NOVEL | ナノ

 いつもならしないのにスマホを見たまま駆けていたのはそうせずにはいられなかったからだ。駆けても遅い足とは裏腹に気だけが急いている。スマホから目を離すこともできず、歩くことにも耐えられなかった。だから、自分の前に人がいることに気づいたのもぶつかってからだった。
 ぶつかる感触と共に相手の着ているジャケットからズボンまで真っ白の制服が視界に入る。互いにバランスを崩した中(といっても大きく崩したのは私だけだった)向こうもちょうど手にしていたらしいスマホが、私がぶつかった衝撃で空にこぼれるのを見て、慌てて手を伸ばしてそれを受け止めた。
 私自身は運動神経に全く自信がない人間であるためそんな風に反応出来たのは奇跡と言ってもよかった。そしてそんなに上手に対処できる奇跡が続くはずもない。
 片手に自分のスマホを持っていたまま、もう片方の手で相手のスマホを受け止めることを優先したせいで両手がふさがり、よりバランスを崩し勢いよく地面に激突しそうだった私を目の前の誰かがその前に抱きとめた。
「あっぶっね」
 腕を引かれ相手の胸元に倒れ込む。突然起きた予想もしていなかった出来事に時が止まったような錯覚を覚え、体が固まる。そんな私を現実に引き戻したのは手にしていた自分のスマホの通知だった。弾かれたように体勢を直し、目の前の相手から離れた。
「ごめんなさい、ありがとうございます。ぶつかって本当にごめんなさい」
 相手の黒いケースに入ったスマホを目の前の彼の手に渡してから、返ってくる言葉を聞く前に私は再び駆け出していた。駅のホームに滑り込み電車に乗ってようやく足を止める。それでもまだ走っていたくなるようなうずうずする気持ちとさっきの出来事に胸はいまだにドキドキしていた。
 スマホに映しだされているメッセージ画面に今電車に乗ったことを打ち込むとすぐに返事が返ってくる。ようやくちゃんと目を通しながら返事が出来て深く息を吐いた。そうしていることでやっと心臓が落ち着いてくる。
 自然と脱力してぼんやりしながら支えてもらった時に視界に入った制服が白宝高校のものであることに思い至った。自分と頭一つ分以上あった身長差を思い出し、メッセージを交わしている相手である凛くんと同じくらいかなと想像する。それから、覚えているのはその制服と彼が履いていた磨かれたローファーばかりで、まともに顔を見ていなかったことに気づいた。私が前も見ずにぶつかってしまったのに支えてくれたことや「危ない」とかけてくれた言葉を思い出し、急いでしかお礼を言えなくて悪いことをしたなと思った。凛くんなら転ばなかったし、そもそもぶつからなかっただろうなとも思う。
 申し訳ない気持ちを感じながらも「走ってくんな、どうせすぐ転ぶ」とタイムリーに送られてきたメッセージによく分かられすぎていると口元がつい緩んだ。もう転びかけたと返すと同時に連投される、見慣れたとげとげした心配の言葉に自分の顔がにやけていく。目の前に凛くんがいたら何を笑ってんだと言われていただろう。
 目的の駅名のアナウンスがかかるまで短くはない時間を電車に乗って過ごしてから私は駅へ降りた。急き立てられるような気持ちで出来るだけ隙間を小走りになりながら駅の中を進み、いつもの方面の改札に向かう。駅の外にいるかもと思っていたけど改札の近くにその人影を見つけた。背の高さだけではなく、本人の雰囲気で人がいる中でも際立って見える。
 ついに小走りではなく走って凛くんの元へ向かう。こちらを見つけた凛くんは私が凛くんの元に辿りつくより先にこちらに駆けよって私の腕を掴んで支えてくれた。もう転んだとメッセージを送ったこともあるんだろうけど、そもそも凛くんは私から目を離すと転ぶと思っている。
「走んじゃねえって言っただろうが」
「うん!」
「うんじゃねえよ。分かってねえだろ」
「うん、うん」
 何を言われてもつい笑みが浮かび、勢いのまま頷いてしまう。冴くんがまだいるころに冴くんと凛くんと出会った私はそれからずっと凛くんと同じ時間を過ごしていたが、凛くんより先に高校に上がり都内へと居住ごと移ってからは顔を合わせられる機会そのものが減っていた。以前に比べれば今日こうして会うこと自体久しぶりと言えると思う。家も近かったころとはやっぱり顔を会わせる気軽さが違っていた。
 凛くんは私の着ている制服に視線を向ける。おりていく視線は私のストッキングに包まれた膝を見た。
「……転んだんじゃねえのかよ」
「実は近くにいた人が助けてくれて」
