資料を見る視線と共に伏せられた睫毛やその髪を窓の外から射す淡い光が照らす。闇の中で光を反射すると冷たく白く光る銀色が明るく優しい色に染まっていた。私たち以外が傍にいない人気のない空間のなかで、彼の声だけが反響している。そのくちからはずっと"真面目な話"が続いていたけど私はただただ彼の持つ色彩やその横顔ばかりに見惚れていた。そして吸い寄せられるように自らの手を伸ばしていた。
椅子に深く座りながらもそれでも足を余らせている大きな体躯のその肩に手を添えると、彼が顔を上げる。私は彼のくちがこちらを伺う言葉を紡ぐよりも先に、その薄いくちびるに触れるだけのキスをした。すぐに顔を離すと丸くなった彼の目とサングラス越しにしっかりと目が合う。その表情も、私にキスを許した距離も酷く無防備だった。
「は?」
びっくりした顔をする彼を後目に元々座っていた隣の椅子に戻って座りなおす。その様子を彼はあっけにとられたままじっと見ていた。
「……なんで今キスしたの?」
子供みたいな口調の質問だ。真面目な顔で真面目な話をしている彼が格好良かったからしたくなったと心に浮かんだけど「したかった」とだけくちに出した。好きだからしたくなった。私と彼が初めてしたキスだった。
いつも他人に言葉で負けたりしないくちが開いては何かを言おうとして、なにも言わないまま閉じる。白い頬がいつもより色を持っていて、照れているのが分かった。かわいい。表情のない顔ももちろん好きだけど、私のために向けられる顔がいちばん好きと心の底からそう思う。
今度は彼が私のことを腕を伸ばしてとらえた。抱きしめられるだけで重みを感じる太い腕は私のことを簡単に抱きかかえ彼の膝へと移動させた。重みなどないように持ち上げられて膝の上に前を向いて座るように乗せられる。首元にぐりぐりとおでこをおしつけられて、煩悶する彼の吐息が首をくすぐった。
「嫌だった?」
「なわけねえだろ」
その反応に思わず笑い声がくちからこぼれる。そんな私とは反対にうなり声が彼の喉から聞こえたあと、頭を引き寄せられて今度は彼からキスをされた。私がしたのと同じくらい、それ以上に優しいキスだった。だから余計に胸が詰まった。
「俺もしたくなった」
囁かれ、鼻先が触れる距離でこちらを見つめるその瞳に腕を彼の首にまわす。引き寄せると、そのまま舌が入ってくる。くちびるは薄いのに舌は厚かった。その舌に自らの舌を絡めながら肌が痺れるような感覚を覚えた。好きな人とするキスだから感じるものだと思った。
縋りつきながらキスをして、くちびるを離すともう一度目が合う。
「……えっちなキスしちゃった」
「お前から仕掛けたんだろ」
言葉とは裏腹にびっくりするくらい優しい声に「うん」と笑いながら答えると、彼は私のくちびるをもう一度舐めた。綺麗な顔をしているのに獣みたいな原始的な仕草だった。それなのによく似合っていた。彼がするとなんでも絵になった。
それから私は彼の姿を見つけると、周りに人影がいないのを確認しては彼にキスをするようになった。立っている彼にキスをするのは身長差でどうしても届かなかったから、基本的に座っているのを狙ってした。どこにするのかは気分で、頬にもこめかみにも額にも唇にも髪にもした。座っている彼を見つけては近づいて、あるいは彼を振り向かせて、いくらでもした。キスをして、びっくりした顔を確認してから、逃げた。
出来るだけ静かに近づいて奪うようにキスをしたけど、いちばん最初のキス以外は多分する前に私のそうする気配を知っていたと思う。きっとその上で許してくれていた。私がそうすることに最初はぽかんとしている彼の反応を見てから逃げきっていたが、時間を経るとキスをした瞬間にその腕につかまるようになって、私がするのも逃げるフリになった。体をよじり逃れようとすると彼はそれが遊びだと分かっていてもそのたびに腕の力をこめて逃がさないようにしてくれて、今度は彼が私にキスをした。それが嬉しかった。ずっとそうしていたいと思った。
