NOVEL | ナノ

 自分の肩にまわっている腕の重みが好きだと、テレビに映る光が存在しない暗いシーンと緊張を感じさせる音楽に心臓の鼓動を掻き立てられながらも思った。
 テレビの画面には今日は凛くんが見たいと言った映画が映し出されている。凛くんと一緒に見る映画は、大概はホラー映画やサスペンス映画をリクエストする凛くんとそれ以外も割と見たがる私の映画のリクエストで交互にまわっている。大学進学を機に一人暮らしをするようになった私の部屋で凛くんと映画を一緒に見ながらよく過ごすようになっていた。
 今日一緒に見ている映画はサスペンス映画だった。信頼できるはずの警察の中の人間が事件の犯人で、ヒロインは相談のために犯人の車に乗り込むもぎりぎりで気づき、交わすことになる。映画の中の犯人の起こしている事件自体も血に濡れているけど作品の後半になるにつれて人が血を流して助かることなく死んでしまうので私はそのたびに息を呑んでいた。犯人が背後から現れて人間が殺傷するたび、凛くんに寄りかかりながらビクッとする。
 犯人による死者は増えてしまったけど、ヒロインとそしてヒロインに協力してくれた男の子も助かり事件も解決する結末を迎え、やっと日が差した明るい画面に思わず私は深く息を吐いた。
「助かってよかったねえ」
 そう言って凛くんを見上げる。リクエストしたのは凛くんだけど、結局どっちがリクエストした映画でも夢中になって見ている気がする。
 鋭さが印象的な瞳がじっと私を見ていた。かと思ったら顔を寄せられ、額を首筋にぐりぐり押し付けられた。抱きしめられたまま押され、一緒に座っていたソファーに倒れこむ。
「重いよ〜」
「……」
 何も言わなくなっちゃった凛くんの頭を『宝物』みたいにぎゅっとする。一度も染められたことがない凛くんの黒い髪が、カーテンが開かれた窓の向こうからの光を含んできらきら光った。私の胸の中でされるがままの凛くんのその姿を見ると、なんだか胸がぎゅっとなる。彼のことが好きだということを心から思い知る。
 さらさらの頭を出来るだけ優しく撫でた。元々生まれついての綺麗な黒髪なんだなと彼の髪を撫でるたびに思った。頭に顔をうずめるとシャンプーと凛くん自身のにおいがする。「吸うな」と咎められるがその声に圧はなかったし物理的に止められることもなかった。
「一緒に寝る? でもここだと体痛くなっちゃう、ベッドに行こっか」
「……ん」
 もともと私のベッドでも凛くんの身長だと小さい。二人だと沢山くっついて寝ないといけない。でもソファーよりはましだろう。私は凛くんの手を引いてベッドまで移動してそのまま一緒に向き合って横になった。
 ゆっくりと過ぎ去っていく感覚を覚える午後の空気があった。触れ合っていることに対する満足感と部屋の空気のあたたかさがお互いの睡魔を刺激する。うとうとしながらも頭をなでなでしてあげていると凛くんの瞳が眠そうに瞬いたのを見た。そうして一緒に眠って夕方の西日で目が覚めた。私より先に凛くんが目が覚めていたのか、今度は凛くんが私の髪を撫でている。
 私の顔を覗き込んでいる凛くんと一番に目が合って何も考えないまま凛くんの首に腕をまわした。するとそのままキスしてくれる。キスされながら私は凛くんの髪をまた撫でた。
 既に最小限しか身に着けていなかった衣服が凛くんの手で一つずつ脱がされていく。胸元にキスされるとくすぐったさを覚えた。凛くんとするこういう行為は大概がじゃれあいの延長みたいなそういう触れ合い方だ。むき出しの肌同士で体温を溶かしあうように抱き合うことには全てを超越する心地よさがあった。
