NOVEL | ナノ

 足が地面から離れる感覚に私は息を呑む。彼自身によって彼の肩へと添えるようにされていた腕に今度こそ自分の意志で力がこもる。それで恐怖が伝わったのか、五条さんは苦笑した。お姫様にするような抱き方をされていることやその距離の近さにも緊張があったが、それ以上に体が浮いている感覚に恐怖があった。
 私の前にいつものように突然現れた彼が一緒に行こうと言って指して見せたのは空だった。目を丸くした私を簡単に抱きかかえると彼はその言葉通り空へと浮いたのだった。
 彼が"特別な力"を持つ人で普通の人間にできないことができるのだというのは知り合った中で打ち明けられていたが、それでもこんなふうに目の前で見せてくれるのは初めてのことで、私は彼の腕の中でその力に驚くばかりだった。
 足が空を切るという普通に暮らしていれば感じることのない浮遊感に反射的に目をぎゅっと閉じてしまう。思わず彼の胸に縋りついた。腕の中はとてもあたたかく、私を抱きかかえる彼は人一人抱えているというのに重さを感じていないような様子で、そうしたくなってしまうような安心感がある。私を足の届かない空へと連れてきたのも彼だったけど、私を抱きしめて安心させてくれるのも彼だった。
「名前、大丈夫だよ。見てごらん」
 彼に囁かれて私はおずおずと目を開ける。そうして目を瞑って抱かれているうちにどれほど経ったのか、私たちが立っていた地面ははるか遠いかなたとなっていた。下に向けかけた視線に気が遠くなりそうで、私は前を向く。そして眼下に広がる光景に目を見開いた。言葉にしようと意識することなく、すごいという言葉が口からこぼれ落ちる。たぶんどんな建物より高いところに私たちはいた。なにもかもを一望できる光景は今まで見てきたどんな夜の景色より美しかった。
 昨日は雨が降っていたが、今日はよく晴れているおかげで月が見えた。その月すら地面で見るより近く、大きく見える。目の前の景色に体を満たしていた緊張が抜けた。
「高いところ平気って言ってたから、それならいつか見せてあげようと思ってた」
 飛べるなら飛んでみたいって言ってたよね、と彼は言う。
 なにかの話の折にそんなことを言った記憶があった。そんなことができるはずもないんですけどね、と笑ったはずだ。それを彼は覚えていてくれたらしい。私ですらどんなときにその話をしたのか覚えていないくらいなのに。
 胸の奥にわきあがる気持ちに私は自分の頬がこれ以上ないくらい緩むのがわかった。
「本当に、すごく綺麗です。……どういえばいいかわからないくらい嬉しい」
 とても嬉しかったのに、どう言葉にあらわしていいのかわからない。それが歯がゆかった。そう伝えると彼は名前の顔を見たらどれくらい喜んでるかわかるよと笑ってくれた。
「もっと高いところとかにも行けたりってできますか……?」
「慣れてきた? いいよ、どこにでも連れてってあげる」
 その言葉通り、彼は私をもっと月の近くと連れて行ってくれた。慣れてしまえば頬に触れる風が気持ちいいとすら感じる。
 私は彼の腕の中で生身のまま空に浮かぶ星も月も地上の景色も好きなだけ見つめることができた。見惚れてばかりの私を、五条さんの目がじっと見ている。五条さんはその日、珍しくずっとサングラスを外していた。彼の瞳がこんなにも近くで私を見ているというのは恥ずかしくもあったけどその感覚はくすぐったさに近かった。
 満足できた?と聞かれて浮足立つ気持ちが満ちたまま、頷く。
「本当はここからが本題」
 本題、と鸚鵡返しにくちにした私に彼はほほ笑んだ。
「僕と結婚してくれる?」
 呼吸が止まる。私は思わず彼の目を見つめ返した。冗談なのかと思った。だって私と彼は付き合ってすらいなかった。けれど彼は冗談だとはけして言わなかった。
「名前が僕を好きだと言ってくれたら僕の手は滑らない」
 その言葉で自分のからだが空の上にあることを久しぶりに意識する。私の命は文字通り彼の腕の中にある。
 私自身がねだったおかげで、高度は増していた。彼が私をほうりだせば私のからだは文字通りばらばらになって地面に墜落するだろう。
 酷いことを言っているのに彼は変わらず、ほほ笑んでいる。私は少しだけ考えてから、彼に答えてみせた。

 憂太くんという呼び方は、悟さんからうつったものだった。彼が憂太と呼ぶので私もそう呼ぶようになったのだ。
 彼は彼自身の仕事についてのことはもちろん、仕事上の知人についても私に話すことはほとんどなかったので、憂太くんはそのなかで彼とのつながりで知り合った唯一と言ってもいい男の子だった。
 どうして私が出会ったかと言えば彼が憂太くんを家に呼んだときに私がそれに対面することになったからだった。前日に私はその時間に家にいないことを予定として伝えていたし(なので帰ってきたのは本当に偶然だった)私が帰ってきたことで三人で顔を見合わせた瞬間に悟さんは見たことがない顔をしてたので本当なら会わせるつもりは彼になかったのだろうと私は考えている。
 憂太くんも私の存在を聞かされていなかったのだろう。私を見て目を真ん丸にすると憂太くんはじっとこちらを見つめた。強い視線だと感じた瞬間に憂太くんは困った顔になって笑った。眉を下げるその笑みに、細の細い印象を受けた。
 その日の夜に私は、憂太くんは彼が特別に”目をかけている”生徒である事実を知った。家に呼んだのもそのためにいくつかの手続きがあったからとのことだった。
 玄関にあった見知らぬ靴を見て心臓がはねたあの瞬間の気持ちをいまだに覚えている。一瞬女の人かと思ったとつい告げてしまった。
「僕は名前しか欲しくない」
 彼は私の顔から視線をそらさず言った。もちろんほかの女の人を連れ込むわけがないと知っているし信じている。でもあまりにもびっくりしてしまったのだ。びっくりしてから初めて、彼がほかの人間をこの部屋にあげることはないと自分は想像したことがなかったのだなあと思った。
「名前も浮気はダメだよ」
 ベッドの上で私のことを抱き寄せてから彼はそう囁いた。私は抱きしめられるまま寄りかかって、彼の体温を感じていた。
 憂太くんが彼の生徒で(受け持ちの生徒がいるということや教師でもあるということは知っていたけど、こうして一緒に住むようになった今ですら現実味がなかったのでその事実に改めてびっくりした)例えばあの年で親元から離れて帰ることが出来ない状態でいることだとか、それでそういう面でも面倒を見ているということもその時に知った。
「寂しいね」
 昼間、困ったように笑っていた彼の顔が浮かんで、私は思わずそうつぶやいていた。憂太くんの非力そうな印象が余計にそう思わせていた。
 彼はそうだねと言ってから私のくちにキスをした。私の瞳をのぞき込む視線にこの話はもうおしまいという意図が伝わってきたので私は素直にそれに従い、目を瞑る。