そのうち私が彼と顔を合わせると、傍に近づくだけでどこか静かになるのを感じたとき(二人きりでなければ私は絶対にしなかったし、彼もそれを恐らく知っていたけど、他に人がいてもどこかそわそわしていたのが可愛かった。本当に、とても、世界でいちばん!)思わず声を上げて笑ってしまった。
私の反応に口元をひくつかせ、こめかみに青筋を浮かべている彼の姿は他人から見たら恐ろしいものだったと思う。でも彼が見せるその表情の裏には照れがあるのを知っていたから怖く感じるはずなかった。私にキスをされて照れてそんな顔をする彼が大好きだと思った。
いつまでも笑い声を上げて顔を覆い隠していた私の手を外した彼は、私の顔を見るとそれまでの怖い顔を止めて、不思議そうな顔をする。
「……なんで泣いてんの?」
「好きだから」
こぼれていた涙を彼は初めてキスをしたときに、くちびるにそうしたように舐めた。
付き合い初めて知ったことだったけど彼は男女の関係において、彼の日頃の態度のように強引ではなかった。付き合った瞬間にキスをしそうなのに。そう言うと「そういうのをされたかったってことかよ?」どこか拗ねたようなな目で聞かれたけど私はその顔もかわいいなと思って見ていた。彼の意外な一面を知ることが出来たのが嬉しいし、想像通りにキスをされてもきっと嬉しかっただろう。彼ならばなんでもよかった。
初めてキスしたのが私からだったように、それ以上も私から触れることになるのかなと思っていたので言い辛そうな、どう切り出そうか困っているのが分かる顔で「いい?」と彼に聞かれたとき、私は少し驚いてから頷いた。初めて見る顔だった。私にキスを仕掛けられていたとき、満更でもなさと照れと喜びと、でもそれを感じている自分を恥ずかしがって不機嫌そうにしている彼の顔を見たときと(その時も初めて見る顔だと思った。)同じくらい嬉しくて胸が苦しくなった。
彼自身の任務がなく一日を一緒に過ごせる日に、ただ泊まるためのホテルとは一線を画す、私が自分のためにとるとしたらかなりの躊躇を抱くような、あるいはかなり前から予定を立てるだろうグレードのホテルの一室を彼はそのためにわざわざとってくれた。
「気合入りすぎ?」
照れを滲ませた声でキスの合間に彼が言うので、私は変にからかったりしないで嬉しいと伝えた。私とのためにこのホテルをわざわざ選んでくれたのに嬉しくないわけないよ、悟くんの恋人で幸せだと言うと私が真面目に受け取ったから余計に照れたのか、途中で言葉をもっと深くふさがれる。
お互いに初めてなのはキスをしたときに確認していた。経験がないと言うと「ふうん」と答えた彼は嬉しそうだったから、私の初めてに別に価値なんてないと思うけど、こんなに喜んでくれるなら良かったなと思った。
お互いにシャワーを浴びたあと、ベッドの上であたたまった体で抱きあってキスをしているとそれだけで幸せな気持ちになった。抱きあいながらいつもより早い彼の鼓動を聞いていると、彼の鼓動を早まらせているのが私なんだと思えて、夢みたいだと思った。眩い上等なホテルの一室で世界でいちばん好きな人と絵に描いたような『初めて』をしている。もうこれは私の夢の中かもしれない。願望なのかもしれない。
そうだったら嫌だなと思った私が涙をこぼすと、彼は大きなその手で私の頭を撫でた。
「痛い? 苦しい?」
