NOVEL | ナノ

 すでに日の落ちた暗闇のなかで同化しそうな黒い傘を傾けて立っている彼を目にしたとき、突如として空間に人が現れたように思えて、私は心臓が止まってしまいそうになった。そういう現れ方を出会った頃からする人だったが何度遭遇してもなれない。煩いくらいの心臓に手を当てて立ち止まったままでいると、こちらを見つけたらしい彼が、首を傾けるようにしてからほほ笑む。ひらひらとふられた手に私は小走りになりながら駆け寄った。
「ここで会うと思わなかった。もう帰ってるのかと」
 もう少しすれば彼のマンションについた。今日は早く戻ってこられると聞いていたので、私のほうがあとに着くものだと思っていたのだ。
 彼はなにも口にしないまま、サングラス越しに私を見ている。それにつられて私も無言で彼を見上げた。
 彼の身に着けている礼服にいつものサングラスという組み合わせはふつうに考えれば滅多に見ないものだったけどドラマか映画から抜け出してきたように似合っている。悪い役をしてそうだ。異質なものを『そういうもの』だと思わせるような迫力が彼にはある。
 お互い見つめあう。どうしたの、と聞こうか迷った瞬間に彼は大きなその傘をとじてしまった。
「そっちにいれて」
「えっ」
 そう言うと私の差していた傘をとりあげるようにしてしまう。そのまま彼が私の肩を抱いて引き寄せた。
 当然のことながら、私の差す女物の小さな傘にふたりは多すぎた。たぶん彼がひとりだったとしてもその大きな体躯を覆い隠せなかっただろう。当然のように私の方へ傾けられる傘に、雨に触れて色が濃くなっていく彼の肩を見ながら狭いよとか濡れちゃうよとか、そう言いかけた言葉をなんとなく噤んだ。
 肩に添えられた手にまかれた腕時計の盤面が街灯のかすかな光に反射してひかる。彼にくっつくと、いつもの彼の匂いと混じって雨のにおいが強く香った。
 歩み始めた彼に引きずられるようにすると歩幅が大きく違うのにくっつきあっているせいで余計に歩きづらい。でもそれ以上に離れ難い気がしてそれでも彼の体にくっついていた。
「相合傘って近くていいけど手はつなげないね」 
 彼は私の言葉に黙ってしまう。だけどそれから子供のように笑った。彼を見つけたときに浮かべていた笑みよりは楽しそうだったから思わず私も頬をゆるめる。彼は抱いていた私の肩をさするようにしてなぞった。衣服越しにも彼の体温がしっかりと伝わってくる。肌がざわめく触れ方だった。
「だからあとでいっぱいつないであげる」
 サングラス越しのはずなのに私を見下ろすその目がぎらぎらと輝いているのが見える気がして、ちょっと足がすくみそうになる。腰のほうからなにかがあがってくる気がして、彼の衣服にすがるようにして触れていた手に込める力を強めた。
 こうして付き合うようになって、彼の喪服姿を見るのは少ないことではなかった。どうしてと聞いた時に人がよく死ぬんだよねと彼はあっさりと言った覚えがある。もちろん私の把握しないところでも式に呼ばれていることもあるはずなので、その数は異常とも呼べるはずだ。
 彼の仕事について付き合う前にかろうじて説明を受けていたが、すべてを理解しているわけではなかった。会う回数はどうしようもないけど、少なくともそれ以外での苦労はかけないつもりでいるという言葉はまるでプロポーズみたいだと思った。
 幾度となく見かけることになる喪服の回数に疑問に思って聞いて返ってきた『人がよく死ぬ』という率直な言葉で表情をなくした私に彼はしまったなという顔をしてから、僕は死なないからとそっと頬を撫でてなだめてくれた。聞いてないと言うと、死ぬかもしれなかったら付き合ってくれなかった? とわかっていて彼は困った顔をしてみせた。ほんとうにずるいのだ。
 玄関に入って、リビングに足を踏み入れたその瞬間に引き倒されるようにされた。ソファへと体を投げ出されたので痛くはなかった。そうなるのだとたぶん部屋に入る前にわかっていた。
 濡れた礼服の上着を彼が乱暴に脱いで放る。そのまま、ピンのついたネクタイに手をかけようとするので制するように私が手を伸ばした。真珠のついたネクタイピンをそっと外してから、彼の代わりにネクタイも外してあげる。その様子をじっと見られているのを感じながら私は彼のサングラスを外した。うすぐらい部屋のなかでも輝くような蒼い瞳と目があう。冷えきった彼のくちびるにふれるだけのキスをした。
 滴る水滴が私のうえにおちてくる。確認するようにそっと触れてみると、髪まで濡れているようだった。