 そうして出会った数週間後ぐらいに、私は偶然にも憂太くんに再会した。話をして、連絡をとるようになった。正直に言えば彼が気にかかったのは彼に話をされていた憂太くんの事情だとか、そういうこともあったと思う。
 そんな一方的な心配で嫌々付き合わせるようなことがあったら憂太くん自身にも悟さんにも申し訳なくて、そういう意味でも出来るだけ気を付けていたが、連絡が途切れることはなかった。そのうち心配だとかを抜きにして、親しみを感じるようになった。憂太くんは送った私がびっくりするくらい頻繁に返してくれた。
 連絡をするようになってそんなに経たないころにその事を帰ってきたばかりの悟さんに告げると、彼は真顔になった。
「僕のことを憂太からなにか聞いたりした?」
「すごくお世話になってますって言ってたよ」
 彼は私を見つめる。彼の瞳はこの世の中でいちばん美しい色をしていると思う。私の態度からなにかを探りたいことでもあるみたいだった。でも彼はすぐに困った顔をした。
 あんまり良い顔はされないだろうなと思ったけど、困らせたい気持ちがあるわけじゃなかったから、その顔を見た瞬間に心の中にあった罪悪感が膨らむ。
「確認しないでごめんね、やっぱり立場的に私がこんなふうにしたらまずかったかな」
 そう言うと返事の代わりに彼は私の頭を撫でる。
「僕が憂太のこと話したから気にかかっちゃった?」
 私は彼の瞳を見返しながら小さくうなずいた。そういう意味で気にかかったのだと表明するのは、一方的で勝手な感傷を抱いていることを改めて思い知らされるようで恥ずかしかった。
 口ごもると、名前は優しいからと彼は表情を緩めて言った。自分の抱いた感情が本当に優しいと言われるものだととてもそう思えはしなかったけど、彼が私を優しいと評してくれるのは、彼がそういうところも好きだよと言ってくれたことを思い出して、少しだけ救われるような気持ちになった。
「ダメだとかそういうことじゃないから気にしないで。今度僕からも憂太にちょっと話してみるから」
「立場的に私から連絡とられるのって嫌でも返さなくちゃって思うだろうし、本当に無理しなくていいからねって伝えてね」
「憂太は無理な相手と連絡し続けたりしないから大丈夫だとは思うよ」
 それでも彼の顔はやっぱり難しいままだ。今度はその顔を私が見つめる番になった。珍しく口ごもった彼に首をかしげる。
「楽しい?」
 どうしてそんなことを聞くんだろうと思った。想いながらうんと答える。
「名前がそんなに憂太と話したいって言うならそれは、まあ……」
 良いってこと? と聞くと彼は良いとは言わずに私を膝に乗せてリモコンでテレビの電源を入れ、一緒に見ようと言っていた映画をつけた。悪いとも言わなかった。彼はダメな時はダメってすぐに言うからダメというわけではないんだろうと解釈した。
 私は改めてそのことについてこちらからも憂太くんに連絡した。その数日後に本当に直接話してくれたのか五条先生にも言われたけど無理とかしてないですと率直なメッセージがきたので、私はそれでも不安があった胸をなで下ろした。
 憂太くんとの連絡は日常的な会話もあったし、憂太くんが就いている”仕事”に関してもあったので常に新鮮だった。悟さんは仕事のことについて詳しく話すことがないので、例えば階級だとかがあることも憂太くんから聞いたのだった。憂太くんは今、一度もらった階級が外れたことによりもう一度上を目指しているという話をしてくれた。
 あんまり詳しくは話せないんですけど、と彼は申し訳なさそうだったけどそれでも彼よりずっと私に教えてくれた。そこに私に話すことへの躊躇いは感じられなくて、そういうところも新鮮だと思った。
 時々会うこともあったし電話もした。私が憂太くんと呼ぶように、憂太くんは私を名前さんと呼ぶ。たぶんお互いの共有の知人である彼の呼び方がうつっているからだと思う。
 こんなふうに言ったらきっと失礼だけど私の顔を見ると名前さんと呼んで顔をほころばせてくれる彼のその様子に可愛いと思った。でもそんなふうに慕ってもらえるようなことなんてしていなかったから、それと同じくらい申し訳なさもあった。
 悟さんとの会話でも時々憂太くんのことを話すようになった。憂太くんが元の階級に戻ったと報告してくれた日に嬉しいねと思わず声を弾ませて悟さんに言うと悟さんは私がそれを知っていたことにびっくりしていたようだった。
 後日お祝いしようねと話していたことも伝えると、彼は食洗器によって洗い終えられた食器を片付けていた私のところまで来るとそのまま後ろから抱きしめてくれる。
「僕より憂太と仲良くなってない?」
 その声が本気で面白くなさそうだったのでおかしい。
「五条先生のおかげですって言ってたよ」
 フォローするように憂太くんの言葉を伝えると唸ってから悟さんはそのままつむじにキスしてくれる。くすぐったい。つい身をよじると逃がさないというように腕の力が強くなった。きつくきつくぎゅっと抱きしめられる。私は私を抱きしめる手にそっと自らの手を重ねた。
 そうしていると満足したのか、彼はそっと腕から力を抜いた。そしてそのまま顎に手を添えられて上を向くようにされる。今度は唇にキスをされた。
「今日は一緒にお風呂はいろっか」
「えっ!」
「入浴剤なににしようね」
 今度は私の隣で残っていた食器を片付け始めた彼の機嫌が良くなったことが空気でわかって、私は今度は笑ってしまった。いくらかの接触で機嫌が良くなるところがシンプルだと思う。でも抱きしめられただけで嬉しくなる私もきっと大して変わらなかった。
 
 その日、憂太くんから今日のうちに"仕事"で離れるから、その前に時間が合うなら少しでも顔が見られたら嬉しいという旨のメッセージが来ていたことに気が付いたのは昼間だった。ちょうど空いていた私は喜んで了承の返信をして、約束をした。
 待ち合わせは家の近くでした。初めて出会ったとき以外、家で憂太くんと会うことはなかった。私は悟さんと住んでいる部屋に自分の意志で誰かを入れたことはない。
 残念ながら時間的にはたくさんの時間は一緒にいられないけど、その忙しい時間の隙間で会おうとしてくれているということを知っていたので十分だった。階級が戻ったことで憂太くんは任される仕事も増えているらしい。憂太くんの階級はあんまり人がいないと言っていた。
 時刻はまだ夜に満たないころだった。日が沈んでまだそんなに経っていないせいで空を薄く淡い闇が覆っている。マンションから出てスマホで時間を確認しながら歩いていた時、後ろからぎょっとするほど鋭い声で名前を呼ばれた。
「名前さん」
