NOVEL | ナノ

 フォークを白い表面に刺し入れる。なかの断層から紅いベリーのソースがこぼれるのを見て自分の目が輝くのが分かった。それを正面に座っている七海くんが苦笑するのが空気で伝わって、顔を上げる。目が合って、ちょうどその表情を見られていたことに照れてしまう。照れ隠しに思わず笑った。
「本当に好きですね」
「大好き」
 七海くんの声はやさしい。私はその声にどこかくすぐったくなりながらも素直に肯定する。私はいっぱい食べるほうだと思うけど、そのうえで食べるのが遅いので誰かと食事をしているときはいつも『ふつう』を考えて食べていた。でもふたりの前では気兼ねなく食事ができる。七海くんも灰原くんも私をからかったりしないからだ。
 任務の帰りに高専に帰る前にファミレスに入りたいと主張したのは私だった。デザートのフェアが大きく描かれたのぼりに引き寄せられたのだった。
 ソースに絡めながらチーズケーキをくちに運んでいるとドリンクバーから戻ってきて七海くんの隣に座った灰原くんが私のケーキを見ていいなと言う。自分の分のコーラとともにその手に持っていた七海くんのアイスコーヒーを本人に渡す灰原くんを後目にテーブルに置かれたカトラリーの入っている茶色いケースに私は手を伸ばした。
 人数分のデザート用のフォークを出して、くちをつけていない部分からケーキを取り分けると灰原くんにはいと差し出す。フォークごと渡そうとしたがケーキがのっているのでバランスが難しくくちを開けて貰った。開いて貰ったくちのなかにそっと差し入れる。灰原くんがそのケーキを飲み込んだあとに美味しいと笑ってくれて、私も嬉しい気持ちになった。
 灰原くんが自分も頼もうかなとメニューを開く。もう一本あるフォークでもう一度くちをつけていない部分を切り分ける。はい、と七海くんに差し出したが七海くんは手で制するようにしていただきますとフォークの方を受け取った。
 食事はすでに終え、皿も何回か下げられたあとだった。これで注文するのは最後にしようかなと灰原くんの見ているメニューを次にまわしてくれるようにお願いするとメニューを傾けられ一緒に見られるようにしてくれた。
「七海くんはいい?」
「満足しました」
「ケーキ美味しかったよ、アイスもあるよ。食べようよ」
 結局みんなで見られるようにメニューを置いてデザート選んだ。名字が食べてないやつある?と灰原くんが聞くので私が食べて美味しかったデザートではなく、食べていないデザートを聞かれたことに首を傾げつつも答えた。
 それぞれ違うデザートの注文を終えると先ほど食したケーキのお皿が店員さんによって片付けられていく。それを見ながらお腹が満たされた充足感と気が抜けたことで感じる疲労にからだがじんわりと重くなってため息がこぼれた。
「明後日とんぼ帰りで戻ってきたらまた任務かあ。忙しいよねえ」
 明日に予定しているのは二級相当の呪霊の祓徐だったが最近のなかではいちばんの遠出の任務だった。日帰りで戻ってこられない任務は久しぶりだ。
 昨日も任務で今日も任務で明日も任務と歌いたくなるくらい近頃は忙しかった。夏は忙しいと言っても今年は特に多い。昨年の災害の影響もあるのかもとお互いに話をしていた。今年は少ないといいんだけどなあと春の終わりに三人で話していたので逆に伏線だったような気すらしていた。
 私たちはもちろん、上の学年で特級でもある五条さんや夏油さんはもっと忙しくしているようだ。最近は顔を見る機会も少なく、会えたとしてもすれ違うと言ったほうが多かった。その名前を私が出すと灰原くんが思い出したというように声をあげた。
「あ、夏油さんがおみやげは甘いものがいいって言ってたよ」
「おみやげかあ、私もあまいものがいいなあ」
「それ、おみやげじゃなくて帰りに食べるつもりですよね?」
 先に七海くんの頼んだアイスがやってくる。スプーンですくって手渡そうとしてくるので私はくちをあけた。七海くんがため息をついてそのままくちに運んでくれる。