 凛くんが私にそうするように、私も凛くんの体中にキスをして、撫でてあげる。それから、凛くんが私の上に重なるように体を起こして、なかの輪郭を確かめるように触れた。凛くんの長い指が動いて私は小さく声を上げる。悲鳴みたいな声に凛くんは満足と意地悪の混ざった顔をしてから、顔同士をくっつけて、頬やこめかみにキスしてくれた。手をベッドの脇に伸ばしてから繋がるための準備を済ませた凛くんが私のことを抱きしめる。
 繋がると同時に凛くんが私に視線で促すから、舌を出して凛くんのキスに応える。ずっとキスしていたい。きっと凛くんもそう思っている。
 指を絡めて抱き合っている最中に、凛くんの体温が上がり汗が滲んだその肌から熱を感じるたびに、私のために凛くんが熱くなっていることにどこか悪いことをしているような罪悪感の混じった幸せを覚えていた。
 抱き合ったあと気怠さと幸福に浸りながらくっついたままでいてから、シャワーを浴びてさっぱりして一緒にアイスを食べた。凛くんはアイスキャンディーが好きだから来る時にいつも用意している。今日は凛くんのアイスキャンディーとは別にカップアイスを食べている私に口を開けて見せるからスプーンで彼の口に運んであげた。
 お返しのようにアイスを持っていない方の手で凛くんが私の肩を引き寄せてくちびるを重ね合わせた。舌が入ってきて互いの熱で口の中で甘い味がとけていく。そのキスのに熱が帯びる前に離れた。
「……とけちゃうよ」
 お互いの瞳しか視界に入らない距離で、囁く。うるせえよと言って凛くんはもう一度私に音のする軽いキスをしてから持っていたアイスを口元に突き付けて一口をくれた。
 夢みたいな時間にはいつも終わりがある。何をするでもなくただ一緒にいる幸せなだけの時間の終わりに感じる切なさを玄関で私が顔に出すと額を小突かれた。小突かれてから、その強さを誤魔化すみたいに額を撫でられる。
 駅にまで一緒に行きたいとねだるといつものように「いらねえ」と断られて、離れがたさに凛くんに抱きついた。この時間に一人で歩くことを凛くんは私に許さない。
 お別れの抱擁をしながら、ああいう映画を見たからだろうか、凛くんは私に改めて見送りじゃなくてもこんな時間に一人で外を歩くんじゃねえとかそういう注意をした。凛くんは私によく「すぐ気を許しやがる」と言う。たぶん声をかけられたらついていきそうぐらいに思われている。
「お前は俺のだ」
 「俺だけの」と言い聞かせるみたいに、おまじないをかけるみたいに、凛くんはこちらを抱きしめながら繰り返し言う。凛くんの私を自分のものだと主張する薄いくちびるに、彼の首に縋りつきながらキスをして応えてみせた。

 大学に進学した私と玲王くんはいまだに連絡をとる関係にあった。見事に有言実行を果たした玲王くんも違う大学に進学していたが、時々当たり前みたいな顔で構内に迎えに来るので、否定をしても私の恋人であるというように認知されている。
「いいじゃん、放っとけば。否定しても勝手に話されるからどうせ意味ねーよ」
 とは玲王くんの言葉だった。玲王くんは否定が必要になったらそうすればいいくらいに思っているのかもしれない。私はその空気を享受し、自分の恋人が凛くんがであると正式に訂正していないという一番ずるいことをしていた。
 凛くんに向ける気持ちは何一つ変わっていなくても、凛くんの知名度は一連のBLUELOCKプロジェクトとU-20W杯のおかげで以前とは別次元になった。もちろんそれは玲王くんもだったけど、玲王くんとの噂を強固に否定して(この噂を聞くたびに驚くほどの現実味のなさを感じるのでわざわざ否定する意味があるのだろうか? という思いが正直あった)自分の恋人があの糸師凜だと言うような勇気が私には存在しなかった。私はいまだに玲王くんにも自分の恋人が彼と同じチームだった凜くんだとは打ち明けていない。
