NOVEL | ナノ

 のどの渇きで目が覚めて一番に自分の上にある腕を静かに外した。からだの上にまわった彼の腕は腕だけなのに十分な重さを感じさせる。だけどいつの間にかその重さがないと寒々しさを感じるようになってしまった。
 できるだけ静かにからだを起こしたものの、彼が身じろぎをして目を眇めながらこちらを見上げる。
「……もう起きるの?」
 眠たげな声だ。水を飲んでくるだけだから寝ていて大丈夫だよと声をかける。いつもと逆だなあと思った。
 ベッドから床へ降りる。まだ睡魔が残るからだでふらふらしながらキッチンへ向かい、水をグラスに注いだ。静かな部屋のなかに冷蔵庫の音だけがかすかに響いている。
 飲み干してからグラスを食洗器ではなくシンクに置く。彼の家のキッチンはなんでもそろっている。この部屋に住み始めたときに一通り揃えてみたと言っていたがそもそも彼には自炊をする余暇がないのであまり使われていない。でも時々私のために食事をつくってくれた。そう、なんと彼は料理まで人並み以上にできてしまうのだった。
 今日つくってもらったのはオムライスだった。実はキッチンの高さが合わない、合う家具の方が少ないという話もそのときにしてくれた。サイズが合わないキッチンで彼が私のためにつくったオムライスはいつものようにとても美味しかった。だから逆に難しいと思ったことがあるかを冗談めかして聞いたのだ。やればなんでもできるとは彼の言葉だったから私はそれに彼が「ないよ」と答えると思った。
「したいのになかなかできていないことはやっぱり名前との時間をつくることかな」
 彼は眉を下げ、私を下からのぞき込むようにして答えた。私はそうされるたびに全部を許したくなる。たぶん彼もそれを知っている節がある。
 寝室に戻ろうとしてリビングのテーブルに置いていた私のスマホが視界に入った。通知ランプが瞬いている。明日でもいいかなと一瞬思ったものの、ここまで来たので手を伸ばした。ソファーに腰かけてから液晶に目を落とす。予想通り特に大きい連絡が入っていたわけではなかったが惰性でほかのものにも目を通しかけたとき頭上に影が差した。予想もしない出来事にからだがびくっと震える。彼が音もなく後ろに立って、上から私を見ていた。
 思わず目を丸くして見上げる私に僕も喉が渇いたと言うと彼はキッチンの方へと向かった。その大きな背中を見おくるとすぐに彼は帰ってくる。
 彼は隣に腰を下ろすとテーブルに手にしていたグラスを置いて当然のように私を抱きしめた。彼が私の背中にぐりぐりと顔を埋める。やっぱり眠そうだ。目を伏せながらあくびを噛み殺している。その間も彼がグラスに手をかける様子はなかった。
「飲まないの?」
「ん」
 彼はたぶん飲むよという意味でうなずく。だけど返事をしたあとに手を伸ばして持ち上げたグラスをくちまで運ばずに、持ったまま私のからだを抱きしめる力を強めるばかりだった。そこでやっと彼は別にのどが渇いているわけではないということに気が付いた。水ではなく私がいるからここに来ただけなのだろう。
 名前との時間、と答えた彼の言葉を再び思い出す。こうしてまともに一緒にいられる時間がとれたのは久しぶりのことだった。
 胸の奥がぎゅっとなる。私はスマホをテーブルの上に置いて、彼の手からグラスを外す。グラスの代わりに私の手で彼の手を握った。
「もう戻るから一緒に寝よう」
 立つように促すと彼は素直に従った。手を引いて寝室に戻りながら彼の大きな手を強く握りしめる。当然みたいに握り返されることが幸せだった。愛しいとはこういうことを言うんだろうなと思った。
 先にベッドに横になった彼が腕を伸ばして逃さないというように私を引きずり込む。そんなふうにしなくてもちゃんとそばにいるのに。
「どこにもいかないよ」
「うん」
 そう言っても彼の腕の力は緩まない。こうしてどこにもいけないくらい抱きしめていることにいちばん安心するんだろうか。
 それならそれでいいのだと思う。私は抱きしめられることが好きだったし、安心するというならいくらでもしてほしかった。応えるために胸元に頭をくっつけて私も彼のからだを抱きしめる。隙間がないくらいに抱きしめあって、もう一度眠りについた。