首を横に振る。初めてつながっている体に違和感はあっても、痛みはなかった。好きな人と触れ合っているという事実だけでドキドキして、めいいっぱい優しくされているのを実感すると、感じたことがないくらい肌が敏感になって、彼の肌に触れているだけでも気持ち良かった。だから「いっぱい優しくしてくれているから平気」と答える。そう答えると彼は耐えるように顔をしかめた。むしろ私の上にいる彼の方が目に見えて苦しそうな顔をしている。私は既にそうしている気持ち良さに満足していたけど彼はそうじゃないのだと言葉にされなくても経験がなくても分かった。
好きなようにしていいよ、私はもうあなたのものだと心からの言葉を伝えると彼が歯噛みする。そう伝えても彼は最後まで自分の好きなように振舞ったりせず、優しかった。
行為が終わってからも汗の滲んだ体で、抱きあったままでいた。二人の体に隙間が出来るのが耐えがたく、恐ろしい離れがたさを強く感じて、そしてそれを相手も抱いていることを互いに肌から感じあっていた。整ってきた吐息のまま「優しいね」と彼の胸元に顔をうずめたままくちにする。すると静かな声が降ってきた。
「いつもお前に弄ばれてるんだからセックスくらい俺が優位に立つべきだろ」
だから最後まであんなに優しくしてくれたのだろうか。優位という立場を示すために支配的な行為ではなく優しい行為という形で与えてくれたのがくすぐったくて彼の顔を思わず見上げた。蒼い瞳と目が合う。彼の手が私の頭を、行為のときにそうしてくれたように撫でた。うっとりする。乱れていた髪を耳にかけてくれた指先で耳をいじられてゾクゾクした。耳まで小さいなと彼が言う。
でも弄んでいるという言葉にひっかかって、弄んでなんかないよ、私のすることは全部大好きだからだよと思った。私の言葉にならない視線を受け止めたことで言いたいことはなんとなく分かったらしい彼が何かをいいかけて止める。
「お前といると余計なことまで言いたくなる」
笑ったその顔は大人びて見えた。彼のことが物凄く好きだと思った。付き合うようになって、触れて、言葉を交わして、一緒にいて、いっぱい好きだと思って、愛しさを感じれば感じるほどたくさんかわいいなと思ったけど、かわいいじゃなくて格好良かった。最中に向けてくれた顔はもちろんその顔もまた初めて見る顔だった。ずるいなと思った。
間接照明の暖かな光に照らされる彼を見つめながら、悟くんは旅館とかの和室も布団も似合うんだろうけどホテルも似合うねと、私は見たことがない浴衣の彼を想像して言った。高専の寮に私服でベッドに寝転がってるのもそれはそれで格好良かったし、どこにいたって彼が生きてるだけでそう思う気もする。彼の容姿の美しさにだけではなく、愛しいからそう思う。
私をじっと見つめながら彼が言った。
「じゃあ次はそっちな」
当たり前みたいに次の約束をくれるのが、その機会があるものだと疑ってもいない彼が眩しかった。思わず目を細める。
抱き合って眠ったあとその浅い眠りから覚めて、眠っている彼の横顔を見下ろしながら、どうしようもないくらい好きなのは私の方だと思った。弄んでいるなんて本当にとんでもなかった。私は彼が生きていて、こうして隣にいることを奇跡のように思っている。私は、あなたを好きになったときからあなたのものだった。心も体も命も、未来も人生も。
彼の髪をそっと撫でながら考える。彼に愛されて、一緒にいられるという夢のような幸せはいつまで続くのだろう? その夢が終わることが、私はずっと、彼と一緒にいるようになってから余計に、自分が死ぬことよりも恐ろしい。
そんなことを考えていると、彼は瞼をかすかに開けた。自分の髪を撫でている私の手を引っ張ると再び腕の中に閉じ込めてしまう。一生こうしていてほしいと強く、強く、心から思う。同時にこんな身に余るような幸せは続かないよねと頭の中の私が言う。
「あんなに優しくしてやったから逆に足りなかった?」