 話をしている途中で舌打ちをした凛くんが私の腕を掴んだまま出口に歩き出す。凛くんの長い足は普通に歩いていても早い。なんだかいつもよりも早いペースに合わせて自然とまた早足になっていると、凛くんが急に止まった。凛くんは私の腕から手を一度離すと今度はてのひらを握りしめてくれる。びっくりして凛くんの顔を見上げる。私の視線を受け止めた凛くんは、私が凛くんを見ているのを分かったうえで視線を逸らした。
「握ってねえとまた転ぶだろ。転ぶの助けるよりマシだ」
「うん!」
「うんしか言わねえのかよ」
 彼の声に滲む感情に釣られるように、私は自分の気持ちを素直に伝えた。
「繋ぐの嬉しい」
「引っ張ってやってるだけだ」
 凛くんは引っ張ると言うには優しすぎる仕草で私の手を握ってもう一度歩き出す。凛くんとずっと過ごしているうちに自然とこういう形へと関係がおさまった。私は凛くんが大好きだから凛くんが私を好きで居てくれて一緒にいようとしてくれることをとても幸せなことだと思っている。
 そう言うと凛くんは凄く怒るので言えないけど、凛くんは私には勿体ない人だと分かっているから余計だった。私は凛くんの才能やストイックな努力を知っている。そんな風に一つのことに真摯に取り組んでいるところや自分の実力への自負が好きだ。出来ることを全てしているからこそだと思う。
 そんな私に恋人と同じように自分には勿体ない友人を作ることになったのはこの日からすぐ後のことだった。
「久しぶり」
 そうすることに違和感を覚えさせない躊躇いのない動作でカフェチェーンの中の一席に座っていた私の隣へと腰かけたその男の子は、こちらの顔を覗き込んでそう言った。目を丸くする私に目の前の彼はにっこり笑う。華やかで綺麗な顔立ちの男の子だった。顔立ちの美しさだけではなくて大勢の人間の中から一人だけ浮きあがるような、どんなに人がいても思わず彼を見つめてしまうそういう空気がある。その笑みには思わず心を緩めざるを得ない魅力があった。完璧な笑顔があるならこんな表情なんだろうなと思った。
 でも問題はそんな彼に私が見覚えがないことだった。見覚えがないから「久しぶり」と声をかけられる理由にも心当たりがない。
「隣座ってもいい? まあもう座ってるけど」
「ああ、……うん」
 押されるがまま頷く歯切れの悪い返事に彼は大きな瞳で私を見つめる。自分が誰なのか私が理解していないということが伝わったのか、彼の顔に苦笑が滲んだ。
「俺のこと覚えてない? って、 こんなこと言うと下手なナンパみたいだな」
 顔をいくら見ても思い出せなかったけど、視線を彼の顔ではなく胸元から足先まで巡らせその傷の一つもないローファーまでたどりついてようやく既視感を覚えた。席に狭さを感じる長い足や座っていても近いとよく分かる彼の身長の高さと彼が身につけている白を基調としたその制服。
 自らがすごい勢いでぶつかってしまった先日の白宝高校の男の子の存在が記憶の中から蘇り、目の前の彼とやっと結びついた。
「思い出してくれたっぽい?」
「あの時の、……ぶつかってしまった人ですよね?」
「そう! 俺の顔より制服の方が印象的だった?」
 冗談めかすように彼が言う。肯定もできず言葉を濁すものの、彼の言うように本当に顔を見てなかったんだなと改めて思った。
 緊張を感じている私とは真逆で彼は自分の調子を貫くように私の飲んでいたドリンクに視線を向けて、小首をかしげる。
「俺も同じのにしようかな、何にした?」
 新作を注文したことを答える。親し気な様子でどんなやつ? と聞かれ、空気に呑み込まれ自然と、注文したメニューをスマホの画面に出した。液晶を指してメニュー名を言葉にすると彼は私の目を見て名前を繰り返したので頷く。どんな味だったかを伝えるとびっくりするほど丁寧に相槌を打ってくれてその態度に安堵を覚える気持ちになった。
「美味そうなの教えてもらったしこれにすんね」
 そう言った彼はあの時私が拾ったスマホをテーブルに置いたままカウンターに向かう。自然と私は彼の帰りを待つことになった。そのつもりはなかったけどもしこのまま突然声をかけてきた相手である彼から逃げるように帰ろうと頭で思うことがあっても彼がこうして残していったスマホを置いて行くことは出来ず、実際には帰れなかっただろうなと思う。
 置かれた彼のスマホを見つめていると言葉通りに私と同じものを注文したらしい彼が戻ってきた。
「あの、それ、私がお支払いします」
「え?」
「この前のお詫びに。大したお詫びじゃないですけど」
