NOVEL | ナノ

 嵐山准という人間を知ったとき思ったのは現実にこんな人間がいるんだなということだった。近づいてから二番目に知ったのは遠目から見ていたときには気づかなかった人間らしさだったけど、その人間らしさすら彼の魅力たらしめていた。太陽みたいだった。近づきすぎると眩しすぎて死んじゃいそうだと熱に浮かされるように思ったことを覚えている。たぶん、そう思ったときにはもう彼のことが好きだった。
 だから彼と付き合うことになったときに私の胸中を満たしたのは歓びというより不安だったし緊張感だった。現実かどうかを疑う私に笑ってくれる嵐山さんのことすら夢かもしれないと思った。もし今夢が覚めたら、寂しくてきっとむなしくもなるだろうけれどやっぱりなあと思うに違いなかったから。
 名前で呼んでほしいといわれたときも飛び上がりそうになった。
「駄目か?」
 嵐山さんに、好きな人に、そんな風に眉を下げて乞われていやだと思うわけがない。むずがゆくなるような気持ちになりながら准さんと呼んだ私の手を引いて彼はキスしてくれた。きっと私の一生のうちで最も幸福な瞬間だと思った。死んじゃいそうだった。いっそその瞬間に死ねたらよかったのかもしれない。
 彼と触れ合うことも、愛されることも身に余るような幸福だった。だから、幸せすぎたから、こんなことになったのだろうか。現実逃避のように彼の存在を考えてしまったのは、幸福な記憶を思い出してしまったのは、一瞬のことだった。だというのにその間にすら目の前の男は私の服の隙間に手を入れようとおぞましく手を動かしている。
 帰り道に警戒区域に入り込んでいたらしいその男に建物のなかに引きずり込まれ、押し込められたのは一瞬のことだった。トリオン体になってしまえば体格差も腕力も関係ないと起動としようと、とりだしかけたトリガーはもみあっているうちに地面におちて、手の届かない場所へと転がってしまった。
 床に引き倒され、服の下に入ってくる手のひらの生暖かさにめまいがするような強い拒絶感を覚える。トリガーへと伸ばした私の手のひらに代わりに触れた瓦礫の破片を男の頭に振り落としたのと、引きずり込まれたあの扉が大きな音を立てたのはほとんど同時だった。
 扉が開く。暗闇のなか、月の光が差し込む。眩しさに目を眇める。動かなくなった男のせいで、私は重しを乗せられたように動けないまま、その扉を開けた誰かの顔を見た。
 月の光によって彼の顔が照らされ、暗闇のなかでも彼の表情はよく見て取れた。そうして光とともに現れた彼はまるで神様のようにすら思えた。同様に、私の今の姿も彼の目の前にさらされていた。彼は一瞬のうちに事態を把握したのか、その顔をゆがめてから私に駆け寄る。彼によって私のうえの男が力づくで引きはがされる。あれほど抵抗しても離れてはくれなかったのにその動作はあんまりにもあっさりとしたものだった。
 転がる男を尻目に乱暴に抱き寄せられた。私の服は滅茶苦茶だったし埃や土にまみれて汚れていたけど、そんなこと彼は意識もしてないようだった。私を抱きしめる彼は震えていて、温かかった。その震える腕の中にいると私に起こったことのすべての実感がようやく湧いてきてこわばっていたものが緩み、涙がこぼれる。
 すがるように彼の背中に手を伸ばし、彼の名を呼ぶ。そうすると彼は腕に込める力をますます強めた。その腕の力が痛いくらいだったけど、あの男に与えられた痛みとは違った。もっとそうしてほしいと思った。
 どれだけそうしていただろう。私たちは二人でずっと抱き合っていた。彼の腕の中でようやく危機が去ったのだという実感に泣くうちに、次に私に訪れたのはこれからどうすればいいかという選択だった。その選択は私の体温を下がらせ、抱きしめてくれていた彼の胸から体を離させる。
「殺しちゃった」
 転がる男の死体を横目に私はそうつぶやいた。手のひらにはいまだ瓦礫を振り下ろした瞬間のあの頭がひしゃげる感覚が鮮明に残っていた。トリガーを使った戦いとは違う生々しい感触に震える指先をごまかすように強く握る。