心にずっとある恐ろしさを誤魔化すように、でも愛をこめて、彼の頬に手を伸ばして唇にキスをした。自分から足りなかったかと聞いたのに「もっとしたい?」と興奮と恐れるような震えの入り混じった彼の声に思わず微笑む。「優しいのもすごく幸せで嬉しかったけど、今度は悟くんの好きにされたい、好きにされるのも嬉しい」と耳に囁くと彼の身震いが今度は肌から伝わってきて、幸せで笑みを深めた。今この瞬間に世界が止まればいいのになと思った。彼は困るだろうから言えないけど、ずっとそういうことばかりを思っている。
また抱きあいながら時間が来るまで二人きりの部屋でベッドの上だけでずっといちゃいちゃした。彼と一緒に居られる時間の全てが幸福だと感じていたけど、私の人生における最も印象的な幸福な記憶だった。それから彼と一緒に時を過ごして、幸せな思い出をつくるたびにもういつだって死んでもいいと何度となく思った。幸福だと思えば思うほど、この幸福を失う前に死んでしまいたいとずっと思っていた。
名前は生まれてこの方見たことがない人種だった。物凄く素直に、示された俺が恥ずかしくなるくらい好意を示してくる。敵意を示されるのと同じくらい好意を示されることに慣れていても名前の好意の示し方は特別だと思った。俺が名前を特別に思っているからそう感じるのかなとも思うけど、あれはちょっと違うだろ。"普通"のことなんかイメージでしか知らないけど恋人というものがみんなあんなに素直でいじらしくてかわいいのが俺の知らない世の中の常識なのだとしたらいまだかつてない恐れを抱きそうになる。世の中の人間はみんな恋人のことがいつもこんな風に見えていて、心をめちゃくちゃにされるのも恋愛なら当たり前のことなのか?
恋人になる前からそうだった名前は、恋人になってからはもっと躊躇がなくなった。まるでそうしない時間がもったいないみたいに名前は俺に好きだと言うし触れてくる。付き合っているのに必死さすらあった。でも別に嫌いじゃない。嫌いじゃないというその言葉は本心だったのに、いつの間にかそんな言葉で足りるはずがなくなった。これ以上ないほど好きだと思う瞬間があるのに、それを何度となく簡単に飛び越えさせられる。
俺に変わっていると言われたらもう終わりだと傑は言っていたと思うけど、その傑も名前のあの様子に対しては口籠っていたから他から見てもまあやっぱり変わっていたと思う。「名前は俺のことが好きだから」と俺が言うとき傑は無言で笑った。その笑みが何を言いたいのかくらい分かっている。本当はいつだって変わらずに照れも見せずに平然とした顔で俺を好きだと言い大事だという様子を隠さない名前より、もはや俺の方がよほど名前に入れ込んでいる。
あまりにも素直に俺を好きだと言うから、その素直さに衝動的な気持ちが溢れて痛い目を見せてやりたいなと思ったことがあった。無言で部屋に連れ込んだ先でベッドに腕を強引に押し付けてやったのだ。強引にと言いつつ掴んだ名前の手はいつ握ってもやはり細く、力をこめると罅が入り粉々に砕けそうなってしまいそうな嫌な感覚を思わせて冷たい緊張を覚える。人間の四肢がそんな風に壊れないことも、どれくらいの力をこめれば壊れるのかもとっくによく知っていたはずなのに!
でも俺は必要以上に、必要があっても、名前の手を、体を、痛めつけるように強く握ってやりたくないと思ってしまっていた。本当はその時点で負けだった。
名前はぼんやりと掴まれている手を見ている。あまりの無抵抗さに、いつものことながら俺以外の男にもこんなに簡単にされるがままになっているのを想像して嫌な気持ちになった。最近よくそういう想像をさせられて思わず咎める言葉を口にするたびに名前は必ず俺以外に自分をこうするような人はいないと言う。こんなにかわいいのにそんなことあるか?