 再び私の隣に座った彼に、彼が注文している時に考えついたことを口にして伝える。突飛なアイデアではなかったはずだった、と思う。だけど彼は大きな瞳をもっと大きくして、心から驚いた顔をした。黙り込んでいるその姿はこうして再会して過ごした短い時間の中で見る彼の姿の中で一番無防備な表情だった。
 さっきまでの親し気な様子から受け入れてくれそうだと思ったけど余計なことだったかなと不安を覚えかけたころ、彼は自らの口元に手を当てながらこちらを見る。隠そうとしているらしいけど隠し切れないおかしそうな笑みが口元に浮かんでいる。先ほどまでとは違う雰囲気の笑みだった。
「……じゃー、そうしてもらおっかな」
「良かった」
「お詫びついでに敬語もなしがいいって俺は思ってるんだけど、いい?」
「うん」
 ドリンク代を送るために私もスマホを鞄から取り出したもののアプリで送るには交換しないと出来ないことを思い出す。初対面でそうするより直接の方がいいかなと財布を取り出そうとした私の手に彼の手が重ねって動きを止めさせた。すらっとした指先が私のスマホの方をトントンと指し示す。
「こっちでいいよ、登録してくれる?」
 彼の言葉に従ってアプリを立ち上げお互いのIDを交換する。追加された連絡先の彼の氏名が目に入った。ふっとひっかかりを覚えるものの、やっぱり思い出せない。
「改めて自己紹介していい? 俺のことは制服で覚えててくれたみたいだから分かると思うけど高校は白宝ね。俺のことはレオって呼んでよ」
 下の名前で紹介されたので思わず私も下の名前で自分を紹介して通っている高校も伝える。
「俺も名前さんの制服覚えてた。まあ俺はちゃんと顔を見て覚えてたけど」
 言葉の割に非難よりも拗ねを感じる。でもそれよりもからかいを含んだ言葉だった。心をくすぐられるような柔らかな声を嫌いだと思う女の子なんてこの世にいないんじゃないかと他人事みたいに思う。
「ぶつかられて視線も合わせず逃げられた時からまた会いたいなと思ってた」
 全然また会いたいと思える理由でも「久しぶり」と声をかけたくなるような理由でもないように思えた。もしかしてと思い疑問を口にする。
「ぶつかったせいでスマホ割れたりした? 弁償した方がいい?」
「フッ……。……フフッ。……違げぇって。ただ話してみたかったの。だからまた会えたら今度はちゃんと声かけるかなって思ってたし、今日見かけて実際そうしたわけ」
 かなり笑われている。でも「捕まえられてよかった」と言う無邪気な表情はとてつもなく機嫌が良さそうだ。「名前さんと話してると楽しいな」と普通の会話しかしてないはずなのに、レオくんが言う。お世辞が上手い。
「よくここに来んの?」
「毎日ってわけじゃないけど……学校帰りとかに割と寄ってる、かな」
「じゃあここに来れば名前さんに会えんだ? また会ったらこうやって話してくれる?」
 その言葉にきょとんとすると「会いたいって言われるの嫌? 俺のこと無理?」と肯定するのは難しい質問をされる。そんなことないよと言うと彼が満足そうにするので、そう言わせるためにその質問をしたことが分かった。意図を分からせても嫌だとは思わせないのが凄いなと思った。
「この前は急いでみたいだけど何か用事とかだった?」
「……人と会う約束してて」
「彼氏だ?」
 オブラートに包んだ中身の言葉を率直な言葉で明るみに出したレオくんは「名前さんかわいいから彼氏くらいいるよな」と言う。ぎょっとするくらいストレートな言葉に動揺してまた黙り込んだ私にレオくんは「照れてんのもかわいいね」と本人は少しも照れた様子もなく言い放つ。
 本格的に困ってしまうと、レオくんは眉を下げた。こちらが変に反応しすぎて気を遣わせてしまったなと思ってしまうようなレオくんのほうがずっと可愛い表情だった。
「ウソウソ。いやウソじゃねーけど、言われても困るか」
 話題を切り替えてくれた彼とそこからいくらかの話をした。ほとんどは私が質問をされる形だったと思う。それでも「かわいい」と言われた時以上に困ったりしなかったのは私に対してレオくんが限りなく話しやすいような反応をしてくれるからだ。
 時間を見てそろそろと言い出す私をレオくんは無理に引き留めなかった。始終彼のペースで嵐みたいに勢いが強かったなと思っても後ろ向きな印象を受けないのはレオくんがこちらの様子を常に伺ってそう振舞ってくれていたからだ。私の話が上手なわけではなく、レオくんの聞き方が相手に気持ちよく話をさせるものなのだとなんとなく分かっていた。
 お互いに飲み終えてから外に出て、駅に向かう私にレオくんは手を振ってくれた。
「またな」
