昔は空を飛べたらいいなとよく思っていたと何気なく返した私に彼はふむと考えこむようなしぐさを見せる。そのしぐさもそこそこに彼は私の手を取ると、その言葉通りに私を連れて空を飛んで見せた。目を白黒させながら魔法使いだったの?と間の抜けた言葉を発した私に(空を飛べるという人種がそれしか思いつかなかったのと、衝撃体験で頭がぐるぐるしていた)彼は笑い、「いいね、魔法使い。夢がある」と、言ったのを覚えている。
その日、彼のくちから初めて彼自身の持つ力についていくらかの、それこそいつもの冗談の延長のような説明をしてもらった。話は恐ろしく現実味がなかったが先ほどの空を飛ぶ体験がそれをまぎれもない真実であることを裏付けていた。
説明の途中でついに理解の限界を迎えてうーんとうなりだした私の頭を彼はなでる。どうして急に打ち明けようと思ってくれたのか、私も魔法使いになったほうがいいとかそういうことだろうかと聞くと、なれるかどうかはほとんど生まれつき決まっているんだと言われてしまいちょっとだけ残念な気持ちになってしまった。
「言いたくなったからかな」
自分でも不思議だと言いたげな声音だった。私はそっかとだけ返事をした。打ち明けてくれたことが嬉しいなと思ったし、そういう気持ちになってくれたのも嬉しかった。だから、それだけでいいんじゃないかと思った。
自らの恋人が魔法使いのような力を使えると知ってから(彼は魔法使いという単語を気に入ったのか私の前でそう自称するようになったが正確には呪術師というらしい)時々、その力が用いられるらしい彼の仕事のことを考えてみるようになった。ほんとうは魔法使いというような明るい世界ではなく、大変そうだということは詳しく説明をしてもらわなくても彼の話ぶりからなんとなく分かっていて、例えば連絡のとれないようなときだとか、彼が家を大きな日数をあけるときに、私はそのことを思い出す。
「何見てたの?」
後ろから声をかけられて、私は肩を震わせた。カウチソファーに体を投げ出し、横たわるだらしない恰好のまま、仰ぐようにして彼の顔を見た。こちらを見下ろす彼と目があい安堵のようなため息を小さくはいて、流していた映画を停止させるためにリモコンに手を伸ばす。
「見るのやめるの? えっちなやつ?」
「もう画面からして見るからにえっちじゃないよ」
「だって僕が来たとたんに見るのやめたでしょ」
テレビの大きな液晶に映し出されていた映像はブルネットの髪色をした女性が戸棚の奥の隠し扉を見つけ、座り込んでいる不穏な印象のシーンだ。彼女の親友が自らに齎された惨たらしい過去を乗り越えるために復讐を果たす。しかしそれでも救われないことを悟って二階から飛び降りたあと、黄金色に輝く穂のなかをふたりで駆け回っていた幼少期の回想を経て、シークバーはなかばを示していた。
端によって彼のための場所をあける。私一人横になっても余るどころか、二人が座っても充分に余裕があるソファーのうえで彼はいつもくっついてくる。彼がくっつかないときは私がくっついてしまうのでこのその広さは私と彼が二人きりのときにはあまり活用されていない。でもきっとそれこそが贅沢といわれるものなのだとなんとく思っている。
隣に腰を下ろした彼の体に私は当然のようによりかかった。彼の体に顔をうずめるようにする。お風呂からあがったばかりで彼の体はあたたかくボディソープの匂いがした。私と同じ匂いだ。
「これあれでしょ」
さきほどえっちなやつだと言った口で彼は簡単にタイトルを看破してみせた。目を丸くしたが、彼は映画に対して意外なぐらいに積極的なところがあるのでこの映画も見たことがあるのかもしれない。そう問うと彼はあっさりとうなづいた。
よく見てるんだねと言ったことがある。ほとんどは学生時代に見たそうだった。最近は映画館で見ることはだいぶ減ったらしい。私も映画を見るのは好きなので、二人でいるときにも見ることがあった。
「気が重くてちょっとずつしか進んでないんだよね」
「じゃあ一緒に見ようか」
「いいの?」
一人で見ているとまだまだ時間がかかりそうだったので助かる。ふたりでならきっとこの映画は今日のうちに結末を迎えることができるだろう。