でも名前が俺しか見てないのは分かっている。名前は俺以外にあの誰の目で見ても分かるような愛が詰まった、見つめられるとむずがゆくなる目で見つめたりしないし、今だって俺のやることだから受け入れている。全部頭で分かっていてもイライラする。バカみたいな悩みだった。
「俺にされるなら、こういうのも好き?」
口を彼女の耳元に寄せて、俺にされるならを強調して囁いた。出した声が知らず知らずのうちに甘えを帯びているようで聞いていて自分でゾッとした。本当はもっと露骨な言葉で罵るようにして名前の顔色を変えてやりたいと頭の中では考えていたはずなのに、"万が一"を思うと躊躇した。"万が一"だとしても名前を傷つけるのは嫌だなと思ってしまったし、"万が一"だろうとそのせいで名前に嫌われたくないと考えてしまっていた。
囁きながら「好き」と言われそうだなと思った。でもそう言われてももう次の瞬間には手から力を抜き、いつものように指を絡めてしまいたい気持ちでいっぱいになっていた。
名前の目が、拘束するような俺の手から俺の目へと映る。
「私……。いつも大好きって気持ちで悟くんに自分から触れてるから」
その頬がほころび、眉が下がっていくのが見て取れた。名前が俺の首に腕をまわして今度は逆に囁いてくる。声と共にぬるい吐息が肌に触れる感覚に鳥肌が立っていた。手を握ったときとは意味が違う興奮を覚える。もう頭から食べてやりたい。食べて俺だけのものにしたい。俺が名前のものであるように、名前もまた俺だけのもののはずだ、もうなっているはずなのに何度だってそう思う。
いつも名前が俺を好きだと言葉にするとき、名前は私の真面目な気持ちだからと言って照れずに馬鹿みたいに真っ直ぐに言う。俺に隙あらば触れてキスをするくせに実際に愛情表現を返されると照れるよりもどこか泣き出しそうな、でもただただ幸せそうな顔をする。困っているような幸せそうな今の名前の顔もどこか切なげに見えた。
「だから、悟くんも私と同じ気持ちだと思うとどんな触れ方だって嬉しいよ。悟くんになら何をされても嬉しい」
馬鹿じゃねえかと思った。ふざけんな、絶対同じ気持ちじゃない。俺の方がよっぽどどうしようもなくなってるだろ。どうなってんだよ。分かってんのか。いや、分かられたくない。分かられたくないのにこんな気持ちに俺がなっているのを知らずに名前だけが平気なままでいることをずるいと思う。
流石にそのまま言葉に出せなかった。しばらく黙ったままでいると名前は無邪気にこちらに縋りついて抱きついてくる。そうしてくっついているだけでも名前は幸せそうだった。この世の春が今ここにあるような表情で俺の胸にくっついてくる。花が咲くような笑みだと思った。誰かの笑った顔にそんな風に感じるのは初めてだった。
その顔を見るともうダメだった。負けたと思ったことすらどうでもよくなる。お前が俺を見てそんな風に笑ってくれるならもうなんだって良い。お前の人生はずっとそうやって俺のことを好きだと言って笑っているべきだ。
俺が伝えるのに抵抗を覚えて黙り込んだ言葉だって実際に口にしてしまえば名前は嬉しそうに笑うのだろう。それを想像すると力が抜ける。
物理的な意味で言えば俺はいつだって名前を好きなように殺せる。今だってこちらに縋っている名前の首を俺は物理的な腕力だけで簡単にへし折れるだろう。しようと思えば"どうにだって"出来る。でもいつの間にか自分を簡単に殺せる男の腕の中に自らおさまってなおほほ笑む名前にそうしようと思うことが出来なくなってしまった。名前の全てを預けられている感覚に、俺の肉体も術式ももう動かない。俺にはもうみょうじ名前は殺せない。
春が好きだと彼女は言った。冬の間にベッドの中で名前が寒い寒いとくっつけてくるその足が酷い温度になることを俺はその時には知っていたから、だからだろうかと思った。それから、次は旅館にすると約束したその言葉を叶えたときのことを、布団の中で絡めた足を思い出す。結局季節が寒くても暑くても俺と名前は足を絡めているからいつものことだったけど、あの夜に布団の中でつないだ指や絡めた足をまざまざ覚えている。幸せだと思ったから覚えている。
