られていることに感じる昂ぶりに思わずくちもとが緩んだ。
 私の体を抑える流川くんの腕にも動きに遠慮がなくなっていく。それにつられて既に何度も達していた私の体がそうなる頻度すらおかしくなっていく。言葉を話せなくなる前に、今度は流川くんが確認する前に、私はこいねがった。
「全部、なかに、出して。……私のこと、流川くんのものにして」
 流川くんが私に覆いかぶさるようにして、奥で動きを止める。自らですら触れることのない奥まで貫かれて、また簡単に私も達した。流川くんの腕の中で、彼自身が私の言葉で達したことをぼーっとしながら理解する。
「流川くん大好き」
 心から漏れた言葉に、じっとりとした目線を向けられた。表情が変わらない流川くんの頬がさっきよりも赤みを帯びているのが分かって、彼が照れていることに気づく。
 堪らなくなって思わず手を伸ばし、流川くんの頭を胸にかき抱いた。そして彼の髪を撫でる。そうしていると流川くんが私を見上げた。視線を受け止めながら彼の長めの髪をかきあげて額を出させてみる。その白い額から後ろに髪を流すように撫でると彼は目を細めた。私には流川くんがやっぱり猫みたいだなと思う。
 流川くんは今まで出会ったどんな人間よりも美しい顔立ちをしている。私の部屋の私のベッドという背景から彼はまるで合成したように浮いていた。私の人生において流川くん以上に美しい人間と知り合い深い仲になることも、こんな近さで見つめることも、恐らくこの先ないだろう。流川くんと遜色のない美しさや存在感を持つ人間がいるなら、それはテレビやスクリーンの向こうに存在するのだろうなと思う。どちらにしろ、別世界の人だ。最も直接的に繋がりながら流川くんを胸に抱いているのに、それでも私を焼こうとする焦燥を彼のまだ汗ばんでいる額にくちづけて誤魔化した。
 私が彼の髪から手を離すと流川くんは体を起こした。繋がったままの私の奥ではさっき達したはずの流川くんの存在感がまだあって、思わず自分のおなかのあたりに手を置いてみる。流川くんは私のその手の上に自分の手を重ねた。私の中身まで支配しているのを意識させるような仕草だった。
「とっくに俺のもんだろ」
 そしてそう囁くと、流川くんはもう一度動き出した。意表を突かれて思わず声をあげた私に今度は流川くんが額やこめかみにキスしてくれる。なだめるみたいにキスをしながら、あられもない声を出させたことに満足そうな顔をしている流川くんが本当にかわいかった。
 抱き合って、始末を終えたあとも互いに何も言わなくても二人でくっついていた。そうしながら見せようと思ったことを思い出し、私を後ろから抱えている流川くんに処方された薬を入っている紙のように薄くて長い箱ごと手渡した。箱の中の包装シートの薬は既に飲んでいる分だけ減っている。流川くんは透かすようにして箱を持ち上げて中に収められている薬をあの瞳でじっと見つめていた。
 ちゃんと飲んでいるからと伝えたくて実際に渡したけど普通の男の子は実際に薬を目の当たりにするのって生々しくて嫌かなという想像に渡してから思い当って、瞬間的にひやっとしたものがこみ上げる。でも流川くんはそもそも生々しくて嫌という考え自体がない気もした。
「体調は?」
 そんなことを考えていたので声をかけられたとき思わず肩が跳ねてしまった。流川くんの顔を見上げると彼はその長い指で、箱の中に書かれていた注意書きを指した。服薬によって出るかもしれない症状やリスクについて細かい文字で書かれている。
 流川くんの言葉の意味を噛みしめて、ようやく、自分が心配されていることを理解した。
「アンタが平気ならいいけど無理してまで飲んでほしくない」
 カーテンが引かれた部屋の中、流川くんの肌が照明の光を受けてその白さを際立たせているのを私は見ていた。電気の光の下だと流川くんの肌は余計に白く見える、放心するみたいにそんなことを思った。
