NOVEL | ナノ

 迫る気配を強く感じ取った瞬間に鳥肌がたつ。その瞬間いちばん近くにいた彼が私に手を伸ばして、そのまま抱き寄せられるのと視界が闇におかされるのはほとんど同時だった。
 体を包む浮遊感に反射的に目をつむる。お腹のなかみが浮き上がるようなその感覚はエレベーターに乗っているときにも似ていたけどそれよりずっと強かった。
 大きな力のなか、ぐるぐると回転するようにおちていく。真っ暗な闇のなか、なにも見えない、なにが起きているかもわからない状況下で掴まれた手のひらの温度と私のからだを抱きしめている彼の存在だけが確かなものだった。私は息をひそめながらそれだけを感じていた。
 力の奔流は突如として止まる。その力は私たちを解放すると同時に狭い場所へと放り投げた。
 ごんと鈍い音がする。投げ出された衝撃は大きくて一瞬私のからだから響いたようにすら思ったけど、違うみたいだった。痛みがない。突然の出来事とさきほどまでからだをぐちゃぐちゃに揺らしてくれた力からやっと解放されたことに思わず小さく息をはいた。
 空間は一筋の光も存在しない暗闇に包まれていてなにも見て取れない。先ほどまで響いていた破壊の音もなく、静かすぎた。さきほどの場所から随分引き離されてしまったことがわかる。
 そしてなにかの上にのしかかるようにしていることに気づいた。コンクリートやアスファルトみたいな無機質な硬質さはなく、しなやか感触だと思った。
 それを確かめるように手を伸ばした。あたたかい。手のひらに伝わってくる温度と感覚に疑問符が頭に浮かんだ。どこかかわいたやわらかな場所にゆびがかすめて、それがみじろぎする。
「そこはくすぐったい」
 私の手の動きを止めるように腕をつかまれた。聞きなれた声だった。途端にいま手でふれて確かめているものが、ひとが、誰なのかわかって、はじかれたようにからだを起こすと、思い切り壁に頭をぶつけた。
 壁といってもぶよぶよとしたやわらかな感触だ。やわらかなその障壁に衝撃のまま跳ね返されて私は虎杖くんのからだにまたぶつかった。
 顔面から、虎杖くんの、恐らく胸のあたりにぶつかって、そのまま顔をうずめる体勢で思わずその行為に対しての情けなさと羞恥で沈黙する。
「……ごめん」
「いや大丈夫。それより名字だよな? ケガしてない?」
「大丈夫、庇ってくれてありがとう」
 掴まれていた腕がそこでやっと離される。よく考えれば腕を掴まれたままなのだから乗ってしまっていたのが誰に対してだったのかに気づくべきだった。
 ぶつけた頭につい手をやる。からだを起こしたといってもほとんど距離をとっていない場所でぶつけてしまった。随分狭い空間のようだ。
 今度はゆっくりからだをおこして、背中で壁を感じるところまで距離をとる。想定していたよりずっと近い距離に壁はあった。壁には弾力があって、少し押してもそのまま押し返されるようだ。爪を立てるようにしても歯が立たない。
 私が確認するのと同じように悠仁くんも上に手を伸ばした。
「おちてきたんだから穴はあるよな」
 その言葉で(ぐるぐるとからだをまわされて正直どこからおちてきたかも認識できていなかったので)私も手や足を延ばす限りで確認するが隔たりによってきっちり囲まれ、他と隔絶しているようだ。確かにおちてきたのに穴の気配はない、ということはふつうの場所ではないのだろう。
 術式で意識を広げてみる。よく知った存在を遠くにふたつ、ゆらぐことのない健全な状態で感じる。二人はちゃんと無事のようだった。呪霊の気配も探ってみるが、そちらは消えている。もう祓われたのかもしれない。
 虎杖くんが私より長い手足で私には届かない場所を確認しているらしいのが気配でわかる。からだを重ねないように腕立て伏せをするようなかたちのままで口を開いた。
「二人ともちゃんと無事みたいだし、呪霊も祓われたみたいなんだけど、そうなるとここも消えるはずなんだけどな……」
