NOVEL | ナノ

 五条悟の名前を初めて聞いたのは本人と対面するよりずっと前の、この世界に接触したばかりのことだった。ただの窓のひとりとして協力をしている私ですら彼の名前をよく聞いたから、おそらくこの世界にいて彼の名前を知らずにいることはほとんど不可能なのだろう。
 いろいろな人間から聞く五条悟の話に共通するのは実力において向けられる信頼と人格においての破天荒さだった。彼を知っているどんな人間も五条悟という存在の力を認めていたが、性格においてはすべての人があらゆる言葉で(そこに程度はあれど)彼を揶揄する。
 「とても自由だ」と私に告げたのは私が窓として高専とつながることをいちばんに協力してくれた人だった。フォローのためか、私の困ったような表情のためか、その人は少しの苦笑いとともに忙しい人だし、会うことはないだろうねとつづけた。
 その言葉を素直に受け止め、一生会うことはないのだろうなと考えていた私と彼が対面したのは(それは対面というには短すぎる、すれ違うようなものだった)かけられていた言葉をすっかり忘れてしまうほどあとのことだった。対面するまえにあらゆる言葉で彼がなじられていたのを聞いていたため本物を見たときに、この言い方は失礼かもしれないが拍子抜けしたのを覚えている。
「思ったよりふつうの人だと思いました」
「僕が?」
 本気でびっくりしているような声音で彼が反応したので私のほうが驚いた。言ってしまってから失礼だったかなと少しだけ後悔のようなものを感じた。ふつうという言葉はあまりいい意味では伝わらなかっただろうか。誉め言葉に聞こえないというか、彼のような呪術師のなかの呪術師をしている人にふつうは言わないほうがよかったかもしれない。
 聞いていた評判からしていた想像とは違っていたのでとフォローのためにつづけてから墓穴を掘ったことに気づいた。アルコールが入った脳はあまりちゃんと働かずふわふわしていてまともな弁解を思いつかない。
 いくばくかの沈黙とともに彼がサングラス越しに私をじっと見つめる。じわじわと首のうしろに汗がにじむなんとも言えない感覚に耐えながら私は彼の眼を見つめかえした。
「変わってるね」
 そうだろうかと首をひねった私に彼がほほ笑む。彼が笑うと空間すら華やぐように見えた。これはふつうではないかもしれないなと今更ながらに思いなおしかけた私の手をひいて彼は夜にまぎれた。私は彼の手に導かれるままになった。
 抱き合う過程で私に経験がないことに気づいたのか、彼は少し首をかしげその行為をつづけるかどうかを聞いた。私は何も言わずに首をよこに振った。なぜか不安はなかった。不思議な気持ちだった。あんなふうに人ではないように言われているのにこんなふうに気遣ったり、女を抱くんだなというような気持ちのほうが先立っていた気がする。彼に誘われたら大概の女の人は私と同じようにこうなってしまうだろうなとその場には似つかわしくはない他人事のようなことも思った。
 その日私は彼の体温とともに五条悟がまぎれもなく人間であることを知ったのだ。
 おかしなことにその夜で関係が終わることはなく、なぜか続いた。彼のような人が私のような、それこそよっぽどふつうの女を求めるのは変な感じだったが彼は私をなんてことないような顔をして求めてみせた。率直な話だが、あの夜の私が彼を満足させたとは到底思えなかったのでなにが彼の琴線に触れたのかさっぱりわからない。いつかは途切れるだろうなという綱渡りのような感覚のなかで押し流されるように、関係は継続されていく。
 私は彼と抱き合うたびに会うことはないだろうという苦笑じみた言葉を思いだした。そんな言葉からずいぶん遠いところに来てしまったとぼんやりと考える。
「なに考えてるの?」
「あなたのことを考えてます」
「それはいいね。でも僕と一緒にいるときは僕のことちゃんと見てて」
 彼が私を見つめる。私は彼のその瞳が好きだった。何の気なしにその瞳を綺麗だと褒めた私に彼は自らの瞳が自分の術式にかかわっていることを説明してくれたことがある。なにも知らずにただ綺麗だと言ってしまったことが恥ずかしくてごめんなさいと困った顔になった私に彼は可笑しそうに笑った。それでいいよ、僕はそのままでいてくれてほうがいいなあと笑い、彼は自らの腕のなかに私を閉じ込めた。