 舌の上でとけるバニラの味を堪能していると、さっきの七海くんのように灰原くんが私を見て顔を緩めた。微笑ましいものを見るかのような顔をするので私もさっきと同じように照れてしまう。私は自分の顔を灰原くんの視線から隠すように手でさえぎって覆い隠した。
 それから灰原くんのデザートと私のデザートも届く。灰原くんがさっき私がしたように自分のデザートを切り分けてくれる。そういえばどうして食べていないものを聞いたのと問うと、灰原くんは当たり前のように答えるのだった。
「違うのだったら名字も楽しめるだろ?」
 思わず目を真ん丸にする。嬉しさとともになぜか気恥ずかしくなり、私はお礼を言うと黙って灰原くんのデザートを受け取った。
 みんなでデザートを食べ終え、ファミレスの外に出るとぬるい風が頬を撫でる。店内で強く効いていた空調に冷やされた肌にその温度は心地よくもあった。
 明日は朝から新幹線で移動だ。早く帰って準備をしたほうがいいのはみんなわかっていたが高専へと帰る道すがらを三人でのんびり歩いた。
 私はこんなふうに過ごす夜が楽しいと思った。ずっと続けばいいのになあと思ってしまった。任務は大変だったけどやりがいは大きかったし、級友はやさしくて信頼できた。この時間が続いてほしい、そう感じたことを、私は間違いだったとは思わない。呪術師じゃなければよかったとは思えない。

 自分の荒い息が耳についた。全力で走りつづけたせいで肺が痛い。だけど七海くんは灰原くんを背負って走っているのだからもっとだろう。
 逃げるために外に出て走り続けたはずなのに既に何度も目にしている山道をずっとぐるぐるまわっていた。どれだけ逃げても遠ざかれない。ずっとあれの気配が近くにある。
 ただの二級相当の任務のはずだった。私たちもあれを目にするまではそう思っていた。
 私たちの前で明確に姿を変化させたあれは虫のように何本もある人間の手足をつかい、私たちを殺すために動きまわっている。
 ふたりでこのまま逃げ続けてもいつかは必ず追いつかれるだろうという暗雲のような予感が私たちの上に重く垂れ込められていた。
 七海くんに目で合図をしてお互いに足を止めた。気配をひそめるようにして隠れながら息を整える。私も七海くんもくちを開かない。言葉をなくしたようだった。絶望的な予感だけがある。影響が空間にも出ているのか午後になったばかりだというのに日が沈んだように暗くなってきている。これ以上暗くなってしまえば、この山のなかではもう逃げることすら難しくなってくるだろう。
 だからこそ、私は口火を切った。
「誰かががあれをひきつけないと」
 そういうと七海くんは顔をゆがめた。その誰かがどうなってしまうかはお互いに言葉に出さなくてもわかる。それでもそうしなければ今度は三人で死ぬことになるだろう。
 そしてその「誰か」として誰が適任なのかは私にすらわかる。私より考えることに優れていた七海くんももうわかっているはずだ。誰がここに残るべきなのか。七海くんに言わせる前に、私は自分でくちをひらいた。
「私がここに残るよ」
「馬鹿なこと言わないでください」
「もう、みんなでは帰れないと思う。七海くんもわかるよね」
 私が話し始めた時点でそう言いだすことが分かっていたのだろう。間髪入れずに返ってきた怒りと焦りで語気の荒い言葉に、私はわざと笑う。だけどたぶん引きつっていた。
 私がやる。つづけて自分でそう言ったのにその声は情けなく震えている。
 噴き出すのが止まらない汗が肌をすべっておちる。走ってにげてきたばかりなのに体が冷えきっていた。
 あの呪霊は(呪霊といよりはたぶん土地神に近いのだと思う、だからこそもうあんなふうになってしまってはもはや殺して止めるほかない)死の気配そのものだった。目にした瞬間から汗も鳥肌も止まらない。こうして隠れている間にもあれがまわりのすべてを根こそぎ倒し、殺し、侵しながらこちらに近づいてきているのが気配でわかる。存在しているだけであれはそのまわりのすべての生命を食い尽くして殺すだろう。