「さきにシャワーあびる?」
「ううん」
「こんなに濡れてる、風邪ひいちゃうよ」
「いいよ、大丈夫。それよりこうしていたい」
 今度は彼が私にキスをする。冷たいくちびるとは裏腹にくちのなかは熱かった。熱い舌の感触に、私は目を閉じる。
 彼の指はひどく冷えていた。つけたままの時計がぶつかると肌がひやっとして、一緒に外してあげればよかったと後悔する。熱くなっていく彼の手とは違って、時折ぶつかる時計はいつまでも冷たいままだ。
 慰めるように彼の背を撫でるとかすかな震えが伝わってくる。いつもより余裕がなく、どこか乱暴に暴かれていくのを感じながら私はできるだけ応えるように彼にすがった。彼のなかにあった衝動が、落ち着いていくのを抱き合うとともに感じながら彼を見上げる。つないでくれると言った手がつかまれるようにされていたのが、寂しかった。
 潤んだ視界のなかでただじっと見上げていると、言いたいことがわかったのか彼は私の指に指を絡めてくれる。
「ごめん、つないでなかったね」
「……うん」
「ぎゅってしよっか」
彼の言葉に私は熱に浮かされるようにいっぱいしてと乞う。
 その言葉の通り、彼はつないだ手もぎゅってしてくれたし、体もぎゅっと抱きしめてくれた。手の大きさが違いすぎて指を絡めて握るとほんとは軋むような痛みを覚える。それでもでもそうするのが好きだ。だからずっとこうしていてほしい。ううん、本当は指を絡めなくったっていい。それでもいいから、どう抱いたっていいから、ただこうしてずっと触れていてほしかった。
 まともに脱がないで抱き合ったせいでお互いの服が雨だけでなく汗やほかの液体まで吸ってぐしゃぐしゃになっている。脱ぎたいというと彼は乱暴にしたお返しというようにひとつずつ丁寧に脱がせてくれた。私もそこでようやく彼の腕時計を外してあげられた。あらわになった肌と肌を触れ合わせるよう抱きしめると甘えるように頬を寄せられる。彼の頬は抱き合う前の冷えた体温とは違い、すっかり血の気が戻っている。胸がぎゅっとなって、その頬にキスをした。
 それから今度はゆっくりと抱き合ったあとに、ようやくシャワーを一緒にあびた。ベッドに行くまでも、行ってからも今度は私のお願い通りに、ずっと手をつないだままだった。
「僕より年下だったんだよね、まだ若くてさ」
 ベッドに二人で横になったあと、彼は私ではなくどこかを見たままくちを開く。時々彼はそうして話してくれた。
「このまえ話したばっかりだったんだけどね。まあ、いつ死ぬかわからないなんていつものことだけど」
 その声はいつもより平坦でゆっくりとしたものだ。人が死んだというには現実味のないその声を聞くたび私は無性に切なくなった。死について彼がそんなふうに慣れたように言うことが悲しかった。まるで自分のこともそう思っているみたいだったから余計にそう感じたのだった。
「さびしかったね」
「僕が?」
 彼の瞳がじっと私を見つめる。その表情はなにを考えているのか、わからない。こうして抱き合っていても私には彼のことで知らないこともわからないこともいっぱいあった。それでも、―――それでも。
「さびしそうだよ」
 蒼い瞳が瞬く。その瞳を縁どる睫毛がわななくのをじっと見ているとつないでいないほうの指で、彼に私の目を隠されてしまう。彼が体を動かすのが気配でわかる。そのまま額に羽がふれるようなくちづけがおとされた。
「うん」
 なにに対してのうんだったのかは聞けなかったけどその声が嬉しそうにも聞こえたから、もう寂しそうではなかったから、だから嬉しかった。
 私も疲れていたので、そうして目を閉じさせられると眠くなってしまって、いつの間にか眠りについてしまっていた。ふっと目を覚まして、いまだ暗い室内にあのまま眠ってしまったのだとういうことがわかる。
 横を見る。彼もまた眠りについていた。そうして彼の寝顔をじっと見つめていた。隆起した喉が上下するのを見ながら、私はできうる限り静かに体を起こして彼の方へと近づく。
 眠っている顔をのぞきこんでみる。彼の長い睫毛のさきに触れてみるとくすぐったかった。指を滑らせて、その頬に触れてみる。
 それからそっと彼の髪の毛を撫でてあげた。いいこいいことしているとなんとなく楽しくなってくる。ふふとこぼれた声に、思わず自分の口元に手をやる。
 私の声に身じろぎをした彼が、目を開ける。どこかぼうっとした目が虚空を見上げてから、私をとらえた。そうしてじっと見つめているので、声を潜めるようにして聞く。
「私がどうすれば嬉しい?」