 彼はまるで恋人のような触れ合いを好んだ。性的な意味を持たないただの触れ合いをよくおこなったし、私からそうされることも楽しんでいるようだった。なんなら呼び出したというのにそういう行為をせずに抱き合ったままで眠りにつくような日もある。お互いの体温がただそばにあるだけで満足を得ているような彼の挙動は私の心のやわらかな部分をくすぐったが同時に寂しいような切ないような、微かなさざなみを起こした。
 恋人のような、であって恋人ではない。言葉として明確に表現できる関係を求めたことはなかったし、それでいいような気持ちでいた。
 優しく唇を重ねられると同時にまわされた腕が背中をなぞる。彼のうすいくちびるが自らのそれと重ね合わされるたびに喜びによく似たびりびりとしたしびれが走る。接触に伴う気持ちよさや体温によって導き出されるほかではけして得られないものもすべて彼によって初めて教えられ、与えられたものだった。彼は私にそういうまぎれもなく幸福な記憶や経験を与えてくれた。私にたいした異性の経験はなかったがそれでもこれが、ただ体を重ね合わせるための存在にしては破格の扱いだったことを知っている。
 それでも、と思う。いつか終わりを迎える関係ならばそろそろが引き際だろう。
 私が呪いを視認できるようになったのはとあるきっかけがあってのことだった。知人を亡くすことになったその『事故』は私の人生に大きな転変を起こした。『見える』ようになった私がよすがを探すようにして行き着いたのが窓という地位だ。知ってしまうことは人生を変える。今の私が昔のように見えなくなってもなにも知らなかったあのころにはけして戻れないだろう。
 私の話を聞きたがる彼に昔のことを語ったことがあった。昔の話を自らの口でだれかに語って聞かせたことは初めてだった。面白くはないだろうし幼いころからこちらの世界にいた彼にとってはありふれた話だっただろうに(こちらの世界を知ったことで私は私に起こった不幸がけして珍しくもない『事故』であることを知った)彼はその話を聞くと真面目な顔のまま、私の体を抱きしめた。慰めを与えるように私に触れ、撫でてくれる彼に大げさだ、大丈夫だといつものように笑おうとして、顔が引きつった。話せると冷静に判断して口にしたつもりだったのに彼の受容は胸の奥に沈めていた悲しみをあふれさせた。
 誰にも言うつもりもなかったことを私は思わず口にする。
「忘れたくない」
「忘れなくていいよ」
 私に忘れなくていいと言ってくれたのは彼が初めてだった。誰もが私に忘れることを求めたしそれが善いことであると諭した。それらが誰を思ってのことなのかということは悲しみの淵にいようとわかることだったので私はそれらを否定できなかったができるはずがない。捨てきれないどうしようもない苦しみだけがどこまでも影のように私に付きまとう。
 私は忘れたいと思ったことなど一度もなかった。ほかのだれかが聞いたら彼の言葉を惨いといったかもしれない。けれどまぎれもなく、その言葉は私の救いだった。
 彼に語って聞かせるために知人としたが亡くしたのは『親友』だ。彼はおそらく気が付いていたと思う。
 そうして抱きしめられ腕のなかにいると彼の体温と私の体温があいまいになり、自然と意識がとろけていくのがわかる。私のなかのなにかがほどけたことで安堵とともに体の力が抜けるような心地だった。とろとろと小さくあくびをする私の頬を彼がなでる。
「五条さんは、大変じゃなかったですか」
「ん?」
「だって私みたいに途中からじゃなくて、ずっと見えていたんですよね」
「……うーん」
 彼の声も眠たげだった。その日は彼が海外への出張から帰ってきたばかりで久しぶりに会う日だった。なにもしなくてもいいのかなと少しだけ思ったけれど、もはやふたりともがお互いにそんな空気ではなくなっていた。
「当たり前すぎて考えたことがないな」
 その言葉に、彼がそうしてくれたように私も彼の体を慰めるようになでた。彼自身は自由かもしれないが彼の周りにあるものは言われているほど自由ではないのだなと思った。あんなものを幼少期から見ているのを大変だと感じたことがないくらい、それが当たり前のように思っている彼が私には自由どころか不自由のなかにあるように思えたのだ。