 振り返ると同時に腕をとられる。腕をつかむその手の力強さにびっくりしながらその人間を見上げてようやく、それが憂太くんだと認識できた。あの鋭い声出したのが憂太くんであることが目の前にしても結びつかなかった。
 憂太くんは見たこともないような顔をしていた。彼が背を屈め、私の耳にくちを寄せる。不思議なことに今までにも隣に並んで歩いたことがあったのにその時初めて、彼の背が私よりずいぶん高いのだということがわかった。
「後ろに人がついて来てます、知り合いですか?」
 その言葉にぎょっとする。分からないように確認できますかと問われ、私はその言葉に従い自然な挙動を装って後ろを確認する。視線の先、近くはないがけして遠くはない位置に男性が"立ち止まって"いた。スマホで話しているとかそういうことでもなく、私たちが歩みを止めたことでそうしているように感じて、彼の言う「ついて来ている」という言葉がより生々しい輪郭が帯びてぞっとした。顔に見覚えはないし当然ながらそんな風に無言でついて来るような知り合いはいない。
 首を横に振って憂太くんの質問に答える。力が抜けそうになった私の腕を支えながら、入りましょうと言って彼はすでに見えていたコンビニの店内へと向かった。その男性は立ち止まっていた位置から動き、そこから少しだけ動いたものの私たちと同じように店内には入らずこちらからも見えるその位置に立ったままでいる。
 憂太くんは店の中の向こうからもこちらからもお互いに見えなくなる位置まで迷うことなく移動してから、私に今までもこんなことがあったのかと聞いた。
 こんなことは初めてだったし顔も初めて見ると答えると憂太くんは店の中にいたほかの人影を見てから、私の腕を離す。そして眉を下げ、気遣しげな顔をして言った。
「僕が行って捕まえます。名前さんはここにいてください」
 さっき声をかけられたとき以上にびっくりしてしまった。後ろをついてくるような人間にわざわざ声をかけて捕まえるなんてとんでもないことだと思った。
「わざわざ行かなくても!」
「このまま見逃すのはダメだと思います」
「……け、警察とか」
「呼んでも来てもらう途中で逃げられますよ。その前に僕が行った方が早いです」
 そう言うと今すぐにでも本当にしようとしているというように、憂太くんが出入り口の方に視線をやる。その様子に考える前に私は憂太くんの腕に、今度は自ら縋っていた。
「ダメだよ、危ないよ」
 そんなのダメだ。どうすれば引き留められるのかを考えながら、私はあわてて言い募った。
「直接変なことされたわけでもないから」
「怖がらせてきただけで十分だと思いますけど」
 ひやっとした声には、今すぐにでも硝子の向こうの男の人の前に飛んで行ってしまいそうな気配があって、無意識にその腕をぎゅっとすると、憂太くんはさっきよりも困った顔をした。
「こんなことで揉めてたら憂太くんこのあと遅れちゃうよ」
「遅れてもいいです」
 困った顔をしていたが引くつもりもないということが伝わってくる声だ。その態度に憂太くんがこうなると譲らないことを思い出した。彼は彼自身のことになると(見ている私の方が声を出してしまいそうなようなことでさえ)不思議なほど無頓着なのに私に関することで、時折なにかの琴線に触れたように強硬になるのだった。
 でもどうしたって行かせられない。私こそ困り切る。
「行かないで、ここにいて」
 反射的に出た言葉は自分でもびっくりするほど弱弱しくて、それを聞いた憂太くんはもっと驚いたようだ。彼は目を丸くし、さっきよりも困った顔になって私の背にそっと手を置くと顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい、一人になるの怖いですよね? 置いていかないです、大丈夫です。僕が守ります」
 その声にはさっきまでの声の冷たさなどかけらもなく、むしろおどおどした気配すらある。その切り替えの早さに、そんな場合じゃないのに笑ってしまいそうになった。
 そうしているうちにコンビニの向こうにいた男がいなくなっていることに気づき、私はいろんな意味でほっとした。きっと偶然目についたから私の後をつけたのだろう。だからもうこの話はこれでおしまいにしたかった。
 マンションの下まで送ってくれるという憂太くんの申し出を私は今度は断らなかった。あんまり話せなかったし、さんざんな時間になってしまったけど、憂太くんの仕事にはちゃんと間に合うように送り出せそうだったのでそれにも安心していた。
「今日のこと、僕から五条先生に話しましょうか?」
 また今度改めて会おうねという話をしながらマンションの下へとついたとき憂太くんはそう切り出した。たぶんずっと聞こうとしていたんだろうなというのがなんとなくわかった。
 考えるまでもなく首を横に振る。直接的なことを本当になにもされていないのに、わざわざ憂太くんのくちから彼に話してもらうようなことだとは到底思えなかった。
 憂太くんは読めない表情のまま私の顔をじっと見ている。黒々とした、どこか陰のある瞳だと憂太くんを初めて見たときにも思った。
 報告した方がいいと思いますと言われるかと思ったけど、憂太くんはそうは言わず、その瞳を細める。
「じゃあ僕と名前さんの秘密にしましょう。僕、誰にも言いません」
「ほんと?」
「指切りしますか?」
 憂太くんがそう言ってくれるなら指切りしなくても大丈夫と私はほほ笑む。憂太くんは割と本気だったのか、どこか残念そうにそうですかと言った。
 私がエントランスに入ってからも憂太くんはそれを見守るようにまだ外にいた。硝子の向こうに手を振って見ると、躊躇いがちに振り返してくれた。早く行かないと間に合わなくなっちゃうよと思ったけど、彼は私の姿が見えなくなるまでそこにいるのだろう。私は手を振るのを止め、部屋へと急いだ。
 その日のうちに一人で大丈夫でしたかというメッセージが来た。「置いていかないで」と縋ったからだろう。念を押したからかちゃんと間に合いましたともあった。約束したせいであんな目に合わせることになってごめんなさい。という言葉を見て慌ててそんなことないよと送り返した。そもそも約束したのは夕方と夜の間の早い時間だ。あのぐらいの時間なら私一人でも外に出ていたかもしれない。そんな風に思うはずがない。
 仕事に間に合ってよかったという旨と憂太くんが助けてくれたから大丈夫だった、今日はありがとうとすでに何度となく伝えた言葉も重ねて送った。
 手に持っていたスマホをベッドの横に置く。それからなんだかため息が出た。憂太くんが私に声をかけるまで全然気づいていなかったことを思い出す。憂太くんがいなかったら、もし私が一人だったらどうなっていたんだろうと想像して、怖くなってやめた。
