NOVEL | ナノ

 髪についています、と彼が手を伸ばしてくれて私はその挙動に思わず緊張をしてしまうがそれを出さないようにそれを受け入れる。だけど思わず肩がすくんでしまった。私が呼吸をひそめているのを知らないだろう彼の指が髪に触れる感触に、とってもらっているだけだというのに肌がざわめいた。
 動いてしまえばぶつかるぐらいに近づくと彼の匂いがかすかに香って、いい匂いだと思うと同時に、胸の奥で懐かしさが膨れ上がった。
 おかしくなりそうな郷愁とやさしいその指の感触に大人しく我慢しているととれました、と彼が指にある桜の花びらをわざわざ見せて払ってくれた。
「日に当たると余計に綺麗ですね」
 彼の言葉に私は目を丸くした。自分の頭を指して「天使の輪って言うんでしたっけ」と彼はつづける、だけど私は彼がくちにした言葉にただ立ちつくしてしまう。
「名前さん」
 私がなにも言わないことに彼は困ったように私の名を呼んだ。そして、それからかすかにくちもとを緩めた。彼が自分のくちにした言葉に照れているのだということが分かって、私はほほ笑む。いつかの言葉と同じ言葉に、泣きそうになりながら笑う。

 生まれたときから禪院の家のなかでは浮いた髪色や顔立ちをしていたので、色素の薄い自らの髪や似ても似つかぬ自分の顔を鏡で見るたびに憂鬱になった。周りに容姿が優れたものが多いなかで自分だけ特に美しくもなかったので余計だ。
 術式や呪力が優れていれば違っただろうけど、私にはどこにでもあるような能力しかなくて、その上女だったからもうどうにもならなかった。
「みっともな」
 だから直哉さんにそう言われて髪を引っ張られたとき、ああそうか、私の髪は本当にみっともないんだなと思った。さすがに面と向かってそんな風に言われたのは初めてで、そんな風に言われるくらい醜いんだなと思うとそこにそうして平気な顔でいること自体が恥ずかしく思えた。今すぐに逃げてしまいたいと思った。
 でも直哉さんは私の醜い髪を自らの手に握りしめていて、その力はとても強かった。突き飛ばすことなどできるはずもないし、そうされ続けていることしかできなかった。
「なんも言わへんの?」
 私の顔を覗き込んだ直哉さんは、凍り付き、唖のように黙り込んだ私にその手を離した。私はただ恥じ入るばかりで、顔を下に向けていた。そうしてずっと畳の目を見ている私に、彼はそのうちに興味を失い、言葉を吐き捨て行ってしまった。
 その日からずっと下を向いて歩くようになった。顔を合わせて再び誰かに醜さを指摘されることが怖かったから。

 甚爾さんは禪院家の血をより濃く継いだ顔立ちをしていたのに誰より異質な気配を纏っていた。呪力を持たない甚爾さんに対して酷い態度をとる人はよくいたけど、たぶんそれは甚爾さんが怖かったんじゃないかと思う。そういう態度をとれる気持ちは分からないけど、異質でよく分からないものに対して恐れを抱く気持ちは私にも分かった。
 だから、ちょうど縁側の近く、部屋の出入り口の脇で、速足で彼の前を通り過ぎようとしていたのを急に呼び止められてしまったとき、私は怖かった。直哉さんにされたことを思い出されて、思わず私はからだを凍り付かせた。
 彼は私に話を聞いた。たぶん誰でもいい話だったと思う。そこに私がいたから捕まえて話を聞いたんだろう。そして彼のその鋭い目が、私の顔にまっすぐに視線を向けたとき、たまらなくなって、いつものように下を向いた。要領を得ずにでも、それまでは返事はしていた子供が急に黙り込んだからか、彼は膝をついて私の顔をのぞき込むようにした。泣いていると思ったのかもしれない。
 至近距離で彼と目が合って、からだがもっと固まる。じっと見つめられると、頭がおかしくなりそうだと思った。彼は顔を手で隠すようにした私に、どうしてそんなふうにしているのかを聞いた。隠すこともできず、術式にでもかけられたように、私は素直に答えていた。醜いから、と。
