NOVEL | ナノ

 私が直哉くんと初めて出会ったのは物心つく頃だ。空気のように扱われ、私が一人で暇を持て余しているところに彼はやってきて、今日からお前は自分のものになるのだと私の手を握った。
 その日まで直接話をしたことはなかったが、余りの私でも直哉くんのことは知っていた。時期が来れば次の『主』になると多くの大人が噂していたからだ。直哉くんは私より年上で才能があって周りから期待をされている男の人で、つまり出来損ないの私とは正反対の『ひと』だった。そういうひとにはひと以下の私が逆らうことは許されないのだと常々教えられていたので、私はよくわからないまま、だけどちゃんと頷いた。直哉くんは私がそんなふうに受け入れると満足そうな顔をしたことだけ覚えている。
 直哉くんは自分を『直哉くん』と呼ぶように言った。年上の男の人をそんなふうに呼ぶのは初めてで変な感じだったし偉い直哉くんをそう呼ぶ人はほかにいなかったけど、ちゃんと素直に従った。私は彼の前でいつも『いい子』だった。
 代わりに直哉くんは私の名前を呼び捨てにした。直哉くんがそう言う風に呼ぶのは私だけだった。私が直哉くんのものだから、直哉くんがそんな風に呼ぶのは当たり前のことなのだそうだ。ものに敬称はつけない。
 直哉くんは私に術師にはならず自分に常に侍るように命じた。直哉くんは私が『いい子』にしてれば優しかったから、術師になるよりはきっとずっと楽だった。痛いことも苦しいことも怖かったから、私はそれにも従った。
「可哀そうやなあ」
 直哉くんは常々私にそう言った。才能がなくて、女に生まれて、可愛くなくて、可哀そう。そんな可哀そうな私でも直哉くんに選んでもらえたから幸せだとくちにすると直哉くんはにこにこ笑ってよく理解しているということを褒めてくれた。
 なにも持っていない、女として可愛いわけではない私でも、そうやって素直にいい子にしていれば自分はずっと可愛がってやると直哉くんは言う。そんなふうに扱ってやるのは自分だけで、こうして選ばれたことは幸せなことだと直哉くんは繰り返し私に告げた。
 直哉くんに従うことになにかを感じたことはない。良いとも悪いとも嬉しいとも嫌だとも思わなかったし、幸せとも不幸とも感じなかった。命じられたからそうしているだけで、それ以下でもそれ以上でもなかった。でも直哉くんが自分に仕えることは、私の人生においてこれ以上ない幸福なことだと言うので、そう言うと機嫌がよくなるので、私もそうくちにするようにしている。
 直哉くんは人形にそうするように気まぐれで私を膝に置いたり、髪を撫でさすったりした。幼いころは特にそうだったが私に初経が訪れ、私の体つきが女になると、変わった。直哉くんはそんなふうにしてくれなくなった。それは少し寂しかった。
 素直な気持ちをそのまま告げると直哉くんは嫌な顔をすることが多かったから私は学習してもうそんなふうにくちにすることはなかったけど、ある日何気なく寂しいのかと聞かれ、頷くと直哉くんはなぜか機嫌がよくなった。私の寂しさが直哉くんの何に関係するのか分からなくて不思議だと思った。その日から、直哉くんは再び私を抱きしめてくれるようになった。
「名前ちゃんはええ子やな」
 時折ささやかれる、吐息の混じったその声に感じる熱にぞっとした。動物にそうするように、間抜けで可哀そうなところが可愛いとはよく言われることはあったが、それとは違う意味合いに感じた。いつもの直哉くんと違うと思った。触れられるところから感じる直哉くんの体温や着物越しに触れ合う感触に生々しいものを感じて怖かった。
 直哉くんのまわりの人間は、なにも持たない私が直哉くんの傍にいることに良い顔をしなかった。直哉くんとそうして一緒にいるうちに、私はもうなにも知らない子供ではなくなっていたので、それの意味を知るくらいには、大人になってしまった。
 みんなは直哉くんと私の間に間違いが起こることを恐れているらしかった。直哉くんは私との関係を誰かに指示されることを目に見えて嫌っていたから、すでに表だってやめさせようとする人間はいなくなっていた。直哉くんに言えなければどうなるかと言うと、もっと立場が弱くて、言うことを聞かせられる私にその言葉がまわってくることになった。
