茫然と座り込んでいると肩越しに声をかけられ肩がはねた。聞きなれた声に、私は後ろを振り返る。ふたりが立っていた。
何かを言わなければいけなかったのに声が出ない。私は、もう一度目の前に転がっていた男に目をやった。男の体にはナイフが刺さっていて、その傷からこぼれる液体が地面を赤く染め上げていた。
「知り合い?」
男の顔に目線をやった五条くんが言う。私は首を横に振った。
近づいてわざわざ膝をついてくれた夏油くんが手を差し伸べてくれる。だけど彼の顔を見上げることもできず、その手に縋ることもできずにいると、夏油くんの手が私の手に伸びてきてぎゅっと強く握りしめらる。そのまま立ち上がらされると足が震えてふらふらした。
私の手は血で濡れていたから、その手を握ってくれた夏油くんの手まで血で汚れて、あわてて自分の手を離す。濡れている感覚が生々しくて、それを夏油くんの手にも味合わせただろうことに背中が冷たくなった。
そんな私の名前を夏油くんはやさしく呼ぶ。おそるおそる顔を上げると、眉を下げた夏油くんと目があった。
「大丈夫」
彼はそう言うと私の手や頬にまで飛んでいた血を子供にするみたいにハンカチで拭ってくれた。されるがままそうされていると、自分の胸元が目に入った。ボタンがあけられお腹のあたりまでシャツが開かれている。下着をさらしているという事実を認識し、みっともなさと羞恥にボタンに手を伸ばすがゆびが震えているせいでまともにとまらない。
見ていられなかったのかもしれない。そうしていると夏油くんが私の胸元に手を伸ばした。私の代わりに無理やりあけられたシャツのボタンを彼はひとつひとつちゃんと止めてくれる。だけどいくつかのボタンがはじけ飛んでいるせいで隙間が開きなかの下着が見えたままだった。隠すこともできなかった。からだに力が入らない。
夏油くんは自分の着ていた制服の上着を脱ぐと私にかけるように着させ、シャツにそうしたように前のボタンを留めてくれる。そして乱れた私の髪に手を伸ばすとそっとなおしてくれた。
「怖かっただろ、怪我はしていないか?」
夏油くんは乱れた衣服や髪になにが起こったのかをわざわざ聞かなかった。ただ私を心配してくれた。
この場について、責めるのではなく私の身を案じたやさしい言葉に目が潤みそうになる。慌てて手で目元を拭った。
「さ、さっき後ろから、急に」
「うん」
「しげみの中に、引きずりこまれそうになって、ナイフ、揉めて、そしたら」
「もういいよ。なにも言わなくていい」
ふたりとはもともと私の部屋でこのあと会う予定だった。それで部屋で待っている最中に買い忘れたものを思い出して来るまでに間に合うようにコンビニに向かおうとして、この公園を通って、それで、こうなった。
口に出してから言い訳みたいだと思った。どうしてこうなったかなんてどうでもいい。こうしてしまったことだけが現実だ。
改めて自分のしたことに震えていると夏油くんが安心させるように肩に手を置いてくれる。すると、男のそばにしゃがみ込んでいた五条くんが、こちらに振り向いて声をあげた。
「まだ息してる」
「え」
「殺していいよな?」
「そうだな」
私の代わりに夏油くんが冷えた声で答えた。私がなにかを言う前に、五条くんが立ち上がる。五条くんが立ったまま男を見下ろした瞬間に、その男の顔がねじれて見える。そしてはじけ飛んだ。一瞬の出来事だった。
首から下だけが残された男のからだが地面に横たわっている。先ほどまで確かに生きていた男の死体だった。
「これどうする? 俺の術式でバラバラにするか」
「いや、そうすると片付けるのが面倒だろう。私がやるよ」
「じゃあ任す」
夏油くんが私の肩から手を外す。触れて慰めてくれていた体温がなくなってとたんにからだがひやっとした。
まるでいつものように会話をするふたりの声を聞きながら私は立ちすくんだ。死体のもとへと歩み寄る夏油くんと入れ替わる様にして私のところへやってくる五条くんの手にはさきほどの男に刺さっていたナイフが持たれている。
「なんて顔してんだよ」
「……なんで?」
「なんでってなにが?」
「だって、まだ、息してるって」
「今はな。もう死ぬとこだった。ならもう殺していいだろ」
五条くんの後ろで夏油くんが死体の脇に立つ。夏油くんの背から現れた呪霊が、死体を切り開き、端から食し始める。五条くんは振り返らずに乱暴に吐き捨てた。
「生かす必要なんてなかった」
お前に酷いことしたのに。そう言った五条くんの手の中にあったナイフが一瞬にしてねじれてまがる。人を刺したナイフがまるで玩具のようだった。見えない手のひらに押しつぶされるように圧縮されゆびさきほどの金属の塊になったそれを五条くんは近くにあったゴミ箱に放り投げる。
私がこわばった顔のままなにも言えず見つめると、五条くんはバツが悪そうな顔をする。
「大丈夫だって、そんな顔するなよ。怖かった? まあ、目の前でやんなくてもよかったよな」
明確にやわらげられた声にそれが彼なりの気づかいだということに気が付いた。五条くんは私が目の前で怖いことをされて、それに戸惑っているのだと思っているようだった。
それでもなにも言わない私の擦りむいた膝に視線をやると、彼は私の手を握り引きずるようにして公園内の水道へと連れて行った。さっき夏油くんに拭いてもらってから握りしめていたハンカチを私の手から取った五条くんはそれを水でぬらす。彼はしゃがみ込むと私の血と砂に汚れた膝をハンカチでぬぐってくれた。
「染みる?」
「……ううん」
「嘘つくなよ」
その通りだった。ほんとうは痛かった。でも刺された男の方がもっと痛かっただろうなと思った。ぐずぐずに捲れた私の皮膚に五条くんは顔をしかめる。
「風呂とか痛そう」
そんなことを言いながら五条くんは私の顔を見上げた。
「殺したのは俺で、傑が片付けた。それでこれはおしまい。それでいいだろ?」
「……」
「お前はなにもしてないんだから気にしなくていいんだよ。刺しただけだろ」
五条くんはほんとうにそう思っているようだった。迷いながらもくちを開こうとした瞬間、後ろから声をかけられて私は飛び上がる。
「終わったよ」
夏油くんが立っていた。死体のあったあたりに目をやる。まるで最初からなにもなかったというようにその血の跡すらすっかりなくなっていた。
「血も死体もなにも残ってない。この公園ではなにも起こらず、君にも不運は起こらなかったんだ」
夏油くんは顔色を変えずにそう言い切った。なにかを思っていたのかもしれないが、私には見て取れなかった。ぼんやりと立ちすくんだままの私の手を、立ち上がった五条くんがもう一度握りしめて歩き出す。もう片方の腕を夏油くんがそっと引いてくれる。
「コンビニ寄ろうぜ。喉渇いた。コンビニなら傷のやつも売ってるだろ」
夏油くんと五条くんに挟まれ、やっぱりいつも通りに交わされる彼らの会話を聞きながら、私は導かれるままにふらつく足を動かす。
私の手と腕は彼らによってそれぞれがかたく握りしめられ外すことはできそうになかった。私はそれに私自身の未来が重なっているような気がしてしまってますますからだや足の力は抜けていくばかりだった。
ever after
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