 今日は悟さんは帰ってこない。電話をかけようか考えるだけ考えてそれもやめた。電話をかけたら寂しいと思っていることまで伝わってしまいそうだ。大人しく自分のベッドに入ると、聞くことができないのはいつもあることなのにそれでもただいまという彼のあの声を早く聞きたいなと思った。
 そういうきっかけもあったからか、憂太くんは私と連絡をより頻繁にしてくれるようになった。待ち合わせを昼間にしかしなくなったし、彼は都合の合う限り、合わせてでも(あまりに無理をしているように思えてさすがにダメだと言ったとき以外)私のことを迎えに来るようになった。
 いいのかなあと思いつつ、大丈夫だと断っても僕が大丈夫でないですと言われるとそれ以上言えなかった。だって実際に大丈夫ではなかったのだから。
 この過保護にされる感じが悟さんに似てるなと思った。日報みたいに来るようになった連絡に目を通しながらその時に私は初めて彼と憂太くんに近しい印象を覚えた。
 少し前に、仕事としてだけど初めて海外に行くことになったと教えてくれた憂太くんから写真が送られてきたのは旅立ったその日だった。
 それを見て私はつい感嘆の声をあげた。写真を撮り慣れていないのかちょっとぶれているけどそれもそういうものとして見えるような美しい夜の景色だ。随分高いところから撮っているように見える。
 名前さんにも見てもらいたかったですとメッセージも来ていたので写真でもちゃんと伝わってくるよ、ありがとうと返した。写真が送られてくるのは初めてで嬉しかったのでその画像を保存して、ロック画面にしておいた。
 調べたら夜景って雨上がりだと綺麗に見えるらしいのでタイミングが良かったという憂太くんの文章を見て私は悟さんに連れられて見た夜景のことをふっと思い出した。あの日、前日やその昼頃まで雨だった。
 その事実に頭のなかでピースが嵌まるような感覚があった。横になっていた体勢から私は勢いよく飛び起きる。隣で一緒に映画を見ていた彼がびっくりした様子で私の顔を見た。
「どうしたの?」
「夜景って雨上がりが綺麗に見えるんだって」
 そのまま彼の顔をじっと見つめていると私が突然何を言い出したのかが思い当たったのか納得した顔をした。その表情で私の想像が当たっていることを知った。
「だからあの日だったの?」
 あの日、雨が上がって綺麗に見えるって知ってたから、私に夜景を見せてくれたの。そういう意味を込めて聞くと、うーんと彼は唸った。
「いつどう見えるかとか一人でいるときに意識したこと自体なかったんだけど、名前が見たいって言うの聞いたあとに調べた気がする」
「うん」
「あの日に名前に言おうって前から決めてたわけじゃないんだよね。でもちょうど雨上がったなって意識して、名前に会いにいける時間があって、名前に会いたいなあって感じて、好きだなあって思ったから、そうした」
 名前には一番綺麗なものを見せたかった。そう言う彼に、その気持ちに気づかなかったらどうしようと思った。気づけて良かったと思った。
「曇っていてもきっと忘れられなかったよ」
 この気持ちをどう伝えればいいんだろう。いつもそんな感じだった。
どれくらい伝えたいと思っても私が彼に抱く気持ちを正しく伝えられたようなことの方が少ない気がする。好きってそういうことなんだって、彼と一緒にいて初めて気づいた。
「怖いことされたから?」
「……」
「わかってるよ。名前、曇りも好きだもんね」
 私が曇っているときに雷の音がするのを聞くとちょっとわくわくすると言ったときに子供みたいで可愛いねと言われたことを思い出した。でも彼の言う通り曇りが好きだからとか、そういうことじゃない。顔を見ればわかるとはあの日言われた言葉で、確かにそれからも何度となくわかってもらったけど、今日はそうじゃない。
 たぶん伝わってないんだろうなということにどう言えばいいのか迷ったけど、結局言葉にするより触れることにした。私は立ち上がって彼の首に腕をまわして抱きつく。彼の首のあたりに顔を埋めるのが好きだ。あたたかくて気持ちよかった。許されている気がする。
 背中に太い腕がまわり、私がそうしたように彼は力をこめて抱きしめてくれる。当たり前みたいに抱きしめ返してくれることが幸せだった。
 
 それが起こったのは憂太くんが安否の確認のためにメッセージだけでなく電話をしてくるようになったのにも慣れたころだった。
 駅から出ると、すでに太陽が落ちて暗くなっていた。仕事帰りに寄れると言っていた憂太くんとの約束の時間が差し迫っている。一度家に戻るつもりだったのに、このままだとマンションの下にいる憂太くんと中からではなく外から鉢合わせることになるかもしれない。連絡してくれれば僕が駅まで行ったのにと言う憂太くんが想像できて私は顔が緩みそうになる。
 マンションを目指しながら早足で歩いた。駅から離れるにつれて街路灯と通り過ぎる人の数が減っていく。そうしてついに道端に一人になったとき、視線を感じた。背中がひやっとした。
 あの日を思い出す。夕暮れを飲み込む暗闇によって眩しい色合いと黒色が入り混じった空の下、憂太くんに腕を掴まれながら後ろを振り返ったあの時の空気、あの時に見た顔。
 ドッと心臓が大きな音をたてた。私は歩幅を緩め、何気なく横を向く様子を装って後ろを確認する。同じ人だと認識した瞬間に冷たい汗が自らの肌から噴き出した。
 偶然だろうか、偶然であってほしい。そんな願いと裏腹にその男が足を速めたのが気配でわかった。私が気づいていることに気づかれたらまずいように感じた。きっとそうなれば今度は本気で追いかけてくると思った。
 前みたいに人のいるコンビニに入ることがいちばんに思い当たる。それかそれこそ憂太くんと合流できたら。でも私があのコンビニにたどり着くまでと後ろのあの人が私に追いつくのはどっちが速いのか、そんな想像がよぎって足がすくんだ。
 そうしようと前から思っていたというように、私はスマホを取り出す。誰かと電話をしていると思わせると良いという方法をどこかで見かけたのを思い出したからだ。だけど、私がスマホに手をかけたのと、その男が私に走り寄ってくるのは同時だった。はじかれたように私も走り出す。
 腕が伸びてきて、私は持っていた鞄をおとす。スマホだけは手に握りしめられた。財布が欲しいならそれで我慢してほしい。でもその男は鞄に目をやることなく、私を追ってきていた。男の人相手に私の足と体力で逃げ切れる気がしない。コンビニに近づくどころか、今一番近くにあるのは灯りの数が少ない公園だ。
 トイレに入ろうか、でもこじ開けられたらと思うと良い判断には思えなかった。そんな窮地の中でスマホが鳴った。走りながら横目で名前を確認する。約束をしていた憂太くんかと思ったけど悟さんだった。今日は離れて仕事だというのは本人のくちから朝に聞いた。今の時間からしてもまず都内にいないだろう。悟さんはここに来られない。