 今までも死にそうになったことはある。でもこんなふうに感じたことはなかった。改めて死ぬことが恐ろしく感じる。濃密な死の存在感が恐怖とともに喉を締め付ける。苦しい。でもそれ以上に、ふたりに生きていてほしいと思った。私をふるいたたせているのは、ただそれだけのことだった。
「私じゃ灰原くんを背負えないから」
 灰原くんに目をやる。いちばん最初にあれの変化に気づき、矢面にたって彼は攻撃を受け、意識を失ったまま七海くんに背負われていた。彼もこのままではまずい。早く治療を受けさせてあげたい。
 私は汗と汚れで張り付いた灰原くんの髪に手を伸ばし、払ってあげる。かすかにある呼吸を感じて、思わず彼の頬に触れる。あたたかった。きっと、もう会えない。
 こちらを見ている七海くんと目を合わせた。彼はとても納得した顔をしてはいなかった。それでも、「そうしなければいけない」のだということをきっと彼もよくわかっていた。その顔があまりにも苦しそうで、もうこの先に彼がまたこうして置いていく側にも置いて行かれる側にもなることがなければいいのにと思った。これが、最後ならいいのに。
 言葉を交わすことはきっともうない。それなら少しでもこんな顔をしている彼の心に届くようななにかを言おうとしたものの上手い言葉がひとつも出てない。膝が笑っている。今から走ってあれの前に飛び出さなければいけないのに、ほんとうに笑えるくらい震えていた。このままでは走っているうちに転んでしまうかもしれない。「役目」を果たせないかもしれない。怖い。
 手の指すら震えて、私はそれを隠すようにして握りしめる。その腕を七海くんがつかんだ。びっくりして彼の顔を見る。大きな手には痛いほどの力がこもっていた。その手が私の手をぎゅっと握りしめる。凍り付くように冷たくなっていた私の手にその手は熱かった。泣き出しそうなくらい熱い。その熱さに私は彼に生きていてほしいと、ただただ強く思う。
 彼の体温が私の手にうつるにしたがって、震えはおさまっていった。彼が私の目をじっと見つめている。色素の薄い、眼光が強いせいで余計に目つきが悪く見えるその瞳が、揺らぎながらも私をまっすぐに見ている。
 ああ、これでほんとうに最期だ。
「頑張れ、って言って」
「……名字」
「こんなこと言わせてごめん、でもお願い、私なら大丈夫だって、頑張れるって、できるって、お願い」
 私の言葉に、七海くんは顔をゆがめた。それでも彼はくちを開いた。
「大丈夫です、名字ならできる」
 私は笑ってうなづく。そう言ってもらえたから私は頑張れる、死に向かって走っていける。
 笑ったのに、七海くんの私の手をつかむ力は強くなった。そんな風につながれていたら私はどこにも行けないのに。彼は握った手を引っ張り私を自らの方へと引き寄せた。
「必ず帰ってこい」
 思わず目が丸くなる。言われた言葉を理解すると同時に目の奥が熱くなった。七海くんのその乱暴な言葉に必死さを感じて、顔が情けなくゆがんでしまいそうで、私は地面に視線を下げる。
 私は大げさなくらい明るい声で乗った。無理だとわかっていても。
「終わったら……、さ、三人でさ、いつもみたいに、ごはん食べに行こうよ。任務大変だった会しようね……」
 言い切る前に、声が自然と小さくなった。せっかく笑ったのに必死な七海くんの顔をこれ以上見ていたらきっともっと泣いてしまうと思う。慌てて腕で目をぬぐう。そのしぐさできっと泣いているのがバレてしまったと思うと恥ずかしかった。そのままの顔を見せたくなかった。
 私は笑顔をつくって、顔をあげた。七海くんの顔は予想通り必死そのもので、だから私は、もうどうしようもない気持ちになる。
「私は、大丈夫。できるよ。七海くんに大丈夫って言ってもらえたから」