「五条さん」
「うん」
 だから、大きすぎる彼のその手を握った。どうしていいかわからなかったから彼の手を握った。いつか私以外のちゃんとした女の人がこうやって彼の手を握るまで、私がこうして握ってあげられたらいいのになと思ってしまった。
 たぶんその夜がいちばんのきっかけだったように思う。五条さんと一緒にいると緩やかに彼への情が降り積もっていくのがわかった。それが私のなかで執着になるまえに手を放してあげないと、と思った。彼をとりまく彼を不自由にさせるものの一部にはどうしてもなりたくなかった。たぶんそれは、私が持っていた、つくってしまった、だひとつの思い入れだった。

 私は彼からの連絡に応じる回数を減らしていった。そもそも彼は忙しく飛び回っているような人だ。積極的に会おうと機会をつくらなければ顔を見ることさえなくなっていく。終わりにすると決めたならほんとうはもうきっぱりと会わないほうがいいのだろう。それでもそうしきれないのはやはり名残惜しさがあったからだ。いつかを先延ばしにしている自覚があったが『事故』を経てこんなふうに心や体を近づかせた人間の存在は久しぶりで、それを失うことに人並みに恐ろしさがあった。
「最近忙しい?」
 久しぶりに誘いに応じた私のひざに甘えるようにくっついてくる彼の頭をなでる。彼のさらさらとした髪をこうやってなでることもなくなるのだなと思うと心に擦り切れるような痛みを感じた。私はぼんやりと笑いながら彼の額にキスをおとした。わかりやすいご機嫌取りに彼は応じることに決めてくれたらしい。首に手を回されて引き寄せられる。
口づけられながら、私は終わりのことを考える。いっそいまもう会わないといったほうがいいのだろうか。きっと彼はいつもそうするように私の頬をなで、そっかと受け入れるだろう。
 彼が私以外に会っている女性がいるかどうかは私にはわからない。忙しい彼が私と会うための時間を捻出していることをなんとなく知っていたので時間があったら私のところに来ているという彼の言葉を疑ったことはない。でもその言葉が真実であるかどうかと女の人がほかにいるかは別のことだろう。聞いたことはないし、聞くつもりもない。ただ、ほかの女の人の存在をわかりやすく示唆してくれるような男の人だったらもう少し違ったかなと思う。
 彼に抱かれながら、私は彼の次の女の人を考えてみる。私と正反対の女の人を私と同じように抱く彼を考えると納得とともに息ができないような気持ちになった。だけどそのふわふわとしたあいまいなイメージもその胸の痛みも彼の前ではその手や体温にによってとかされて、頭のなかで明確な形になるまえに霧散していく。
 彼との時間を減らしていくと、反対に彼のことを考えてしまう時間が増えていってしまったので私は仕事以外でできるだけ一人で過ごす時間をなくした。少しでも時間があればまえから興味があったものに挑戦してみたり、今までの自分ではしてみなかったこともやってみた。そうしていると彼のことを考えなくてよくて楽だった。まるで失恋でもしたようだと考えてから自分でも笑った。彼との関係は恋愛関係というには甘すぎて現実味がない夢を見ているような時間だった。
 予行練習のように彼と会えない時間をそうして過ごすと、少しはまともに過ごせるようになっていった。微かな寂寞はあったがそれ以上に彼に出会うまえのように彼なしでも生きていける自分に安堵した。
 彼が私に会いに来たのはそんな日々のなかのある日のことだった。
 その日は休日の前日の夜で、私は知人から紹介された男性と食事を終えて帰ってきたところだった。
 マンションの下の入り口のあたりで暗闇からぬっと姿をあらわした彼に悲鳴をあげそうになる。そのあらわれ方は暗闇のなかから突如として出現したようにすら思えた。闇に同化している服装のなかで、彼の微かに露出している肌が電光に照らされより白く透けるように見える。目元が隠され表情は見てとれなくとも彼の機嫌が悪いことは気配でよく伝わってきた。胸のなかに押し込めていた後ろめたさが彼のその気配で重みを増す。歌さえ口ずさみかけていたほろ酔い気分は一気に冷め、冷や水を浴びせられたような気持ちになった。