 不思議そうな顔をした彼は私の髪に手を伸ばす。引っ張られた瞬間の痛みを思い出して、余計にからだをこわばらせていた私の髪の一房を、彼は大きなその手で掬い取った。弱くはない力だったけど痛くはなかった。触れられていることになぜか安心感があった。
「綺麗だろ」
 心臓がバクバクと大きな音をたてていた。生まれて初めて自らを『綺麗だ』と言われたことに血が顔に集まって、熱がこもる。
 甚爾さんは指で梳くようにして、私の髪を日の下に晒して見せてくれた。
「日に透けるともっと綺麗だな」
 言葉も出ずに、顔を赤くして口をかたく結んだ私に彼は笑った。彼が口元を緩めてほほ笑むと強い視線のために鋭い印象を与える整った顔がやわらかな印象になる。視線が怖いから、とかそういうことじゃなくて、彼の視線に晒されていることに恐ろしいような心地になった。同時に私はなぜか興奮を覚えていた。もっと見ていてほしい気持ちになったし、今すぐに許してほしい気持ちになる。
 最後に彼は私の頭を手で撫でてくれた。その手は大きくて力強かったけど乱暴ではなかった。彼の太い指が私の髪を撫でさするたびに、感じたことのない心地よさが走った。それ以上されたら変になってしまうと思った。
 撫で終えられ、なごりおしさを感じる私をよそに、彼は立ち上がった。立ち上がると、彼の大きなからだに日がさえぎられて、陰ができる。その大きなからだや異質な気配に恐れていた気持ちは私のなかから掻き消えていた。私は彼のことをとても好きになっていた。
 私はその日から甚爾さんの顔を見つけるたびに一緒にいるようになった。そばに行っては撫でられるのを乞う私に、甚爾さんは最初、一緒にいるといろいろ言われるぞと笑ったけど、そんなことどうでもよかったし、一緒にいなくたって言われるから同じだった。懐いていることを悪し様に揶揄をされることは甚爾さんと一緒にいられることに比べたらどうだって良いことだった。
「お前が一緒におってええ人ちゃうってわからへんの? 自分が特別やとでも思てる?」
 髪を引っ張られたあの一件からなぜか私の顔を見るたびに話しかける直哉さんは特にそう言って嗤った。直哉さんは甚爾さんを慕っていたから、私が甚爾さんのそばにいたいと思うことが気にくわないようだった。
 私がそばにいたいだけで、甚爾さんはそれを許してくれているだけで、甚爾さんは私が懐いているのも子供の気まぐれとしか思っていないだろう。私が一方的に慕っているだけの関係だった。だからもし、本当にそうだったらどれだけいいだろうと思った。
 言えなかったけど醜いと思うならどうして放っておいてくれないんだろうと思った。揉めたくなくて直哉さんを避けているのに、直哉さんは自分から私に会いに来る。それが不思議だった。見つけては嫌そうな顔をするのに、どうしてそんな嫌な顔を見に来るんだろう。
 甚爾さんがここを出ると言ったのは、そんなふうに過ごすようになり、私が大人になりかけたころだった。
 こつんこつんと、硬質な音の響きに私は目を覚ました。その音の正体が彼であることを私は知っている。部屋の窓が叩かれるその音に、私は目をこすりながら音の聞こえる方に向かい鍵をあける。最初はそうして訪れられることにびっくりしたものの、すでに慣れたものだった。前に、それなら鍵をずっと開けていようか、いつでも来られるようにと言うと危機感のないガキだなあと笑われた。笑った顔を見るたびに好きだなあと思った。
 いつものように顔を出した私に、彼もいつものようになんてことない話をして、そして何気なく、今からここを出ると言った。青天の霹靂のように突然の話だったが、それでもやっぱりなと思った。いつかはこうなる気がしていた。
 それ以上に彼が、最後にこうして顔を見せにきてくれたことが私にとっては驚きだった。彼がいなくなるときはなにも言わずにいってしまうだろうと思っていたから。
「お前も来る?」
 その質問に、私は今すぐにすべて捨ててしまいたいと思った。この家も名字もなにもかも、捨ててもいい。私、甚爾さんのそばにいられればきっと幸せだ。