 流川くんが私の身を思いやって、気遣ってくれているという実感が嬉しさとともに胸の中をぐちゃぐちゃにした。声が震えそうになるのを必死に抑え込み内服で得られるメリットの大きさや実際に体調を崩すことはなかったことを伝える。経過の診察もしてもらうことになっているから大丈夫だよとも伝えると流川くんは「ならいい」といつもと変わらない声音で言った。でもその声には安堵が混じっているのを私には分かってしまう。
 彼が今私に向けている声や視線によって、流川くんは私のことが本当に好きなんだという事実を思い知らされる。ふとしたときに強い実感を伴うその事実はいつも私の肺腑をめちゃくちゃにした。そのまま私のことをずっと好きでいてと叫びそうになった。そう出来るはずもなかったから、私は黙って流川くんの首に抱きついた。
 流川くんが私を好きだという事実を私はちゃんと知っている。流川くんは自分の気持ちに素直で、私に関する流川くんの言動のすべてに好意が滲んでいた。流川くんの振る舞いはどんな人間でも疑う余地がないほどに真っ直ぐだ。でもその幸せはある日自分の手の中に星が落ちてきたみたいな奇跡だなと思う。そんな身分不相応な幸福はいつか取り上げられてしまいそうな気がした。ずっとしている。だから怖かった。
 私は流川くんのことが大好きだ。流川くんが私のことを大好きでいてくれるのも分かる。一緒にいられて嬉しい。でも私が彼を手に入れてしまっていること自体が間違いだったと言われたら、"そうだよね"ときっと納得してしまうだろう。私に流川くんに選ばれる価値がないことを私が一番分かっている。
 いつだってそこにある恐ろしさを自覚するのを無視して彼の耳もとにくちを寄せた。「心配してくれてありがとう、嬉しい、大好き」と小さな声で伝えると流川くんは私の体を強く抱きしめてくれる。
「フツーは気にする。当たり前」
 こんな風に愛されるのが"当たり前"になっちゃったら私、おかしくなっちゃうよ。そう思ってから、もう"なっている"とも思った。流川くんに好かれたその瞬間から、流川くんに愛されることを知ってしまったから、私も私の人生も取り返しがつかなくなっている。
 目の前の彼にずっと私のものでいて欲しかった。月を泣いて欲しがっていると自覚していても、それでも、どうしようもなかった。流川くんが私を愛していることが間違いでも、ずっと間違っていて欲しかった。流川くんはどうしたらずっと間違い続けてくれるだろう? どうしたらずっと私をこうして好きでいてくれるだろう? 流川くんの背にまわした腕が、抱いてしまった気持ちでこわばる。こんなことばかり考えている私を知らないまま、流川くんはそれでもきつく抱きしめてくれる。
 流川くんが海外への進路を可能なら早急に希望しているというのは付き合う前から知っていたことだった。付き合ったあとに、流川くん本人のくちからも改めて説明をしてもらった。
 その流川くんが現実的に海外への進路の準備を進めるようになったとき、傍で私も出来るだけ力を尽くした。
「アンタがいると思うとこっから離れんの、惜しくなる」
 流川くんが私を見つめてそう言ったのは、したいことは自分の力で実現させてきた彼が進路でも達成したときのことだった。バスケットを愛して、バスケットのための人生を選び続けるだろう"流川楓という人間"からもらう言葉として最も重く、価値などつけられない言葉だったように思う。流川くんは私にたくさんの価値のあるものを与えてくれたけどその言葉は別格だった。これまでの私の人生やこれからの私の人生の価値を合わせてもきっと天秤は釣り合わないだろう。これからさき、その言葉をもらったことだけを心の拠り所にして生きていけるような言葉だと思った。
 私に与えてもらうにはあまりにも過ぎた言葉に、ほほ笑む。すると流川くんは私の眉間を撫でた。ほほ笑んだつもりだったが上手く笑えていないのかもしれないことを自覚するとますます自分の眉が下がるのを自覚した。