 彼が特別な力を使って行っている『仕事』について説明は受けていて(といっても説明されているそれが彼のしているすべてには程遠く表面的であるということはなんとなくわかっていた)一緒にいるうちに、本当に忙しいのだということを知っていた。彼の忙しさには波がなく、強いていうなら忙しいかそれ以上に忙しいに分けられるかもしれない。ずっと一緒にいられることは稀だった。
 だから、その『風邪』も会う前に治ってしまってほしいなと思ったことを覚えている。
 いちばん始めに起こったのは気だるさや微熱だとかそういう症状だった。季節外れの風邪でも引いたんだろうかと思っていた。彼はちょうど海外に出ていた。これはこれでタイミングとしてはうつすことにならないからいいかなとぼんやりと思った。心配させてしまうから会う日には早く治らないと、風邪が悪化して会えないのがいちばん嫌だなと思って過ごしていた。
 だけど体調は悪化の一途をたどった。そのうち高熱が出るようになって、自力で動けなくなった。約束していた日に部屋で倒れているのを彼が見つけてくれた。たぶん見つからなかったらそのまま死んでいたかもしれない。
 熱は何日も続いて、下がらなかった。意識はなかったりあったりで、その間の私にとっては昼なのか夜なのかも不鮮明だった。目を開けるたびにからだにつながっている点滴やらチューブが増えていった。記憶があいまいだったけど検査をしたらしい、けど原因が不明だとお医者が言っていた。看護師さんや付き添ってくれた彼がよく話しかけてくれたけど、話しかけられていることはわかっても言葉を返すことは難しかった。
 見つけてくれてからたぶん入院の手続き自体もしてくれた彼は入院した日から私にほとんど付き添っていてくれて、よく顔を見た。忙しいはずなのに、いいのかなと聞きたかったけど、私の燃えるみたいに熱くなっているからだは声を出そうとすると胸から変な音がした。彼は私を無理にしゃべらなくても大丈夫と制すると水差しで水を飲ませてくれる。一度に飲むと飲み切れなくてむせてしまいそうになるとわかると彼は時間をかけて少しずつ飲ませてくれた。
「辛いよね」
 見たことがない顔で彼が私の手をつないで撫でる。その指は冷たくてとても心地よかった。高熱自体もそれが続くことでまともに食事がとれなくなっていることも寝たきりになっていることも大変だったけどこうして彼が会いに来てくれて、いつもよりも顔を見られることが嬉しかった。そんなことはとても言えなかったし、そもそも声が出なかったけど。
 そんな日が続いてどれくらいだっただろう、真夜中に彼が病室を訪れた。目を開くと部屋の中が暗くて、からだにつけられていたコードにつながる機械のディスプレイの光や限りなく絞られた照明が暗闇のなかで光っていたから夜だとわかった。よく考えるとお見舞いの時間は終わっている時間帯だったけど、彼はなぜかそんな時間にもよく訪れていた。
 なんとか目だけを動かして出入口を見る。いつものあの目隠しを首に下げたまま病室内に入ってきた彼は、足早に私のベッドまでくると私の顔を覗き込んだ。彼はいつもより冷たい雰囲気を身にまとっていた。私が熱に浮かされていたから幻覚みたいにそう見えたのかもしれない。確かにそう見えたはずだけどあまり自信はなかった。
 彼は私の首にそっと手を伸ばすと楽になりたい?と聞いた。私がこうしてベッドの上から動けなくなってからその姿をそばで見ていた彼のほうがもっと苦しめられていたことはわかっていたから、もし私が楽になることで彼が楽になるならそれでもいいと思った。私の瞬きだけの返事に彼は眉を下げる。
「なにも心配しなくていいよ」
 彼の指がのびてきて、私の頬に添えられた。すべてが渇いてしまったと思ったのに涙が出た。ぼやける視界のなかで彼の瞳と目が合って、その青い瞳がまるで神様に見つめられているみたいだと思った。
 顔を近づけられる。熱で渇ききっているくちびるが彼のくちびるによってふさがれるのがわかった。こんなときなのにそれが恥ずかしいと思った。そう伝えたら笑ってくれるだろうか。そんなに、怖い顔をしないでほしい。