けれど、一度見ているのだから彼も知っているだろうが、どう考えても疲れているときに見る映画じゃない。恋人同士で見る映画でもない気がしたけど、たぶんそれはお互いにあんまり気にしてなかった。
じっと彼の顔を見る。つい昨日まで海外に仕事で飛んでいたと聞いていた。二人で見たら怖さも薄れてくれるかもしれないという気持ちはあった。でももともとこれは一人でみるつもりでいたからもっと楽しいような違う映画を見てもいいし、もうこのまま一緒に寝てもいいよと言う私の頭を何も言わずに彼は撫で、リモコンの再生ボタンを押した。
一緒に映画を見るなら飲むものでも用意しようか、何かを飲むかと聞いた私に彼は表情を変えずにテレビの液晶と私の顔を視線で往復して口にする。
「飲む余裕はないと思うよ」
彼の言葉の通りだった。
見ているだけで痛みを覚えるシーンが前半以上に訪れるたびにつないだ手に力がこもるのがわかった。佳境にさしかかり作中において最も惨いシーンが来たとき、ついに私は耐え切れずに目をそらしてしまった。そらした視線の先で、光沢を帯びたソファーの生地が視界いっぱいに広がる。テレビから響く、演技にはけして思えないような、施された痛みによる絶叫はやむことがない。ただの悲鳴ではなく、低い、うなるような声であるということが痛みの生々しさに拍車をかけていた。映画を見るときにいつもそうしていたように電気を消さなくてよかったと強く思った。そうしていたらきっと、もっと恐ろしく感じたことだろう。
そっと顔をあげ、横を見る。途中で目をそらした私とは違い、彼はそのシーンを直視していた。自らの顎に手をかけるようにするそのしぐさは整った顔立ちと相まってそれこそ映画のワンシーンのようだ。浮かべる表情のないまま、目をそらしたくなるようなシーンを彼は見つめている。
私はその顔に思わず見入ってしまった。どうしてなのかはわからない。
視線に気づいた彼が映画ではなく私の方を向く。そのときになってようやく、自らがつないだ手に力を籠めすぎていることに気づいた。ぎちぎちと音が鳴りそうなくらいだった。
「もうやめる?」
だいぶ迷って、それでも小さく首を横に振った。すると握りしめていた指を優しく外され、代わりに腕を伸ばされる。体をひきよせられて、彼の体に後ろから抱きかかえられるようにされた。しっかりとホールドするようにおなかのあたりで彼の手が組みなおされる。
自らのてのひらを彼の手の上へ重ねる。さきほどまでずいぶんな力で握っていたからかてのひらをひらくと指先がかすかにしびれていた。
おなかに回された腕や後ろから伝わってくる体温で血の気とともにさがっていた熱が戻ってくるような気がする。私は体の力を抜き、彼によりかかるようにした。
幼いころのふたりが回転遊具に横たわり寄り添って青空を見上げた思い出が流れ、そのときと同じようにふたりが横に並び死を迎える、ある意味で美しいともいえるだろうラストシーンを見終えると私は完全にぐったりとしてしまい、彼の腕のなかからすらぐにゃぐにゃとおちかけていきそうになった。彼は苦笑して私の体を腕で引き留め、抱きかかえながらソファーへと横たわらせると、立ち上がってキッチンの方へと向かった。
水がつがれたグラスを手にして帰ってきた彼は私へとそのグラスを渡す。
「飲めそう?」
「……飲む」
起き上がり、グラスを受け取る。くちをつけ、のどを潤す冷たい水の温度にようやく生きた心地がした。
「何年かぶりに見たかな」
「映画館で見たの?」
「……上映してた頃は忙しくて映画館まで足を運ぶことがあまりなかったんだよね」
「オリジナルもリメイクも見たことある?」
「どっちもあるよ。リメイクの方はオリジナルのほうよりずいぶん見やすいかな」
その言葉で絶対にオリジナルを見ないことを心に決めた。もともと彼の言うように描写が軽くなったという言葉を聞いてこのリメイクの方の映画を見始めたのだ。リメイクですら目を背けた私とは違い、おそらくどちらも見届けたのであろう彼がそう言うのならきっとその通りなのだろう。