名前は照れくさそうに笑ってから言う。
「悟くんと出会えた季節だから」
だから好き。春を幸せの象徴のようにそう言う名前に俺はなんて返しただろう。この女は俺のことが本当に好きで、そしてその女を俺もどうしようもなく愛していると思ったことだけ覚えている。
季節に対する認識は数字でしかなかった。呪霊の種類や増減の区切り以外のなにものでもなかった。そもそもどうでもよかった。でも名前が春を好きだと言うなら、俺も春が好きだと思った。名前が俺の春なのだと思った。腕の中に名前があることに、術式や六眼を使って出来ることを増やしていくこととはまた別の全能感を抱いた。幸福というものに形があるならそれは俺にとっては名前のことだった。彼女に抱きしめられ、抱きしめているその瞬間こそが俺にとっての幸福だった。
名前が俺といてもどこかぼんやりするようになっていたのは俺が高専の四年に上がってからだ。俺の顔をじっと見つめたまま何かに心を奪われているようだったので何を考えているのかを聞くと将来のこととかと言うので「つまり一生俺と一緒にいるって話?」と聞くと何故か名前は笑ってくっついてきた。名前が俺の名を呼びながら好きだなあと言う。
名前は高専に属していたが術師ではなかったから硝子と同じで直接的に怪我をするような任務には出ない。強く特別な術式や思想や正義もなく、呪術界に対してどうこうだとかそういう意志を誰にでも分かるくらい持ち合わせていなかった。俺が向き合おうとしていることについては相変わらず照れも躊躇もない真面目な顔で面と向かって褒める言葉をぶつけてきていたし、出来るだけ力になりたいというようなことは恐らく本心で言っていたが、それだけだ。流されるようにここにいるのだということを名前は恥じているように言っていたが俺は別になんだっていいと思っていた。ここで俺と出会った、意味ならそれだけで十分だろ。
俺は名前の俺にしか関心がないようなそういうところにどこかで安心を抱いていた。名前が高専に居たいならそのままでいいし、名前がもう高専はいいと言うなら別のところで働いてもいい。働かなくてもいい。名前が俺から離れることがないなら、こうしていられるならなんだっていい。高専の校舎で過ごす時間よりも任務で離れている時間が延びるにつれて余計にそう思った。
名前は俺の顔を見てはおかえり、好きだよと言って抱きしめてくる。前より忙しくて一緒にいられないのが嫌じゃないかと聞くと目を丸くして忙しいのに帰ってくるのが自分のところなのが嬉しいと名前は言う。その瞳を覗き込んでは以前とは変わりのない本心であることを確かめる。名前だけは変わらないのだと思った。実際、名前はずっとそうだった。最後の瞬間まで何も変わらなかった。名前は俺を愛していた。
珍しく大きく時間の空いたある日のことだ。いつもとは反対に俺が高専から任務に出る名前を送り出すことになった。本人が任務に出るようなことはほとんどない名前の術式が特別に要されるものだったが、代わりに等級自体もかなり低かった。
どうせなら俺も一緒に行ってもいいかもしれない、そうすれば行き来も一緒に居られる。かなり本気で言うと名前は特級呪術師が来てくれるのは贅沢だなあとほほ笑んだ。私も一緒にいたいけど悟くんの次の任務は別方向だもんねと俺の頭を撫でてくる。
任務のための車がまわされるまで俺の隣に座っていた名前は、時間が来ると立ち上がって俺のことをその胸に抱きしめた。きつく抱きしめられながら、頬に手を添えられ唇に触れるだけのキスをされる。その動作に名前が俺にキスをしては逃げていた"遊び"のことを思い出した。学年が上がり特級として任務が増え、合間にすれ違う二人きりの空間というものが物理的に減ったことでほとんどなくなっていた遊びだった。
名前が俺の傍に来るたびに思わず反応するのを周りは気づいていた。名前の顔を見てそばに寄られて期待の反応を隠し切れないまま、逃げも避けもせずに触れられるのを望んでいた俺の反応を見た傑の噛み殺す笑いを、硝子の呆れた顔をふと思い出す。
あの遊びの代わりに俺は名前の元に帰ってくるたびに名前を腕の中に引きずり込んでめちゃくちゃにキスしていた。可能なら任務に行く前にもしていた。名前のことを好きになって年を重ねても名前に向ける気持ちは変わらなかった。名前の俺へ好意を示すことに積極的なところは変わらないのにそれを俺が上回るようになっていた。いつの間にこうなったんだと思う自分もいたが好意を気持ちのままに示すことが楽しく、幸せだということ俺はもうその時には知っていた。名前といたから知ったことだった。
形が変われど名前が俺を愛していることも俺が名前を愛していることも何も変わらなかったから、だからこうして永遠に続いていくのだと思っていた。疑いもしなかったものがどれだけ簡単になくなるか俺はもう知っていたのに。
名前の柔らかな手が離れることを惜しむように何度も頬を撫でる。くすぐったかったけどされるがままでいた。触れていたくちびるが離れたのを見計らって立ち上がると、今度は俺から名前の体を強く抱擁した。力をこめて、腕の中にとらえるようにする。でも名前はいつものあの遊びのようには逃げるフリはもうしなかった。もう俺のものになったのだ、と思った。
俺の任務は予定ならこなしたそのあとは名前と共に過ごせるはずだったからお互いの任務が終わったあと今日は一緒に眠ろうという話をした。名前は早く夜になればいいなと言った。俺も同じことを思いながら名前の髪を撫でた。
「行ってくるね」
こちらを振り返り、手を振る名前が車に乗り込み、その車が完全に見えなくなるまで見送って、俺も任務へ向かう。その任務は俺が割り振られる等級に見合わないほどに簡単に思えた。
予定の時刻より早く任務を終えて携帯を確認するが名前からの連絡は来ていない。先に高専に戻り、時間をつぶしているとそれから数時間後に名前から電話が来た。名前は俺と直接顔を合わせているときは積極的なくせに、電話だとか連絡だとかそういう顔が見えないものの上では消極的だった。どれくらい積極的にしていいのか分からないと言っていた。いくらでもなればいいのに。
「名前、任務終わったー?」
鳴ってすぐに出たのに、名前は返事をしなかった。沈黙に面食らうと、名前の潜めるような笑い声が聞こえてくる。
「悟くんが好きだと思って電話したくなったの」
歌うような声は機嫌が良さそうだ。俺が尋ねたことについては触れずに彼女が言う。悟くんのことが好きだよ、ずっと大好き。ずっとずっとずっと……。一見すると穏やかな声なのにその言葉には必死さがあった。思わず彼女の名を呼ぶ。するとまた名前の笑い声が聞こえてくる。あまりにも幸せそうだった。それが電話越しでも分かった。
「すごく空が青いよ、悟くんの眼みたい。綺麗だね」
その言葉に空に目をやる。もうずっと前に日は沈み、夜が訪れている空には闇しか見えない。名前の任務先から見える空も同じはずだ。
「愛してる」
「……俺だって愛してるよ」
ぞっとする予感の前に走り出していた。名前は電話の向こうで何度も同じ言葉を繰り返している。俺が好きだと幸せそうに言う。名前の声はどんどん小さくなっていったがそれだけは変わらなかった。
名前の任務先に俺がようやくたどり着き、その先で見たのは抱いた予感を裏切らないものだった。名前は死体となって帰ってきた。最後に撫でた髪は汚れていて、体の部分もいくつか失われていたけど贈った指輪と最後まで繋がっていた携帯だけは全てから庇うように手の中に隠されていた。
予定外の呪霊により任務に当たった人間は全員死亡したが偶然にも手の空いた特級術師によって呪霊自体は祓除され解決という扱いを受けたそれは、任務としてはよくある終わり方だった。一般人の被害を必要以上に出さずに被害者は関係者のみで祓除されたことを加味すれば最悪よりもずっと良い方と分類されるのだろう。
名前には焼いた骨を渡す相手もいなかったから名前の骨も名前の遺品となる高専に置かれている私物も全てが俺のものになる。ある意味でみょうじ名前の全ては名実ともに俺だけのものになった。こんなバカみたいなことはないなと思った。