 人を殺した『これから』を想像すると、先ほどの襲われた瞬間とは違う意味で背筋が冷えた。比喩ではなく目の前が真っ暗になるような絶望感と焦燥に今度は私の体の至るところが震えだす。
 こんなことになるくらいなら我慢すればよかったのかもしれない。嵐が過ぎ去るのを待つように、私に訪れた不幸を受け入れればこうはならなかっただろうか。
 頭のなかをかけめぐるあらゆる感情に呆然とどうしようとつぶやく。そんなことを言われても彼も困るだろうと思って、言いつくろうとしても言葉もなにも出ない。そんな私を彼はもう一度その胸に抱き寄せ、殺されるのが私でなくてよかったとそう言った。
「片付けよう」
 主語のない彼のその言葉がさしているものがあの男であると気づいたのは一拍遅れてのことだった。あ、と言葉にはならない単語が口からこぼれて私は思わず後ずさりそうになる。それを彼の腕が許さない。
「おまえはなにもしなくていいから」
 その言葉が冗談でもなんでもないことは分かっていた。彼は一人でなんとかしてしまうと知っていた。
 息を深く吸って目をつむり、いろいろなことを考えてから、私も一緒にするとそう口にした。
 彼の瞳が探るように私の目をのぞき込む。その瞳に私はもうあとには引けなくなることを理解した。すべての躊躇いや不安を振り切るように私は彼の手を握る。彼の表情が苦しみをおぼえるようにゆがんだ。本当に一瞬のことで、すぐにいつもの浮かべている表情となにも変わらない顔に戻ってしまったから、勘違いのことだったかもしれない。私には彼が今、なにを考えているのかはわからない。
 それでも彼は驚くほど冷静のように思えた。一緒に行うと告げたはずの私を置いて彼はほとんど一人であの男の処理をした。手伝おうとする私をちょうど自らがトリオン体だということを理由でなにもさせることなく一人で運び出し、一人で消えてしまったのだった。
 落ち着かずあの男に襲われた警戒区域の端で一人で立ち尽くして待っていた私の前に彼がもう一度姿をあらわしたときには、抱えていたはずのあの男の姿はもうなかった。あの男をどうしたのと聞いた私に、彼は言葉を濁しなにも明かさないままに私の頭をなでる。
「もう大丈夫」
 その言葉を聞いて感じたのは安心ではなく不安だった。いざというときに彼がすべてを抱え込んでしまうような気がしたのだ。同時に、今ここにいる彼がどこかに行ってしまいそうだとも思った。彼が、どこかに消えていなくなってしまいそうで怖かった。
 不安げに彼の服を引いた私をなだめるようにもう一度手のひらが私に触れようとして、ためらうようにその手が離れていく。私はそれに耐えがたさを感じて自ら彼の胸にしがみついた。自分でも言葉にできないような感情だった。
 言葉もなく見つめあって、お互いにそうなることは決まっていたようにキスをした。一度そうすると、堰を切ったように止まらなかった。抱いた不安だとかそういう冷たくて重くて暗い感情すべてをかき消すように、何度も何度もキスをした。
 そうすることで余計に後戻りができなくなると知っていた。それでも止められなかった。
 逃避のように抱き合う間だけはなにも考えなくてよかったから、呼吸すら暇を惜しんで求めた。私が求めるように彼が求めてくれることにどこかで安堵した。
 もつれ込んだ私の部屋の中で熱も罪も分け合うようにしあいながら、頭の一部分だけは妙に冷静で変な気分だった。波が荒れ狂うように体も心も乱れているのに、そうしている自分たちを俯瞰してみている私がいて、冷静に見えたが彼だって平静じゃなかったことを、抱かれながら気づいた。そのことに、自らだけが不安ではなかったことに愛しさを感じた。
 まともな愛しさではないことを知っていた。それでも、抱いた感情を消すことはできなかった。絡めた指先や重なった肌のどちらのものともつかないにじむ汗に、愛しさと執着を感じた。
 抱き合ったあともそのままお互いにくっついていた。そうすることでだけ安心できた。彼はずっと飽きもせずに私の髪をなでていた。
「……髪、いじるのが好き?」