 思わず私も手を振り返す。そうして私が出会った「レオくん」とあの有名な「御影玲王」が同一人物だと気づいたのは家に帰ってからのことだった。次に顔を合わせた時(これもすぐのことだった)何一つ気づけなかった上に彼を相手に偉そうにドリンクを奢ると言いだしてしまった気まずさを顔に出した私を見て怜王くんは気づくの遅すぎと笑うのだった。
 御影玲王の名前を、特に彼の通う高校の周辺では耳にしないで生活することは不可能だ。同年代なら絶対に知っている有名人だった。“あの”御影玲王だと自己紹介されたら素直に理解していたと思っていたと思う。あるいは感覚が鋭かったら違ったかもしれない。だけど私は察しの悪さで二回も気づかなかったのだった。
 あれから玲王くんの言葉通り、あの店で顔を合わせるようになってそのたびに話をするようになった。勉強についても学校についても話をしたし、個人的な話についてもした。
 親しくなってから怜王くんの移動手段は基本的にお家の車なので玲王くんは本来はこの店で私を見かけることもここで出会うはずがないということも知った。玲王くんはわざわざ私のことを意志を持って見つけ出して声をかけたのだ。一度興味を示したモノへの行動力が凄まじい。
 そしてその玲王くんの関心は今サッカーに向いている。「W杯を目指す」と玲王くんが言い出したその時、彼なら実際に果たしてしまうのかもしれないと言う気持ちになった。
 サッカーを凛くんや冴くんのしているものとして以上には知らない人間の浅い意見だったと思う。でもその時には彼が欲しいと思ったものに対して人より労力を注ぐことも才能はもとより結果が出るまで努力を重ねる性質もそれを苦に思わない精神力も、手に入れるまでの執着心もよく知るようになっていた。玲王くんはもともとなんでも出来る人だけど、同時に、出来るまで全力で向かう人だった。だから私は玲王くんが欲しいと言って手に入れられないモノを想像出来ない。その感情の強さはどこか凛くんの真っ直ぐさを連想した。
 そのサッカーの話をしている時、ふと思い出したように玲王くんが聞いた。
「彼氏もサッカーやってんだっけ」
 そう言った玲王くんは「彼氏の顔知らないけど彼氏より俺の方が恰好良いよな?」と聞いた時に無言で答えを躱した私に対してした時の顔をしていた。つまり笑っているが面白いとは思っていなさそうな顔ということだ。
 言葉にはしなくても玲王くんは私の恋人について、私にとって自分より優れているとか優先されるというような感じになると嫌そうだった。玲王くんは自分が一番じゃないことを体験したことがないらしかったから、まあ、友達に対してもそんな感じなんだなと思った。私は玲王くんの自分を高めることに躊躇しないところを人として恰好良いと思っていたけど同じくらい自分が他人にとってなんでも一番なのが(あるいは一番に限りなく近いものなのが)当たり前みたいなところを子供みたいで可愛いと思っていた。だから私は「そうだよ」とだけ答える。
 環境と才能とこれまで以上の努力をサッカーに注ぎ込んで見せた玲王くんはいつもの店で惜しまれることのない沢山の要素の力で出して見せた結果を眩しいくらい挑戦的な笑顔で報告してくれた。そして『宝物』を見つけたと教えてくれたのも、同じ場所だった。
 『宝物』こと『凪くん』という男の子と出会ってからはより精力的にサッカーに対して向かっているようで、玲王くんと店で会うことはあまりなくなっていた。連絡自体は以前以上のペースで交わしているので(連絡がマメであることはかなり"玲王くん"という感じがする)疎遠になったと感じることはなかった。交わしていたメッセージの話題は大体がプライベートを占めるサッカーと『凪くん』になって、私に対しての玲王くんの態度からその『凪くん』に対して玲王くんがどう接しているのか想像出来、そして『宝物』というくらいだからよりすごいんだろなと思うたびに勝手に微笑ましい気持ちになる。
 玲王くんは私に自分の出る試合を見に来るように言ったことはなかった。もし来るならそのうち出場する全国の時に来てよと言われていた。全国出場も全国優勝も本当に通過点としか思っていないと躊躇なく言ってみせる怜王くんのその不遜さが自分が絶対に持ちえないものとして好きだった。そのストイックさは凛くんによく似ているのを私は感じていた。