迷ったものの、スピーカーにして一か八かで叫んだ。
「憂太くんに、公園って!」
 私が地面に引き倒されるのはそれを言い終えたときだった。スマホが私の手からこぼれて飛んでいく。約束の場所に最も近い公園だ。この公園自体、憂太くんと寄ったことがあるので知っていたし、もちろん悟さんも知っている。でもどうして公園と言ったのかわかってくれただろうか。
 のしかかられてその男のからだの重さに私は最悪が起こることを覚悟した。覚悟してから、その最中にあるいは事後に憂太くんに見つかったら、見せてしまうことになったら、どうしようと思った。それはもっと最悪の事態だと思った。
 からだを固くしたままでいる私に、その男は言う。初めて真正面からその男の顔を見た。やっぱり見たこともない人だった。
「どうしてあの男と結婚したの?」
 私の手をとったその男は指にはまっている指輪を憎々し気に見る。
 結婚の事実や悟さんを知っていると思われる発言、その視線の強さに面食らった私に、男は顔を近づけた。生暖かい吐息に鳥肌が立つ。反射的に顔をそむけた私の頬を男は振り上げた手のひらが打擲し、鋭い痛みが走った。その後も何度となく振りおろされる力に強張っていたからだがもっとすくむ。その男の手が私のからだをまさぐるのを痛みにすくんでもそれでも嫌だな、怖いなと思った。暴力の代わりにそういうことをされるなら、痛い方がいいと思った。
 耐え切れず、身をよじると首に手をかけられる。あ、と思った瞬間にその指に力が込められた。苦しい。頭の中で無理だとわかっていても首にかけられた男の手に酸素を求めた私のからだは勝手に手を伸ばす。爪を立てているはずなのに男はものともしない。指の一本一本が、首の皮膚に鈎のように沈み込む。
 目の前がちかちかして意識が落ちそうになったその時、男のからだが吹き飛んだ。あんなにあの男のからだは重かったのに、その様子はまるで軽い人形が空を飛ぶ光景を思わせた。
 にじむ視界の中、私の前に誰かが立っていた。暗闇の中で、近くにあった街路灯の光にその白い制服が反射する。憂太くんだと、わかった。私は無意識のうちに安堵のため息をついた。
 憂太くんは汚れることもいとわず隣に膝をついて、私の顔を覗き込む。憂太くんは温度のない表情をしている。彼の手が伸びて、私の首に触れた。たぶん痣になっているのだろう、触れられると酷く痛んだ。顔がゆがむ私に、そこでようやく表情を浮かべ、憂太くんの方がずっと痛々し気な顔をした。
「全部綺麗になります。大丈夫です」
 囁かれ、さっきそうされたみたいに、まるで同じかたちで、憂太くんが私の首に手を添える。違うのはどこまでも優しい触れ方だった。薄暗い中で一瞬その手元が光り、痛みが魔法みたいに消える。
 きょとんとした私のほっぺたにも彼は同じように触れた。憂太くんのひんやりとした手の体温を感じると同時にじんじんとしていた痛みが消える。次いで、その包まれるような感覚が全身にまわるのを感じながら、ああそうだった、彼も悟さんと同じで"特別な力"を持っている人だったんだと、だから同じ仕事をしているんだと、知っていたはずのことを今更身をもって実感した。
 力が抜けるまま彼を見上げたそのとき、憂太くんの上にふっと影を差す。ここにいる人間は私たちのほかには一人しかいないのでその影の正体はあの男以外にいない。憂太くんの後ろから殴りかかろうとしているのだと認識した私が声をあげるのより、憂太くんが立ち上がってその男の顔を、振り返ることもせずに殴りつけたほうが早かった。
「名前さん、ちょっと待っててください。見たくないかもしれないんですけど、心配なので離れないでそこにいてもらってもいいですか」
 憂太くんが片手でその男の胸倉を片手でつかみあげると、その男の足が浮いた。憂太くんの方が、その男より身長が高い。その事実や簡単に持ち上げている様子にびっくりしているうちに男のからだがもう一度飛んだ。強制的に地面に横たわらせた男の上に憂太くんが近寄っていく。
 さっきから目の前で何が起こっているかわからずぽかんとしていたが、"よくない"ことをしようとしていることが本能的にわかって、私は今まででいちばん大きな声で彼の名を呼んだ。幸いなことに憂太くん自身によって喉を治してもらっていたから声をあげることに支障はなかった。
 こちらを振り向いた憂太くんは私を見つけたときの顔と同じような、聞いている人間に不安を抱かせる声で言うのだった。
「こんなことになるならあの時見逃したりしないでちゃんとしておけばよかった」
 ちゃんとってなにをちゃんとするの? と思わず聞いてしまいそうになったけどそれより立ち上がって私から憂太くんに駆け寄る。私は憂太くんの手を取った。こうして握ってみると、憂太くんの手は彼自身の雰囲気や私が彼に抱いていたイメージと相反するようにごつごつしている。私の手よりずっと大きい。厚くてかたくて、男の人の手のひらだった。
「もういいよ」
 あの日、私の腕をつかんだ手のひらだ。今日も私を助けてくれた。彼が来てくれなければ、私はとても酷いことになっていただろう。でも、だからこそ。
「憂太くんが来てくれたから、もういい」
 憂太くんのからだから明確に力が抜けた。もう彼にそういうつもりはないのだとわかって、見つけてもらったときと同じくらいほっとした。
 転がされて気絶している男の前で、憂太くんはスマホを取り出すとどこかにかけた。そして終わりましたと電話の向こうの相手に伝えると、二言三言話し、すぐに切った。
「五条先生、今日の日付中に戻ってくるそうです」
 そう言うと、憂太くんは地面に転がっていた私のスマホを拾い上げて渡してくれる。
 私のスマホに繋がっていたはずの悟さんとの通話は切れている。通知には憂太くんからのメッセージと電話がいっぱい入っていた。
 ちゃんと無事です。憂太くんに助けてもらいましたと悟さんに送っていると隣で私がスマホをいじっているのを見ていた憂太くんはちょっとびっくりした声をあげた。
「それって僕が送った写真ですか?」
「えっ、うん」
 さっきまで簡単に男の人をぶん投げていたとは思えないような声だった。
「送ってもらったの嬉しかったから」
 ほら、とスマホのホーム画面を改めて見せる。憂太くんに写真を送ってもらったときからずっと変わっていなかった。
 スマホをしまおうとするが、しまう場所がない。そういえば鞄もほうり投げたんだった。取りに行かないとと思って、ふっと顔をあげたその時に憂太くんが沈黙していることに気が付いた。
「憂太くん?」
「う、嬉しいです」
 憂太くんはなぜか赤面して照れていた。僕もしたいですと言われたので今度は私から写真を送ることを約束をする。