 どうでもいいような疑問に、彼は手を止める。そうされるのは心地よかったから、余計なことを言ってしまったと少し後悔してしまった。私がなにもいわなければもっとしていてくれたかもしれない。
 もうしないのと、遠回しにねだると彼はちょっとだけ笑って、もう一度なで始めた。優しい手つきだった。それこそ、准さんを連想させるような。
「嵐山のことを呼んでほしいって言われるかと思った」
 好きかどうかは答えず、彼は、迅さんは、そう言った。ちょうど考えていた彼の名前を出されて震えた私の肩の震えは触れ合ったところから伝わっただろうに迅さんはそのことに触れない。
「あの扉を開けて現れてくれたとき、神様みたいに思えたよ」
「神様だったらもっと早くこれたな」
 苦笑じみたように言うので、私は真正面から答える。まっとうな答えすら持っていないのに。
「迅さんでよかった」
「……」
「気を悪くしたらごめんね、どういえばいいかわからないけど、私は迅さんでよかったよ」
「うん」
「迅さんでよかったって言っておきながらこんなこと言うのはずるいってわかってる。でも、呼べない。呼べるはずないんだ。……准さんにはこんなこと、知られたくない」
 たとえそれが恋人であったのだとしても彼には知られたくない。私がしたことを知った准さんの顔を、私は見ることなんてできない。
 迅さんはなにも言わずに私の頬をなでて、もう一度、唇にキスしてくれた。舌を差し込まれるどろどろにとろけそうな口づけに含まれるのはけして良いものではない情と惰性だ。この睦みあったけして長くはない時間のなかでそうしていれば、少なくともそうしている間だけは、苦しさがまぎれることを私たちは学んでいた。現実逃避だということはお互いにわかっている。それでもそうせずにはいられなかった。
「間に合わなくてごめん」
 その言葉に首を傾げて間に合ってくれたよと応えると、彼はもう一度私の体を強く引き寄せた。
「こんなこと言うがズルいのは分かってるよ。でも今おれはおまえがこうやって腕の中にいるのがうれしいんだ。ずっと、好きだった」

 人を殺しても朝日は美しかった。
 そのあとも私たちは結局眠れないまま抱き合ってくっつきあっていた。体は疲れているのに眠気は来なくて、どちらからともなくこの場面には相応しくないような本当にどうでもいい世間話をお互いに話した。夜が明けて朝が訪れて、私の部屋の窓の向こうに朝日を一緒に見た。当然のことながらも朝日はなにも変わらなかった。変わったのは私で、それでもその変わった私にとって世界のすべてが劇的に変わるように感じるわけではないらしかった。
 そのころにようやく眠気が訪れ、小さくあくびをした私とは裏腹に、迅さんは体を起こして帰る準備をし始めた。分かってはいたが名残惜しさにも似たなにかを感じて、もう帰るのかと分かり切ったことを聞いてしまう私に迅さんが手を伸ばして、頭をなでる。
「なにも変わらないよ。大丈夫」
 私は言葉にならないまま、素直に頷いた。頷かなければ迅さんが困ることは知っていたからだ。そうして離れてしまえば彼の言う通り、いつも通りに戻ってしまうことは分かっていた。分かっていたから、私は。
「そんな顔で見られると期待したくなるよ」
 私は私のことなのに自分の感情すらわからない。抱く感情が保身なのか情なのかすらわからない私の肩をつかみ、迅さんは最後に私の唇へ触れるだけのキスをした。
 そうして朝日の中で彼の背中を見送って戻ってきたのは、まさしく彼の言う通りの日常だった。殺人事件が起きたとも行方不明になったともそういう事件が起きたという噂すら聞くこともなく、三門市は平和そのものだ。そんな中で私はボーダーを辞めることにした。戦いに関するようなことを目にするとあの夜の、瓦礫を振り下ろしたあの瞬間を思い出してしまうようになったからだ。
 私がボーダーを辞めることを一番に告げたのは嵐山さんだった。同時に、別れ話をした。
 あの夜を経て、私は嵐山さんと別れることを決めていた。嵐山さん、と、下の名前で呼ぶようになった名前を改めて戻した私に困った顔をした嵐山さんは、私の別れ話に驚いたようだった。ようやく名前を改めて呼び出した次に別れ話が来るとは誰だって思わないだろう。当たり前だ。私も、逆はあっても自分から嵐山さんへ別れ話をするとは思いもしなかった。