 くちびるを重ね合わせるとなぜか意識が楽になる。すべての水分を失いかけているからだに水が流れ込むみたいに満たされていく。
「僕のこと信じてくれる?」
 私はかすかにうなずいた。信じているとちゃんと伝えたくて、ほんとうはきちんとうなずきたかったけど小さく首を動かすのが限界だった。それでも伝わったのか、彼は表情をやわらげた。そして彼はちょっとだけ困ったような顔をして笑う。
 彼に笑ってほしかったけど、そういう顔も好きだけど、いつもみたいに笑ってほしいと思った。大好きだから、笑ってほしい。だけど私の声帯が震えることはなく、言葉にはならなかった。音を発さずに蠢くだけのくちびるを彼が痛ましげな瞳で見る。
 彼は私のこめかみのあたりに両手でふれるようにして自分の額を私の額に押し付けた。その瞬間に彼と私が『繋がった』のだとわかった。それを認識した瞬間、思い切り意識がはじける。痛みと衝撃の入り混じった感覚に私は意識を手放した。思い返すと、あのときの痛みがいちばん強くて死んでしまいそうだったと思う。たぶん『繋がっていた』彼も同じくらい痛かったはずだ。
 もう二度と目が覚めないのではないかと思うような衝撃を与えられた後、それでも私はベッドの上で目を覚ますこととなった。目が覚めると最後の意識があった日より数日たってはいたもののからだを蝕んでいたあの病熱はすっかりと引いて、もとの体調へと戻っていた。彼が助けてくれたのだとすぐにわかった。特別な力を使っている、と彼が自分の仕事のことを説明してくれたことがよぎった。
 久しぶりにくちからの食事をとってから、彼の代わりに説明に来たという男性から自分の身になにが起こったのか話をされることとなった。
 私のあの症状は呪いだったこと。そしてそれをかけた人間はすでに命を絶っていたこと。命をかけて呪ったことで極めて重い縛りとなった呪いを彼が私から引きはがし、無理やり自分に向けさせたこと。
 そこまで説明され、明確に呪いという言葉を使われて説明されたこと、そして彼がそれを自らに向けたという言葉の禍々しさに息を呑んだことを隠せなかった私に、説明してくれた男性は気の毒そうな顔を見せてから咳払いをして、そして続けた。
 そんなことをすればどれだけ強くてもどんな目に合うかはわからない。それでも彼はケガひとつ負わずに命に差し障りなくなく生存している、とそう言った男性に私は顔を上げた。安堵にもう一度ため息をつきそうになった私だったが、目の前の男性の表情が変わらずにこわばっているのを見て、体温が冷えていくのがわかった。
「ケガしてないんですよね……? 命にも別状はないんですよね……?」
「ええ」
 うなづかれる。だけど表情が変わることはない。私は思わず縋るように自分の手を組んだ。
 私にその『奇跡的な処置』を行ったあとすぐに彼は仕事に出たそうだ。もともと私に付き添っていたことで無理を通していたらしくこういうことがあっても仕事に出ないわけにはいかないらしかった。今もその仕事について来られないとのことだった。
 男性は迷うようにしながらも私の目を見てくちを開いた。その処置の後、どうやら彼自身の記憶に欠けが見られるようだ、と。私は心臓に杭を打たれたような気持ちになった。
 記憶の欠けは私に対してのみらしい。私の呪いを身に受けたからこそそのような症状が出たのではないかと思われると男性は告げた。死に瀕するような他人の呪いを引き受けた人間は今まで存在してもそれを行って生存した人間は把握されておらず、思われるというかたちでしか判断はできないそうだ。
 検査と経過観察しだいですぐに退院できること、そして今度の仕事を終えたあと直接話をしたいと言っているそうだ。それを伝言として伝えられたあと、おそらくフォローのためにだろう、男性は命があっただけでも救いだとそう言ってくれた。私はなにも言えず、説明されてすべてのことを飲み込むこともできずただうつむいたままうなずいた。
 退院をしたあと(病院に持ち込まれた私のものはなくすべて新しく購入されて与えられていたようだ。それもすでに片付けられており会計すら済んでいて、ほとんど身一つで戻ってくることとなった)私は一度自分の済んでいた部屋に戻ることにした。鍵を渡されたということはもしかして最後にこの部屋に入ったのは彼だったのかもしれない。