 流川くんは自分が離れるからと言って「手放すつもりはない」という言葉を最初に進路を説明したときにも言ってくれたし、その瞬間にも改めて私に告げた。私も同じ気持ちだと伝えると、流川くんは口角とまなじりを緩める。流川くんのその表情のほころびに、例えこのさき離れることがあっても私はずっと流川くんのことが大好きなんだろうなと、一生分の自覚をした。流川くんが私の手を取る。してしまった自覚のあまりの大きさで力を入れて握り返せなかった私の分も、流川くんが強く握る。
 流川くんが海外に飛び、生活圏が重なることがなくなっても交わした言葉通りに私達の関係は続いていた。互いに交わしていた連絡が途絶えることはなかったし流川くんの活躍はその目覚ましさのおかげでネットでも動向を見守ることを容易にさせてくれていた。
 日本に定期的に戻ってくる流川くんはそのたびに私の元に会いに来た。「会いてーから」と当たり前みたいな顔をして流川くんは言う。流川くんの行動力は私にも向けられるらしかった。それは日本に残った私が流川くんのいない学校に進学して、卒業する日が来ても変わらなかった。
 流川くんは私に対してずっと変わらない。流川楓という一人の人として最大限に誠実だ。流川くんは私を思ってくれるし、優しい。時間や気持ちを割いてもらっている自覚なら痛いほどある。私は愛されている。そのくせずっと漠然とした不安が常にあった。距離が離れていることは問題じゃなかった。その不安はずっと一緒にいられた高校時代も同じように存在していたから。彼の傍にいるようになった瞬間からあったものだったから。
 だから私は流川くんと国を隔てる関係にならなくてもいつか必ず同じことをしただろう。
 私は流川くんがいつものように私の元へと訪れてくれたある日を最後に住んでいた部屋を引き払って、連絡先を変え、もう会わないことを告げる手紙を流川くんの向こうの住所に出した。流川くんが私に言った「手放さない」という言葉をその声の記憶とともに反芻しながら、手紙を投函した。
 手紙には別れの言葉とともに「流川くんのバスケをずっと見ている。一緒にいなくても私は流川くんの活躍を追い続ける」ということを書いた。一番最後には「頑張ってね、大好き」という文を添えた。
 私との関係が絶たれることで流川くんの選手としての調子が崩れるとは思えなかったけど、そんなことが万が一起こりでもしたら耐えられなかったから、それが一番恐ろしかったから、念を押した。自分のためだった。流川くんはいつだって私を思って優しかったけど私はそうじゃない。ずっと自分のことばかりだ。それを自覚するたびに、流川くんが私を選んだことはやっぱり"間違い"だったんだろうなと思う。
 手紙を送ったのちに、流川くんが私の住所として把握していた場所を離れて改めて生活を始めた私は、別の男の人と結婚を前提の付き合いを始めた。年上で会社に勤めていてごく普通の男の人だ。流川くんとの共通点はない。でも共通点があってもそうじゃなくてもどうでもいいことだ。私にとっては流川くん以外の男の人は世界中のどんな男の人でも同じだったから。
 もともと華々しい功績を見せていた流川くんは私との関係が途切れたあたりを境により驚異的な活躍をするようになった。鬼気迫る躍進ぶりだった。流川くんの活躍は日本でもテレビのニュースとして目にするようになった。流川くんの名前の載ったネットや雑誌の記事を読むたびに私は、手紙を受け取って目を通した彼の反応を思い浮かべてみる。どういう顔を彼がしたのかをいくら考えても、私の頭の中で流川くんのあの美しい顔は影に覆われ思いつきはしなかった。私の想像上のどんな反応も違うように思えた。
 スターダムをのし上がっていく流川くんをよそに、交際を重ねていた男性に申し込まれたプロポーズを私は受け入れ、婚約を交わしていた。それと同時に同棲も始めて、絵に描いたような順風満帆さだと評されるための人生を私は送っていた。