 私は内緒で玲王くんの出る試合を見に行くことにした。玲王くん本人に確認しなくても白宝高校のサッカーについてはかなり話題になっていたからスケジュールについて知ろうと思えばすぐに知ることが出来た。私は玲王くんと顔を合わせる数が減ることで玲王くんが私に合わせてくれていたことを改めて理解していた。あの店で話をすることは玲王くんの意志と行動によるものであり好意だ。だから私も今度は自分から行動したいと思ったのだった。
 話題になっているだけあって白宝高校の試合は見に来ているギャラリーもかなり多かった。その人込みに紛れながら試合を見た。玲王くんの言っていた『凪くん』が誰なのかは一目で分かった。玲王くんとともに素人でも分かる特別だったからだ。水を得た魚みたいに楽しそうにプレイしている玲王くんの姿を見て、それだけでも来たかいがあったなと思えた。
 顔を合わせるつもりはなく今日じゃなく全国に近い試合を見に行く時には玲王くん本人に連絡しようかなと思っていたので(そのため私だと遠目で分からないように私服を着ていた)影に隠れるようにして観戦していた時、ちょうどこちらを見る玲王くんと思い切り目が合った。青い空を背景に、眩しいばかりに太陽が輝く午後の中、時が止まるような感覚を覚えた。
 驚きで真ん丸になった目はお店で言葉を交わしたあの日を思い起こさせた。私は今度は自分から手を振った。まさしく破顔という言葉がふさわしい表情をした玲王くんが手を振り返してくれるのを見ながらこんなに喜んでもらえるならもっと早く来ればよかったなと思った。早めに撤収すると感情に溢れたメッセージと着信が連投されて笑った。だけど全国の試合を見ることは敵わなかった。玲王くん自身が部から離れたからだ。
 玲王くんから育成プロジェクトの選手に選ばれたと教えてもらったあとに全く連絡がとれなくなって、同じころに凛くんから話されていた、凛くんも招集されているプロジェクトと玲王くんが言っているプロジェクトが同じだったと気づいたのはU-20代表選手(そして冴くん!)と二人の名前がある『BLUELOCKELEVEN』のエキシビジョンマッチについて知った時だった。いつでも気づくのが遅い。 
 凛くんと玲王くん、そして玲王くんの『宝物』の凪くんの属する『BLUELOCKELEVEN』が勝利を収めたその試合を私は現地で見ていた。試合を見て勢いがおさまらないうちに送った二人へのメッセージにそれぞれ連絡が返されたのは翌日のことだ。短文のみの凛くんと私の要領を得ないメッセージに丁寧に答える玲王くんというかなり対極なメッセージだった。
 試合の翌日、電車から降りて見慣れた道を早足で進み、『いつもの場所』に凛くんの背中を見つけたその時、私はなんだか堪らなくなり気づいたら遠くから彼の名前を呼んでいた。海と消波ブロックのある向こう側で振り返る凛くんの元へ私は駆けていく。防護柵をかなりもたつきながら飛び越えてそのまま凛くんに抱きついた。絶対にここにいると思っていた。
「なんでもういんだよ」
「会いたかったから……」
 試合の翌日に短文でメッセージを返してくれた凛くんはそのあと通話をしてくれたのでその時に会う約束をしていたのだ。駅まで迎えに来てくれるという約束の時間より早かったがやっぱりいても経ってもいられなかった。
 抱きついたまま凛くんを見上げる。こちらを無言で見つめる凛くんの顔を見ると言いたいことがいっぱいあったのになんだかもう全部どうでもよくなってしまった。凛くんは相変わらず格好良いなと思った。
 腕に力をこめてもっとぎゅっとすると抱きしめられるがままだった凛くんが背中に手をまわしてくれる。嬉しくなった。縋りつくみたいにすべての力で思い切り抱きしめてから、でも寂しさや名残惜しさを感じつつ腕を離そうとした。でも凛くんの方が腕を離す様子がない。もう一度彼の顔を見上げると仕返しのように今度は凛くんの全力で抱きしめられた。抱きつぶされるような力だった。私が思わず声を上げると凛くんは私の頭を撫でてから満足したように離した。
 そのまま一緒に海を向いて隣に座った。走ってきてぽかぽかになっていたので私は自分がつけていたマフラーを凛くんの首にまいてあげる。凛くんはいらねえと言いつつされるがままだ。
「試合すごかった、凛くん格好良かった」
 私によりかかられている凛くんはその言葉にただ海を見ていた。代わりに頭に手を置かれる。じゃれるように触れられながら自分の気持ちを直接伝えられて満足だった。
 久しぶりに生で見る試合の最中の冴くんも凄かったし、『W杯』という目的に確実に近づいている玲王くんも凄かった。稚拙な感想だったけど本心だ。凛くんによりかかったまま、赤く輝く太陽を反射する海をお互いに黙って見ていると凛くんが口を開く。
「兄ちゃんも潔のことも今度こそ改めて潰す」