彼はオリジナルの映画もああやって目をそらさずに見ていたのだろうか。ふつうだったら逃げてしまいたくなるようなああいうシーンを、臆することもなくさりとて楽しそうでもなく、表情すらなく、まっすぐに。
ふっと皮膚にメスをいれられてしまうシーンを思いだして、肌がざわざわした。背もたれによりかかって、隣に座りなおした彼を見上げる。リモコンを手に持った彼は、ホラー映画ではなく違うジャンルの画面へと移動させる。
「今度は明るいのでも見る?」
答えないまま、彼の身に着けている上の衣服をめくりあげておなかをだした。私が何年頑張ってもそうはならないようなお腹が光の下にさらされる。突如とした私の行動に彼はびっくりしているようだったがされるがままだ。
綺麗に割れているお腹に体が資本だからという彼の言葉を思い出した。ふつうの人に使えないような力を持っていて、それをつかう仕事、らしいのに最終的にはやっぱり体力が必要になってくると思うと無常な感じがする。
むきだしにされたおなかにさわってみる。力を抜いているのかどこかやわらかさがある。私の手が冷たいからか、余計に熱を感じた。私と変わらないふつうの人間の肌だ。
「どうしたの」
「うん」
指で脇腹の辺りを映画でそうされていたように、なぞってみる。ただしなぞるのは傷をつけるためのメスではなく私の指だ。あたたかな彼の肌は心地よくて傷をつけて痛みを与えたいなどとは私にはどうやったって思えそうになかった。
筋肉の隆起が肌に陰影をおとしている。くすぐったいのか、力がこもるのが皮膚越しにわかった。
「痛そうだった」
もちろん映画であることや演技であることもわかっているけど、痛みによってあげられていた声はいまだ耳に残っている。とても忘れられそうにない。
なにも考えないまま、感触を確かめるように指を動かしていく。下へと滑っていき、下腹部のあたりにとどいたところで、手首をつかまれた。顔をあげる。目が合う前にキスされた。
「触り方がやらしいね」
耳打ちされる。そのまま首元に唇がふれた。おかえしとばかりに彼が耳の裏に、首元に、鎖骨のあたりにキスをおとしていく。くすぐったい。
「そうかなあ」
「無意識にこんな触り方してるのはもっと困るな。僕以外にしないでね」
しているはずがない。こんなふうに触れ合うのは彼とだけだ。
どちらかといえば私が押し倒す側のようだった体勢を反対にされて、体がソファーに沈む。肌と服の隙間に滑り込む彼の大きな手の感触に思わず体がはねた。でも私は、そのてのひらが私を傷つけることはないと体で知っている。
「怖いこと忘れるくらいしようか」
彼がそんなことを耳にささやく。その声がこれ以上ないようにやさしい声だったから、私はなんだか泣きたくなる。自らの瞳が潤むのを感じながらキスしたいというと今度は唇にちゃんとキスをしてくれた。私の体にかさなる彼の体の重さに、幸福を感じる。目をつむったまま、彼の吐息に荒さが混じるのを触れ合った部分から感じるのが好きだ。
彼はほとんどゆっくりとした行為の進め方をする。大事にされているという気持ちになると同時に羞恥に似たはがゆさを感じる。彼の態度の根底には余裕があることがわかるからだろうか。
つながってからも馴染ませるように体をくっつけあって抱き合いながら、彼はそっと耳にささやいた。
「ねえ、ああいう映画よく見るの?」
「……あんまり、見ないよ。あれが初めてだった。……もう見たくないかも」
愉しそう? おかしそう? いや微笑ましそうというべきかもしれない。そういう意味の笑みが混じった吐息が肌に触れて、震える。嫌そうだったもんねえとどこかのんびりした口調で彼が言う。独り言のような響きだった。
「ああいう映画をもしまた見るときは今度も一緒に見ようね。泣いちゃわないように」
にじんでいた私の涙をその指でぬぐいながら、揶揄なのかやさしさなのか判断のつかない声で彼はそう言う。同時に動き出されて、言葉にならないままうん、うんとただうなづいたけど、もう一度そういうジャンルの映画を見たいと思うときは来ないような気がした。あの映画でもう十分だ。
テレビに映る映画に集中できないことを悟って、手元に置いてあったリモコンで再生を止める。時間を確認するともともと教えてもらっていた彼の帰宅の時刻をとっくの昔に迎えていた。