 戻ってきてすぐに私はベッドの上に横になった。ずっと寝ていたせいか体力が落ちて、帰ってくるだけでも疲弊していた。だけど蝕むからだの疲弊だけではなかった。からだは重いのに頭だけが醒めている。
考えるまでもなく彼のことが頭に浮かぶ。私が知らないまま私のために命をかけた彼を、私の記憶がない彼のことを考えると目元が熱を帯びた。
 私が恋人でなければこんなことにはならなかっただろうか? なにより私のために彼が命をかけたという事実が恐ろしかった。私のために命をかけたことを記憶がない彼はどう思っただろう。後悔しただろうか。なにかがあればすぐに連絡していいと伝えてほしいと言われていると返された自分のスマホで彼に電話をかける勇気はなかった。
 流れる涙とともに頭がずきずきと痛む。処方されていた痛み止めに手をかける。ご飯は食べてる? とここにはいない彼の声が頭のなかに浮かんだ。私よりも不規則な生活をしている彼によくそう声をかけられた。もう言ってもらえないかもしれないなと思うと頭より胸がしくしくと痛んだ。声を聞く勇気がなくとも対面する日は迫っている。彼の仕事の終わる日、会うことが予定されている日にちは翌日に差し迫っていた。
 私はまともに眠れないまま朝を迎え、予定よりずっと早い時間帯に彼のマンションを訪れ、足を踏み入れる。私の部屋がそうだったようにすべてが記憶のままなにも変わっていなかった。
 彼の部屋はモデルルームのように生活感がない。と思えば、用途が限りなく狭い、直接見かけるのが珍しい家具があったり増えたりする。話を聞いてみると興味本位で買ってみて試してみたりしたとのことだった。一度や二度使っているならまだいい方で、酷いときは買ったことも忘れているようだ。それでも部屋のなかが雑然としないのは定期的にその買ったものを全部どこかにやっているらしい。その割に妙に物持ちがいいところもあるので不思議だと思う。
 調理器具もその延長だった。最後につくってもらった食事をここで一緒にとったことを思い出す。思い出すのもこれが最後になるかもしれないと考えたからなのだろうか。もはや部屋のなかで自由に動くことすら憚られて、私はソファーに座り込んだまま顔を覆った。涙があとからあとからこぼれた。
 死刑宣告を待つ気持ちだった。そうしていくらほど待っただろうか。玄関の扉が開く音がしてひとの気配がした。彼だ。膝に力が入らなかった。私は座ったまま、顔もあげられず出迎えることもできなかった。
「もう来てたんだ」
 変わらない声音に心臓が強く痛む。彼が私の前に立つのがわかる。からだをこわばらせた私の肩にてのひらが置かれ、目を開いた。彼が床に膝をつき私の顔を下からのぞき込んでいた。いつもの仕草だと思った。それを見て私は再び涙を流した。泣いてもどうにもならないのに、耐え切れなかった。
「好きです」
 あなたが好きです。あなたに記憶がなくても、あなたのことが好きです。泣きながらそう伝えた。ほかにできることはなかった。私の言葉に彼は大きなその瞳をもっと大きく見開いてみせる。
 別れることになるかもしれない。彼にとって私はもう他人かもしれない。助けてくれてありがとうって言いたかった。私のために命をかけるなんてそんな怖いことは二度としないでって言いたかった。でも好きだとその言葉しか出てこなかった。
 そう言い募ることしかできない私に、彼が顔をよせる。あ、と思ううちにくちびるが重なった。
「僕は大好き」
 囁かれてそっとからだを抱き寄せられる。その大きなからだに久しぶりに抱きしめてもらったことに、私のからだから力が抜けて、ソファーから崩れ落ちそうになった。「おっと」と彼はなんなく私のからだを抱きあげてソファーに座る。
 記憶は、どうして、ぐちゃぐちゃにわめく私の頭を彼がよしよしと撫でる。
「愛の力かな」
 わざとらしいくらい冗談めかした言葉だったが私が突っ込まないので彼は私を抱きしめたまま記憶をなくしたなら取り戻すだけだよと続けた。
「もしかしてできないことってない?」
「名前との時間をとることができてないかな、僕もいつももっと一緒にいたいって思ってるよ」