「うん」
 私はあの試合に胸がいっぱいになってしまったけど、凛くんは満足していないらしい。凛くんらしいな、好きだなと思いつつ私は頷く。頷いてから首を傾げた。
「凛くんの口から冴くん以外の選手の名前初めてちゃんと聞いたかも」
「あ?」
「仲良くなったの?」
「なわけねえだろ。潰すっつってんだろうが」
 凛くんの冴くんへの想いがどれだけのものだったのかを私は私なりに知っている。その凛くんが冴くんと並べて名前を上げるのはかなりのことに感じる。
 凛くんの言っているのはつまり潔世一選手のことだろう。テレビで何度となく見かけた名前とインタビューを思い出しながら、凛くんもそんな風に影響を受けるすごい人なんだなと思った。
 温まっていたはずの体が冷えた潮風に晒されていくうちに芯まで同じ温度になっていく。ついにぷるぷるしながら凛くんに縋りつくとそのまま手を引かれ立ち上がらされた。凛くんに渡していたマフラーがそのまま自分にまき返される。ちょっとしかつけていなかったのに凛くんのにおいがした気がしてつい顔をうずめた。
 凛くんは慣れたように防護柵に片手を置いて簡単に飛び越える。羽でも生えているような重さを感じさせない動きだ。思わず拍手する。凛くんは向こう側から腕を伸ばし、私の体を支えて同じように飛び越えさせてくれた。そして手を繋いでくれる。
 凛くんの手は骨ばっていて私より大きい。凛くんの綺麗な手が(凛くんの体のパーツは手だけじゃなくてすべてが綺麗で、私より大きくなっていた。それを確かめるたびに私はドキドキする)好きだ。
 私の手は既に冷たかったけど私以上にこの寒い場所にいたはずの凛くんの手はあたたかかった。私がこんなに熱く感じるなら、凛くんにとってはとても冷たく感じていただろう。だけど凛くんは当たり前のように手を握ってくれる。そうして繋いでいるうちに二つのてのひらはぬるく、同じ温度になっていく。
「ここにいるんだろうなって思ってたから来る時に熱い飲み物買って来ようとしてたのに急ぎすぎて忘れちゃった」
「今から行きゃあいいだろ」
「うん!」
 手を繋いだまま一番近くのカフェチェーンに一緒に向かった。私は凛くんがいなかった間のことを話しながら(外と連絡したりニュースを確認を行えない状態じゃなかったらしい)こうして一緒に歩いていられるだけでやっぱり幸せだなと思った。今も昔もその気持ちが、私の凛くんへの向ける気持ちのすべてだったと思う。これからもきっとそうだった。そうでありたいと思っていた私が凛くんを好きでいるように凛くんが私を好きでいてくれるなら、それだけでいいと思い続けていられたら良かったのに。
 玲王くんから『会いたい』というストレートなメッセージが送られてきたのは、二週間のオフをもらっているらしいということを凛くんから聞いてその間にまた会う約束をしてから(凛くんの実家には冴くんが顔を出しているらしいので家族水入らずの邪魔をしたいとも思うはずもなく、凛くんの家には寄らずに)帰宅する最中だった。玲王くんは会いたいと思ったら会えるよな? と確認してすぐに会いにくる人なのでびっくりする。
 会いたいというメッセージのあとに誤魔化すように「何も考えず送った、ごめん」という補足がリアルタイムで送られて来て、玲王くんの珍しい照れの感情を感じて微笑ましく思いながら明日会う? と送る。直後すぐにかかってきた通話に電車の中だったからびっくりして切った。切ってすぐに通話無理? と送られて来る。言葉の少なさになんとなく切実さを見た気がして乗っていた電車から一度駅構内に降りる。こちらからかけなおすと通話はすぐ繋がった。
「玲王くん? ごめんね、今電車だったから」
「……」
「どうしたの?」
 彼が私の名前を呼ぶ。友達としての関係の中で親しくなっていくうちに彼は私を名前さんではなく名前と呼ぶようになっていた。沈黙に、そんなことはないはずなのに彼の吐息を感じるような気がした。
「声聞きたいって思ってたんだけど実際に聞いたら会いたくなってきた」
 玲王くんはそれまでに送ったメッセージや黙り込んでしまったことなんてまるでなかったみたいに、明るいトーンの声を出す。玲王くんがそういう声を出す時は他者に聞かせることを意識して出していることを私は知っている。どうして急にそうしたのか分からないけど、取り繕うみたいな声で話さなくてもいいのにと思った。
「明日会えんだもんな」
「……今から会いに行こうか? ちょっとしか話せないかもだけど」