 衝動に突き動かされた要領を得ない私の別れ話を嵐山さんは一通り聞き終えてから、納得できないとあっさり切って捨てた。食い下がられるとはちっとも思っておらず目を丸くした私に、嵐山さんはそんなふうに納得できない別れ話をされても好きだから簡単にあきらめきれないとそう言って見せた。嵐山さんがそんなことを言うのだということに余計に驚いた私に彼は寂しそうな顔をした。私はそのときにようやく、自身が思っているよりずっと嵐山さんに求められていた事実を理解してしまった。
 彼が好きだ。その事実は今だってなんにも変わらない。そんなふうに愛されていたことも、惜しんでもらえたことも、正直に言えば嬉しかった。もはや私にはそんな権利はないのかもしれないとわかっていても、そう思う気持ちは止められなかった。
「俺が嫌になったのか?」
 そんなはずがない。私は力なく首を振った。振ってからここで嘘でもそうするべきだったことに気づいた。たとえそれが相手を傷つけるとわかっていても、私は嘘をつくべきだった。それなのにつけなかった。傷つけたくないと思うのはきっと私自身のエゴだった。私が首を振ると、嵐山さんはほっとしたような顔をした。彼の表情がほどけたのを見てそんな顔をさせたのが自分であることに、つらいような切ないような気持ちで胸が苦しくなった。
「そうじゃないなら俺は別れるつもりはないよ」 
 そういって私を抱き寄せてくれた彼の腕を、私は拒絶できなかった。彼の胸に抱かれたまま、私はその腕を突っぱねることもできずに凍り付いたようにされるがままだった。だけど嵐山さんが私を愛し気な瞳で見つめてくれるたびに罪悪感で、いたたまれなさで、消えてしまいたかった。
 抵抗も受け入れることもしない私に彼があの日以来のキスをしてくれる。触れ合ったところから感じる嵐山さんの体温に変わらない愛しさと、捨てきることもできない罪の意識で心と体が相反してぐちゃぐちゃになる。
 これ以上ないほど私の体をやさしく暴く嵐山さんが、名前で呼ぶことを私に乞う。どうしてもそれだけはできなくて、泣きながら首を横に振った。きっと私があの夜以前のように、好きだという純粋な気持ちだけで彼の名前を呼ぶ日はもう来ないのだろうと、ぼんやり思った。
 いっそ罰するように乱暴に奪ってほしかった。嵐山さんに罰を与えられたかった。私はどこまでもエゴだらけだった。
 月日を経るとあの夜は夢だったかのようにすら思えてくる。だけど変わらない日常のなかでそれでもあの夜に起こった爪痕は、私を取り巻くものに深く変化を与えつづける。
 ボーダーを辞めてからすぐに、迅さんが私の部屋に訪ねてきた。ボーダーを辞めたため、私にはもう迅さんとの接点はなくなっていたから久しぶりのことだった。私は迅さんにはボーダーを辞めることは告げなかったから人づてに知ったのだろう。
 部屋を訪れた迅さんは玄関で靴を脱ぐよりさきに切羽詰まったように私に問いただした。
「おれのせい?」
 私は違うよと笑って見せた。
 ボーダーを辞めたのは迅さんには関係する理由ではない。迅さんとあの夜にああならなくても、きっと私はそういう選択肢をとっていた。むしろ迅さんに助けてもらわなかったら私はここでこうしてはいなかっただろう。
 崩れ落ちるように玄関先に座り込んだ迅さんは顔を手で覆っていた。知ってすぐに飛んできてくれたらしかった。
「おれが、追い詰めたのかと思った」
 力が抜けたように言うので、私も迅さんの隣に座り込むようにしながらその背中をなでた。あんまり慌ててきてくれたらしいので、私がボーダーを辞める未来は見えなかったのだろうかと聞いてみるとじっとりとした目で見えなかったといわれる。見てないし知らされないしと面白くなさそうにいうのがなんだかおかしくてその肩にくっつくようにして私は頬を緩めた。