 私は彼の肩に縋りつく。彼は簡単に言ってのけたが実際はそんなに簡単なことではないだろう。それこそ、私の呪いをどうにかしたことぐらいに。
 私たちはもう何も言わず、ただ抱き合っていた。いつまでもいつまでもそうしていた。
 私が泣き止まないので、彼がその涙をぬぐってくれる。大きな手は優しく触れてくれたが思わず顔がこわばった。ずっと泣いていたせいか肌が擦れるような痛みを発していた。
 それを見た彼がちょっと待っててと私から離れようとする。
「痛いでしょ、それ。冷やそうか。それに名前、まともに食べてないでしょ、なにか食べる?」
 私から離れて取りに行こうとする彼の腕をつかんでいらないと首を横に振る。
すべてを惜しんでずっとこうしていたいと思った。私の我儘に彼は苦笑すると私を簡単に抱き上げベッドへと運ぶと私を横にしてくれた。
「じゃあまずは寝て、それからご飯を食べよう。それならいい?」
 僕も一緒に食べるから、約束と指を出されてそれに自分の小指を絡ませる。食欲はなかったけど約束ができることにほっとする。横になった私の手を彼がつないでくれた。
「僕、シャワー浴びてくるから。ちょっと待ってて」
「一緒に入りたい」
 彼がびっくりしているのがわかった。私からそういうことを言い出すのは初めてのことだった。彼はうーんと声をあげて、私の髪を撫でる。
「すぐ戻ってくるから」
「……うん」
 それでも手を離さないのを彼は無理やりはがすことなく握り返してくれた。だから私は時間がかかっても自分からその手の力を抜くことができた。
 言葉通りにすぐに戻ってきてくれた彼をベッドのなかに引き込んで一緒に横になる。首に腕をまわした際に触れた彼の髪はまだちょっとだけ濡れている。
「急かしてごめんね、仕事終わったならゆっくりしたかったよね」
 そう言いながら離すつもりはないというように子供みたいに抱き着いていることは矛盾していた。でも申し訳なく思うその気持ちもほんとうだったし、離れることに恐ろしさを感じるのもほんとうだった。
 私の小さなごめんねという声に、大丈夫とあやすように撫でられると心まで撫でられる気持ちになる。抱き合っていると触れているところから伝わってくるさっきよりあたたかい彼の体温にからだにこもっていた力が抜けていく。
 抱き合って横になりながら、起こったことについての話した。あんな目に合わせてごめんね、辛かったでしょ。と彼が謝る。本気で思っているようだったから、それよりも私のために無茶をされた方が怖かったと伝えた。でも名前が逆の立場でもそうしたでしょと彼が笑う。きっとその通りだ。もし私が同じ立場で苦しんでいる彼を前にしたらきっと同じことをしただろう。
「もし僕の記憶が取り戻せなかったとしてもまだ僕の恋人でいてくれた?」
 そんなの、そんなのは私が言いたいことだ。記憶がない彼がそれでも私を選んでくれるという自信はない。怖い。それなのに彼は囁くような声で、自信がないみたいにそんなことを確認するので当たり前だよと言う。
「僕は今日別れ話をされるかと思って帰ってきたんだよ」
「どうして?」
 どうしてこんなに好きな人と別れ話がしたいと思うことがあるだろう。だから私がそう言うと、彼はじっと私を見た。彼の浮かべている表情はどこか無表情に近かった。彼がその瞬間なにを考えているのか私にはなにもわからない。
 首を傾げた私になんでもないと言って彼がぱっと表情を変える。彼は眉をさげ、困ったような表情になった。
「それより退院の日、迎えに行けなくてごめんね。一人で大丈夫だった? 大変だったでしょ」
 ただ首を横に振る。気にしないでいいのにと言いたかったのに言葉が出なかった。泣きそうになったことで変な力が入ってのどが軋む。一度泣くと簡単に涙がこぼれてしまうようになってしまった。優しさに簡単に心がぐちゃぐちゃになる。
 そんなこといいのだ。彼がこうして私を抱きしめてくれるなら、ほかのどんなこともとるに足らない。
どうすればこの気持ちが伝わるのかわからなくて、私はただただ彼のからだに縋りつき抱きしめる。こうしているうちに少しでも伝わればいいのにと思いながら。