 おそらく呪霊による影響下か術式でできた空間だと思われる。さきほどまでいた建物内の地下のようにも思われるがなにせまったくなにも見えない。
 今日の任務は建物のなかの呪霊を祓うというものだった。さっきは二階にいたはずだったけど、あのおちかただと二階どころじゃなくおちている。地下があってよかったと思った。地面に埋まりたくはない。
「名字ちょっとこっちよれる? さっきみたいに」
 その言葉で距離をとっていたからだをさっきみたいに虎杖くんに寄せてみる。虎杖くんの手が庇うように私の頭に添えられて、そして軽い音が響いた。
 殴ったのだとわかった。虎杖くんの身体能力は知っているし動きで「本気」で殴っているらしいのはわかる。でもそれに音があまりにつりあっていない。
 虎杖くんが立て続けに何度もそうする。私は腕に抱かれたまま虎杖くんのからだから伝わる衝撃の大きさに目をつむっていた。
「手ごたえ全然ないんだけどこれどうなってんのかな」
「……さっき頭をぶつけたときとか、確認してみたけど全部跳ね返される、というか衝撃が吸収? されてる感じだよね」
 術式をつかったまま意識を広げているが新手の呪霊の存在は確認できない。確認できないほど小さなものにここまでの空間がつくられることはない。さきほど祓われた呪霊が残したものの可能性が高いだろう。
 それでも大本の呪霊が祓われたのだからその呪霊の呪力でつくられた空間も消えるはずだということを身をもって学んでいた。
 ということを物理的にはなにもできないのでせめて頭を使って考えて伝えるとおおと感嘆したような声で反応してくれて少し照れてしまった。虎杖くんは誉め上手だ。
 それからお互いに持ちうる手段で外に出ようとしたがうまくはいかなかった。つくられた空間は基本的に外からは弱くても内からは強いことがほとんだ。どちらにしろ今は待つしかないかもしれない。長くはない時間を経ていつかはこの空間を隔てる壁は崩れるだろう。それかふたりが外から来てくれるかもしれない。
 なにもすることがないので虎杖くんと私のどちらからともなく口を開いて何気ない会話をした。
 見えないけど顔が近いのは気配で感じ取れる。照れを感じながらも押し倒している恰好のままでいた。そうして話をしていると虎杖くんが少し言いづらそうな気配で言う。
「名字、あのさ、その体勢キツくない?」
「平気だよ」
「腕ぷるぷるしてるけど」
 あんまり平気ではないがそう口にするのはあまりにも情けない。それでも平気だと言い続けていると諦めてくれたのか虎杖くんはなにも言わなくなった。でも絶対あの困った顔しているのが見えなくてもわかる。
 限界を迎えそうになったところで、なぜか謝られた。
「名字、ごめん」
 背中を軽く押される。震えていた腕は簡単にがくんと外れて、虎杖くんの胸の中にからだごとおちた。しびれが走る腕ごと虎杖くんの腕のなかにおさまる。
「つい押しちゃった。俺が悪かったしそのままでいてよ」
 つい、というよりは私が素直に聞かなかったからそういうことにして、甘えさせてくれたんだろう。そのことを指摘するのも野暮だと思って、私はごめんねとだけ言って虎杖くんのからだに自分のからだを重ねた。学んでいたので、お互いに恥ずかしくならないように自分の胸の下に手を入れるようにした。
 ちょうど顔のところが虎杖の胸にあたるようになっていて心臓の音を聞こえる。何も考えずに心臓の音が聞こえるというとちょっと恥ずかしいと言われて慌てて顔をそむけるようにした。余計なことを言ったせいで私の心臓の音が速くなってしまった。
「そういえば頭打っただろ。痛みとか、」
「大丈夫だよ」
 ドキドキして余計なことを考えていたせいで喰い気味に反応をしてしまった。そんな私に虎杖くんは小さな声で聴いた。
「見ていい?」
「……うん」