 玲王くんは"私"が自分にとって酷く身近な人間であるという態度を目に見えてとるようになった。玲王くんの忙しいスケジュールの中で一緒に過ごす時間も、高校時代とは違いもっと明確に意識してとられるようにもなっている。そうなると私の周りにも私ではなく玲王くんを目的とする人間が周りに集まるようになった。その状態になって初めて、生まれてからこれよりも大変だっただろう玲王くんの気持ちの理解に近づいた気がして勝手に感傷的な気持ちになった。玲王くんにそう伝えると彼は驚いて、それから形容しがたいような、困ったような、馬鹿だなあと言うような表情をした。
 その延長で玲王くんの身近な人間としてでなければ誘われなかっただろうイベントに呼ばれるようになり、玲王くんが出るように勧めるイベントへの招待に彼のオマケとして時々一緒に出た。そういう行動が誤解にも繋がっていると分かっていても、どう私に役に立つのかを説明してイベントに誘ってくれる玲王くんに、私のことを異性だとは思っていないだろに友人に、恋人と噂されるという理由で断るのは全く出来そうになかった。玲王くんのことを高校から見ていて、玲王くんのされたら悲しいことを知っていたから余計だった。
「名前!」
 遠くから声をかけられ顔を上げる。それまでスマホ越しに話をしていた凛くんに「また約束の日にね」と断ってから通話を切った。
「話終わった?」
「うん、ごめんね。呼びに来てくれてありがとう」
 すぐにスマホをしまって探しに来てくれたらしい玲王くんに駆け寄る。その日もそんなイベントがあって、私は玲王くんと共に参加していた。連れてきてくれた当人として怜王くんは会場から出て人影のない隅で通話をしていた私を見つけに来てくれたのだろう。
 そこから玲王くんと共に会に戻る。装飾された会場自体も参加している人間も華やかな会で緊張と共にアルコールを飲んでいると酔わないように気を付けて大して口をつけなかったのに最後の方はかなりまわってしまった。後半はほとんど座り切りになって玲王くんに寄り添われながら帰宅することとなった。
 玲王くんが誰かにスマホで連絡している。恐らく車を呼んでいるのだ。玲王くんが話しかけているスマホを見つめる。出会ったあの時と似ているけど違うデザインのケースだ。スマホ自体も同じものではない。そのことに月日を感じる。
「……玲王くん、置いて行っていいよ……。大丈夫……」
 そう言う私の手を「置いていくわけないだろ」と笑って玲王くんが引く。何度となく見たことがありながらも一度も乗り込んだことのなかった玲王くんの送迎のための車にふらふらなまま乗ってしまった。玲王くんと友人として付き合うようになってから玲王くんの家の車で送られるのは控えていた。
 玲王くんが私をそんな風に思っていないと分かっていても、車の中で二人きりにならないのは私なりの一線だった。玲王くんもずっとそれを尊重してくれていたが今日はついに破ることになってしまった。
「水飲もうな」
 グラスを渡される。手に持つことが出来ない私の様子を見て玲王くんはこちらの肩を抱いた。そうして支えられながら口元にグラスを運ばれ、献身的に渡された水を飲み込む。飲みやすいように選んでくれたのか冷やされていない水だった。
「今日最初の方に通話してただろ、彼氏から?」
「……うん」
「すげえ笑ってるからだと思った。最近は会ってんの?」