 ついでに言うと彼にどこのあたりに住んでいるかを話したことはあったが実際に私の部屋にあげたことはなかったし、もっと言えば具体的な住所を教えたこともなかった。
「随分楽しかったみたいだね」
 声音には感情がこもっていない。その声音に私は生まれて初めて彼が恐ろしいと思った。マンションを見上げるようにしてから私を見た彼があがってもいいよねと問うもそれは問いではなく命令のように私には響いた。
 部屋に向かうまでの道がこれほどまでに遠く、長く感じたことはない。これからどうなるのだろうと思った。まったくなにもわからない。そもそもどうして彼はここにいるんだろう。
「最近なかなか会えないから来ちゃった」
 私の疑問を見透かすように、わざとらしいくらい穏やかな声で彼が言う。その声にただうなづいて応えた。それ以外にどう反応すればいいかわからなかった。
 ようやく部屋のまえの玄関にたどりつき、鍵をあける私の手はかすかにふるえていた。扉を開ける。そのまま彼のほうを振り向き、彼の様子をうかがった。彼はただ、私が部屋に入るのを待っていた。そのまま立ち尽くすわけにもいかず私は自らの部屋へと歩を進めた。
 私の後から彼が部屋にあがる。彼の部屋へ私が訪れることはよくあったが、私の生活空間に彼がいるのは恐ろしく違和感があった。彼は私の部屋を見渡すと面白くもなさそうに吐き捨てた。
「男の私物でもあったらどうしようかと思ったよ。それとも仕舞っているだけかな」
 彼が私に対してそういう態度を見せることは初めてだった。思わず凍り付く私に彼が一瞬なにか言いたげな顔をする。それをごまかすように彼は私に手を伸ばしそのままかき抱くと、息もつかないようなキスをした。そうして彼はいままででいちばん乱暴に私を暴いた。私の体にほかの男の痕跡でも探すように執拗な抱き方だった。義務感のような抵抗をすると彼が余計に苛立ちを募らせるのが手に取るようにわかり、諦めるようにされるがままになる。
 抱かれているなかで逃避のように心と身体が分離した。揺さぶられるからだをよそに心が凪いていく。
 なにか起こったのだろうか。彼のこなしている仕事が彼でなければ回らないような量と内容であることは彼以外の口からもきいたことがあったし、彼自身の口からも疲れるよとときどき吐露されたことがあった。それなのにそんな大変な日々の中で私がつかまらないうえにほかの人間と楽しそうだったから気に入らなかったのだろうか。どうだろう、彼に子供じみたところはあることは知っていたがそんなことがあるだろうか。
 私の心がここにあらずなことに気づいたのか彼の抱き方はもっとひどくなった。痕を残そうとする彼に思わず声をあげそうになる。そんな私の反応に冷えた怒りに爛々としている彼の瞳がこちらを見下ろした。
「つけられて困ることでもあるの?」
 その声は予想もしていなかったようなひどい裏切りにあったような怒りに満ちていたが同時に傷ついたようでもあった。すがるように繰り返し呼ばれる私の名前はなぜそんなふうに彼が呼ぶのかわからなくても心をざらつかせ、悲しい気持ちにさせるのには十分だった。
 そむけるようにしていた顔を寄せ彼に口づける。ほとんど触れるだけの子供がするような口づけだったが驚いたように瞳を瞬かせた彼に押さえつけるようにされていた腕を伸ばした。彼の体を抱きしめる。彼は何も言わずにされるがままだった。落ち着かせるようにその背中をなでる。
 自らを落ちつかせるためか、彼が深く息を吸う音が聞こえる。挙動の性急さと乱暴さがなくなり、明確にゆっくりになる。彼のまとっていたとげとげしい怒気がやわらかくなるのを肌で感じて私は小さく息を吐く。
 久しぶりの、触れ合いというには乱暴だった交接がようやく終わると彼は私を抱きしめて離そうとはしなかった。彼は自身の体を錨のようにして私を抱え込み足からなにから絡めてくっつきあう。私のベッドは彼の背丈にはけして見合っておらずそのおかげでお互いの体で触れ合っていないところな密接な絡まり方になっていた。