 でも私は首を横に振った。そうして聞いてくれたこと、私は本当に嬉しかった。今死んだってよかった。それでも私はここにいることを選ぶことにした。
「そう言うと思った」
 甚爾さんはあっけんからんとして言う。いつも通りのその表情に私は寂しくなって彼の首筋に縋りついた。突然の抱擁だったが彼はとくにふらつくこともなく簡単に抱きしめてくれる。
「もっと強くぎゅっとして」
 たぶん甚爾さんにとっては本気でもなんでもない力具合で、それでも私が満足を覚えるような力強さで、彼は私を抱きしめる。私は縋るように彼の背中に手をまわした。顔をうずめると彼の匂いがする。彼の匂いだ。好きだなあと思った。一緒に過ごしてくれたすべての思い出が私の頭のなかをよぎっていった。きっと二度と会えないだろうということが分かっていた。だって甚爾さんはもう二度とこの家には帰ってこない。
 私は自分でさよならを選んだのにたまらなくなった。考える前に彼の顔に自分の顔をよせ、傷の残るその口元へと自分のくちを重ねた。怒られるかなと思って怖かったけどそうせずにはいられなかった。
 私は甚爾さんが他者と一線を常に引いていることを知っていた。それを侵して彼に拒絶されることが怖かったから、懐いていると揶揄されるなかで、私は甚爾さんと距離を詰めることに慎重だった。私はいつも許されるぎりぎりを探っていた。好きな人に嫌われることがなによりも怖かった。
 彼は私からからだを離さなかった。拒絶をされないことに安堵していると甚爾さんの手が私の後頭部にまわる。あっ、と思ったときには舌が入ってきた。そもそもキスが初めてだったから、そんなふうに舌を絡めるキスももちろん初めてだった。どうすればいいか分からないうちに、なにもかもわからなくなって腰が砕けてしまう。それでも甚爾さんは許してくれなかった。ぐずぐずに崩れながら、キスをした。もうこれ以上のキスをほかの誰かとなんてできないと思った。
 顔を離すと、肩で息をしながらぐったりしている私と違って甚爾さんは平気な顔をしていた。彼のくちびるが唾液で濡れて光っているのを見て恥ずかしくなって思わず手でそれをぬぐう。そんな私の顔を、甚爾さんはじっと見ていた。
「抱いてやろうか」
 甚爾さんが私の髪を撫でる。子供にするように撫でる指先に肌がざわざわする。それだけで私は感じていた。たぶん私はあのときも、甚爾さんに初めて頭を撫でてもらったときもそうだった。
 腰にまわっている甚爾さんの太い腕の感触だけで、気持ちいい。私は目を細めながら、その感触に酔う。その問いの答えも最初から決まっていた。
「抱いたら甚爾さんは私を忘れちゃうでしょう。だから抱かれたくない。抱かなかった私のこと、ずっと覚えていて」
 たぶん彼は抱いてほしいと言われると思っていたのだろう、目を丸くした。
「お前、すごいな」
「なにが?」
「抱くなって言われたら抱きたくなってきた」
 なにがすごいのかには答えず彼はそう言うと、私を抱きかかえ部屋のなかに入ってきた。私が先ほどまで休んでいたふとんにからだを横にされ、そのうえにのしかかられる。首筋に顔をうずめられると彼の髪が肌に触れてくすぐったい。大きくてごつごつしていて、触れられると幸せな気持ちになれる手が私のからだの輪郭をなぞる。でも彼は抱きたくなってきた、とくちにしたのに、私の着物の下にはけして手をいれなかった。
 脇の下から胸の脇へ、胸の脇から腰にかけて、彼の手が確認するように撫でていく。からだに震えが走る。抑えきれない喜びが震えとなって頭からつま先にまで流れていく。私は私のからだに顔をうずめる彼の頭を抱きしめた。そうすると私よりずっと年上の男の人なのに、子供にそうしてあげているみたいな気持ちになった。彼の髪を、今度は私が、初めて、撫でてあげる。
「お前は綺麗だよ」
 だから俺がいなくなっても大丈夫。彼はそう言った。お前は俺と違うから、いざとなればほかの男にもこうやって可愛くて縋って、利用してやれとか、そういうことも彼は言った。私に縋られてもどこかに行ってしまうであろう彼が言うのは可笑しかった。それでも、繰り返しささやかれると本当に大丈夫だと、そう思える気がした。