少ない名前の私物は全て回収して保管することにした。片付けながら贈ったものの全てが大事にしまわれているのを見つける。そしてそれらの私物の中に封筒を見つけ出した。荷物を片付ける人間が必ず見つけることになるだろう場所に置かれたその手紙には悟くんへと宛名が書かれていた。中身をあける。手紙の文字は見慣れた彼女の字だった。大事にしまわれたものを見ながら、贈ったそのときの名前の反応を思い出すことよりも何故か胸が苦しくなった。生々しさがあった。
お別れするのではなく、悟くんと恋人のまま自分が死んでしまったときのためにこの手紙を書いています。という書き出しから手紙は始まっていた。もし別れてしまったときにはこの手紙を処分するつもりなので、悟くん本人に読んでもらっているということは恋人のまま死ぬことが出来たので私はきっと幸せだったと思います。と文章は続く。そこからは思い出の話とどれだけ自分が『悟くん』という男の子が好きだったかが書かれている。恐らく他人から見たらきっと恥ずかしいくらいの文章だった。
恋人になれて幸せだったことが何度も重ねて書かれているのを読みながら、文章は最後の段落に行きつく。本当に幸せだったからこの幸福を失う前に死んでしまいたいと実はずっと思っていました。という文章で思わず視線が止まった。一生一緒にいるんじゃなかったのかと思ってからその言葉に名前は肯定も否定もせずにただただ好きだなあと言って俺を見ていたことを思いだした。
湧き上がってくる感情を堪えながら続きを読んだ。ずっと一緒にいることを疑わないでいてくれたことが本当に嬉しかったこと、大好きだからいつかお別れが来るくらいなら死んだほうがずっと良いと思っていたこと、もし恋人のまま死ぬことが出来た日がきたら私は幸せだったと伝えたかったこと。傷つけるだろう身勝手な思いを残して伝えているのはもし私が恋人として死ぬことが出来たらずっと覚えていてほしかったからだったということ。
他の女の人と一緒にいることになっても、忘れないでいてほしい。傷つけて忘れないでいてと願ってしまいたいくらい貴方が大好きでした。という文章で〆られた手紙に思わず深く息を吐いた。手紙の中には名前の身勝手な愛情だけが詰まっていた。
生き急ぐような名前の愛情表現を思い出す。自分が先に死んでいなくなると分かっていたから、そしてそれを望んでいたから、あんなに必死だったのだ。名前の立場上必要なかったはずの遺書が用意されていたのはそういうことでもあったのだろう。
馬鹿だなと心から思うし憎らしいし怒りを感じる。でも愛している。愚かしいほど自分を愛していた馬鹿なみょうじ名前という女のことをそれでも他の何よりも特別に愛していると思った。彼女の歪んだ愛情にすら愛しさを覚えてしまった。だからもう本当にどうしようない。
祓う方法のある呪霊よりよほど強い呪いみたいだ。呪霊は祓うことが出来ても俺に名前を殺すことなど出来ないのだから。
どいつもこいつも思っていることを口にせずに気づいたときには取り返しのつかない行動を起こしている一方的で身勝手なやつしか周りにいなかったのかもしれないということに今更気づいた。でもその相手のことを自分が今更嫌いになることも出来るはずがないことも分かっていた。きっと死ぬまでそうだろう。
名前を亡くしたあとも変わらず時が過ぎ去っていく。その中で俺は当たり前みたいに生きていけた。でも名前が傍にいないなら天国も地獄も同じだということも思った。目に焼き付いたままの、車の前で振り返り微笑んで手を振って見せた彼女の姿を、ずっと大好きだと囁くあの声を、あれから何度も何度も思い出す。彼女の肌の色を、撫でた髪の感触を、重ねた口の柔らかさを、繋いだ指の細さも絡めた足の温度の冷たさも。抱いた感情も一緒に過ごしたその時間も、置いていくことなど不可能だった。願われなくたって忘れる方法なんてそもそも存在していなかった。共に過ごした時間よりそうでない時間が越してしまっても、名前が望んだように彼女の姿は本当の呪いみたいに俺の中に鮮やかなまま残り続ける。
傑がいて硝子がいて名前が俺の隣で笑っていたあの瞬間こそが俺の春だった。名前が俺に春を教えたせいで、名前本人がそれを奪ったせいで、俺だけがあの日のまま、春のない世界にいる。
地獄の春に住んでいる
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