 少しでも離したらどこかに逃げるとでもいいたげな抱きしめ方にそんなことをしなくてもどこにも行かないと告げる私に五条さんは重たげにその口を開く。
「浮気までしたくなるくらい僕が嫌になったの」
「浮気」
 言葉の意図がつかめずに思わず鸚鵡返しに言葉を口にしてから彼の顔を見上げた私に五条さんは目を細めた。彼は私の表情からなにかを見抜こうとでもするようにじっと見つめていたがそのまま私の顔を自分の胸へと押し付けるようにする。抱かれながらつむじに彼の唇が触れるの感じた。抱きしめられているというのにすがられているようだったし、甘えられているようでもあった。彼はいつもそうして私を抱きしめる。
 揶揄というには本気めいている浮気という言葉に心の中で首をひねる。そんなことはしてないし、そもそも彼とはそういう言葉が使われるような関係ではない。それに愛想をつかされるのも飽きられるのも、そうされるのは私のはずだ。この関係が喪失しても、それは私が彼を捨てるわけではない。けれどうまく説明して彼を納得できそうにはなかった。
 いろいろなことを考えてみたがどれもこうなる理由として妥当なもののようには思えず、単純にこの人は寂しかったのかもしれないなと思った。この人はこう見えて寂しんぼだ。離れていかないと思っていたものが自らから離れていくのが耐えきれず許せなかったのかもしれない。
 ひどいエゴだと思ったがそのエゴも含めて彼らしかった。胸の奥がじりじりとあぶられるような気持ちになって、くちびるをかむ。私がいろんなことを考えて距離をとってもそんなものは関係ないというように、その長い腕で私を捕まえてしまう彼のそのいうところがずるい。でも、好きだ。
「大丈夫ですよ」
 彼に対してなのか自らに言い聞かせるためなのか、自分でもわからなかったけれどそれだけを口にした。彼はますます腕の力をこめる。痛いくらいのその力に、私はずっとこうしていられたらいいのになと夢みたいなことを思った。
 五条さんの話を久しぶりに他人から聞いたのは、それからほどなく窓として高専に訪れた際のことだった。
 いつものように行われる手続きの途中で私の対応をいつもしてくれるその人は雑談交じりに彼の名前を挙げた。私は彼の話を聞きながらこの校舎で五条さんが教鞭をとっていることを改めて想像してみていたのだがまったくうまくいかなかった。
「五条さんもねえ、結婚でもしたら落ち着くのかな」
 私は思わずそう口にした彼のほうを見やった。当然のことながら彼は私と五条さんがそのような関係にあるとは知らないし想像したこともないだろう。おそらく知人関係にあることも知らないはずだった。
 私の視線にその人が苦笑じみた笑みを浮かべる。
「彼、家が家でしょ。そういう話もきてるんだろうけど、どうなんだろうね」
 視線を下げると年相応のかさついた手が組まれるのが視界に入る。その口調にどこかぞっとしたものを感じながら実は彼と寝ているとも言えずにさあとあたりさわりのない返事をした。
 その雑談は私の近況へと移り、私は先ほどの返答のようにあたりさわりのない返答を重ねた。私に起こった『事故』を対応していたこともあり、その人とは付き合いは長く、その分対応にいくらかの配慮をしなければならなかった。
 もうすぐだねえと話を振られ、あの『事故』の日付が迫っていることを私は意識し、親友のことを思い出す。それを見抜いたのか私を見るその目に憐れみが浮かんだ。
「忘れないとだめだよ。忘れて幸せになることが供養になるだろうから」
 私は何も言わずにうなづいた。目のまえのその人は善良で、私のことを考えてそう言っているのがよく分かった。けれどその善良さが真綿のように私の首を締めあげる。
 私はあのとき親友とともに一緒に死にたかったとずっと考えていたし今もそう思うことがある。そう言ったら目の前のこの人はどんな顔をするのだろうか。試してみたいような気持ちもあったが、きっとすっとするのは一瞬だけだということはわかっていたので私は言葉を飲み込み、手続きを終えた。