 玲王くんの完璧な声音から逆に切実さを感じて、手首の時計に視線を落として時間を確認しながら告げた。するとまた黙り込まれてしまった。
「今どこにいんの?」
 家の最寄りと大して離れていない駅名を伝える。玲王くんの口調から躊躇いを感じて逆に迷わせたかなと申し訳なくなった。
「会いたいけど時間も時間だし我慢するわ」
「しなくていいのに」
 玲王くんに我慢って一番に似合わない言葉だねと言うとお前さあと呆れの滲んだ声で強めに言われる。スマホの向こうから微かに物音がする。玲王くんの夜にもトレーニングをこなしているストイックさを知っていたので勝手にそういう場面を想像しながら私は駅から出て家に向かって歩き出した。
「改めて今回はおめでとう。試合に出てるのも、勝ってたのもすごいなと思って見てたよ」
「どーも」
 かなり冷静な声だ。もっと喜んでいるかと思った。でも凛くんもだけど玲王くんはそれ以上に比喩でなく千回くらい言われてそうだから言われすぎて慣れてしまったのかもしれない。祝勝のメッセージもいっぱい来ていたんだろうなと思う。それなのに玲王くんはその忙しさを感じさせずに私にメッセージを返してくれて、こうして電話してくれている。
「疲れてる? ここ二、三日でおめでとうにありがとうって言いすぎて飽きてそう」
「まあな。でもその前から飽きるを通り越して言い慣れてるよ」
 玲王くんらしい言葉をその日やっと聞いた気がして思わず笑う。
「いろいろあったからさ。足りないものの今回で自覚させられた。試合は勝ったけどこれからだろ」
 いろいろという言葉にこめられた実感に、具体的な説明をされなくても私にまでその重さが伝わってくるようだった。
 試合に勝ってもすぐに次を考えているのは上り詰める人共通の考えなのだろうか。本当に偉いなと思う。
「試合来てたんだろ? 転ばなかったか?」
「今回は家に帰るまで無事だったよ!」
 からかいではなく心配のための言葉に私は素直に応える。玲王くんの出る試合を見に行った時にコートの脇で何度か転びかけていたのを見られていて(そして出会いのこともある)玲王くんからもよく心配されていたのだった。
 それから玲王くんがいなかった間の学校の話とか世間の話をした。返事ずっと返せなくてごめんなと謝られて、玲王くんが返事しない事態に合宿じゃなく誘拐をされてるんじゃないかという気持ちになったことを思い出す。
「いろいろ送ってくれてたのもありがとな。あと混ざってるの見て笑った」
 玲王くんとのメッセージに返信が止まったことにびっくりして玲王くんのSNSアカウントを確認したところ、プロジェクトに出発したあの日に全てが更新を停止していたからネットに触れる時間がないんじゃなくてそもそもネット環境に繋げられない場所にいるのかな? と勝手に想像していたのだ。機会さえあれば時間がどれだけなくても玲王くんはそんな風にすることはないだろうから。
 私は返事が返ってこない玲王くんとのメッセージ画面に、彼が気にしていそうなニュースのURLを確認して見つけるたびに送っていた。いつ見られるか分からなくても、外についてで一番気になっていることかなと思っていたからだ。玲王くんから返事が来ないという異常事態が逆におかしくて返ってくるまでずっと続けていた。試合によって一連のメッセージの最後はおめでとう!だ。
 もしプライベートな発信が出来ないだけでニュースを確認出来る場所だったのだとしても玲王くんならまあ流してくれるだろうとも思っていた。そしてそのうちただニュースを送るのに追加して、真面目なニュースの合間に全然関係ない個人的なニュースも混ぜて送っていたのだった。
 試合に関しておめでとうを恐らく今まで以上にいっぱい言われているように、彼が外と切り離されている間に私以外にもすごい量のメッセージがあっただろうから変にふざけずに控えておけばよかったかもしれないと試合後の玲王くんのSNSを見て後悔し始めていたので、玲王くんのその迷惑と思っていなさそうな様子に胸を撫でおろす。
 私がメッセージで共有していたエピソードについて改めて聞かれてそれについて話をしているうちに自宅の影が見えるあたりまで足が進んでいた。視線を前に向けると、家の前に見覚えのある人影を見つけた。びっくりして「玲王くん?」とスマホ越しに呼ぶと人影もまた顔を上げ、こちらを見る。
 私は思わず駆け出していた。慌てて駆け出したせいで試合を観戦し時には転ばなかったのに今度は思い切り転びかけた。玲王くんがいつかそうしてくれたように駆け寄って抱き支えてくれる。
「大丈夫か?」