時間に間に合わなさそうだとその前に連絡は来ていた。今日の日付には間に合わなくても明日には帰れると言っていたので私が彼の部屋を出て自らの部屋に帰らなければいけなくなる前には会えるはずだ。
映していた映画はこのまえのものとは違い、なにも気負うことなく見ることができる海外のアクション映画だ。しばらく膝を抱えるようにしてぼんやりと停止画面を見ていたが、結局おとなしく電源を落とす。真っ暗になった液晶はさきほどまで上げていた大きな音など嘘だったように沈黙している。
音がしない一人きりのこの部屋はどこか寒々しい。私は早々に彼の寝室へと引っ込むことにした。ベッドにもぐりこんで冷えた足を抱えるように丸くなる。そうしながらさきほどまで流していた映画のシーンを思い出した。特別に与えられた主人公の力の責任について話すシーンだ。でももし私が特別な力を持つがゆえにみんなのために一人でも戦うことを選んでいるその人を愛していたらきっと悲しいだろうなと思った。たぶん映画のヒロインのように力強く送り出すことなどできない。一緒に逃げようよと言ってしまいそうだ。
『特別な力』で私は彼を思い出していた。目を閉じる。暗い部屋のなかで、私の意識は闇へととけていく。
ふっと目を覚ましたのは、かけられた重さでベッドが軋しむのと同時に人の気配を感じたからだ。暗闇のなかで、ふとんにもぐりこんできた人影が私を後ろから抱えるようにする。伸ばされる腕は冷えていた。
その腕の持ち主を確認するまでもなく、私は誰なのかわかっていた。小さくささやく。
「おかえりなさい」
「うん」
首に顔をうずめるようにされる。大きな犬がじゃれるみたいでかわいい。頬が緩むのがわかる。珍しく冷えている彼の腕をあたためるようにさする。
「……いつ帰ってきたの?」
「さっき。でも帰ってきて、シャワー浴びたのにまたすぐ呼ばれて、もう一回行ってきた」
「お疲れ様」
私は彼の方を向くように体勢を変え、大きなその体を抱きしめた。抱きしめているはずなのに体格差からまるですがるようになる。
そうしていると、彼は私にいくつかの質問をした。いつでも、それこそ休んだあとでも聞けるような質問だ。その質問に答えるべく私のとるにたらないような日常の話をすると(彼の質問はそういう、どこにでもある毎日についてのことだった)彼はひとつひとつに相槌をうつ。疲れているはずなのに、彼は眠るのではなく私の話を聞きたがる。仕事から帰ってくるとときどき、彼はこんなふうにすることがあった。
「眠くない?」
「ううん、それより君の話が聞きたい」
気になって聞くと、彼はいつもそう言う。だから私はできるだけ楽しいことを楽しく聞けるように、話をする。
私が今日は映画を見て待っていたという話の途中で彼がなんの映画かを聞くのでそのアクション映画の名前をあげた。この前のあの映画を思い出しては怖い映画はもういいやという気持ちになると言うと彼はちょっと笑った。それがうれしかった。
「嫌なのにあのシーン、目に焼き付いちゃった」
「あのシーン?」
「肌を裂くシーン。痛そうだったから」
ああ、と彼が吐息で返事をする。なにを思ったのか、彼はその手を私のパジャマのなかへと差し込んだ。
びっくりして体を縮こまらせる私にかまわず、彼は口を開く。
「裂けた皮膚の痛みはそこまでじゃないんだよ。それこそなにが起こったのかわからないくらいで、裂けた一瞬、ひどく熱く感じる」
冷たいてのひらが、私の皮膚の上をなぞる。眠っていたおかげであたたまっている私の体にその手は氷のように感じられた。一緒に映画を見た日に私がしたのと同じ動作だ。違うのは私がおなかをそうしたのに対して彼がしているのは背中であるということ。映画と同じ部位であることを思い出す。
どこかぼんやりした口調のまま、彼はつづける。
「その下に刃が通ったときに強く痛みを感じるんだ」
触れるのがてのひらから、指にかわる。あのシーンを模するように彼は指で私の背に四角を描いた。まさに目に焼き付いた光景を脳裏に思い出してしまい、肌がざわめく。思わず名前を呼ぶと、彼はあっさりと指を背中から離し、今度は私をきつく、抱きすくめた。