「……」
「灰原くんのこと、お願いね」
 ほんとうの最後に私からも七海くんの手を握り返した。ごつごつとした男の子の手だ。私よりも大きくてあたたかい。ぎゅうっと握って、それ以上離れがたくなる前に離す。私の手から離れたその手の温度が愛おしいと思った。私よりも生きていてほしいと思った。
「行こう」
 向かう先は違うけど、私達はもう何も言わずにお互いに走り出した。きっと今まででいちばん早く走れた。頬が風を切る爽快感すらあった。
 大丈夫、大丈夫、私は大丈夫。もう後ろは振り返らない。ふたりが無事に生きて帰れることだけを考える。ふたりがもう一度笑って暮らせることだけを考える。それだけで私は早く走れる。七海くんの大丈夫という言葉が私の頭の中で繰り返される。あんなに苦しそうに言わせて悪いことをしてしまったなと思う。それでもその言葉で彼らのためにたたかえる。
 それの前に再び立ったとき、私は一度目のように足を震わせることはなかった。術式を発動したその瞬間にお腹を貫かれても、触れれば焼けて熔け落ちるようなその肌に触れられても、からだを引き裂かれても笑っていられた。こうしている間はここにあれをとどめていられているということだったから、その間に少しでも彼らが逃げられる時間が稼げればよかったから、だから大丈夫と思えた。
 視界が赤黒く酩酊している。痛いのか熱いのかもわからくなってくる。でもその刺激で意識をつなぎとめておけるからよかった。頭の中で大丈夫を繰り返す。そうすると少しだけマシになる。前に灰原くんに聞いたことを思い出した。「耐えられないような痛みを感じるときは関係のことを考えるんだ、そうすると少し気がまぎれるよ」灰原くんが大きなケガしたときに聞いたはずだ。どうして頑張れるのって聞いた。そういう意味で聞いたわけじゃなかったけど今ならあの言葉が理解できる。実践できる。ありがとうって言っておいてよかった。
 大丈夫、大丈夫。私は大丈夫。頑張れ、頑張れ、頑張れ。何度も繰り返す。声にも出してみる。即死していなくて偉い。生きているなら術式を維持し続けられる。私が生きている間は引き留められる。だから頑張れ。一秒でも長く、彼らがより遠くに逃げられるように。
 たぶんほんとうはこの土地神がこの山を降りて非術師を襲わないようにとか、そういうことを考えるべきだったんだろう。でも私がこの状況で命をかけても守りたかったのは、頭に浮かぶのは、顔も知らない無辜の人々じゃなくて、あのふたりだった。
 夏油先輩ならこういうときでもちゃんと「弱いひとたち」のことを考えられたのかな。五条先輩ならこんなに強い呪霊だって平気な顔で祓えたかな。
 でも私はそんなふうにはなれなかったからやっぱり限界はくる。からだをわけられて「そのなか」に取り込まれていく。残ったからだもなかでとかされていく。それでもまだ術式をつかえたから、私は力を振り絞る。頑張れ、大丈夫、舌は裂けていたから頭のなかでとなえた。
「どうして呪術師だったんですか?」
 今度は七海くんの言葉がよぎった。昔聞かれた言葉だった。七海くんはたぶん私が呪術師に向いてないって知ってた。私はあの時上手くそのといにこたえられなかったけど。でも、いまならこたえられる。いきていてほしいから。わたしにちからがあって、たいせつなひとにしあわせにいきてほしいとおもううからら。
 かおも、まぶた、やけっちゃっった、の、に、おもい、いしき、とけ、ねむ、つくみたいに。



 夕暮れの電車のなかは時間帯もあって喧騒に満ちていた。沈んでいく赤い光が窓の向こうから電車のなかのすべてを染めていく。電車のなかはもちろん外のなにもかもが赤く染められたいく様子は見ていると感傷を抱かせた。
「名字?」
 名前を呼ばれて、私はあわてて窓から視線を戻した。隣に座っていた灰原くんとその前に立っている七海くんが不思議そうにこちらを見ている。
「疲れた?」