 そうしていながらお互いに無言のままだったけど、気まずくはなくて心地よかった。くっついたまま下にむけていた顔をあげると、じっと迅さんがこちらを見ていて、目が合った。
 その目にすいこまれるように顔が近づく。ああと思った瞬間には唇はあっという間にくっついてしまう。一度そうすると、あの夜に交わした感情が生々しくよみがえるのが分かる。胸がうずいて、泣きそうな気持ちになった。
 それでも、あの正気をなくした夜とは違い嵐山さんが別れ話をしてから時折見せるようになった切なそうな顔が頭をよぎった。私はいまだに嵐山さんとの関係をきちんとしきれていない。嵐山さんのことを好きなまま、また彼にすがろうとしている。反射的に逃げるように後ずさった私を逃がさないように、迅さんは額同士を重ね合わせるようにして、ささやいた。
「これこそ、おれのせいにしてよ」
 私はなにも答えないまま、目を閉じてその口づけを受け入れた。こういう未来は見えてたの、それでも来てくれたのと聞きたかったけど、そう問おうとするくちは彼によってふさがれてしまう。そのあとはすべてがなし崩しだった。

 夜に鳴り響いたチャイムに、私は迅さんが来たのかと思い玄関を開ける。そこに立っていたのはこんな時間だからだろうか、少しだけ居心地が悪そうな顔をした嵐山さんだった。いつも連絡なしに不定期に訪れる迅さんとは違い、嵐山さんはいつもきちんと連絡を入れて来てくれるのでこんなふうに訪れてくれるのは初めてのことだった。
 嵐山さんを部屋の中にあげ座ってもらってから、なにか飲み物でもと用意しようとした私の腕を彼がとって制する。いったいどうしたんですかと聞くと嵐山さんは、ただ会いたくなったからとどこか困ったように言った。
「用がないと来たらダメか?」
 びっくりしてそんなことはないですと慌てて否定するが嵐山さんは困った顔を崩さなかった。
 私の手に自らの手を重ねるとそのまま甘えるように肩にくっついてくるので、一瞬だけ体がはねた。体を重ねるようになっても、いまだこうして彼と触れ合うことに緊張感があった。私は彼にされることすべてに緊張するし、ドキドキする。彼を見つめているだけで心臓が痛くなって、苦しい。
 泊まっていきますかという私の質問に彼は顔を伏せたまま言葉少なに首肯した。そんな嵐山さんの頭におずおずと手を伸ばした。さらさらした髪が指先に触れる。すると私がそうなったように嵐山さんの体も少しだけ震えた。
 できるだけ優しくなでてあげる。疲れていてもけして彼は表に出さない。私が頼れるような彼女ではないというのもあるだろうけど、そもそも彼はあんまり他人にすがったりするような人ではなのだと、思う。
 この人が、こうして私に寄りかかっていることに、甘いうずきのようなものが胸をしびれさせて頭がぼーっとするような感覚を覚える。触れ合うたびに、泣いてしまいそうなくらい嵐山さんを好きだと実感した。好きすぎて苦しい、いっそ離れてしまいたいような気持ちになる。
「嵐山さん」
 愛おしさを込めて彼の名前を呼ぶ。呼ぶだけでこんなに満足したような気持ちになれる。だけどどうしても、こんなふうに彼と触れ合い、愛してもらえる立場を与えられているのは私には不相応な気がしていつもどこかいたたまれなかった。あの夜からは特にそうだ。
 目を伏せると、私の上に重なった彼の手のひらが目に入る。私より大きい手のひらは体温が少し低い。
 そうして見ているとさすがに気になったのか、嵐山さんは私に寄りかかったまま手が気になるのか?と冗談めかしたように口にした。
 慌てて、視線をそらすと彼は笑った。いつも見ないような笑い方だった。
「俺の手が好き?」
「……好きです」
「好きなのは手だけ?」
 私は首を横に振る。そんなはずがない。もうどうしようもないくらいに全部、愛しいと思う。私はためらいながらも全部が好きですよと告げた。声が微かに震えたことを彼が気づかれなければいいなと思った。こんなこといまさら私が言っていいわけもないのに、彼があんまりにも寂しそうに言うからそう言わずにはいられなかった。
 そう告げた瞬間、私の体は強く彼に抱きしめられていた。彼の肩のあたりに、額が押し付けられるような形になる。少し、苦しいくらいだった。