どうしてそんなこと知っているの。口をついて聞いてしまいそうになった。いや違う、私が本当に知りたいのは。
「そんなことをされたことがあるの?」
彼は私の顔を見た。だけど暗闇の中で表情はよく見て取れない。私の表情も同じように見て取れないはずなのに、なぜか見透かされているような気がした。きっと私は不安を顔に浮かべていることだろう。
本当は不安だ。彼がその力を使う世界で痛い思いとか怖い思いをしているんじゃないかとか、そういうことを考えると泣きそうになる。
聞いたら答えてくれるかもしれない。だけど言うのがいやなら言わなくたっていいって思うほうがずっと強かった。だってそういうことは話したから楽になるとは限らない
触れあっていた腕がぴくりと動いたのがわかった。そしてその手を伸ばして彼は私の頭を撫でてくれた。
「ないよ。僕の体に古い傷を見たことあった? きみがいちばん僕の体のことを知ってるくせに」
見えないはずなのに、彼の目に薄い水の膜で煌めいたような気がした。本当に一瞬のことだったし彼の声はいつも同じしっかりとしたものへ変わっていたのでそうであってほしいという私の気持ちが見せたものかもしれなかった。
それから話題はあっさりと私に移って、体の怪我の話になった。私は大きな怪我自体をしたことはなかったがよく転ぶ子供だったので残念なことに彼とは違い、足にケガのあとがいくつか残っている。年月を経てよく見ないとわからない傷になってくれたものの、うっすらとしたその傷はこの先もずっと残り続けるだろう。
大昔に男の子に突き飛ばされて転んでケガをしたことがある、痛かったのを覚えているというと、彼は面白くなさそうに僕だって傷をつけたこともないのにと言う。名前も覚えていない男の子に、しかも傷にやきもちを焼く彼がおかしかった。でも私も彼と同じ立場だったら同じように感じたかもしれない。でもやっぱり彼に癒えない傷は残ってほしくはないと思う。
さすがに大人になってからは転ぶことも少なくなったけど、どうしてあんなによく転んだんだろう。そんなことを思ってから彼の幼少期を想像してみる。少なくとも私のように転んでばかりではないだろうけど、どんな子供なのかあんまり想像がつかなかった。でも今ですらこの顔立ちなので小学生のころなんてきっと抱きしめたいくらいかわいかったことだろう。
とりとめもないことを話しているうちに沈黙がふたりの間におちた。もう眠ってしまったのかなと私が思いだしたところで彼がなにを思ったのか、急に首筋のところに歯をたてる。といっても甘噛みのようなものだったけど、前触れもない痛みの衝撃に思わず悲鳴をあげかけた。
「きみが感じていい痛みなんてこれだけだよ」
無茶なことを言うと思う。だけどその子供みたいなところを含めて、愛しい。彼の言葉が途切れ、今度こそ本当に眠りについたのを感じとって、私は上体を起こし、手を伸ばした。彼の髪をそっと撫で、かきわける。さらさらとした軽い感触がてのひらにあたるのが気持ちいい。
目が暗闇に慣れたのか、彼の眠りについた顔がライトがなくてもみてとれた。その寝顔はやっぱりどこか疲れているようにも見える。胸のいちばんやわらかなところがぎゅうと、痛いような苦しいような思いにかられて、頬をそっと指でなぞった。
「お疲れ様」
額にそっと唇をおとし、彼の腕のなかへと戻る。今日、最初に眠りについたときよりもよほど大きい安寧を感じながら私も目をつむった。重なり合ったからだはあたたかい。彼の冷えていた腕はすっかり私の体温で温かくなっている。
そうして得た満たされた眠りから、私は目を覚ます。夢見心地のままふとんから手を出そうとして触れた空気の冷たさに思わずすぐに手をひっこめた。
「さむい」
呻きながら失った体温を得るようにくっついている彼にすりよる。
ふとんの外の冷たさに震撼してしまったが部屋をあたためるためには暖房をつけるしかなく、暖房をつけるためにはこのあたたかなふとんから出なければいけない。抱き合っていることで十分あたたかいせいもあり、暖房をつけずにもうずっとこうしていたいという甘い誘惑が心にじわじわとわいてくる。