 寝ぼけているときにしか聞けないと思った。彼はその瞳に私をうつしてから迷わずに答えた。
「ここにいて」
 シーツに着くようにしていた手を彼によって握られる。私の手首をつかんでもあまりある大きなてのひらはあっさりと私のからだをひきよせてしまう。
「ずっといて」
 彼の声はやはりどこかふわふわしていた。たぶん寝ぼけているのだろう、確かめるように頭を撫でられた。何度もそうしているうちに、私にももう一度睡魔が訪れる。重くなっていく瞼に、私は彼にすり寄るようにして目を閉じる。彼の知り合いだという男性から連絡が来たのはその数日後のことだった。
 会って大事な話がしたいという連絡に是の返事をした私のアパートの前に迎えに来たのは黒塗りの車だった。まさかこういう形で迎えに来られるとは思っていなかったので目を丸くしていると車から恐らく私よりも大分年上だろう、スーツに身をまとった壮年の男性が降りてくる。
 顔をじっと見つめられてから名前を改めて確認されたあとに車に乗るように指示され、今更少しの躊躇いを感じた。それを振り切るようにして私は車のなかへと足を踏み入れる。乗り込むと同時に限りなく静かに車が発進された。
 どこに向かうのかと聞くと、最後はこちらに戻ってくるのでこのまま車のなかで話がしたいと返ってくる。こうして移動する形がいちばん邪魔が入らないのだそうだ。邪魔、と思わず鸚鵡返しにすると隣に座ることになった電話の相手と思われる男性はええとうなずいた。
「このような形で呼び立てることになってすみませんね」
 そう言ってから男性は自分の名字を名乗ると単刀直入に話題を切り出した。現在付き合っている相手である彼と別れてほしいということだった。
 もちろん逃亡の主導はこちらで行うし、ふつうの生活ができるように保障もすると言葉は続けられる。"逃亡"という言葉の不穏さに沈黙するとその沈黙を肯定ととられたのか止める間もなくより具体的な説明が続けられていく。
「辛いでしょうがね、こういうのはお互いのためにも早く離れたほうがいいですからね」
「どうしてですか?」
 男性の言葉は最初に出会ったときから限りなく冷静で感情が含まれることはなかった。それでも私の言葉を聞くとなぜそんなこともわからないのかというような、わかり切ったことを聞く者に対する失笑の混じった表情がその顔に一瞬だけ浮かぶ。
「あなたがあの人とずっと一緒にいられると思っているんですか?」
 その言葉に、とっさにくちびるをかみしめた。ずきずきと胸が痛んだ。
「この前ね、あの人の目にかけていた子が亡くなったでしょう」
「……」
「ああ、あなたは話してもらっていなかったのかな。わかりますか、あなたはなにも知らない。あの人の価値も、あの人がどんなに」
 思わずと言ったように前のめりにそう言いかけてから、はっとしたように男性は言葉を切る。
 喉の奥がぎゅうっと引き絞られるような痛みを覚えた。それは私がいちばん気にしていて、意識しないようにしていたことだった。すべてを話されているわけはないことを付き合ったときから分かっていた。それでいいと思っていた。愛されていることを知っていたし、愛していたからだ。
 たとえ一緒にいる時間がふつうの恋人として少なくとも、彼なりの誠実な対応をされていることは一緒にいてわかっていた。"心を許されている"とも知っている。それでも時折、雲がかかるようにふっと影が差す気持ちになった。彼が傷ついているようなときに、なにも知らない私がほんとうに寄り添えているのかが怖かった。
 言葉を発さない私に、男性はとりなすようにわかりやすく気の毒そうな顔をして見せる。
「この前、お葬式に行っていたようでした」
 男性にそれだけを答えると、呼応するように深く頷いた。
「たぶんそうですね、彼も来ていましたから。良くしていたようですから余計に思うところもあるんでしょうね」
「……」
「この間のあの子もそうですがこの世界はいつなにがあるかわかりません。だからこそあの人にはしかるべき人間とできうる限り早く次をつくるべきなんです」
 それでもあの人以上の存在なんて生まれるかわかりませんがねと続けられる。どこか陶酔のこもったような言葉だった。男性の目は私を見ていない。夢を見るような瞳だった。
 男性はますます言葉を強める。そうせずにはいられないと言った様子だった。目にじっとりとした怒りがともり、今度こそ私をとらえる。
「あなた、それを覚悟してます? してないでしょう。そもそもあなたでは生まれてくる子供も期待できない」