 いつしか彼は私を自分の胸に引き戻した。抱きしめられながら、彼のそのかたい胸にこうしてもらえることの幸福に耽った。
「お前には直哉もいるしな」
 なぜ直哉さんの名前を出されるか分からずに目を開け、どうして? と甚爾さんの顔を見た私に、彼は私が自らを醜いと言った瞬間のように、あっけにとられた顔をする。それから表情を崩して、なんでだと思う? と笑いながら問い、私にもう一度くちびるをかさねあわせた。私は彼としたキスも、この夜も一生忘れられないだろうなと思った。私と甚爾さんはそれきり、もう二度と会うことはなかった。
 甚爾さんに相伝の術式を引いた子供がいて、こちらに引き取られる前にかすめ取られたという話題が禪院の家を響き渡ったのはその夜から遠く離れて、あの日からもう数えきれない夜を過ごしてしまってからのことだ。かすめ取ったその本人に甚爾さんは殺されたらしい。どういう取引があり、そうなっているのかは明かされていないが、甚爾さんがこの世にもういないという事実にばかり心が惹かれ、私はどんな状態なのかよく分かっていないし、そもそも知らされてもいない。
 甚爾さんに子供がいたことも亡くなったことも寝耳に水だった。子供かあと想像したがうまくいかなかった。でも私は甚爾さんと寝なくてよかった、あの夜の私は間違えなかったのだと思った。寝ておけばよかったかなと思うことはあの日以来に考えたこともあったが、甚爾さんと寝ることで、甚爾さんが通り過ぎたたくさんの女の人の一人になるのは、どうしたって寂しいような気がした。
 甚爾さんが亡くなったことが公になった日の夜に直哉さんが訪ねてきた。直哉さんは甚爾さんがいなくなった日の朝にも私の顔を見にやってきた。私の反応が見たいらしかった。いなくなったあの日は、後を追って死んだかと思って見に来たと言っていて、すでに私が知って落ち着き払っていることに面白くなさそうにしていた。でも、きっと私が泣いていてもつまらなそうにするのだろう。直哉さんは私が甚爾さんを気にかけていることがそもそも気に入っていないのだ。
「名前ちゃんが相手だったらそうはなってへんかったんちゃうかな」
 ぼうっとしながら部屋の真ん中に座り込んだままの私は、入ってくるなりそう言った直哉さんの顔を見上げた。
 そうかもしれない。優れていない私では甚爾さんの子供をそんな風に生んではあげられなかっただろう。特にくちにすべき言葉も見つからずにかすかに首を傾げた私に直哉さんは後ろ手に障子をしめる。そして私の前に膝をつき、私の顔を覗き込んだ。
「少しは反応したらどうなんや」
 直哉さんはその綺麗な顔をいかにも不快だという感情でゆがめていた。幼げといってもいい彼の顔は私に向けられるときはいつだってそうなので、私はいつしかそれに慣れてしまった。もう怖いと思うことはない。だって私には甚爾さんの言葉があるから。だから、もう、彼の前で逃げたくはならない。
 それでも何も言わない私に、直哉さんは焦れたように舌打ちをした。甚爾さんとは種類の違う整った顔立ちは一見していると似ていないようだけど、不快そうな表情だけは同じだ。
 不機嫌に曲がったうすいくちびるを見ていると、なぜかキスをしてみたくなった。キス自体をしたいというよりキスをしたあとの直哉さんの反応が見てみたかった。
 私は手を畳につくと、彼に顔を近づける。彼のからだが急に私に距離を詰められたことで、かすかにこわばるのが感じ取れた。そしてその私の行動が、彼にとって予想もしていないことであったことも、分かる。
 私の機嫌を損ねさせるためだけに投げかけられる言葉をつむぐくちびるに自らのくちびるをやさしく触れさせる。かすめるような接触に顔を離すと、からだと同様にこわばった顔をした彼の顔が視界に入った。
「……甚爾くんがあかんなら次は俺か。舐められたもんやな」
 ひく、と彼のくちの端が蠢く。私はそれを冷静に見ていた。