 そのあと憂太くんは一緒に近くの交番まで来てくれた。気絶していた男と共にだ。憂太くんはその男の後ろの襟をつかむとそのまま引きずって交番まで連れて行った。憂太くんより小柄でも憂太くんより重そうな男を相手に平気そうに引きずってきたのを見ておまわりさんは絶句していた。
 時間も遅いので後日詳しく調書を取ってもらえるとのことだった。それから憂太くんと一緒に帰ることになった。途中で鞄を拾いあげる。あの日みたいにマンションに帰る道すがら、隣同士で歩きながら話をした。やっぱり悟さんに電話をもらって来てくれたのだそうだ。
「あの人、あの日の人でしたね」
「うん。知り合いじゃないって言ったんだけど向こうは知ってたみたい」
「……治した傷以外に、酷いことされませんでしたか?」
「憂太くんが間に合ってくれたから、なにもされてないよ」
 探るような目で見られて、だから私はちゃんときっぱり憂太くんのおかげだよと答えた。それからいつもみたいになんてことない話をした。その途中で私がそう口に出したのは考えてのことではなかった。
「違うなって思ったの」
 本当だったら憂太くんに言うことじゃなかったしその時していた話と全然違う話で、きっと聞いている側からしたらおかしかったと思う。
「悟さんと違うなって。比べることじゃないけど、私、悟さんと結婚するときのこと、憂太くんに強引だったって言ったけど、でも同じ強引だったとしても違うんだって思った」
 前に、憂太くんにはどういう流れで結婚したのかを言ったことがある。どうやって告白されたんですかと聞かれたので迷ったものの、素直に答えた。
 空中に連れていかれて断ると手が滑ると言われたと冗談めかして、でも正直に打ち明けると憂太くんは目をパチパチさせた。なんて答えたんですかと聞かれた。驚いた憂太くんのその仕草があどけなく見えたことは覚えてるのになんて答えたのかは覚えていない。でも強引さにびっくりしたとかそういう曖昧なことを答えたはずだ。
「方法がどうだったとしても、私、それを本当に嫌だったらきっと今日みたいに抵抗したの」
 つい、下を向く。気持ちが滅茶苦茶で、自分でも何を言っているかわからなかった。憂太くんが私の顔を見ている。視線を合わせることはできなかった。でも憂太くんはなにも言わずに聞いてくれた。
「私、あの時にはもうちゃんと特別だって思えてたんだ。特別な相手だったからどんな方法なんだとしても拒絶しようとは思えなかった」
「名前さんは五条先生が好きなんですね」
「うん」
 こんなこと言われたって困るだろうに、それでも茶化したりしなかった彼のその問いに私は迷いなく頷いた。そう聞いた憂太くんの顔は恥ずかしくて見られなかった。
 私たちはいつの間にかマンションの下についていた。調書をとるときは一緒に行きますと憂太くんが言うので、その日に憂太くんに支障がなかったときにはお願いすることにした。
「僕、五条先生が帰るまで一緒にいましょうか?」
 顔をあげて、憂太くんの目を見る。憂太くんはじっと私を見ていた。どこまでもまっすぐ私を見てくれていた。
「ありがとう」
 でも、と首を横に振った。こんなことに付き合ってもらって本当だったら上がって休んでいってもらってもいいくらいだと思う。でも時間も時間で憂太くんは仕事帰りだ。学生の憂太くんに対してすべきなのは長々と引き留めることじゃなくて帰すことだ。
 心細い気持ちがないと言えるわけじゃない。でも憂太くんに一緒にいてほしいとねだっていいとは思えなかった。お願いすればきっと一緒にいてくれるとわかっているからこそ。
 だから話を変えるように今度改めてお礼をさせてほしい、出来ることならなんでも言ってねと言うと憂太くんはそんなのいいですよと言う。でもそのあとに、少し考えた様子でお礼って本当になんでもいいですか? と真面目な顔をするので、そんな真面目な顔のお願いとはと慄く。すると彼は小さく笑った。私はそんな彼の期待にちゃんと沿えるだろうか。
 気を付けて帰ってねといつものように告げてから男の人を容赦なく素手で持ち上げていた姿を思い出した。絡まれるようなことがあったときにいつも不思議なくらい平気そうだったのはああいう意味もあったのかもしれないなと今、得心が行った。
 名残惜しいけど私が部屋に戻らなければ憂太くんを引き留めることになる。またねと笑って足早にエントランスに入ろうとすると、その前に憂太くんが私の手をつかんだ。私の手首をつかむその手はやっぱりひんやりしている。
 至近距離で目が合った。こんなに近くにいると首をちゃんと上げないと目が合わないことにその時に気が付いた。
「今日、僕を呼んでくれて嬉しかったです」
 憂太くんは張り詰めた声で言う。
「本当はないのが一番だと思うんですけど、でも僕、名前さんにまたなにかあったら必ずもう一度助けに行きます」
「うん」
「何回でも行きます。だから、……だから、また、呼んでください」
 何度も言葉に迷うように、自分でもどういえばいいのかわからないという様子で憂太くんはそう口にした。困っているようでもあった。
 知人が目の前であんなことになっているのを見て、いろいろ思うところがあったのかもしれないなと思った。だから彼を慰めるためにも素直に言葉にした。
「嬉しい」
 その気持ち自体が、そう思ってくれることが、嬉しい。
 憂太くんは私の言葉に目をぎゅっと細めて、唇を噛みしめる。憂太くんの黒々とした瞳に外灯の光が映っりこむ様子がきらきらしてとても綺麗だと思った。生温い風が私たちの間を通り過ぎながら頬を撫でる。春の気配がする夜の風だった。
 ふっと、掴んでいた憂太くんの手の力が緩んだ。緩んだことでなぜか"解放"されたという文字が頭に浮かんだ。私の手ではきっと振り払えない強い力だった。憂太くんは繰り返し、くちにする。
「僕が助けに行きます」
 例えば自分のことを優先しなくちゃダメだよとか私のために危ないことしないでほしいよとか、憂太くんのその言葉に対して私の中にあった思いはどれも本心だった。でもそれらの言葉は憂太くんのその真剣な言葉と思いに見合うものではない気がした。
 だから、頷く。待ってるねと言うと憂太くんは明確に破顔した。
 エントランスに入った私を今度は引き留めることなく見送る憂太くんに手を振って別れる。そして家に戻っていちばん最初にシャワーを浴びた。そうしようと決めていた。
 上がったあとにドライヤーで髪を乾かしながらスマホを確認していると私が無事だと送ったあとに悟さんからできるだけ早く帰るからという返信が来ていた。そのメッセージを見たときにようやく、私は自分に起きたこと、そのせいで他人に与えた影響を、重さを伴って実感した。
 これが彼が海外にいるときだったらもっと迷惑をかけていた。電話が来なかったらどうなっていただろう。悪いことをしてしまった。いろんなことが駆け巡って堪らなくなった。