 灰原くんが私の顔をのぞき込む。ぼーっとしていたことに気遣われていることに私は照れ臭くなって窓の外を指をさした。
「久しぶりにこんなふうに夕日を見たなと思って。最近日が落ちるの遅くなったね」
「夏が来たらもっと忙しくなるでしょうね」
「去年より忙しくないといいなあ」
 もうすぐ初夏が来る。どうしても忙しくなる季節だ。
 話題は今日の任務にうつる。ひまわり畑での任務だった。旬の季節にはまだ早くて残念ながら足を運んでもひまわりを見ることはできなかったがその代わりに近くで三人で食べたソフトクリームはとてもおいしかった。
 ひまわりといえばと灰原くんが思い出したというようにくちを開く。
「ひまわりって大きいと三メートル超えるらしいよ」
「えっ、五条さんのことも超えるの?」
「高さの基準が五条さんなんですか?」
「だって身近でいちばん大きいから……」
 二メートル近い五条さんのその背丈は遠くからでもよく目立つ。こうして座っていると立っている七海くんと改めて身長差を感じるし隣に座っている灰原くんに対しても一緒にいて大きいなと思うことが割とよくあるけど、五条さんや夏油さんの身長の高さは近づくとちょっと怖いくらいなところがある。
 そんなに背丈の高いひまわり畑は大人でも迷ってしまいそうだなと思った。昼間はいいけど夜はちょっと恐ろしそうだ。
 そうして話をしているとなんだかまぶたが重くなってくる。聞こえる二人の話す声と電車の振動が心地よくてまぶたをとじたらそのまま眠ってしまいそうだった。
 まぶたをこすっていると灰原くんが寄りかかってもいいよと言ってくれる。大丈夫大丈夫と自分でもちょっと信ぴょう性がないなと思える声で答えるが肩をそのまま引き寄せられた。
 頭が灰原くんの肩によりかかるかたちになる。灰原くんは同い年だというのに私に対して兄のように面倒見のいいところがある。私はそうやって手をかけてもらうたびに妹に対してもこんなふうに面倒を見るのかなと思う。私は彼の肩によりかかりながら腕のなかに抱えた七海くんのあのバッグをひざに抱えなおした。三つはあいていなかった席を譲ってもらう代わりに持つのを代わっていたのだ。
 着いたら起こしますよと言ってくれた七海くんの声が後押しになって、まぶたが完全に落ちる。たぶん私が寝ているということを考慮したのか、二人の会話の声のボリュームが小さくなる。囁くようなそれは子守唄のようだ。
 まぶたに感じる夕日のあたたかさとか、ふたりの小さな声とか、肩に感じる体温とか。すべてがやさしくて、まるでこれこそが夢みたいだと思いながら私は眠りについて、そしてこれが昔の記憶だと思い出す。
 ああ、夢だと気づいた瞬間に私は目を覚ます。目を開けて初めて、眠っていたことに気が付いた。百年ほど眠っていたような感覚があった。
 私はなくしたはずのひざをそろえてどこかに座っている。体に伝わってくる微かな振動。眠くなる1/fゆらぎ。なぜか電車だとすぐにわかった。夢に見ていたからだろうか。
 顔に手を伸ばした。いつものふつうの肌の感触がする。私の顔だ。肌を焼いたあの痛みや苦しみこそが夢だったみたいに。
 顔をあげる。車両のなかには私以外誰もいない。窓の向こうに見える外には建物は見当たらず、一面の水が見えた。電車は水の上を進んでいた。海なのか湖なのかはわからない。空はあたたかく淡い不思議な色をしていた。夕暮れにも思えたし朝焼けにも見えたし、午後にも見える。時間の検討がつかない。車内の温度はあたたかくて気を抜くとすぐに眠ってしまいそうだ。
 どうしてここにいるかはわからないが死んじゃうくらい頑張ったことだけは覚えていた。そう、死んじゃったはずだ。
 思わずお腹にふれてみる。かきまわされたはずのお腹は服装すら変わった様子がない。私はきちんと制服を着ていた。私のからだといっしょにきざまれた高専の制服だ。