 一緒に眠って、目が覚めて好きな時間に起きて一緒に食事をした。あーんとくちをあける名前に手ずから食べさせながら夢に見るような休日だなと思った。その時間はここ最近の休息もつけなかった仕事の対価に十分といってもよかった。
 食事を終え、まだどこか眠そうにしている名前の顔色は白い。体調が本調子に戻っていないのだろう。無意識のうちにだろう、縋るように伸びてきた彼女の小さい手を指を絡ませるようにして握る。大きさの違う手はそうして握るだけでも一苦労で彼女の小さい手は無理やり大きく指を開かされる。痛みすら感じるのではないかと思われても彼女は見惚れるようにその絡んだ指をじっと見ている。
 そんな彼女を見つめているとこちらを見上げた名前と目が合う。彼女はそこでやっとこちらの視線に気づいたという顔をして、そして無邪気に笑った。その頬は涙を流した痕がのこり赤くなっている。
 彼女を強く引き寄せ抱きしめる。突然のことにびっくりしたのか、彼女は少しだけ身じろぎをした。それでも、そうして強く胸に抱いていると彼女は抵抗もせずにされるがままでいる。
 痩せたなと思った。入院していた期間にまともに食事をとれていなかったことや心労もあるのだろう。本気で抱けば潰れてしまう脆いからだは以前よりも細いラインになっている。これ以上そうなられたら抱きしめるときの力加減に困るなと思った。確かめるみたいにそのからだをなぞると、彼女がくすぐったそうに声を上げる。くすくすとこぼれる彼女の笑い声は軽やかで甘い。その声を聞くとすべてがどうでもよくなる気がする。
 くちびるを頬に寄せて触れ合わせる。やわらかい頬はあたたかい。彼女のからだも心も燃やし尽くしてしまいそうなあの厭な熱はそこにはなく、安らかな気持ちになる体温だけがある。そのことに心の底から安堵する。
 甘えるようにくっつくと「どうしたの」と名前がふわふわとした声で聞く。
「名前のこともう一度こうして抱きしめられてよかったなって」
「……私も」
 大好き。無邪気に照れ臭そうにそう言う彼女に胸の奥がざわつくような気持ちになってそのくちをくちでふさいだ。手と同様に彼女のくちびるも舌も小さい。やわく噛んでちょっとだけ痛くする。くちのなかで彼女がかすかに声をあげたのがわかって、その声すら食べてしまいたいなと思った。
 離してやると、痛みに驚いた顔をしていた彼女だったがすぐにその顔は緩んでお返しというように唇にそっとキスをされた。ちっともお返しになっていないのに満足そうに笑うから、僕は名前を腕のなかから出してあげない。
「名前は今幸せ?」
 そう聞くと自分が死にかけた記憶なんて忘れてしまったみたいに満足そうにほほ笑んだ。その笑みにあのとき、こんなふうに奪われるくらいならいっそ殺してしまおうと思ったことを思い出す。殺さなくて済んでよかった。だけど次はどうだろう、次になにかがあったとき僕は名前を殺さないで済むだろうか。
 別れ話をされるかと思ったという言葉にどうして、と本当に不思議そうに言った名前の顔を思い出す。記憶がなくしたことを良いきっかけとして別れ話をすればよかったのに。彼女は自分の未来を考えるのなら僕のもとに戻るべきではなかった。一緒にいるだけで自分を危険にさらす様な、いざとなれば自分の手で殺してやりたいと思っている男のもとに戻らず、自分の幸せを選べばよかったのだ。
「僕も名前のことが世界で一番大好き」
 そんな言葉に名前が頬を赤くし、目を潤ませた。子供じみた言葉にくるんだところで自分が名前に向ける感情と名前が僕に向けるものの感情は同じではないと知っている。それを愛と呼ぶには悍ましいものだと最初から気づいている。
 その事実にも気づかないまま、名前はここに、僕の腕のなかにいる。なにも知らないまま死が自分の身を危ぶませても僕を選び、死ぬことよりも僕を失うことを恐れた。その事実を噛みしめるたびに胸がざわめく。馬鹿だな、可哀そうだなと思う。そして世界で一番愛しい。機会を自ら手放した名前の手を僕はもう二度と離さないだろう。

世界で一番大好き

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