「あの人のためを思うのならね、あなたがそばにいるっていう選択肢も最初から選べないはずなんですよ。そんなものは何も知らないからできることなんだ」
「あなたがあの人にどのくらい報いることができるっていうんですか」

「どうしたの?」
 顔をのぞき込んで手をふって見せている彼と視線があってはっとする。一緒に見ていたはずのテレビ画面はすでに電源を落とされ真っ暗になっていた。手に抱えていたあたたかかったはずのマグカップはなみなみと中身を残したまま冷え切っている。
 まただと思ってから、彼が私の様子をうかがうように見ているのがわかって大丈夫ということを示すために笑う。たぶんあんまり上手な笑みではなかった。
「最近ぼんやりが多いね」
「うーん」
「悩み事でもできた?」
 首を横に振る。彼がそれを見て苦笑する。自分でもあまり真実味がない仕草だと思った。車でのあの会話を終え家に無事に返してもらったあとからずっとこうだ。
 そういう接触をしたことは彼には言うつもりはなかった。今ならあの「邪魔」という言葉が何を差しているかわかる。あの男性は彼には知られたくないようで電話口でもしきりに内密に、それがあの人のためでもあるという言葉を繰り返していた。男性は私が車を降りる直前までこの提案は私のためであり、私の愛するあの人のためなのだと諭すように私に言い聞かせた。あの日から何度となく言い放たれた言葉がよぎるようになっていた。
 せっかく注いだのに飲む気になれず手の中で弄ぶようにしていたマグカップを彼が取り上げる。新しいの入れようかと言った彼が代わりに中身を飲み干すのを見ながら私は思わず口にだしていた。
「赤ちゃんってほしい?」
 突如とした脈絡がない言葉に彼が噎せる。その背中に手を伸ばしてさするようにしてあげる。噎せたせいでにじんだらしい涙を拭いながら、彼は私を見た。目元が赤くなっている。照れているようだった。そんな反応をされると思わず、びっくりした私の手を彼がぎゅっと握る。
「欲しいの? 僕の子供が欲しくて悩んでたの?」
 あまりに直球な言葉に私は迷ってから曖昧に首をかしげる。いつかはそうなるのかなとぼんやりとした想像をしたことはあったけど、こういう言葉を出すのは初めてだった。
「どうなのかなって思って」
 じっと見つめると、彼は困ったような嬉しいようなくすぐったそうな不思議な顔をした。少なくともそれは負の感情ではなかった。
 私との子供という話題にそうして肯定的な反応をされてひどく嬉しくなる。それから胸が擦り切れるように切なくなった。車のなかで言われた言葉がよぎる。彼が子供を望むのなら、相手は私ではないほうが彼のため。私ではない、彼のことをよく知った、彼の仕事に理解のある女性の子供こそが、彼に報いることになる。
 たまらなくて甘えるように彼の身体にくっついた。彼のにおいがして余計に切なくなった。
「僕は君との子供ならほしいと思う」
 どこか熱っぽいその声に、私は嬉しいとくちにした。そんなふうに考えてくれるのが嬉しい。嬉しいのに悲しくて、私のくちにした声はひどく小さかった。
 私の言葉がきっかけになったのかそのままくちづけられてそのまま抱き上げられると、寝室へ運ばれてなだれ込む。言葉と同様に熱のこもった瞳にドキドキした。でもすぐにでも泣いてしまいそうだった。
 身にまとっていたパジャマ替わりの彼の服を脱がされて、肌のすべてにキスをされる。キスをしていない場所をつくりたくないというような熱烈さだった。
「子供のことまで考えてくれてると思わなかった」
 彼のはずんだ声に私はほほ笑む。
「好きな人とならちゃんと考えたいと思う」
「うん」
 あまりに嬉しそうにうんと言うので、私は震えるくちびるを彼に押し付けるようにしてもうなにも言えないようにした。これ以上そんなふうに嬉しいことをされたらどうにかなってしまうと思った。
 お互いにいっぱいキスした。くちびるにもそれ以外にもたくさんした。すでに最初からぐずぐずにとけていたなかがもっととろけたころに彼がベッドサイドに手を伸ばそうとする。
 だから、私は彼を見上げて言った。
「全部なかにだして」
 動きを止めた彼が、無言のままに私を見る。その目にあっ、と思った。私の言葉によって歯止めが利かないくらいに彼が興奮しているのがわかってちょっと怖かった。でもそれに今までにないくらいぞくぞくした。なんだか変になっているのが自分でもわかる。笑ってしまいそうになる。
「たぶん今日はできないけど、でも、私も、欲しいよ」