 死んでしまったんだなと思ってこんなところにいるのがおかしいなとも思った。それなのに不思議なことに大したことがないように思える。
 私は立ち上がることもなく座っていた場所にぼうっとしていた。もうひと眠りしようかとも思った。それがここでは『許される』のだとなぜか私には分かっていた。
 眠りにつくわけでもなくぼんやりしたままそうしているとどれほどの時間が過ぎただろう。感覚がひどく曖昧で数年のように長くも感じられたし瞬きの合間ほどにも短く感じられた。
 その間に乗っていた電車は何度か駅に止まっていた。だけど乗ってくる人はひとりもいなかったし普通ならあるはずのアナウンスは聞こえない。私は立ち上がるとほかの車両を見てまわることにした。
 車両の多い電車だというのに人っ子ひとり見当たらない。そうして車両を何度かうつったところでようやく私は人影を見つける。黒い、見慣れた制服の、男の子だ。黒髪の、そこまで認識して私は思わず走り出していた。
 立ったまま窓の外を見ていた彼の大きな目がこちらを見つめて、そして見開かれる。彼のもとへとたどり着き、目の前へ立つと肩をつかまれた。黒々とした彼の目が真ん丸になってそれから、ゆらゆら揺れる。かすかに漏れる彼の呼吸と混じった声に灰原くんだと改めて思う。その声に強い郷愁を覚えた。会えた、と思った。
「名字?」
「うん。灰原くんだよね?」
「うん、……うん」
 灰原くんはいくらかの躊躇いを見せながらそれでも私のからだを抱きしめた。そんなふうにされるのは初めてのことだった。
 不思議なことに私のからだには体温があり、彼のからだもそうだった。そして私と同じであるということに、彼がここにいるということに、彼がどうなってしまったのかを言葉を交わさずともわかってしまう。
 私は彼の背中に手をまわしそっと抱きしめた。彼は私と同じように高専の制服を身に着けていたしからだに傷がひとつもついていない。傷を確認するようにその背中を撫でるとその腰のあたりに私の手が触れたときなぜかまざまざと苦しみを覚える。そして彼がどう痛みを覚えて亡くなったのかを分かってしまった。
 抱き合っていると、私が彼の感じた痛みを感じとれたように私の感じた痛みが彼に伝わっていくのがわかる。堪らないというように彼が私のからだをより強く抱きしめた。
 私はくちをひらく。
「痛い?」
「もう痛くないよ。名字は?」
「大丈夫、平気だよ」
 くちのなかで舌が擦り切れるくらい繰り返した言葉だ。その言葉はいままででいちばん私の舌にすんなりと馴染んだ。ほんとうに『大丈夫』になったのだと思った。
 そうしているうちに灰原くんが私のからだからおずおずといったように腕を外す。その顔は赤らんでいた。わかりやすく目線をそらされ、わたしは目を丸くした。
「つい、抱きしめてごめん」
 お互いに目を見合わせると、笑ってしまった。それでも自分以外の体温は離れがたくて、私たちは手をつないだまま、席に座って話をした。
 私と同じように彼も気づいたときにはもうここにいたのだという話をした。それならもっと早く私も動いていればよかった。だけどすれ違っていたらもう会えなくなっていたかもしれない。考えると恐ろしくなった。
 それからたくさん話をした。いろんな話をしたけどお互いに死んだときの話だけはしなかった。話をしながらあたたかな車内に眠くなって少しだけ一緒に眠ったりした。
 彼がなにかにはじかれたように様子を変えたのはもう何度目かもわからない駅についたときのことだ。ほんとうに突然だった。
「僕は行かないと」
 そう言って彼は立ちあがった。彼がそんなふうに言い出したことにびっくりする。それでも困った顔をして私を見つめる灰原くんの目に、私がなにを言おうと彼はそう『決めて』しまったのだと分かってしまった。灰原くん一度決めたことは貫き通すひとだ。
「もう会えない?」