 その日の朝は昨日の夜から天気が悪く、雨がやんだりふったりを繰り返していた。夜が明けても暗いままの空を見た私は「傘を忘れないように」と一緒に朝食をとっていた婚約者に伝えた。朝を迎えた時には雨はふりやんでいたがそのうちすぐに振り出しそうだった。テレビの中では美しい女性のキャスターが困り顔を浮かべ、高い降水確率とともに雷の予兆を伝えている。
 仕事へと向かう婚約者に傘を持たせて送り出す。チャイムが響いたのは天気のおかげで億劫さを感じながらも出かける用意をしていた時だった。
 荷物が届く予定はなかったし婚約者からも聞いていなかった。既に雨がふり出し始めていた窓の外に視線を向けてから、もしかして忘れ物だろうかとインターホンを確認せずに玄関に向かい扉を開けた。
 一瞬、扉の向こうに壁があるように錯覚した。私の身長からの視界だと視線が合わず、胸元しか見えなかったからだ。人影だと理解して自然と一歩下がった私が視線を上げると、あの鋭い瞳と目が合った。流川くんだった。
 驚きすぎると声が出ないことを私はその時に知った。私の初めてはなんだって流川くんだった。心臓が"あの日"以来、一番強く跳ねる。ふらふらと後ろによろめきかけると、言葉を発さずにこちら見つめていた流川くんの顔にそれまで浮かんでいた怒気以外の感情が浮かぶ。彼は長いその脚をもってたった一歩で距離を詰め、私を抱きしめた。視界が流川くんでいっぱいになり、扉の閉まる音が耳に届いた。痛いくらいの力で抱きしめてくれる腕の中は変わらない流川くんのにおいがした。
「あんな手紙一つで終わらせられると本当に思ってやがったのかよ」
 久しぶりに耳にした肉声に自然と目が潤むのを感じ、流川くんには見えないと分かっていても慌てて耐えた。緊張によって早まった鼓動が体中に響き、脈打っている。
「流川くん」
 私にとって何より特別な彼の名前を呼ぶ。耐えようと思っていたのに我慢しきれず声に涙が滲んだ。彼の腕の力が緩む。
 流川くんの背に手をまわしてすべてを委ねてしまいたいという自らの強い願いを感じながら、私はその腕から逃れた。体を離してあとずさる私に、流川くんは呆気にとられた顔をする。そして視線が私の左手に向かった瞬間、彼の瞳孔が開いた。私の左手の薬指には流川くんではない男の人からもらった指輪があった。
 流川くんが指輪を贈ろうとしてくれたことが彼が海の向こうに行く直前にあった。でも私が断った。初めて私に拒まれた流川くんは(といっても流川くんを拒絶するなんてことを私に出来るはずがないのだから、その分は向こうに行ったときに必要なもののために使ってほしいと伝えて宥めたと言った方が正しかった)不服だという気持ちをあらわにしていた。すごくかわいくて愛しいなとその顔を見て思ったから覚えている。流川くんとの思い出を忘れるはずもない。
 交際をしている上で、しようと思えば学生として高価な指輪を簡単に購入してしまえる金銭感覚を流川くんが持っていることを知っていた。本当は指輪の購入の有無が流川くんにとっての支障などないだろうことも知っていた。
「今はいいの。流川くんがすごいバスケの選手になったらその時に贈ってほしいな。とっても高いやつ」
 最後はわざと冗談染みた声音で言うと流川くんは真顔のまま頷いたので「高いやつがいいのは嘘だよ、流川くんにもらえるなら関係なく嬉しいよ」と慌てて訂正した。実際に私は流川くんなら“なんでも”よかった。でも求めなかった。そうすることで流川くんに特別な記憶として少しでも残りたかったから。
 左手で自分のくちを抑えながら、私は流川くんを見つめた。流川くんの視線は指輪に繋がれたままだ。部屋の中にはたった一つの挙動すら躊躇いを覚えるような空気が張り詰めていた。誤って動いた瞬間にすべての取り返しがつかなくなるような予感を孕んだ空気だった。その空気の中で、私は流川くんに背を向けて、逃げ場のない部屋の中に逃げ出した。
 結果は最初から決まっている。彼の前でそうすればどうなるかなんて分かっていることだった。凄まじい速度で反応した流川くんはその腕で私を簡単にとらえる。そして寝室に向かうと、私の体をベッドの上へと放った。