 そうして私は、直哉くんに内密に結婚をすることが決まった。私が結婚をすることにより距離を遠ざければ、直哉くんの呆れた行動も(明確に直哉くん本人へくちにされることはなかったが、直哉くんが私のような人間へ執心していることは直哉くんがいないところで悪し様に言われていた)少しは熱も醒めるだろうということだった。もちろん相手は直哉くんではない。直哉くんは直哉くんでいつかしかるべき相手を迎えることになるのだろう。
 なにも知らない直哉くんに変わらず従いながらこれももう少しのことなのかと思うといくらかの寂しさを感じたが、同時に安堵も覚えた。直哉くんのあの妙な熱のこもった言葉や言動は少しずつ頻度を増していっていたからだ。私が女になってしまったように、私の頬をこうしてなぞる直哉くんの手はいつの間にかごつごつとしてかくばった男の人のものになってしまった。あの時手を取ってくれた直哉くんの手が変わってしまったから、私は嫌だったのだろうか。時々意味もなく考える。
 私の結婚相手は術式を引いていない、術師とは違う職業についている男の人だった。禪院といっても分家筋の、ほとんど一般人と言えるだろう。一度だけ顔を合わせて話をした。黒髪の、穏やかに話をする男の人で直哉くんよりも年上に見えた。私は怖そうな人でなくてよかったなとほっとした。
 ふたりきりで話をするなかでずっと禪院という家のなかで、直哉くんのそばにずっといたから、だから、外に出たときにおかしいことをおかしいと感じずにしてしまうかもしれない。それが怖いと告げると、彼は少しずつ常識をすり合わせていけばいい、不安に思うことはないと言ってくれた。このようなかたちだが一緒に幸せになりたいと思っているという言葉に、そう言ってもらえることでやむを得ない結婚ではあったが、今まで手にすることができないものを得られるかもしれないと思った。幸せになれるのかもと思った。
 だから、―――だから、こんなことになるとは少しも思っていなかったのだ。
 畳の上にまき散らされた濃厚な血の匂いが鼻につく。直哉くんのそばで、術師にもならず、甘やかされ、危ないものとはかけ離されて生きてきたから、私はそんな大量の血を見ることなど終ぞ今までなかった。心臓がこれ以上ないほどに早鐘を打っている。
 静まり返った部屋のなか、その人は、直哉くんは背を向けて立っていた。その姿は血にまみれている。畳の上にはくだけた人間の男が転がっていた。私と結婚をする予定だった男性だ。すでにこと切れているのが近づかなくてもわかる。禪院に生まれたくせに悍ましい死から引きはがされ、死体をまともに見たことがない私にだって人は頭とくびが泣き別れになったら生きていけないと理解できた。
 背中からでも直哉くんの機嫌が悪いことは分かった。直哉くんは怒っている。
 どうしてここにいるのかとかどうしてこんなことをとか、そういう疑問はあったが直哉くんが怒っているという事実以上に優先されるものはなかった。それは私が直哉くんのそばで生きていくなかで刷り込まれていた絶対的なものだった。ほかの男の人のものになろうとしても、それが私のからだから消えることはない。
 静かな声で名前を呼ばれて、私は犬のようにそばに寄った。直哉くんがこちらを向く。振り上げられた手に私も殺されるのかと身構える。そんな立ち尽くした私のからだを直哉くんは伸ばした腕でかき抱き、自分の胸のなかにおさめてしまった。これ以上ないと思っていたのに、心臓がもっともっとドキドキと音をたてる。緊張で嫌な痛みを発していた。
 私がこうすることを考えたのかと聞かれたので首を横に振った。結婚するように命じられたことを告げるが、それ以上どう言えばいいか、直哉くんがなにに怒っているのか分からず、いつもの「直哉くんに伝えずに、黙っていてごめんなさい」という言葉をくちにする。呼吸をするたびに直哉くんのからだに付着した血の匂いが肺を満たした。くらくらする。力が抜け、くずれおち、畳に膝をつきながら、私は直哉くんに縋った。一緒に幸せになってくれたかもしれない人を殺した直哉くんにこうべを垂れる。それしか知らないから。私に許されているのはそうすることだけだから。