 私はその帰りに五条さんにもう会わないと一方的な連絡を送り付け、あらゆる連絡手段をたった。そしてあの『事故』の日が迫るその日々のなかで、呪いに身を投げようと思いたった。実をいうとそう考えることは今までも数えきれないくらいあった。思いついてもあらゆる要因が交差し成し遂げるまでにはいかなかったのだが、もういいだろうと思ったのだ。
 窓という存在になってから、一般の人間よりも呪いのことを知るようになった。それでも呪いのまえで私はそれらを視認ができるだけであり、祓うすべは持たない。呪いとは人間の感情の煮凝りなのだそうだ。なら人間が全ていなくなったら呪霊もいなくなるのだろうか。五条さんにそう聞いたことがある。五条さんは一瞬考えてからそうだねと肯定してくれた。呪霊がいなくなったらこの忙しさからも解放されるだろうから旅行にでもいこうかと冗談めかして彼は言った。私は呪霊がこの世からいなくなることがないことを知っていたけど、その言葉に何も言わずうなづいて旅行なら海の近くがいいなといったのを覚えている。
 呪いが見えるようになってからはできるだけそういう気配や恐ろしいものには近づかないようにしていたが改めて直視するとこの世には嫌というほどそういうものがあふれている。この醜くて穢いものに彼は幼少の砌から対峙してきたのだ。こんなときにぼんやりと彼のことを考えてしまうことが未練がましくて可笑しかった。
 呪霊に満たない汚泥のような呪いの気配はよく見たが、呪霊として形をなしたものはなかなか見つからなかった。そもそも呪霊がそこらへんにあふれていたら高専という機関の存在の意義がないことに思い当たる。
 それでもあきらめきれずにふらふらと呪いのありそうな場所をまわり、ようやくそれらしい気配を感じて私はほほ笑んだ。その気配がある建物は廃ビルの体をなしていたがほとんどぼろぼろで私でも簡単に入り口から入れそうだった。暗闇のなかにうごめく気配に惹きつけられるように、私は中へと侵入する。もし対面するのが呪霊ではなくともそれはそれでよいような気がした。こんな場所で出会う人間なんてまともじゃないだろうこともそれに対面したときに女の私がどのような目に合わされるか想像できないわけではなかったがもうどうでもよかった。
 中に入ると一気に気温が下がったようだった。獣のような笑い声と荒い息が聞こえてそれらは私から近づいたり離れたりした。その声には手の中に転がってきた獲物に対する厭らしい歓びが満ちていた。
 もつれそうになる足を動かしながら私は階を上がっていく。階が上がるにつれて気配は濃密さが増していった。暗闇は私の足をなめるようにくすぐり、生臭いようなにおいが鼻につくようになる。ようやく屋上につきさび付いた扉をあけたとき、それまでとは違う種類の暗闇が視界を埋めた。恐ろしいものが近くにあるのだと本能的に体が察知し、震えそうになる。それでも心にあるのはようやく楽になれるという安堵だった。もっと早くこうしていればよかったのだ。
 安寧への予感に胸を震わせながらその暗闇へと身を投げようとした瞬間、それよりも先にたちこめていた闇が一瞬で晴れた。目を丸くした私のまえに空から現れたのは、よくよく見知った彼である。
 こちらを見遣った彼が奥に鎮座していたものに対して手をかざす。吹き荒れる爆風に近いような衝撃波に思わず顔をかばうようにしたその瞬間に建物すら巻き込んであの恐ろしい気配の呪霊が消し飛んだ。
「どうして」
 膝が震えるままに、それでもそう言わずにはいられない私の腕をつかみ、彼が当たり前のように言った。
「帰るよ」
 どこに帰るっていうんだ。思わず刺々しい気持ちで彼を見つめる。そんな私を五条さんがじっと見下ろす。目隠しは首まで下ろされており、彼の目は露出されていた。
「会わないって急に連絡がきて連絡がとれなくなったと思ったらきみが死のうとしてた僕の気持ちがわかる?」
「……」
「大丈夫じゃないなら大丈夫って言うな。ちゃんと助けてって、どうしてほしいのかを言えよ」
「そんなの言えるわけないじゃないですか」
 恋人でもないのに。耐えきれずに震えてしまった言葉に彼は美しいその瞳を見開いた。愕然としたといってもいいような表情に私のほうがびっくりする。
「僕は君の彼氏だろ」
 何を言っているんだろうという顔をしたのが分かったのか彼が顔を苦々しくゆがめた。同時にその顔はショックを受けたようでもあって、悪いことなどなにもしていないのに足が自然と引き下がりそうになる。