 働かない頭で、質問に答える。久しぶりに恋人のことを聞かれたなと思った。恋人である凛くんが玲王くんと同じチームに所属していたと知った時から私はそれまで以上に自分から恋人の話を玲王くんにはしなかったし、玲王くんもまた最近では話題に出すことはなかったからだ。凛くんのことをチームメイトという近い関係にあった距離の人間に勝手に話すことに抵抗があったし、逆に玲王くんという友人の話も凛くんにはほとんどしていなかった。
 いくつかの質問に答えているとついに、意識の限界が訪れる。それからしばらくもしないうちに私は眠ってしまった。
 浅い眠りと覚醒の狭間のぬるくあたたかな暗闇の中で誰かが私の髪を撫でる。時間の感覚がなくなり、ずっとこうしていたい誘惑を感じる。私は私を撫でてくれる誰かの手に手を伸ばした。思わず名前を呼ぶ。
「りんくん?」
 自分の声の掠れ具合にびっくりする。小さな声しか出なかった。目を開けるとこちらを見下ろす玲王くんと目が合った。玲王くんは口元に笑みを浮かべている。何一つ面白くないと思っている、私が恋人の話をする時によく見たあの笑みだった。
 テレビの音が遠くから聞こえる。歓声と混じって解説の声が聞こえてくる。その音には聞き覚えがあった。試合の映像だ。私はそれに当然のようにサッカーを連想した。
 見知らぬ大きなベッドの上で横たわっている私の顔の脇に腕をつくようにしてのぞき込んだ玲王くんが「テレビ、気になる?」と聞く。私が何かを言う前に玲王くんが「W杯だよ」と答えた。
「あの試合も見に来てたんだろ? アイツの応援しにさ」
 玲王くんが、テレビの方に視線を向けてから私に笑いかける。
「俺のこと応援してる〜って言ってくれてたけど本当はずっと凛のオマケだったわけ?」
 玲王くんの口から改めて凛くんの名前が出てくることに胸のあたりに冷たい感覚が広がる気持ちになった。さっき車の中でいつも以上に無駄に話をしてしまった自覚があるが名前までは伝えていないはずだった。
 友人である玲王くんに恋人である相手を認識されている。何も問題ないはずなのに、玲王くんの顔を見ていると何故か少しもそうは思えなかった。
「凛が彼氏なら彼氏がサッカー強いって言うに決まってるよな」
「……玲王くん」
「凛より俺の方が恰好良くない?」
 改めて問われる質問に私は初めて名前を出して「凛くんが好き」とだけ答えた。玲王くんが深くため息をつく。
「誤解されても相手が違うって言えないくせに? 俺の方がよほどそう認識されてるのウケるよな。俺が彼氏だったらそんな状態絶対許してねえよ」
 苛立たしげな言葉を直接的にぶつけられ体が強張った。私より大きな手が、私より力がある手が、私の手首を掴んで、腕力で私をベッドの上に押さえつける。目の前にいる彼が、私が絶対に力で敵わない異性であるということ、玲王くんが私に向ける言葉に滲んだ気持ちの意味とともに、理解してしまう。
「名前が俺の出る試合に初めて自分から見に来てくれたことすげー嬉しかったんだよね」
 私の上にのしかかる玲王くんが、私を見下ろす。さっきまでと違い、口調は過去を思い出すようにどこかぼんやりしている。
「彼氏は自分の出る試合の勝敗が分かってるから別に来なくていいって思ってるつってたろ? なのに俺が大したことない試合なんかに呼ぶのって恥ずかしいよなって思ってさあ、ずっと我慢してたから、だから嬉しくて……。俺がお前にそうなみたいに、お前も俺に関心あるんだなって思えたから」
「でもW杯のときもその前のあの試合も、会場に来たのは凛のためであって、俺のことはついでの相手でしかねえんだろ」
「エキシビションマッチの翌日の時も凛に会いに行ってた帰りだったろ? そのくせ自分から会いに行こうか、我慢しなくていいよなんて平気で言えんだもんな。他の男のための恰好でさあ、すごいよお前」