「俺も好きだよ」
 泣きそうな声に聞こえた。そんな声は聞いたことがなくて、私は彼の顔を見上げるが彼は泣いてなんていなかった。ただただこわばったような顔をしている。
 その顔に、一瞬息が止まるような気持ちになる。私の反応をどうとったのか、浮かべた表情を誤魔化すように嵐山さんは笑って、私にキスした。そのままベッドに連れていかれて押し倒すようにされる。
 思わず電気が、と懇願するも嵐山さんはうんというだけでいつものように消してはくれない。身に着けていた服がはぎとられていくなかで光の下にさらされされこわばる体をいつくしむように、体中に口づけられる。
 シーツをつかみそうになる手のひらをとられて、そのまま手にもキスされた。指先にもキスされる。
「縋るなら俺に縋って」
 体中に落とされる口づけと羞恥で力の抜けた体はぐったりしていた。それでもその言葉に忠実に従うため、私は腕を嵐山さんの背にまわす。すすんでいく愛撫にますます体の力は抜けていく。それでも嵐山さんに言われたことだから、嵐山さん自身にちゃんと縋った。
 施される愛撫に力が抜けていても体がつながる一瞬だけは緊張して、力がこもる。息を止めていた私をなだめるように、彼が頬をなでる。
 そうして抱きあう幸福に心も体もとろけそうになる私に現実を知らしめるように甲高い音が鳴った。テーブルに置かれた私の携帯だ。私はその相手を液晶にうつる名前を見なくてもわかる。この時間にこうしてかけてくるのはたった一人だから。
 その着信に体をすくませた私を、嵐山さんは困ったようにほほ笑んだ。私の名前をそっとささやいて、もう一度優しく私の頬をなでてくれる。
 だけど顔を離したときにはもう嵐山さんはもう笑っていなかった。彼はただ真顔のままで私を見おろしている。
「俺のことは好きだけど俺だけだと満足できないのか?」
 嵐山さんが何を差して言ったのか、私は一瞬で理解した。わきあがる恐怖でほとんど本能的に逃げ出しそうになる。それでも体はつながったままで、逃げられる余地などない。彼は私を逃がさないようにつなぎとめてから、後ろから私を抱こうとする。そうされても私の口から洩れるのは言い訳にもならない悲鳴とも嬌声ともつかない声ばかりだ。
「迅が好き?」
 耳もとでささやかれるその言葉はこわばっているようにも聞こえたし、笑っているようにも、泣きそうにも聞こえた。
「俺は別れないよ」
 無理やり後ろを向かされるようにキスされる。嵐山さんにそんなふうに乱暴に扱われるのは初めてだったが、体はただただよろこぶばかりだ。だって私は嵐山さんが好きだったから。大好きだから、どんなふうにされたってうれしいから。
 迅さんと一緒にいるときに得るのは紛れもない安らぎであり安寧だ。すでに秘密を共有しているからだろうか、私は迅さんには甘えられる。私の中身を見せられる。心にあいてしまった際限も埋めようもない大きな穴のような、あの夜の不安を分け合って埋められるたった一人の存在だ。健全なものではないかもしれないけど、私も迅さんに情があって、執着がある。きっと彼に手を放されたら私はどうしていいかわからなくなる。
 嵐山さんと一緒にいるときに得るのは不安であり緊張でありこれ以上ないほどの愛しさだった。愛しくて愛しくて、触れていると居ても立っても居られないような気持ちになる。つないだ手をいっそ放してほしくなる。
 私がうわごとのように繰り返す謝罪の言葉に、嵐山さんは同じだけ別れないと口にする。私はその言葉を聞くのがつらくて悲しくてうれしくて愛しい。そんなのはおかしいと思うのに、そう感じずにはいられない。きっともうなにもかもおかしくなってしまったのだ。
 いまだ鳴り響く着信音に私は逃げるように目をつむる。目をつむった私の目にうつるのは一筋の光もない暗闇だったが、少なくともこの現実よりはずっとまともに違いなかった。

終着の地獄をゆるさない

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