だけど腕をつかまれているためにそうはできなかった。つかまれている腕に目をやってから彼の顔を見上げる。よく冗談を口にしている彼だが今の彼はとても冗談を言っているようには見えなかった。
「別れたつもりはないんだけど」
「……そもそも始まってないですよね」
「こんなときにそういう冗談は辞めてよ」
 どうやら私が本気で言っていることに気づいたのか五条さんは顔を手で覆うと深いため息をついた。こちらがそうしたい気持ちだというのに彼は心底あきれたような顔をする。
「じゃあずっと僕たちは付き合ってなかってこと? あんなに僕のこと好きって言ってたくせに」
 私に好きと言わせるのは五条さんで、好きと言われると機嫌をよくするのも五条さんだ。でもそうして吐いたその言葉がすべて嘘とは私には言えなかったから、なにも言えない。
「結婚するご予定が、あるんじゃ」
「結婚? 名前が結婚願望なさそうだしゆっくりでもいいかと思ったんだけどしたい? する? しようか」
 当たり前のように私の存在を出され、その勢いのままに大事なものが簡単に決まりそうになって慌てて首を横に振る。いろいろな意味でそんな心の準備はできていない。私の返答にふーんとつまらなそうな反応をした五条さんに今もしかして私はプロポーズされたのか? と呆然としてしまった。
「誰かから変な話でも聞いたんだ」
「……いえ」
「僕が誰かと結婚すると思ったから死にたいと思ったの?」
 ふつうだったら聞きづらいだろうことは彼は平気で聞く。私は少し迷ってから素直な気持ちでいいえと否定した。彼もたぶんそれはわかっていたのだろう。特に反応することなくそうとだけ言う。
 私はもうずっと死にたかったのだ。ずっとずっと考えていたことを今回ふと思い立って実行しただけで五条さんがきっかけではない。そもそも自分から彼から距離をとろうとしていたのだ。けれどもういいかなあと思ったことの要因ではないのだと、それを完全に否定することはできなかった。
 あなたを失うかと思ったら死にたい気持ちになったと告げたら、彼は喜びそうな気もした。だからと言ってとても口にはできなかったけれど。
「もう楽になっちゃダメですか」
「ダメ。僕は忘れなくていいとは言ったけど死んでもいいとは言ってない」
 君がどう言おうとこれから先も君が死のうとしたら必ず邪魔しに来るからとこともなげに言われて、今度こそ私は膝から力が抜けた。ぐにゃぐにゃと崩れ落ちそうになる私の体を彼は当たり前のように抱え上げる。
 重さを感じさせない動作で抱き上げられ、されるがまま彼の体にしがみつく。彼は当たり前のように私ののぼってきたビルの中ではなく外側へと向かった。彼は私を抱えたままビルから飛び降りると空を駆ける。恐らく術式を使っているのだろうが、私は彼が術式を使うところを初めて見た。先ほどの一瞬で呪霊を祓ってしまったこともそうだがその力を見ることで改めて彼がもはや人外の領域にあると揶揄されるのも少しだけ理解できた。でも私は彼が人間であることを知っている。彼の体温がとてもあたたかくて、優しい手つきで私の髪をなでてくれることを知っているのだ。
「五条さん」
「うん」
「好きです」
 答えの代わりにほっぺたに口づけを落とされて、現金なことに思わず私は頬を緩めてしまう。
 おそらくそろそろ日付が過ぎたことが脳裏に過ぎった。昨日は『事故』の当日でもあり、親友の命日でもあった。五条さんと初めて寝たあの日もそうだ。
 漫然と存在するあの死にたい気持ちを完全に捨てられているわけではなかったが、それでも今私を抱えて抱き上げてくれるこの人はそれを許すつもりはないのだという。思わず泣きだしそうになって彼の胸へと顔をうずめる。
 ここまできてようやく私は流されるのではなく自分の意志で彼を選んだのだと、彼に選ばれたいのだと思った。思うことができた。笑いたいほど彼は無茶苦茶で自由だったがそれはある意味でほかのどんな存在よりも私への救いだったのだ。

薄明

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