 虎杖くんの手が遠慮がちに頭に触れる。傷を確認しているようだった。虎杖くんにそんな気持ちはまったくなくて、ほんとうに善意で見てくれて、こんなふうに感じるのがおかしいのに、指が頭皮にふれる感覚にぞくぞくするような心地よさが走って震えそうになって、唇をかみしめるように耐えた。
 虎杖くんの足の間にいれるようにしていたひざが床にこすれる。私が頭をぶつけた壁とは違いかたくて冷たい。ぶつかったら痛みをおぼえそうな材質だ。
 でも、あの勢いでこの床におちたときに私は痛みは感じなかった。それはつまりどういうことかといえば、虎杖くんが庇ってくれたということだろう。痛かったはずだろうに、虎杖くんは声もあげなかった。
 ここにおちてくるきっかけもそうだ。虎杖くんは私を庇うために一緒におちてきてくれた。この構図と距離に少し前に伏黒くんと一緒に閉じ込められたときのことを連想する。前もこうして庇われて一緒に閉じ込められた。そう、私のために。距離の近さにおののいていた頭のなかが一気に冷えていく。胸の中にざらつくような痛みを覚えた。私は考える前にもう一度謝っていた。
「虎杖くん、ごめんね、その、……足をひっぱって」
「え? 別に名字が悪いってことないだろ」
「……」
 私が足を引っ張ったのだと強硬に主張しても虎杖くんは困るだろうし、その事実は変わらない。優しいから、むしろ慰めてくれるだろう。だからもうなにも言えなかった。
 思わず黙ってしまったことで空間を沈黙が支配する。私のせいで空気がそうなってしまったことに慌ててほかの話をしようとするとその前に虎杖くんが口を開いた。
「もし名字が逆の立場で俺が危なかったら手を伸ばそうとしてくれるじゃん。それって考える前にそうするっていうか、別になんか嫌だとか感じないだろ」
「……うん」
「それと同じだって。でもほんとに危ないときはそんな無理しないでほしいけど」
 ざらざらする心にその言葉があたたかく染みるようだった。私は今度はごめんねじゃなくてありがとうと伝えた。なにもできないことには変わりなくて、罪悪感が消えたわけではなかったけどそれでも同じだと言われたことが嬉しかった。呪術師をしている虎杖くんとの立場の違いに、口には出さないけど、私も虎杖くんに無理をしてほしくないと思っている
 ゆるむ頬を隠したくて虎杖くんの胸元に少しだけ顔をおしつけるようにする。からだを男の子の上に重なる体勢はやっぱり彼女と彼氏同士じゃないとしないような体勢だ。それこそ前に伏黒くんと閉じ込められて密着したことを思い出す。あのときとは上下が逆だったけど同じくらい近い体勢だった。
 でも虎杖くんの人柄のおかげかドキドキというよりはこんな状況なのに安心のほうが強かった。
「……重くない? 大丈夫? キツかったらすぐ言ってほしい。気とか絶対使わないでね」
「いいよ、平気だって」
 気を遣ってくれているというよりはほんとうに平気そうな声だったのでひそかに胸をなで下ろした。というか人ひとりが上に乗って重くないはずがないんだけど重さを感じていない様子にむしろびっくりする。
 考え出すと手のひら越し、制服の下に、筋肉の感触がわかって思わず意識をしてしまった。勝手に意識して勝手に羞恥を感じて身をよじると動かれるとくすぐったいと言われてあわててからだの動きを止めた。
 こんなに平然としてるけど私のときは、伏黒くんが上に乗ったとき、どうだっけ? 重かったとかよりなにより近くてなにも考えられなかった記憶がある。そう思うとこんなに近いのに、ちゃんと会話ができるのはやっぱり虎杖くんの気安さだろうか。
「そういえば、このまえもこんな感じだった」
「このまえ?」
「伏黒くんが、いまの虎杖くんみたいに庇ってくれたとき。近すぎて緊張した」
 そういえば伏黒くん私より長く腕立てみたいな体勢になってたはずだったのに全然平気そうだったな。すごい。