視線を窓の方にやる。すでに夜は明けているのかカーテン越しに差す日光で電気がついていなくても、部屋のなかは明るくなっていた。
「……暖房」
もぞもぞ動いているとくすぐったかったのか、大きな手がおさえるように私の頭に触れる。乱れた髪を梳くようにして、彼が髪をなでる。されるがままになりながら彼の方をうかがった。
「特別な力で暖房をこう、ダメ?」
「さすがに僕も暖房をつける魔法は持ってないなあ」
それはそうだ、私の無茶ぶりに穏やかに返す彼に当然のような気持ちにもなる。リモコンを近くにおいた記憶がなく、そもそも昨日はいじった記憶自体がない。どこにあるんだろう。近くにあるといいなと思いつつ、置いた場所を聞こうとした私をよそに彼が布団から手を出し、空にかかげたのが気配でわかった。少しして、空調の稼働する音が聞こえた。
びっくりして思わず声をあげる。
「いまどうやったの?」
「暖房を直接つけることはできないんだけどこれはできるんだよね」
これ、と手にしていたリモコンを振った彼はベッドの近くへとそれを置きなおした。
少なくともさっき手の届く範囲を見たときにはなかったはずだ。どういう原理なのか、遠くにあったはずのリモコンを手元へと動かしたらしい。でも空を飛べるくらいだから、これができるのも不思議というわけではないのだろうか。彼以外にそんな知り合いはいないので実際のところどうなのかはわからなかったけど。
自分で暖房をつけてほしいとお願いしたものの、そんなことまでできるとは思わず感嘆のため息がもれた。
「いいなあ。便利だねえ」
心の底からそう思っているようなしみじみとした声を出したのがおかしかったのか、彼は声をあげて笑った。そうしてぽんぽんとなだめるように背中をさすられた。
彼のつかう特別な、それこそ魔法みたいなその力の話もあまり自分から聞いたことはなかった。間近で味わうことになったその現象にいだいてしまった興奮をおさえつつ、できるだけ聞いても大丈夫そうなことを質問してみた。空を飛んだときはさきほどまで自らが浮かんでいたという人生で初めての体験で終わったあともいっぱいいっぱいだったため質問どころではなかったのだった。
どんなことができるのかとか、そういう質問に彼はひとつずつちゃんと答えてくれた。彼の答えのなかには難しいようなものもあり、完全に理解したとは言えなかったけどそれがふつうの人と違う、すごいことであることは伝わってくる。
いちいちすごいねえと驚く私だったけど、口にしている彼の声はどこまでもフラットだったので当人にとってそれは使えることが当たり前なのかもしれなかった。たぶん、それが当たり前の彼にとって稚拙といってもいいような感想を口にする私に嫌な顔をするでもなく、なぜか楽しそうだ。
「いっぱい聞いて満足した?」
「すごいことがよくわかった」
「もっと褒めてもいいよ」
彼の頭に手を伸ばしてそっと撫でてやった。満足はできましたかと今度は私がわざとかしこまって問いかけると答えの代わりに抱き寄せられる。
「もうちょっとこうしていようね」
私は彼の腕のなかに身を預けることで無言でその言葉に恭順をしてみせた。そうすると自然と瞼が重くなる。彼の胸のあたりに額を押し付けるようにしながら目を閉じた。
すぐにうとうとし始めた私とは違い、彼の手のひらは意志をしっかりともって私の髪や背をなでる。そうしてさすられていると余計に意識がとけそうになった。大事に大事になでられてどうしてだか切ないような、苦しいような気持ちになる。
「……ずっと、こうしていたい」
耳打ちするようにそうくちにすると、大きな手は私の頬に触れた。私の言葉をなぐさめるように額に口づけられるのがわかる。頬にのばされた指の先から、彼も同じ思いであることがわかる。彼のことが好きだからわかる。
頬に伸ばされていた手を取って指を絡めて握りしめると、その手の甲にキスをした。わかっているというのが伝わるように、愛しさを込めて。
彼がふっと笑った。
「僕にとっては君のほうがよっぽど魔法使いみたいだよ」
私は魔法が使えない
×