 私の言葉を最後まで言い終わるのとどっちが早かったのかわからないはやさで、彼は聞いていられないというようにキスをした。舌をこすりあうようにすると、それだけで背骨のあたりにゾッとするような快楽が走る。薄くひらいたまぶたのむこうで、彼がなにかを耐えるような顔をしているのが見える。押入られる皮膚が悦びにわななくのを感じながら私は彼の腰に足をまわした。
 だして、だして、ぜんぶ、なかに。
 喘ぎまじりに懇願する私の言葉に、彼が面白いように煽られるのがわかって楽しかった。もっともっとそうなってほしいと思いながら彼の背中に手をまわす。
 そうしてなかに出されたあともつながったままでいた。私のうえに倒れこむようにした彼がどこか茫然と深く息を吐いた。その様子が可笑しくてくちもとが緩む。ついに涙が出た。彼がくちびるを寄せて汗の滲むこめかみに、頬に、キスをしていく。最後についばむようにくちびるにキスをした。息すらできないようなさっきのキスとは違って、慈しむためのキスだった。彼のゆびがくすぐるように、私の張り付いた髪を払う。
 その瞬間に、もう十分なのかなと思った。そう納得すると、涙がこぼれていくのが止まらなくなった。
 そうなることが決まっているように自然に手を伸ばして、もう一度抱き合う。座ったようにした彼のひざにのるようにする。
「あっつい」
 熱に浮かされるようにくちからこぼれ出た。自分の身体のどこもかしこも濡れていた。汗があとからあとから噴き出して、すべりおちていく。顔が汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた。おぼれそうだと思った。濡れた肌と肌が重なるとすべって、心もとなくて、すがりつく。
 彼の身体も私と同じくらい熱かった。どくどくと大きな音をたてている鼓動が自分の耳に響く。目が合うと、彼が笑う。大好きだと思った。死んでしまいたいくらいに好き。好きだから一緒にいたくて、好きだから彼のためになんでもしてあげたい。私にできることならなんだってあげたいし、なんだって許してあげたい。彼を愛している。
 ふとい指先があとからあとからこぼれる涙をぬぐってくれる。だけど涙が止まることはない。舌でぬぐってもきりがない涙を彼の舌が撫でる。慰めるようなそのしぐさに余計に胸がひりひりした。
「気持ちいいね」
「……ん」
 囁く声に素直にうなずく。私と同じように彼が気持ちよくなっていることが嬉しい。それがへだてるもののない熱い肌からちゃんと伝わってくるから余計に嬉しい。ぼんやりしながら気持ちいいともう一度つぶやくと、私の身体にまわっていた腕の力が強くなった。ぐ、と奥へと体重がかかって思わず息が止まりそうになる。彼のひざにのるのはおなかの奥までされて苦しかったけど、くっつく面積が増えるから好きだった。息が整ってから彼の身体にすりすりと顔をおしつけてみる。甘えん坊だなあとからかう彼の言葉がふってきて、顔をあげた。なにも言わなくてもわかっているとばかりに彼は私にキスをする。ただただくちびるを触れ合わせるキスをしながら唐突に、全てを打ち明けたらどうなるかなと思った。
 きっと彼は一蹴するだろう。目に見えて想像できる。できるのに私はなにも言わない。ただキスをした。これが最後、お別れのキスだ。やっぱり涙が出た。
「今日は泣き虫だね」
「……嬉しかったから」
 嬉しかったから、欲しいという言葉をもらっただけで十分だったから、もう終わり。

 赤ちゃんはやっぱりできなかった。そうだろうなと思った。だから私は彼の前から姿を消した。
 返事をするまえにもう準備は進められていたらしい。私がもらっていた連絡先に肯定の返事をした日に家へ帰れなくなった。勤め先も変わり、元の住居をそのままに新しく用意された住居へ移ることになった。迎えに来たのはこのまえとは違う男性だった。
 その際に渡されたのが黒い石でできたブレスレットだった。仕組みは分からないが私の居場所を隠すためのものだそうだ。そのためにどんなことがあっても身に着けて離さないように言われた。
「正直なところそれがどこまで通用するのかはわかりませんが」
 そのブレスレットを渡してくれた男の人とは会うことがなかった。(あの日私に会いに来た男性とはその後も顔を合わせることはなく、ここまでされてようやく、今更ながら私一人を彼から遠ざけるためにずいぶんの数の人間が動いていることを知った)そう言うと形容しがたい表情を浮かべる。