「あんなに俺に嬉しいことばっか言ってたくせに、俺がお前を思うようにはお前は思ってないなんてそんなのナシだろ。俺のこと好きじゃなきゃああいうこと言えないよな? なんで俺のこと好きじゃないの?」
「ずっと思ってた、さっさと別れちまえばいいのにって。あんな顔で電話なんかすんなよ」
 どんどん腕を掴む力も声音に滲む感情も荒々しくなっていく。その激昂の先に何があるのか、想像するのも耐えかねて思わず「玲王くん」と呼ぶ。それでもやっぱりその声は掠れて大きくは響かなかった。
 彼は私の目を見つめなおして、それから。
「我慢なんてらしくないって俺に言ってくれたろ。俺もそう思う」
 玲王くんは一線を飛び越えることを選んだ。それが分かった。あっと思って近づいてくる顔にこわごわ目を閉じる。
 口元にくちづけが降ってくる。壊れものに触れるための口づけだった。その優しい感触に、思わず開いたまぶたの向こうで玲王くんは私に微笑んだ。
「俺の方が凛より良い彼氏になるのなんて分かるだろ。今だって彼氏扱いなんだからそれが名実ともにになるだけだよ、悪くないどころか最高だろ?」
 私がどう答えるか問う前から玲王くんは既に知っていたと思う。首を横に振ると玲王くんは見たことがない顔をした。私はそれを悲しい顔だと思った。
 ずっと手首を掴んでいた大きな手に震えを宥めるように頬を撫でられながら、玲王くんと過ごしたこれまでの時間が走馬燈みたいに頭の中を過ぎ去っていく。これから起こる取り返しのつかないことへの想像と同時に玲王くんに優しくされたこと与えられたこと施されたこと、してもらったことばかりが浮かんだ。凛くんへのどうしようもない罪悪感と玲王くんへの耐えがたい切なさがわきあがってくる。
 今度は心の準備をする余裕もなく口づけられる。恋人同士がするような熱っぽい口づけだった。弛緩しきっている私の体は口内も例外ではなく、あまりにも簡単に玲王くんの舌を受け入れる。アルコールのせいか、その口づけのせいか、深い酩酊感を覚えた。
「名前って見下ろしてると余計にかわいく見えるな」
 玲王くんが不穏な色に瞳を輝かせて言う。見下ろされ敵わない力を意識させられ逃げられなくなって初めて、自分が支配されるためにあるような弱い存在だったことを本能で思い知る。
 身に着けていた衣服は彼の手によって花を毟るようなあっけなさで剥がされていく。身をよじったところですぐに肌がむき出しになった。
「ずっとかわいいって言いたかった。かわいいって言うとお前が困った顔するから言わなかっただけですげえ我慢してやってたよ」
 肌に噛みつかれる。体中に啄まれ、吸いつかれ、噛みつかれて私はそのたびにか細く悲鳴をあげた。弱弱しい悲鳴に玲王くんが噛み殺すように笑い声をあげる。
 体中を撫でていくその手が下がっていき、最も柔らかな場所に触れられて、体が硬直した。原始的な恐ろしさで目が熱くなっていく。抑えきれずにこぼれた涙を舐めとりながら、玲王くんは私のなかに指で触れた。
 直接的な気持ち良さに「嫌」と口から拒絶の言葉が転げ落ちると、玲王くんはもう片方の腕で私の顔を自分の胸へ抱きすくめた。
「大丈夫だって、気持ち良くなってればいいだけだから。嫌がんなよ、傷つく」
 傷つく、の言葉に私は思わず口を噤んだ。それが分かったのか玲王くんは私の目を覗き込んで「いい子」と甘く言い聞かせた。
「俺のこと傷つけたくない? でも俺は名前にもういっぱい傷つけられてきたんだよ」
 だからこの夜が訪れたのだろうか。私が気づきもせずに平気で過ごしていたから、だから取り返しがつかなくないことが起こったの?