 リビングのソファーに腰かけたまま動く気力もなくぐったりとしていると、玄関の開いた音がして、私は考えることなく立ち上がっていた。
 彼が顔をのぞかせた瞬間、私は自分の顔をぐしゃぐしゃになるのを自覚した。涙がぽろぽろとこぼれていく。私は彼の元へと駆け寄って抱き着いた。
 顔を見た瞬間に急に泣き出した私にびっくりしているのが伝わってくる。でも抱きしめ返してくれた。
「怖かったね」
 髪をそっと撫でられる。怖かったとくちからこぼれた。迷惑をかけてごめんなさいとか言いたいことはあったのに、そんな風に優しい声で言われるとどうしようもなくなった。私は怖かったんだって実感した。
 ぎゅっと力をこめて抱きしめられてから、からだを離されそうになって、思わず彼の顔を見上げる。彼は私の顔を見てなぜか笑うと唇にちゅっと軽くキスした。
 シャワーを浴びてくるからと言う彼の背に、もう一回一緒に入ろうかなと思いつつ大人しく出てくるのを待っていたけどお風呂の扉が開いた音がしたときに私はついに耐え切れなくなり、下着しか身に着けていない彼にもう一度抱きしめてもらった。
 お互いにご飯も食べていなかったので、悟さんが買ってきてくれた食事を一緒に食べた。歯磨きをしてから早々に一緒にベッドに入った。
「仕事だったんだよね。帰って来させてごめんね」
 そこで初めてちゃんと謝ることが出来た。ベッドで抱きしめてもらって気持ちが落ち着いついて初めて、本当に言いたいことをようやくくちにできた。
 彼は私のほっぺたをふにっと指でつつくと逆に問われる。
「すぐに来てくれない旦那さん、嫌になった?」
「そんなことないよ」
「うん、名前ならそう言うと思って聞いた。僕の方こそごめんね」
 悟さんが電話してくれなければ憂太くんに見つけてもらえなかったかもしれないし、どうなっていたかわからない。悟さんにも助けてもらったようなものだと思う。
 悟さんは私が説明しなくても起こったことを知っていた。憂太くんは私と別れたあとに改めてもう一度電話をしてすべて説明してくれたそうだ。本当に頭が上がらない。
「今まで会ったことなかったんでしょ?」
 何気ない彼のその言葉のニュアンスにあっ、と思った。憂太くんは今日だけでなく、あの日にもそういう片鱗があったことを秘密にしてくれたらしかった。私がそうお願いしたから。
 一瞬、どうするのか迷いながらも私はその事実にはもう触れずに憂太くんに改めてよろしく言ってほしいと伝えた。
「憂太に警察に引き渡してよかったんですかって言われた」
「引き渡さないでどうするの?」
 素朴な疑問をくちにした瞬間に、彼の目に不穏な気配がよぎった。憂太くんがあの男を地面に転がしたあと、その男に近づいていったあの時を連想させる、それに近しい気配だった。
 私の顔が曇ったのがわかったのか、名前に酷いことした男の顔を見てやろうかと思ってとほほ笑んだけど、ほほ笑むと怒っているということが余計に伝わってきて怖かった。憂太くんと悟さんは怒ったときの気配が似てるなと思った。
「憂太くんのあんなに怒るところ、今日初めて見た」
「僕も怒ってるよ」
「うん」
 それは見てわかる。
「名前は憂太のこと怖くなった?」
 質問の意図がわからず、私は彼の目を見た。
「憂太は怒ると手が付けられなくなるから、それを見て名前はどう思ったんだろうなって気になった」
「びっくりしたけど、嬉しかったよ」
 素直に答えると彼はそう、とだけ言う。その声はびっくりするほど静かで、少なくともこんなことに巻き込んで助けて貰った相手に、怒ってくれて嬉しかったというのは浮かれていて適切ではなかったかもしれないと恥ずかしくなった。
「どうして私だったんだろう」
 疑問が口につく。例えば私が偶然通りかかったからだとか、誰でも良かったというなら私だった理由なんてなかったんだなって思える。でもあの男の人は私を選んで行動に及んだ。それが私には理解できない。不思議だった。
「僕にはわかるよ」
 こんなどこにでもいるような女なのに? そんな風に浮かんだけど聞けなかった。私は目の前のこの人がなぜ私を選んだのか、私を好きだと言うのか、今でも不思議だ。
 憂太くんから、『私』を狙ったものだったのか聞いていたのだろう。どこで見つけられちゃったのかな、と彼はそう言って私に手を伸ばすと、頬に触れた。指の甲でそっと撫でてくれる。愛しいと思ってくれているのがそれだけで伝わってくる仕草だった。
「君のことが好きでどうしようもなくなる気持ちなら僕も理解できる」
 だから許すかは別だけどねと彼は囁く。耳元でそうやって囁かれると夢を見ている心地になる。抜けていく力に縋りつくために私は彼の背中に手をまわした。
「名前はおかしい男ばっかりを惹きつけるね」
 僕もそうだけど、その可哀そうな男だろ。それに、と言いかけて、彼は言葉を切り、私にキスをした。だから彼のくちから、彼の言うそのおかしい男が誰を差すのか終ぞ聞くことは出来なかった。
 触っても嫌じゃない?と聞かれたので頷く。手をかけられたことも聞いたのか首に触れられる。憂太くんが治してくれたからもう痛みもなかった。
 あの時と同じように彼に首を絞められたら、私はどう思うのだろうという疑問が、ぼんやりと頭の中に浮かぶ。
 私はそれを突き放せなくて、受け入れてあげたいと思ってしまうかもしれないと思った。
 そんな想像をよそに、彼の手は私の首を絞めたりはしなかった。首から私のからだにまわった手のひらがきつく抱きしめてくれる。私のからだに欠けや傷がないことを確かめるように大きな手のひらが何度も何度も撫でた。あたたかい手だ。
 私が怖かったように彼も怖かったのかもしれないとその時になって気づいた。だから、私もさっき彼がしてくれたみたいに安心させるために抱きしめ返す。
 もし彼が言うように彼があの男性と同じ"おかしい"人なのだったとしても、それを受け入れてあげたいと思う以上、彼は私にとって特別にほかならなかった。

 あの日のお礼の代わりの憂太くんのお願いとは私の作った料理を食べたいということだった。彼があまりに真剣な顔で言うので私の料理なんて全然お礼にならないと思うんだけどなと言ってしまったが、憂太くんはそんなことないですと真剣な顔で首を横に振った。
「五条先生から聞いたときにいいなあって思ったんです」
 そんなのでいいならと快諾した。お弁当とかの方がいいのかなあと思ったけど、悟さんに伺うとそれなら僕も同席するから部屋に招いてもいいというので三人で食べることになった。先生と一緒だと気が抜けないかなと少し心配になったけど憂太くんはそれで構わないということだった。