 目の前の男性のわなわなと震えているくちびるに、そうさせている感情が恐怖ではなく悦びであること、声の響きのなかにある見たことのある陶酔に気づいて、ぞっとした。爛々とした目の輝きが恐ろしかった。ああ、あの壮年の男性と同じだと思った。彼が一方的にこういう感情を向けられていることを私はやっぱり今更知ったのだ。
 離れても私は彼を忘れることはできなかった。離れていると余計にいろいろなことを考えた。もっとちゃんと知ろうとすればよかったとか、理解を示せるように頑張れば、向き合えばよかったな、とか。そういうことを考えては今更だなあと思うのだった。
 それ以外の毎日は平穏そのものだった。リセットされたことにより新しく生活が始まったのでそのことで少し忙しくしたがそれも考えないようにするにはちょうどよかったし、考えていたよりずっと静かなものだった。そういう日々のなかで私は少しずつ平気になっていくのだろうか、とか思った。
 そんな中、ゆるやかに体調をくずしがちになった。いろいろあったから疲れているのかなと考えていたけど、回復するどころか目に見えて不調がでるようになっていった。
 気持ちを踏みにじるようなことをしたから罰でもあたったのかなと思うとなんとなく笑えた。最後に抱き合ったときの彼のあの嬉しそうな顔をどんなに忘れようとしても一生忘れられないだろうと思った。たとえ彼が私を忘れて、ほかの女の人を愛するようになって、子供が生まれたとしても。
 私の"逃亡"に手を貸した、最後に話した若い方の男性から連絡が来たのは不調が目に見えるようになって少しあとのことだった。
「意外と平気そうですね」
「ええ、まあ」
 前にもそうしたように車で話をすることになった。平気そうという言葉が差すのは離れたことに対してのことだったのか、今の私の顔色のことなのか、なにかを確認するように顔をじっと見つめて男性はそう言う。前置きは不要というように彼がいまだにあなたを探しているということをくちにした。
 急き立てられるように出てきてしまったが別れぐらい告げて出てくれば、もっとちゃんと別れ話をするかたちにすれば少なくとも彼もそうはしなかっただろう、でもうまく別れ話ができた自信がない。彼を前にしてしまえば縋ってしまいそうだ。
 腕輪は絶対に外さないでくださいねという言葉で締めくくった男性は、車のなかから窓の向こうに視線をやるようにする。
「あの人の特別であるということは注目されるということです。もうあなたを守ってくれる人はそばにいませんからね」
 私との会話というより独り言のような調子の言葉だった。勘違いでなければどこかうらやまし気にも聞こえた声にもう特別ではないですよと言おうか迷って、辞めた。

 すでに日の落ちた外は薄暗く、休日前とは思えないほど閑散としている。新しい会社からほど近いところにあるアパートに住むこととなっていたので、通勤に電車に乗ることはなくなっていた。
 気温が下がるようになっていって、季節が変わることを自覚する。自覚するとともに擦り切れるような痛みを覚えて、身勝手だと思いつつも道を歩く。
 もう少しでアパートが見えてくるところで、後ろに車が迫ってくるのがわかって端の方による。狭い道だった。通り過ぎるために減速をしたと思った車の扉があいたのは次の瞬間だった。あっと思った瞬間に、車のなかに体をひきずりこまれる。なにかを押し当てられて首に鋭い痛みを発した瞬間に私の意識はかき消えた。
 私はその暗闇の中で夢を見る。長い間そこで横たわるようにしてなにかを待っていた。なにを待っているのかは分からなくて、でも待たなければいけないと私は強く思っていた。
 そのうちまわりにある暗闇が私のなかにはいってこようとしてくるのがわかった。けれど私のなにかに拒絶されて、できないらしいのが肌でわかった。手首にびりびりとしたやけどのような痛みを感じる。ブレスレットをつけていた箇所だ。ブレスレットがなにかをはじいている。
 拒絶された暗闇が、それでもというように私にまとわりついて、肌をなでる。その感覚に胸を締め付けるような強い懐かしさを覚える。その正体を意識すると同時に暗闇がひとのかたちをとった。
 なにも見えなくともわかる。彼が私を抱きしめている。その瞬間に目の奥が熱くなった。
 彼の名を呼ぶ。ブレスレットと触れている部分が痛みを覚える。身体がはねると、彼がその手を取った。ブレスレットを見下ろした彼が顔をゆがめる。暗闇のなかでまともに表情が見えないはずなのにそれがわかった。強く、強く抱きしめられる。手放したのは私なのにずっとこうしていてほしいと思った。
「君が望めばこんなもの壊れる」