 愛撫は激しさを増していく。激しかったけど痛くはなくて、でも鋭い気持ち良さから逃れられなくて苦しくて怖かった。私は凛くん以外を知らない。凛くんもそうだ。互いに互いしか知らない。だから私にとってのセックスとは凛くんとのあのお互いに抱き合うだけでも満足を得る行為だった。こんな触れ方は知らない。だから怖い。
「今から凛のこと呼ぶか?」
 思わず今までで一番大きな声で拒絶する。苛立ったように玲王くんが私の上にのしかかった。意味がないと分かっていても彼の胸を押し返すと、それを咎めるように玲王くんは怖い顔をする。
「傷つけたくないんじゃねえの?」
 それは玲王くんに対してかな、凛くんに対してなのか、どちらの意味でも受け取って、逃げる気力を失った私の体を玲王くんは隔たりのないまま抱いた。揺らされる動きによって悲鳴と喘ぎが混ざった声が喉から鳴った。
「もう俺を通して以外の友達だっていないんだから、全部俺だけにすりゃあいいだろ」
 自らの髪をかき上げながらこちらを鋭い目で見つめてくる玲王くんのその姿を見ながら私は何よりも先に納得を感じていた。どこかで感じていた危機感が明確な言葉で示された気がした。進学してから付き合うようになった私の友達のすべては玲王くんと共通の知人であり、それまでの友人もまた同じように玲王くんとも知り合っているか、あるいは疎遠になっていたから。
 玲王くんに自分の人間関係を侵食されていたことを知って、私はそこまでする玲王くんになによりも寂しい気持ちの方が強くなった。
 私の口は謝罪を吐き出す。何に謝っているつもりなのか自分でも分からない。
「謝んの? 許してほしいんだ? じゃあいっぱい好きって言ってくれたら許したくなるかも。彼氏の凛より俺が好きって言ってよ。凛がするより気持ちよくしてやるから」
 抱き合うことがなくたって、誰かと比べるような気持ち良さを与えられなくたって、私は玲王くんのことが大好きだったけど、でもそんな好きには意味がなかったのかもしれない。
 玲王くんは私の腕を引き自らの首にまわさせた。抱きしめてと言われて私は悲しい気持ちのまま玲王くんの頭をかき抱いた。
「お前はずっとかわいいけど、俺に抱かれてよがってるのが一番かわいい」
 震える私を抱きしめながら玲王くんは私にそう言う。何度も何度も囁かれる玲王くんのかわいいという言葉は、凛くんが言わない言葉だからこそ私を縛るみたいに聞こえた。
 そうして何度も抱き合ってぐちゃぐちゃなまま気絶するように眠っていた時間はどれだけのものだったのか。でもあまり長い間ではなかったようだ。私は玲王くんの腕の中で目を覚ます。体にきつく巻き付いていた腕を、出来るだけ優しく、気づかれないように外した。私はぼんやりしたまま、眠っている玲王くんを見下ろす。玲王くんが私にめちゃくちゃにしたように、今なら私にも玲王くんを"どうにか"出来るかもしれない。そんなことを考えてから、方法や手段があろうと、私には永遠に出来るはずがないという結論しか得られないことにどうしようもなさを感じた。何かをする代わりに、私は玲王くんの髪を細心の注意を払ってそっと撫でた。
 気を抜くと力が抜けそうになる体を家に帰るという目的のためだけに動かして着衣を直し、乱れている髪も手櫛で直す。広い部屋の中で自分の鞄を探して手にした。スマホをその中から取り出しながら部屋の持ち主を感じさせる玲王くんの部屋から出る。
 出来るだけ急いで外に出てから今の時間と最寄り駅を確認した。もう少し待てば始発が出そうだった。駅構内について電車を待ちながら私は玲王くんに今まで申し訳なかった、これ以上思い詰めさせたいとは思っていない、もう会わずにいようという主旨のメッセージと、それから最後にごめんねと付け加えて送る。そしてその後に凛くんとのメッセージ画面を開いた。一番最初に少し先の日付にしていた約束の文章が目に入る。遡り、交わしていたメッセージを読み返しながらその間だけは他のことなんて何も考えずにただ幸せを感じていた。凛くんが私に送ってくれたメッセージを噛みしめてから、心を決めて関係を終わりにしようというメッセージを作る。