 その日に悟さんに仕事が入ったのは予定の日当日の朝だった。約束は午後だったから終わり次第向かうとも言ってくれた。でも間に合わないかもしれないと眉を下げるので、無理をしなくて大丈夫だと伝えた。本位じゃないのも残念に思っているのもちゃんと伝わっている。
 約束の午後ちょうどに、憂太くんが部屋に訪れた。憂太くんがこの部屋に来るのは、初めて会った時以来だ。
 部屋にいるのが私だけでも憂太くんは顔色を変えなかった。悟さんがいないことは来る前に本人から連絡がついていたらしい。
 約束の前からそわそわしてしまって数日前から料理を練習したりした。そのことを伝えると憂太くんは目を丸くした。その顔を見ながら悟さんに初めて食べてもらったときもあんなふうに練習したことを思い出した。
 ダイニングテーブルで向き合いながら一緒に食事をした。美味しいですとすべてに対して憂太くんが言うので私はそれがお世辞でも嬉しいなあと思った。憂太くんはあんまり料理をしないらしい。今度一緒にしようかというと嬉しそうにしていたので私も人に教えるのに問題ないくらいにもっと練習をしておこうと決意した。
 憂太くんに手土産にケーキをもってきてもらったので食事を終えたあとに一緒に食べることにした。買ってきてもらったケーキのうちから憂太くんに選んでもらい、悟さんが好きなやつを残したのちに私も選ぶ。
 お茶を出して二人でケーキを食べながらいつものように話をした。流れる時間がひどくゆっくりに感じるくらいに、平和なひと時だった。悟さんは間に合わなくて残念だけど、これはこれで楽しかったなと思う。
 何気ない会話の途中で太陽を雲が遮って影が落ちるように沈黙が落ちた。憂太くんが窓の向こうを見る。
「天気、良いですね」
「そうだねえ」
 せっかくの約束だったから晴れてよかった。窓の向こうを見る憂太くんの、見た人間にどこか影があるという印象を与えるその横顔を見ていると、ふと思いつく。
「ベランダに出てみる?」
「良いんですか?」
「うん」
 一緒に使った食器を片付けたあと(といってもまとめるだけだ)その交わした言葉通り、一緒にベランダに出た。私が悟さんのサンダルを履くといつも転びかけるので憂太くんには玄関から自分の靴だけ持ってきてもらったけど、その靴のサイズを見たとき、憂太くんは同じように履いても転ばないのかもなあと思った。
 二人で並んで外を見る。着ていたワンピースの薄い裾が生暖かな温度を孕んだ風によって翻り、足に絡んでくすぐったい。
 憂太くんは高いところが平気らしいと聞いていたので勧めてみたけど、私の好きな景色を見せられてよかったなと思った。そう言ってみると憂太くんが私の方を振り返った。
「名前さんと一緒に過ごす時間が好きです」
「私も」
「ほんとですか?」
「もちろん」
 憂太くんは困ったような寂しいような顔をした。初めて見る表情だった。
「あの男のことは許せないけど名前さんのことが好きでどうしようもなくなる気持ちなら僕も理解できます」
 君のことが好きでどうしようもなくなる気持ちなら僕も理解できる。そう言った悟さんのセリフが頭の中で鮮烈に頭の中で反芻された。
その好きという言葉がどういう意味なのか、顔を見ればわかってしまった。憂太くんが一歩、私に距離を詰める。彼は私の頬に手を伸ばした。憂太くんが治してくれたから、その頬に傷はもうない。
「僕のこと怖いですか?」
「怖くないよ」
「僕もあの男と一緒なのに?」
 憂太くんの目が揺らぐのを私は見ていた。憂太くんは頬へ伸ばした手で私の左手首をとって、指輪の嵌まった指に視線をやった。そしてそのまま腕を引かれて、私は彼の胸の中に納まる。
 手首を握られただけで、そうやって引き寄せられただけで、憂太くんの"力"が私のからだを簡単にどうにでもできるものなのだと思い知らされてぞくっとした。
 憂太くんは私のことをどうしようもない強さで抱きしめる。どれくらいそうしていただろう、憂太くんは腕を緩めたと思うと私のことを簡単に抱き上げた。
 からだの不安定さに思わず彼の首に縋る。憂太くんは私を抱き上げたまま手すりに飛び乗った。髪も体も風に直接的になぞられて、そうされているだけで悲鳴を上げそうになる。抱かれている私ですらふらふらしているのに、立っている憂太くんに揺らぐ様子がないのが不思議だった。
 手すりには立てるような厚みはない。私には自分自身が手すりに立つ想像すら恐ろしくてできなかった。どうやって立っているのかもわからないし、そもそも下を見るのすら恐ろしくて、縋っていた手に力をこめる。
 私の命は文字通り彼の腕の中にあった。彼が私をほうりだせば私のからだは文字通りばらばらになって地面に墜落するだろう。
「名前さんは命を脅かされるような酷い方法でも本当に嫌だったら抵抗したって言ってましたよね」
 憂太くんは私の顔を見る。私は憂太くんが何を言いたいのかがわかって愕然とした。
「特別と思っている相手だったから拒絶しようとは思えなかったのなら、僕のことはどうですか?」
 ―――それを受け入れてあげたいと思う以上、彼は私にとって特別にほかならないと私は悟さんに思った。それなら憂太くんを、私は。
「僕は名前さんと一緒ならここから落ちてもいいんです」
「……憂太くん」
「名前さんのことだけを落とすなんて僕は冗談でも言えませんでした」
 まともに答えられない私を前にして、言葉を告げるだけでも満足したのか憂太くんは嫌な顔をしなかった。
 ガチャンと音がする。玄関の開いた音だ。私たちは同時に家の中に視線をやった。ただいま、と聞き慣れた、愛しく思う声がする。この場所に帰ってくる人間なんて一人しかいない。
 私たちは目を合わせた。その次の瞬間に、憂太くんは私に顔を寄せる。柔らかで、でも渇いた感触がくちのうえに重なった。
「名前さんのびっくりした顔、いつも可愛いなと思って見てました。……ううん、名前さんはどんな顔も可愛いです」
 顔を近づけたまま、憂太くんが真剣な声で言う。私は憂太くんの驚く顔があどけなくて可愛いから好きだったけどそんな言葉が私のくちから出ることはなかった。憂太くんが私を強く抱きしめなおしたからだ。
 私のからだが、傾く。憂太くんのからだごとだ。その意味を認識した瞬間に血の気が引いた。憂太くんは私を抱えたまま、手すりを蹴って空へ飛んだ。
 反射的に目を閉じる寸前に、憂太くんがほほ笑んでいるのが視界に入って、私はその笑みに、悟さんが選択を私に迫ったときに笑っていたことを思い出していた。彼が悟さんと同じ"おかしい"側の人間なのだと理解すると同時に、悟さんがあの時言いかけた"おかしい男"というのが誰を指していたのかを、そこでようやく思い当たったのだった。

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