 行ってしまう、そう思うと意識がズルリと引き戻される感覚を覚えて、私は目をあける。
 濡れたなにかが手首に触れている。まぶたは重かったがその冷たさに意識がすっと戻ってくる。身体が床へと転がされていた。
 さきほどの夢と相まって自分の身体に起きたことがわからずに呆然としていると、手足に痛みを感じて意識がはっきりしてくる。そこでようやく、さっき車に連れ込まれたことを思い出した。拘束されているようだった。
 どれくらいの時間がたっていたのか、車ではなくコンクリートの床から見上げてみる。電気がなく視界は不鮮明だったが、いくらかそうしていると目が慣れてきた。まるで倉庫のようだった。広々としていたがそこかしこに埃が積もっていて久しく使われていないのだろうと思えた。
 ふっと話し声が聞こえる。遠くから聞こえる。声の小ささもあってなにを話しているのか要領を得ない。よくわからないまま耳を澄ましていると聞き覚えのある彼の名前が出たことに目を見開いた。ついこの間の言葉を思い出す。
『あの人の特別であるということは注目されるということです。もうあなたを守ってくれる人はそばにいませんからね』
 私は彼の恋人だった間にそう言う目にあったことは一度もなかった。こうして狙われるような立場だったことも知らなかった。今更、彼に「守られていたのだ」ということを理解する。守られていることに気づかないくらいに私は守られていた。
 離れたほうがよっぽど私は彼のことを知ることができたことに思わず笑う。きっとゆがんで泣きそうな顔だった。彼は知ってほしくなかったかもしれない。それでも私は知ることができてよかったと今更だったとしても強く思った。
 人影が動いて、心臓が違う意味で悲鳴をあげる。あ、と思うと同時に数人の人影のなかからひとりが近寄ってきて、顔をのぞき込まれるようにされる。男の人だった。
 どうすればいいかわからずに震えるままじっとしていると、その男の人は鼻で笑うようにする。
「かわいそうに、これから死んだほうがいい目に合うよ」
 あいたくない。だけどそう伝えてもどうにかならないだろうなと思った。よろめく私の身体に男の人が手を伸ばして、引きずるようにして動かそうとする。
 どうしようと思いながらも抵抗できずにいるとつけられている湿った手錠のようなもののほかになにかが地面とこすれた。ブレスレットだ。ハッとした。
 「正直なところそれがどこまで通用するのかはわかりませんが」「絶対に外さないでくださいね」「君が望めばこんなもの壊れる」一瞬のうちにめぐった言葉に私は動かせる指をブレスレットと肌の隙間へと差し入れる。走馬燈みたいにいろんな過去が頭に浮かぶ。取り返しのつかないことをしようしているような躊躇いで指が震える。もう来てはくれないかもしれないとふっと思う。それでも私は力の限りでブレスレットを引き裂いた。
 びりびりと、それこそ夢のなかで感じたような痛みとともに手首に火花が飛び散った。突然の出来事に、私がなにかをしたことがわかったのか、目の前の男の人が顔色を変える。無理やり手首をつかまれた。ブレスレットとともに拘束も外れたようで手首は解放されている。
 詰め寄るようにした男の人の後ろで、閃光のような光とともに轟音がとどろいた。雷かなにかが落ちてきたのだと思った。でも違った、降りてきたのだ。
 引き裂かれた屋根から差す月の光がすべてを透かすようにする。
 さきほどまでなかったはずの人影がそこにあった。突如として空間に人が現れたように思えて、私は心臓が止まってしまいそうになった。そういう現れ方を出会った頃からする人だった。
 私のちかくにいた男の人も、ほかにあった人影も蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。彼はそれを視界に入れてもまったく反応をしなかった。ただ私だけを見ている。
 彼の名前を今度こそ届くようにくちにする。横たわるようにした私を、あの夢のように、近づいてきた彼が見下ろした。
「ここにいてって言ったのに」
 恨みがましい声に、うんと答える。ごめんねと言うと許さないと言われた。すごく彼らしくて笑うと怒られた。目の奥が熱くなる。
「泣くぐらいなら最初からここにいればよかったんだ」
 抱き上げられ、ここに、という言葉とともに強く腕を締められた。苦しかった。苦しくて嬉しくて余計に涙が出た。ごめんねともう一度言うと、抱きしめる腕がもっともっと苦しいくらい強くなる。