改めて考えると密着していいと伝えることであのときむしろ気を遣わせてた気がする。というか口ごもってたのは近くなるってわかってたからだろうか。そう思うと今更いいようのない照れと羞恥がわきあがってくる。違うんだと訂正したかった。今更訂正されて話題に出されるのも実際に強いたことも事実なのでもうなにも言えないけど。
「伏黒のときもこんなに近かったの?」
 ぐるぐると考えていると虎杖くんはそう言った。顔が見えないからか、いつもと声の雰囲気が違うように感じた。
「近くはあったと思う。空間が壊れて見つかったとき、見られてたからわかると思うけど、あんな感じだった」
 私の言葉に虎杖くんはなにも言わない。そのことが急激におそろしく感じた。だから私はなにかをごまかすみたいに口を開く。
「伏黒くんのときは、逆で、私が下で、だからあんな感じに……」
「うん」
 返事をしてもらってほっとする。虎杖くんに黙られると、ものすごいことをした気持ちになる。なぜかとたんにこの近さを意識してしまう。
 緊張か恐れか、心臓がバクバクしていた。私よりも高い体温を全身で感じる。やっぱり近い。虎杖くんのにおいがする。全然安心しない。なにかを耐えるように目をつむる。
「俺とは緊張しない?」
 息を呑んだ。もうそんなことはとても言えなかったけど、そう伝えることに照れがあった。伏黒くんが相手だったら距離感的に逆にいますごく緊張していますと伝えられた気がする。
「い、虎杖くんは、話しやすい。から。だから、安心するというか……」
「俺は安心はしない。近いとふつうにドキドキする」
 私は顔をあげていた。虎杖くんは、私じゃなくて暗い虚空を見るようにしていた。相変わらず光はどこにもなかったけど、目が暗闇に慣れて至近距離の虎杖くんの表情は見て取れた。虎杖くんは笑っていない。冗談を言っているようでもなかった。
 私が視線を向けたのを感じ取ったのだろう、虎杖くんがこちらを向いて、そして口を開く。だけど虎杖くんが言葉を放つ前に視界が一気に白んだ。
 すっかり暗闇に慣れてしまった目にその光は眩しすぎた。壁の崩れる音が聞こえる。その光に思わず目を瞑ると同時に空間の底の部分に壁と同じようにひびが入っていき、消えていく。虎杖くんも私と同じ状況で、同じように視界に問題があったはずだろうに、彼は私を抱きかかえるとなんなく着地した。
 眩しさに負けずに目を開く。人影だ。そこには懐中電灯をこちらに向ける伏黒くんが立っていた。
「ここにいたのか」
「おう、呪霊は?」
「もう終わった。釘崎も探してる、帰るぞ」
 虎杖くんが私をおろしてくれる。久しぶりにちゃんとした地面に足をつけられたことに安堵した。膝がちょっと震えている。
 見上げると大きな穴が天井にあいていた。どうやら地下までおとされてそこにあった空間に閉じ込められていたようだ。なにもしていないのに気が抜けて思わず床ごと全部抜けているような大きな穴を仰いでいると虎杖くんが私の名前を呼ぶ。
 改めて虎杖くんにお礼を言うと彼は笑った。
「だからいいって。早く帰ろうぜ」
 笑って背中をたたいてくれる虎杖くんに私はなぜかほっとする。
 そうして三人で野薔薇ちゃんのもとへと合流するために道を戻る途中で、伏黒くんが隣に並んでいる私にだけ聞こえる声で私の名前を呼んだ。こちらを見ている彼と目があう。
「大丈夫か」
「全然! 虎杖くんに助けてもらっちゃった」
 平気だということを示すようにからだの前で手を振る。その黒い瞳でじっとこちらを見つめられると後ろめたさに似たものを感じてなぜか首のうしろあたりにあせが滲んだ。
 そうか、と言う伏黒くんが目を伏せるので、その横顔を見ながらまつ毛が長いなあとぼんやり思う。だから伏黒くんを見つめる私の顔を見る虎杖くんのことを私はやっぱり知らないままなのだ。

そのあとのキス

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