「名前はほんまにあほやさかいなあ、俺以外に従うたらあかんって忘れとったんやな」
 直哉くんは私の頬に手を添え、うまく謝れた私を褒めるみたいにそっと撫でてくれた。頬をなぞる指が私のくちびるへと移動する。直哉くんの親指が私のくちを開かせた。
「今度はもうどこにも行けへんようにしいひんとな」
 そう囁いて、直哉くんは私のくちに自分のくちびると重ねた。舌が入ってくる。その言葉に込められていた熱は感じるたびにぞっとしたあの熱と同じだった。
 直哉くんのからだの重さを支えきれずに私は畳へ引き倒される。のしかかられながら、これが膝に頭を乗せられたりだとかの今までの戯れではないことに気が付いたがどうすればよいかわからなかった。私は直哉くんに抵抗する方法なんて生まれてこの方何一つ知らない。
 直哉くんの傍を離れ、初めて日常的に着るようになった洋服を脱がされる。もうきっとこうして腕を通すことはないだろうと思う。
「俺が名前を離すはずあらへんやろ」
 直哉くんは激情に満ちた声であんな術式もないような男に、とか、ずっとこうしていなくなるつもりだったのか、とかそういうことを言う。でも直哉くんは私に答えなど求めていないからそれは質問ではない。それがわかるから私は彼に口づけられるとき以外はずっと、ただ口を引き絞って人形のようにされるがままでいた。
 直哉くんは私があの男の人と一線を越えていないかをいちばんに心配しているようだった。聞かれたままに、その事実はないことを告げるが、直哉くんは構わずに私が初めてであることを確認した。
 触れ合っている直哉くんの肌は熱く、そんなはずがないのにやけどをしてしまいそうだと思った。直哉くんの重いからだは手と同様に男の人のもので、私は私なんかがそれを見てしまったことに罪悪感を覚える。思わず目を背けると咎められたので、恥ずかしいと伝えると直哉くんは照れてるのかと私に言う。照れとは程遠い感情に思えたが、直哉くんが照れといったらそういうことになるのだ。
「名前はええ子やさかい、俺のそばにいいひんとあかん」
 怒りに満ちた口調がどこか甘えた口調へと変わる。拗ねるような声にからだはより深くつなげられ、私は高い声を思わずあげた。それに、直哉くんは満足そうな顔をする。
 私の上で息を荒らげる直哉くんは、今まで私が見てきた直哉くんとは別人のように見える。直哉くんは私に滅茶苦茶なことばかりする。でも痛いことをしたりはしなかった。『いい子』でいれば優しく撫でてくれたこともある。いつもの彼に戻ってほしい。でももう無理なんだろうなともなんとなく思った。あの直哉くんにはきっと戻ってくれない。
 初めて見るその姿に私はなぜか直哉くんを可哀そうだと思ってしまった。あんなにも価値がないと断じたはずの私みたいな女に、直哉くんはこんなにも感情をあらわにしている。
 直哉くんが私に何度も言い聞かせた、私の幸せは自分のそばにしかないという言葉が今更私の頭のなかによみがえる。慣れ親しんだその声にあの言葉はこういう意味だったのだと今更実感する。もし幸せになってもそれを彼は必ずこうして壊しにくるのだろう。幸せになれるのかもなんて、私の錯覚だった。私なんかにあんなふうに優しく声をかけてくれたひとが私なんかのせいで巻き込まれて殺されてしまって悪いことをした。それがいちばん辛いように思えた。
 ようやく胸を撫でた痛みや恐ろしさに私は自分の顔が泣き出すためにゆがんだのがわかった。それを見て取った直哉くんが、少し考えたようにしてからあやすように私の頬を撫でる。大丈夫だと安心させるように囁く直哉くんとまるで恋人のように指を絡め、こすれた畳が自らの肌を削る痛みを感じながら私は祈った。血にまみれ、夫となるはずだったひとの死体の脇で抱かれながら、私は、もうこれ以上怖いことなど起きないように早くすべてに終わりが来るように、祈った。

かわいそうの証明

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