 BLUELOCKプロジェクトやそれに関して出場した試合の結果を通して凛くんは既に大きな実力名声を共に手に入れている。そんな凛くんに自分が釣り合わないと思っていることを別れるための理由として添えた。別れる理由を文章として簡単に作り出せてしまったことに、向き合わなかっただけで昔からずっとそう感じていた感覚が以前よりずっと肥大化していたことに気づく。玲王くんも言っていたけど自分が恋人だとも言えない不甲斐ない恋人だった。凛くんにも謝罪を最後に添えてから読み返して、躊躇いとともに震える指で送信を押した。押してすぐにアプリを落として電源を切る。
 始発に乗って家に戻って、すぐに全ての衣服を脱ぐ。クリーニングに出す衣服はハンガーにかけ、それ以外を洗濯機にいれた。何も洗い流せるはずもないのにシャワーを浴びて、シャワーを浴びたあとにいつもしていることをちゃんと全て行ってからベッドに入った。横たわったら次に置きあがる気になれるのはずっと先だろうという自覚があったからだ。不思議と涙は出てこなかったが、何も知らず、何も起こっていない昨日に戻れたらどれだけ良いだろうとは思った。
 ベッドにこもってタオルケットの中に潜りながらうとうとする。うとうとしてはすぐに起きてを繰り返してどれだけの時間が経ったのか、スマホは鞄に入ったままだったから分からなかった。カーテンの隙間からこぼれている赤い光に一日が経ったことだけを知る。玄関の扉が前触れもなく開く音がしたのはその時だった。
 心臓が止まったような気すらした。指先や肌が緊張で冷えているのに、鼓動が大きく跳ねる。誰かの荒々しい足音が玄関を踏み越えて近づいてくるのをスローモーションのようにゆっくりと感じた。そう出来るのは、合鍵を渡している凛くんだけだった。
「おい、どういうことだ?」
 部屋の入口に凛くんが現れる。私は横たわったまま凛くんの顔を見上げた。他者に鋭い印象を与える整った顔は汗とともに険しい表情を浮かばせていて、それを見ながら駅からここまで走ってきたのかなと想像する。凛くんは今日休みだったんだっけ? 逃避のようなことばかり頭に浮かんだ。
 私は深く息を吸った。体をベッドの上で起こす。凛くんがその前に立って、私の上に影がかかった。
「なんなんだよアレは、本気で言ってやがんのか?」
 こちらを見下ろす凛くんの目はぎらぎらしている。その目を見ていると別れ話なんて嘘だと説明して、私と玲王くんの間で起こったことも隠して、今まで通りでいたいという思いがこみ上げてくる。
 凛くんに自分が釣り合わないとずっと薄々思っていたのは本当なのだと口にするか迷った。でも凛くんはそんなことはどうでも良いと言うだろうとも、怒るだろうとも分かっていた。
 他に好きな人が出来たと言おうかな。好きな人が出来て、凛くんを裏切ったの。だからもうこんな風に追いかけてくれる意味なんてないよ。呆れてもらうために、そう言えばいいんだろうか。
「凛くん」
 彼の名を呼ぶと凛くんは膝を床につけて、ベッドに座っている私に顔を寄せる。近しい距離で目が合って反射的に目を逸らそうとすると肩を掴まれた。そのまま二人でベッドに縺れるようにして倒れこむ。
「こっち見ろ。逸らすんじゃねえよ」
 そう言った凛くんが私の肌に視線を落として、固まった。新しい下着とタオルケットだけを身に着けていた私の体には凛くんがつけたものではない痕が、凛くんがつけたことがない夥しい量で残っている。起きたことを示す痕跡が隠されることなく視線に晒されていた。
 肩を掴んでいる凛くんの手が震えている。その時になってこんなにも痕跡が残った状態で別れ話を行ったのは私のエゴでしかなく、同じ別れ話をするにしても自分も冷静になってから向き合うべきだったのではないかと思い至った。どうしようと思う。玲王くんのベッドで目が覚めてからずっとずっとそう思っている。
 顎に手が伸びてきて押さえつけられる。噛みつくようにキスをされる。痛みを感じる動作だった。力任せにそんな風にされるのは初めてだ。唇にも舌にもその歯で噛みつかれる。
「……す。……ねえ」
 ひりひりするキスの合間に凛くんの何かを囁くが声が低すぎて聞き取れない。私の上の凛くんの体を押し返しかけて、でも止めた。
 ごめんねとつぶやいた。凛くんがぐちゃぐちゃの顔をする。美しい顔立ちに浮かぶ強い感情の表情には迫力があった。凄絶な表情を私はただただ見つめることしか出来ない。
「許さねえ、死んでも別れてやるかよ。別れるわけねえだろ、殺されてえのか」
 私のために負の感情で顔を歪めて、凛くんが吐き捨てた。
「別れるなら殺す。他の男に渡すくらいなら殺してやる。俺のもののくせに他の男のものになれるわけねえだろ」
「私は凛くんのことが好きだよ、でも」
「黙れよ、お前は俺のものだ。俺だけの……」
 そう繰り返す凛くんは私の答えを求めていなかった。私に言い聞かせようとかその言葉に対しての返事を求めているのではなく、ただ思っていることを口にしているような、凛くんの中で完結している空気があった。
 もう戻ってきてはくれないんじゃないかとすら思える切迫さと危うさがある姿に、知られてしまった瞬間以上に取り返しのつかないことをした気持ちになった。
「わ、私は……もう……」
「……俺が何よりお前を許せねえのは裏切ったことじゃねえ。俺を捨てようとしてることだ」
 陽の光が完全に絶たれている部屋の中で、朝からつけたままの電気が煌々と白く光っている。私の上にのしかかる凛くんの体によってその光が遮られ、大きな影が私の体を覆いつくす。
「お前が望んで裏切ったわけじゃなくても、お前は俺と別れることは自分から望みやがった」
 私の腕を凛くんが大きなその手で痕をなぞるように撫でる。玲王くんに掴まれた手の痕がそこにもくっきりと残っていた。凛くんは何よりも、私が別れると言ったことに怒ってるんだなと理解できて、凛くん以外とそうなったことについての過ちについてだけを考えていた私は本当に何もかもを間違えてたんだなと思った。
 脱力する感覚が体を満たし、それまで以上に体を投げ出した。その姿を見て凛くんはもっと眉を顰める。触れ方に力が増す。でもそれ以外に私の出来ることは思いつかなかった。凛くんの気持ちがおさまるなら好きなようにされるのがいい気がした。そうしたとしても状況が改善する未来は少しも想像出来なかったけど、それ以外に私が出来ることを何も思い付きはしなかったから。
 だけど、そんな私の答えは許されない。私は今の状況をこれより酷いことはないと感じていたけど、そんなことはなかった。いつだって、私は、気づくのが遅い。
 空気を裂くようにチャイムが鳴った。前触れもないその音が私の胸を鋭く貫く。一瞬にして体を震えが包んだ。凛くんの手は止まらない。
 一度鳴ったあと、少しの間を置いて繰り返し慣らされるチャイムと共に、扉が叩かれる。警告音のようなしつこい音を耳にしながら、私は今、扉の向こうに、誰が立っているのかを悟っていた。自分が間違え続けていることに気づいたから、また間違えたのだと気づいた。
「名前、いるんだろ」
 隣にも聞かせるような声の張り上げ方だ。どこまででも届いてしまいそうな人に聞かせるための話し方をしている。凛くんの手が止まる。その低くてよく通る声を、凛くんも知っているはずだ。他者に聞かせることを意識して声を出せるその人のことを、私も良く知っている。
 私は『玲王くんが欲しいと言って手に入れられないモノを想像出来ない』と自分自身で思ったことを、今更思い出していた。その時に私は玲王くんが何かを諦める姿も想像出来ないなと思ったのだ。
「開けてくれよ、名前。俺たちの仲だろ。どれだけ仲が良いかここで話してもいいか?」
 凛くんが扉へと視線を向けた。鮮烈な怒りに染まっていくその表情に凛くんが理解してしまったことが分かる。扉の向こうの玲王くんが私に痕をつけた人間だと今、凛くんは知ってしまった。
 私はこんな状況になってももう玲王くんのことなんて大事な仲じゃないよ、嫌いになったなんて言えないし、別れるくらいなら殺すと私に言う凛くんのことが大好きだ。でもだったらどうすればここから全てが幸せにおさまるのか私には分からなかったし、二人のうちの一方を選ぶことも出来なかった。
 カーテンの隙間から射していた赤い夕陽の光はもう見えない。時は止まらなくて、望んでも夕陽は戻らないように、何も起こっていない昨日には帰れない。凛くんと過ごしたあの幸せだけが存在していたあの午後にも、玲王くんだけを見つめていたあの試合の午後にも、もう戻れない。

どうしようもなく日が暮れる

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