 はずみでめくり上がりかけたスカートの裾に、反射的に手を伸ばす。顔を上げると彼はサイドテーブルに置いてあった写真立てを見ていた。私と婚約者が並んでほほ笑んでいる写真がその中には飾られている。
「その服もアレの趣味か」
 流川くんの前で身に着けていたような服装はここ数年身に着けることはなかった。流川くんの言う通り、今の服装は婚約者の好みに寄せたもので、それだけを着続けていたから。婚約者に好ましく思われるような振る舞いだけを考えていた。そう徹することは最も楽なことだった。
 私は服装の違いを流川くんが理解していたことに他人事みたいに感心していた。他の男の人に関わることだから分かるのだろうか。流川くんは昔からびっくりするほど他の男の人の気配に敏感だった。
 写真立てに手を伸ばして掴んだ流川くんは荒々しい動作で床に叩きつけた。硝子の割れる音が大きく響く。流川くんが私に強く怒ったことは今まで一度もなかったし、私以外に怒ったときもこんな風にモノを壊すようなことはなかったから、そんな姿を見たのは初めてのことだった。私は床に散らばった硝子の破片を横目で見ながらこれを流川くんが踏んで怪我をしてしまったら嫌だなと強く思った。
「オレのいねーところでままごとみてえな生活すんのは楽しかったかよ」
 こちらを睨みつけた流川くんは、もう何も言わずにこちらにのしかかって私の服に手をかける。その途中で、流川くんからは拒んだくせに他の男の人からは受け取った私の指輪に視線を落とした彼はますます視線を強めた。見つめただけで他人をたじろがせる瞳は憤懣に煮えている。
 流川くんは指輪を引き抜き床に放り捨てた。砕け散った硝子とぶつかる音がする。指輪が跳ねるたびに響いた音の中で流川くんは私にキスした。こんな、こんな状況でもキスしてくれるんだと思った。久しぶりに与えられる流川くんのキスに痺れるような陶酔を感じ、脳がとろけるような快感を感じる。大した抵抗もなく目を潤ませて彼を見つめた私の髪に流川くんは指を入れて撫でる。流川くんの指がかすかに震えているのを皮膚越しに感じていた。
 私の体に残っていた衣服を乱暴な手つきで剥いだ流川くん自身もまた上を脱ぎ捨てた。私にそうするときよりも乱暴な仕草だった。流川くんの衣服は幾分濡れていてそう言えば彼は傘を持っていなかったなと思った。彼は雨の中、傘も差さずにわざわざここまで来たのだ。
 互いに裸のままできつく抱きしめられる。流川くんの肌は熱くて、彼の心臓は昂らせた感情のせいか早鐘を打っていた。流川くんの熱すぎる体温が抱擁で私の体にうつっていくのを感じて久しぶりに自分が"生きている"ことを自覚した。
 何度もキスを重ねながら記憶の中で最も性急な手つきで流川くんが私の肌に触れる。既に私の体は受け入れる準備が出来ていた。私は流川くんの腕の中で流川くんの肌のにおいに包まれているとそれだけでその気になった。だって流川くんのことが大好きだから。
 流川くんは迷うことなく直接私を抱いた。いつかの日とは違ってそこに問いかけはなかった。繋がっただけで私は達した。お腹の奥の流川くんにしか触れることが出来ないところまで支配されて、敵わない力で揺さぶられて、泣きじゃくるような声が出る。抱かれながら「流川くんの手はなんでも掴めそうだね」ずっと昔に彼にそう言ったことを思い出す。流川くんの腕に抱き寄せられるたびに長い腕だと感じていた。その気になればどんなものだって掴めるだろう腕は今、この瞬間、私のことを捕まえている。
 いつの間にか涙で濡れていた自分の頬の冷たさを感じながら、流川くんの姿を見上げる。照明がつけられていない昏い部屋の中でも流川くんは眩しい。大人になった流川くんはその容姿や雰囲気に輪を掛けていた。年を経ては増す彼自身の持つ空気や存在感の強さに、流川くんはきっとこれからもずっと美しいのだろうなと思った。それは持って生まれた容姿がさせるのではなく、彼という存在がそうさせるのだ。