 おそらく彼の腕のなかにだきあげられたあたりで気を失った私が次に目が覚めたのは彼の部屋のなかだった。目を丸くした私をいつか私がそうしたように彼がじっと横で見つめていた。
「何も心配してなくていいからいまはとにかく休んで。話はそれから聞くから」
 聞きたいことも言わなくてはいけないこともいっぱいあって、くちをひらこうとした私を彼は制するとなにも言わせることなく休ませた。ケガもしてないのに大げさだというと無言の怒りがその瞳に見えて、私はかけられていたタオルケットを思わず頭からかぶる。
 その言葉通り話をしようとしてくれたのは数日後のことだった。丸数日、彼はほとんどずっと私のそばにいて甲斐甲斐しいくらいに手ずから世話を焼いてくれた。
「仕事、大丈夫?」
「今回くらいはいいの。きみがいないせいでずっと手につかなかった」
 それは嘘だなと思った。彼はそういう人だと思うし、そういうところも好きだ。だから余計にこうして一緒にいることに罪悪感もあった。でもそうしてべたべたに甘やかされて嬉しくないわけがなくて、とけそうだった。
 食べられるのに食事まで手伝おうとしてくる彼に諦めて食べさせられて、そのまま添い寝をしてもらう。幸せすぎて、もしかしてこれは私の夢なのかなと思った。ほんとうの私はいまだあの廃屋の床に転がっているのかもしれない。そう思うと怖い。
「きみの夢じゃなくて僕の夢かもね」
 そう言うと眉を下げるようにして彼がそう言う。お互いに離れないように手をつないだ。彼は私にことの顛末を聞かせてくれた。
 もともと私と付き合う前から結婚相手や子供について主張を押し通そうとする団体があったらしい。一人二人とかじゃなくて団体なのがすごいねと言うと彼はそうだねとかすかに笑った。
 接触させないようにしていたんだけどと彼が私のおなかをぽんぽんとなでる。それは身をもって知っていた。きっと私はこれ以上なく"守られていた"。
 つけられていたブレスレットは彼から私を隠すというこれ以上なく強い効果をもたらすために身に着けていた私自身の命を削るようになっていたそうだ。だから彼は戻ってきたばかりの私をあんなに休ませたがっていたのだ。
 あの時かけられた意外と平気そうですねという言葉はそういう意味だったのだ。何も知らなかったことに思わずつないだ手に力を込めた。
 彼のこともブレスレットのことも私はこうして教えてもらわなければきっと今でもなにも知らないままでいただろう。
「ごめんね、助けにきてくれてありがとう」
 彼は目を細めるようにして私を見た。そうして私に覆いかぶさるようにした彼がくちびるにキスをする。ふれるだけのキスを何度もした。そうして触れ合うのは久しぶりでむずむずしてたまらなくなった。もっとしたい。彼ももっと触れたいと思っているのが伝わってくる。
 それでも彼はくちびるを離した。ぼうっとするように彼の顔を見上げる。
「何て言われてきみがああしたのかは分からないけど、まあ予想がつくよ。僕のためって言われたんでしょ」
「ん」
 またキスされる。今度はちょっと乱暴だった。舌を入れられて重ねると体がしびれて、震える。吐息のかかる距離で見つめ合いながら私は彼に聞く。
「……私でいいの?私、まだそばにいてもいいの?」
「まだじゃなくてずっと、一生、ここにいて。あんなふうに嬉しがらせるようなことして逃げて、次に逃げようとしたらもう外に出さないからね」
 強調されたずっと一生という言葉はまるで子供が使うように現実みがなくて途方もないと思った。でも彼が使うと真実味があって、しかも当然みたいに言うくせにその言葉は切実だったから、私は彼の首に腕をまわして応える。
「ずっと一緒にいる」
「絶対?」
「絶対」
「僕はきみとしか考えられないと思ってるからちゃんと覚悟してて」
「好き」
「うん」
 声に涙がにじむ私とは裏腹に彼のうんと言う声は嬉しそうで、あの夜を思い出した。彼の身体に縋るように抱き着く。隙間なんてないくらいにぎゅっとする。
 きっと私にはまだ彼のことでいっぱい知らないことがある。たぶん知らないままでいつづけることもあるだろう。目をそらすんじゃなくて、それを受け入れてずっと一緒にいたかった。彼が私がいいと言ってくれたことを受け止めたいと思った。大好き、囁くと彼が嬉しそうに笑う。その声が耳に触れるとくすぐったい。くすぐったくて、幸せで、愛しくて、力いっぱい、そう思っていることが彼に伝わるようにしがみついた。

ベター・ハーフ

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