 会えるかどうかなんて灰原くんにもわからないだろうに、私は思わずそうくちにする。私の言葉に灰原くんは笑った。いつも太陽みたいな笑い方だと思った、変わらない笑顔だ。
「そんなことないよ、いつかまた会いにくる。今度は僕が行くから」
「うん」
「……名字」
 灰原くんは私を見つめる。無意識に縋るような目をしてしまったのだろうか、彼は私の頭を妹にするように撫でた。やさしい触れ方だった。されるがままになっていると灰原くんは目を細めて私を見つめる。頬に手が添えられる。私はその手にそっと自分の手を重ねた。また会いに来ると言ってくれたのに、彼は見納めみたいに私の顔を見つめた。だから私も彼の顔を見つめる。
 彼の黒い瞳に泣きそうな私の顔がうつった。名前と会えて嬉しかったと彼も寂しそうな顔をする。
「僕より先に七海に会ったら、七海のこと頼むな」
 彼は私の手を握り返した。ぎゅうっと力を込めて握られる。離れがたいというように、握るくせに行ってしまうのだと思った。
 最後に彼はその手をやさしく外すと、私の肩をたたくと駅へと降りて行く。窓ガラスの向こうで私に手を振った彼は、走りだした電車とは別の方向のなにかに向かって駆けていった。それを見届けてから仕切りに寄りかかるようにして私は目を瞑る。
 二度目は眠れないままそうしていつまでも座っていた。時折、今度は私も駅でおりてみようかという気持ちになったが、気持ちになるだけでただいつまでもそうして座っていた。たぶん灰原くんと一緒にいた時間よりも長く、目を瞑って、いると、ふっと、誰かが現れたのがわかった。目を開く。
 スーツの男の人だった。灰原くんがそうしていたように彼もぼんやりと窓の向こうを見ていた。色素の薄い髪色やその横顔に既視感を覚える。記憶のなかの彼とその男の人が年齢も背の高さもなにもかも違うのに重なって見えた。
 ああ、と声が思わず自分のくちから洩れる。私は立ち上がって駆け寄ると、そのひとを後ろから抱きしめた。
 灰原くんが私にしてくれたみたいに抱きしめると、目の前の彼がどれほど頑張って、どれほど力を尽くして、どれほど痛みを覚えたのかが、わかる。だから強く抱きしめる。
 抱きしめられたことに気づいた目の前の男性がかすかに動く。いつの間にか涙を流していた涙をぬぐいながら、私は彼の背中に顔を埋めた。
「……名字さん?」
「七海くん」
 彼が私の手を握り、そっとからだから外す。振り向こうとしているのを感じて私はその手にされるがままになる。彼は、七海くんは、私の手を握ったまま振り返った。
 私を見下ろす彼と目が合う。その目はなにも変わってないなと思う。瞬きの合間に彼の着ていた衣服が高専のものへと、彼自身が私によく見おぼえのある姿へと変わった。目線が近くなる。自分の姿を見下ろした彼が夢なのかとつぶやくのでそれなら私の見ている夢でもあるかもしれないと思った。でも夢でもいい、会えて嬉しい、よかった、それだけを言って私はもう一度彼のことを正面から抱きしめた。
 私は七海くんの手を引いて座席へと座る。七海くんは隣に座ると約束を守れなかったことをずっと謝りたかったと言う。私は思わず首をかしげた。七海くんは頑張ったのに? と言うとぎゅうっと私の手を強く握りしめる。その大きな手にそんなに力を込められるとちょっと痛かった。私があのとき最後に握った、人を助けためにいっぱい傷ついた手だ、と思う。その手は私の手と繋がれてここにある。
「やっぱりこれは夢なんだろう」
「どうして?」
「今までもあなたが私を許す夢なら何度も見た。そして自分が許せなくなる」
 今度は私からその手を強く握りかえした。
 灰原くんにもここで会ったという話をした。彼が七海くんのことを心配していたことも、途中で降りることを選んだことも話した。また会えると笑っていたと言っていたというと、彼らしいですねと七海君は言う。それに私もそう思うと答える。
 私たちは隣り合って座って窓の向こうを見つめながらそうしていつまでも手を握りしめあっていた。