 今ここに写真や動画じゃなくて本物の流川くんがいることは夢のように現実味がなかったけど、本人の体から伝わってくる湿った熱い体温は何よりも生々しく私に彼の存在を思い知らせる。
 他人を力で征服する姿すら彼がするなら美しかった。でも私は流川くんを好きだからそんな姿を美しく感じる気持ちよりも彼をかわいいとずっと強く思った。私にこんなに必死になっている流川くんが、かわいい。愛しい。大好き。
 私が何度となく達してからやっと流川くんは奥で果てた。それでもなお流川くんは私の中で保っていた。私をかき抱く流川くんの呼吸を耳にしながら尋ねた。
「私以外の女の子にこういうことした?」
「するわけねー。オレはアンタしか抱かない」
 間髪を入れずに返ってきた、躊躇が存在しない答えに思わずほほ笑む。きっと安堵と興奮の混じった奇妙な表情だっただろう。"流川楓という男の人"にもらった言葉の中でも、私はその言葉に狂おしい価値を感じた。私は、流川くんのその切実な愛の言葉とは真逆の言葉を返した。
「私は他の男の人とした。流川くんだけだったこと、全部した」
 私は流川くん以外の男の人と抱き合ってやっぱり流川くんが"特別"だったんだって思ったよ。でも流川くんは私しか知らないし、これからも知ることはないって言ってくれるんだね。
 笑みを浮かべずにはいられなかった私とは裏腹に流川くんは私の言葉で全身にどす黒い怒りを漲らせた。傍にいるだけで流川くんが発している空気に中てられて苦しくなるような怒りだった。その怒りは本能的な危機感で私の身を竦ませたが、それ以上に私のために流川くんがこんなに怒っていることにたまらなくさせた。流川くんはいつだって透き通っていて、誰かに染められるような人じゃなかった。だから、私なんかに、こうしてくれることがどうしようもないくらい嬉しかった。私は流川くんの"逆鱗"になれたかな。
 流川くんは私を今までで一番鋭い目で見据える。
「ソイツの前で抱いてやろうか」
 床に叩きつけられた写真を流川くんは視線で指し示し、それからさきほどよりもずっと激しく動き始めた。
「誰と寝やがってもアンタはオレのものでしかねー。オレじゃなきゃダメなくせによ」
 その通りだ。ずっとずっとその言葉の通り。私は流川くんじゃなきゃダメ。流川くんに好きになってもらったときからそうだった。流川くんにそうさせられた。
 流川くんが片手で私の顔を掴む。大きな手は簡単に私の顔を持ち上げた。苦しいくらいの気持ち良さでぐちゃぐちゃになっている顔から流川くんは視線を逸らさない。
 私は流川くんと一緒にいるとき、このまま時が止まれば、あるいは死ぬことが出来たらどれだけ幸せだろうとずっと思っていた。でもそうならなくてよかった。今こうして、私の元まで来てくれた流川くんのこの顔を見つめることが出来たから。
「バスケも今まで以上に頑張った。ずっと言う通りにしてやってる。だから指輪もアンタの言う通りに高いやつ買って、オレがここに嵌めてやるよ」
 吐き捨てた流川くんは私の左手をとると、指輪の痕に強く噛みついた。血が出ない程度に加減のされた噛み痕はくちを離されたあともズキズキと痛んだ。
「アンタのこと、一緒に連れてく」
 私はそのときに初めて困惑の視線を流川くんに投げた。「婚約してる」と彼に言う私の声は弱々しく小さかった。
「そんなの関係ねー。勝手にいなくなっただけでアンタはずっとオレのもんだった」
「……」
「目を離していいことねえってよく分かったよ。もう離さねえ」
 したいことは必ず実現させる流川くんのその声音は強かった。誰に止められても、私自身が止めても、流川くんは絶対にそうするのだろうと思わせられる声だった。
 流川くんなら必ずこうしただろうと心のどこかで知っていた気がする。だから私は流川くんの手を離した。自分でそうしたのに、こうして流川くんが来てくれることを、私は夢にまで見ていた。
 いつか私の前に現れる流川くんが、私が他の男の人を選び、付き合って婚約もして指輪も嵌めて、流川くんにしか許さなかったこともさせたのだと知ったとき、どんな顔をするのか想像しただけで幸せで、だからわざとした。離れている間も私は流川くんのことだけを考えてた。