 そう言って腕を離してくれた玲王くんの顔を見上げる。久しぶりに見る姿が感慨深かった。
「やっぱり顔見たくなったから来ることにした」
「玲王くんだ!」
 思わずそんな風に彼の名を呼んでしまった。目の前に玲王くんがいるのだという実感を得て思わず頬が緩んでいく。玲王くんもどこか嬉しそうに目を細めてこちらを見る。そして視線を止めた。
「……随分カワイイ恰好じゃん。お出かけしてきたんだ?」
「うん」
「ふーん」
 あまりにじっと見つめられるので恥ずかしくなって私は玲王くんの目元に手を伸ばし遮ろうとしたけど、それを捕まえる玲王くんの手の方が早かったし力が強かった。腕を振っても身をよじっても全然離してもらえないしすごく見られている。
 玲王くんと会う時の大半は制服だったし今の自分が着ている雰囲気の服で玲王くんの前に出たことはない。それが余計に羞恥心を感じさせた。玲王くんもまた私服だ。相変わらず広告から出てきたみたいだなと思う。
「玲王くんこそずっと恰好良いよ」
「は?」
「え?」
「名前って俺のこと恰好良いって思ってんの?」
「玲王くんを見て恰好良いと思わない人の方が珍しいと思うけど……」
「でも言わないじゃん。思ってないのかと思った。言えよ」
「ええ!?」
 玲王くんが格好良いのなんて空が青いみたいな公然たる事実だ。誰でも分かることを、私は改めて、実感を持って口にする。
「玲王くんは今日も恰好良いね」
 玲王くんは腕を掴んだまま私の目を覗き込んだ。いつもある体格差や節度を持った距離感を縮めた至近距離の玲王くんの顔はなんだか現実味がない恰好良さだった。何を思っているのか分からない表情に、何をされるのか分からないままされるがままでいると、顔を寄せられる。私はやっぱりそのままでいた。さっきまではその大きな瞳に自分が映っているのが見えたけどもう近すぎて玲王くんがどんな顔しているのか分からない。
 そして急に顔を離されたと思ったと同時に強くハグされる。その行動にびっくりすると「勝利を分かち合うハグ」と言われたので、私は彼の背中に触れて腕を添えた。かすかに彼の体が震える。抱擁の力が強くなった。
「玲王くん、本当にお疲れ様。きっといつもみたいに、いつも以上にかな、いっぱい頑張ってたんだよね。……ずっと応援してるからね、これからも頑張ってね」
 心からそう思いながら彼に囁く。頑張ってねなんて言われなくても玲王くんは自分の意志で頑張るんだろうな、そう分かっている。でも、そう思っていることを伝えたかった。玲王くんもまたそういうと怒るけど、私には勿体ないくらいの凄い友人だ。
 私の言葉に玲王くんが何かを言いかけたのが分かったけど、その言葉の続きはなく代わりにもっともっと強く抱きしめられて押しつぶされそうになった。思わず情けない声を上げると玲王くんがかすかに笑って、そっと腕を離される。離されてやっと見ることが出来た玲王くんの顔は苦笑を歪めた表情をしていた。
 やっぱりプロジェクトの中で悔しいことや大変だったことがいっぱいあったのかなと思った。知りもしないのに分かったようなことを言ってしまった。
「名前に応援されんの嬉しい」
 玲王くんは私の頭に手を伸ばして撫でた。ハグもそうだったけど玲王くんにそんな風に触れられたのは初めてのことだった。髪を崩さないようにしているのが分かる手つきは優しくて、凪くんを撫でている玲王くんの姿を思い出す。玲王くんと凪くんの間にある感情を何一つ分かっていなくて、外から見たことしか分からなくても、いつもこうして撫でられているなら玲王くんのことを大好きになるだろうなと思った。私だったらそうなってしまいそうだと思った。
 翌日だけじゃなくて二週間の間に玲王くんとも何度か会って過ごした。だけどあっという間だった。改めて届いたというBLUELOCKプロジェクトに招集された凛くん、そしてもちろん玲王くんを再び見送ることになった。見送ったその後の様子を知ることが出来なかった今までと大きく違うのは様子が配信され、BLTVで彼等を見られることだ。世間の関心を大きな形で集めながら改めて始まったプロジェクトのおかげで、プロジェクトに属する、特に活躍している選手の名前はそれまでサッカーに感心を持たなかった人間の間でも広がっていた。
 学校でもネットでもニュースとしてそれに関する話題を聞かない日はほとんどなく、大きな盛り上がりを見せて100日後のU-20W杯を迎えることになる。

どうしようもなく日が暮れる

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