 七海くんはどこかぼんやりした口調で言う。
「あの場所に戻ってもなにも残っていなかった」
 私の話だとわかった。きっと私のからだはなにひとつ残らなかっただろう。残っていてもきっと酷いものだったから、見られなくてよかったと思う。そんな姿を見られるのは恥ずかしい気がするし、私のからだが残ることで傷をつけるくらいならなにも残らないほうがよいとも思える。でもなにも残らない方が彼を追い詰めたのだろうか。
 彼は私が握った手を見つめる。あまりにもじっと見つめるので恥ずかしくなって照れ隠しに笑うと七海くんは視線を上げ、私の顔に手を伸ばすと輪郭を確かめるようにゆびの甲だけで私の頬を撫でる。そういう触れ方をされたことに思わず目を真ん丸にする。じわじわと顔が熱くなっていくのがわかった。そんな私に彼は可笑しそうな顔をした。
「そんな顔もするんですね」
 それは私のセリフだった。こんなふうに触れられる人だということを初めて知った。
「もっと早く知りたかった」
 その声は私には寂しそうに聞こえて、思わずくちを開く。
「時間ならこれからいっぱいあるよ」
 死んでしまったあとに時間があると言ってもおかしなことのように思えた。それでもそう言わずにはいられなかった。だって七海くんのこの手はもう武器を握る必要はない。もう闘う必要も失う必要もなくて、ただこうしていられる。私がこうなって初めて七海くんがこんなふうに触れる人だということを知ったことに意味がなかったとは思わない。
 七海くんは思ってもみないことを言われたように驚いた顔をして、そしてほほ笑んだ。今まで見た中でいちばんにやわらかい笑みだった。つられて私もほほ笑む。
「今度は七海くんの話が聞きたいな」
 そう、これから時間ならいくらでもある。
 いつの間にか窓の外の日が落ちて夕暮れの色に染まっていた。外の水面が赤く輝いている。電車のなかのすべてが夕日の光に照らされて赤くなっている。それこそあの日のようだった。
 車両の空気は夕日に照らされてあたたかく、どこまでものどかで、私はついあくびを噛み殺した。それを見た七海くんが言う。
「寝てもいいですよ」
「……う、大丈夫」
 明らかに無理をしていることが分かったのか七海くんが笑う。
「覚えてますか? 昔こうして三人で任務から夕暮れに帰ってきたことがありましたね」
「うん」
「昔を思い出すと辛いことのほうが多かったはずなのに一番にそれが必ず思い起こされる。だからここも夕暮れなんでしょうかね」
 私もそうだよ、ずっと覚えている。そう答えたかったのに、くちからこぼれたのはふにゃふにゃで言葉になり切れない声だった。七海くんの穏やかで低い声と相まってまぶたが重くなる。まぶたをこすっていると寄りかかりますかと声をかけられて返事をする前に肩に七海くんの手がまわり引き寄せられた。
 七海くんの肩によりかかるようにする。体温が伝わってきて余計に眠くなる。必死に抗っているのに意識がおちてしまいそうだ。これから話をしようといったのに、と私がとぎれとぎれにくちにすると、七海くんはやさしい声で言う。
「これから時間ならいっぱいあるんでしょう?」
 その言葉にそっかと思って、私は素直に目を閉じる。抗うことをやめたせいか、意識が一気に薄れていく。でもなにも不安はなかった。ただただ安寧だけがそこにはあった。
「ずっとこうしてみたかったといったら笑いますか」
 そんなことないよと言いたかったけど返事ができない。まぶた越しに夕日の光が私たちを照らすの感じながら私は眠りにつく。
 日が落ちるならこれから夜が来るのだろうか、それともずっとこのままなのだろうか。そんな疑問がよぎった。わからない。だけどそれをこうして隣に座って一緒に確認できるならきっとなにも寂しいことはないのだ。

ひまわりの残像

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