 流川くんを愛したときから、流川くんに愛されたときから、私自身も私の人生も彼と出会う前には戻れないように歪んでしまっていた。
 私が流川くん以外を絶対に愛せはしないように、流川くんもまた二度と私以外を愛せないのだろうという実感が私を忘我の淵に誘った。夢中になって流川くんの背に手をまわして縋る。抱き合ったまま「流川くんが好き、大好き」と囁くと「オレの方がもっと好き」と返されるのが嬉しくて、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
「ここに出させた?」
 その問いに私は言葉を返さなかったが、流川くんは理解したのだろう、体を掴む彼の手に力がこもって軋んだ。舌打ちが聞こえる。
「もう死んでもさせねえ」
 私のことが大好きだとすべてで教えてくれる流川くんにもっと私で興奮してほしくて自分から腰に足を絡める。もうどこにも行こうとはしていない私を、流川くんはそれでも繋ぎとめるように抱きしめる。気が狂いそうなほどに幸せだった。それからは言葉もなく、流川くんは私を抱いた。
 抱き合ううちに激しさよりも密着するような行為に移り変わってずっとキスをしながらくっついていた。どんどん抜けていく力と相反して体から重さは増していく。動く気力を失う前に流川くんの手に自らの手を伸ばした。彼の手を引いて私の首に持っていき、添えさせる。そして何も言わずに視線で促した。
 流川くんに私なんかを殺させるわけにいかないことは分かっている。でも流川くんを大好きな私は、今ここで殺されても良いと思った。そうされたいと心の底から願っていた。だってきっと今が幸福の絶頂だ。
 殺すまでいかなくても今度は流川くんがこの手で私のことを好きなように傷つけていいと視線で訴える。だけど私を見下ろしている流川くんはその手に力をこめたりはしなかった。私の首をいとも簡単に片手で絞めることが出来てしまいそうな大きな手は、代わりに、促すために引いた私の手を握りしめる。そして流川くんは泣きたくなるようなキスをした。彼の長い前髪がこちらの額にかかったと思ったらそのまま流川くん自身の額を擦りつけられる。甘えるような仕草だ。至近距離で彼の瞳と目が合ってあーあと思った。あーあ、流川くんが大好き。死にたくなるくらい大好き。きっと死んでも大好き。死ねなくても大好き。流川くんだけを愛してる。
 流川くんから目を逸らした私は、彼の向こうに見える天井を見つめた。言葉が自然とくちから出た。
「……流川くん、……背、伸びた……?」
 自分の声なのにどうしようもなくぼんやりした口調だと思った。言ってから、離れることを選んだその時にはもう、とっくに彼の成長期は終わっていたことに気づく。だから彼が変わったのは背すら伸びたと思わせる体格の変化かもしれなかった。最後に会ったあの日だって彼は充分に大きかったのに、その時とは体の厚みが違った。
「頑張ったんだね……、ごめんね……」
 そう言うと流川くんは私を抱いていた腕に力をこめた。折られてしまいそうだと思ったし、折られていいとも思った。
「頑張ってたらずっと見てるって言ったから」
 流川くんのその声が濡れているように思えて、気づいたら彼の頬に手を伸ばして撫でていた。「泣かないで」と言うと「泣いてない」と否定される。でもそのあたたかくてかわいた頬を私は何度も撫でた。流川くんも止めなかった。
 強くなっていていくばかりの雨の音が静まり返った部屋の中に響く。雷の激しい音が遠くでしている。カーテンを引かれていない窓の外も、部屋の中も、昏くなっていくばかりだった。雷雨の予報を告げていた女性のキャスターの声が頭の中でリフレインする。雨がやむ気配はない。

いびつな楽園が聞こえる

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