 彼の言葉が余裕や嫌悪から出たものでないことは見て取れた。その皮肉も、今までの態度を無理に保とうとしているようにしか私には思えなかった。
 彼の瞳を見つめる。直哉さんは甚爾さんと同じ色の眼をしている。私のどこにでもある平凡な色をしたからだにはない綺麗な色だ。でも同じでなくてよかったと今なら思う。違うから私はその色がより愛しく思える。
 直哉さんの手に私の手を重ねる。振り払われるかもしれないと思ったが、直哉さんはされるがままだった。
 その手は甚爾さんより細く、綺麗だった。男の人の手を握るのは私の人生のなかでこれで二度目だった。私は甚爾さんしか知らないので、ほかの男の人と比べ直哉さんの手がどうなのかは分からない。でも私より大きかった。白い手だ。
 直哉さん、と私が声にして呼ぶ前に、彼の手が私の顎に伸びてきて、乱暴に口づけられる。一度、そっと合わせてから、舌をすり合わせあううちに、彼は私の肩をつかんで畳に押し倒した。甚爾さんより細いはずの指が肩に食い込むようで痛かった。でもされるがままでいた。
 抵抗もせずに簡単に押し倒された私に直哉さんは怒っているような、傷ついたような顔をする。は、とこぼれた彼の声は渇いていた。
 あとはもう雪崩れ込むままだった。抱き合いながら私が初めてであることに直哉さんは驚きを見せた。
「甚爾くんに手ぇ出してもらわへんかったのか」
 そっちの方がよかったかと聞くと、彼は私に痛みを与える目的を持って私の肌を噛んだ。痛い、と高い声をあげた私に直哉さんはようやく笑った。子供みたいに笑うんだなと思った。初めてまともに正面から見た気がした。
 一度繋がってからは直哉さんの私に触れるしぐさは明確にゆっくりに、優しいものになった。そこには慈しみさえある。初めて直哉さんにこんなふうに触れられたと思った。
 私はふと思ったことをくちにする。
「直哉さん、私のこと嫌い?」
「ああ、嫌いや。死んでくれ、思てるよ」
 死んでほしいって思うひとのことをこんなふうに痛いくらいに抱きしめたりするのか。男の人って不思議だな。その瞬間に、「いざとなればほかの男にもこうやって縋ってやれ」そう言った甚爾さんの言葉が頭の中に浮かぶ。何度も何度も頭のなかでよみがえらせた言葉を、私はもはや、声から忘れてしまいそうになっていて、それが悲しい。私は蘇るその言葉通りに直哉さんの背に縋った。私の甘えるようなしぐさに彼はどこか喜びさえ感じている様子を見せた。
 すべてが終わったあと、直哉さんは醜いと引っ張ったはずの私の髪を愛し気にずっと撫でていた。甘えるように小さく引っ張られるそのしぐさのどこにも、醜さを感じている様子はない。身をよじり、髪を梳く手から逃れようとするのを彼は許さなかった。
 甚爾さんが綺麗だと言ってくれたあの時から、ずっと髪を伸ばしていた。彼はきっと最後には綺麗だと言ってくれたことなど忘れてしまったと思う。それでも、彼があの時あんなふうに言ってくれたから、この世界に一人でも私の髪を綺麗だと感じてくれる男の人がいることに救われたから、だから私もこの髪を愛しいと思うことができた。
 私が醜いと感じるきっかけになったこの人が私の髪にこうして触れているのは、こうして抱き合うことより不思議な気がする。彼が私の伸びた髪をいじっているのをぼうっとしながら見ていると、咎められたと思ったのか、彼は私の視線から逃れるように、私のからだを自分の腕のなかに閉じ込めてしまった。閉じ込めてなお、彼は私の髪を梳いて、触れて、愛でている。
「……ずっとこないしたかった」
 小さな声は残念ながら私には届かなかった。届かないまま、彼の腕のなかで私はその体温に浸っていた。他人の、甚爾さんとは違う男の体温は意外なほど心地よかった。
 まどろみながら、甚爾さんの子供は似ているのだろうかとか詮無いことを考えてみる。会うことはないだろうと思っていたその子供に、伏黒恵くんに出会うのは、彼を愛してしまうのは、それから数年後の話だ。

春殺し

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -