よろめいた足がちゃんと地面につきなおした感触に思わず胸をなでおろした。私が体勢を立て直したのを確認した伏黒くんが、つかむときとは反対にやさしく手を離してくれたので思わず頬を緩める。
「ありがとう」
助けてもらって嬉しかったけどなにもないところで転びかけたのが恥ずかしかった。照れ隠しに下に視線を向けるようにする。そしてまた転びそうになった。
今度は一人でどうにか持ち直したものの余計に恥ずかしくなった。顔を赤くしていると伏黒くんの手が私の手首をそっとつかんだ。顔をあげる。
「下ばっかり見てるとまた転ぶ」
こちらを見ないまま、彼がそう言った。手を引いてくれるらしい。彼の手は私の手よりも熱くて大きい。そうされるとつかまれているというよりつつまれているみたいだった。
触れられていることに、じわじわと首に汗がにじんだ。私の手までどんどん熱を持つ。緊張しすぎて今すぐ手を離してほしい気もしたしずっとこうしていたい気もした。でも離されたらきっとさみしくなるだろうなと思う。熱いのはきっと西日のせいだけではなかった。
一日を一緒に過ごした伏黒くんに送られて帰るなかで、すでにいっぱい話をしていたのに、またたくさん話をした。
夏が来たらたぶん今より急がしくなって会える機会が減るかもしれないということを伏黒くんは言いづらそうに伝えてくれた。こうして出会って付き合うようになったきっかけが呪霊を介してのことだったのもあって、私は彼の事情を少なからず知っていた。うなづいて、こんなふうに会えなくなるのは寂しいなと思ったのを上塗りするように、じゃあ電話をしようとくちにする。できるだけすると律儀に答えてくれたのが嬉しかった。伏黒くんはほんとうにそうしてくれることを知っていたから。
そうして一緒に歩いているうちにあっという間に私のアパートの前についてしまう。そこで離れるのが寂しくて、部屋に寄っていくかと聞くかをすごく迷った。さきにこのあとにも用事があるというのを聞いていたのだ。逆に無理をさせるかもしれない。
そんなふうに、立ちすくんで無言のまま胸中で騒いでいると、伏黒くんの手がかすかに動く。彼は最後まで手を引いてくれていた。転ぶという名目でそうしてもらっているのにこんなふうに感じてはいけないかもしれないけどずっと触れ合っていられてドキドキした。もっとこうしていたいと思ってしまった。
離される、と思った瞬間に名前を呼ばれる。顔をあげると、手を離される代わりに強くつかみなおされた。顔を寄せられる。
ふ、と同じように彼の名を呼びそうになったくちに彼のくちが重なった。やわらかな接触にじわりと顔も熱を帯びる。赤く鮮やかだった空をまだらな紫が染めるようにしているのが視界の端にはいった。
日は沈んでしまったのに私を見た彼が眩しいものを見るように目を細めたのが印象的だった。思わずまた下を向く。つないだ手が視界にはいった。手首をつかむようにしていた手がてのひら同士をつなぐようになっている。
「また連絡する」
囁かれた声がとてもやさしくて、ああすごく好きだと思った。手が離されるのは惜しかった。
少したって、日の沈む時間が伸びるようになり、夏が訪れようとしていた。伏黒くん本人が言っていたように、彼は忙しくしているようで会える機会は格段に減るようになっていた。その代わりに「できるだけする」と言ってくれた言葉通りに合間を縫うようにして伏黒くんは電話をかけてくれていた。
会えないまま声だけで過ごす日常は時折ふっと切なくなった。でも伏黒くんも頑張っているように私も頑張ろうと思った。
そんなある日、急に肩が重くなって、痛みを発した。帰りがけのことだった。思わず手でなでて今日はシャワーを浴びたら早く寝てしまおうと思った。その夜に夢を見た。
闇のなかに私はいる。そのなかでもひときわ黒々とした闇がぐにゃぐにゃと蠢いている。それは生理的な嫌悪を抱かせるかたちをしていた。光のない世界にいるのに、なぜかその存在はどす黒く見えた。矛盾しているけどそれがなんなのか理解できないのに「良くないもの」だということが一目でわかる。
恐ろしさに後退った私のうえに、その闇が覆いかぶさってくる。妙に湿った風が肌に触れた。それがその「なにか」の息だと気づいて腰が抜けそうになった。
食べられてしまうと反射的に思って崩れ落ちる。殺されるかもしれない恐ろしさに息をひそめてかたまった私の衣服のなかに、それはかたちを変えて滑り込んでいった。闇はなにかで濡れていた。体液だと思った。
さきほどまでとは種類の違う恐怖がからだを満たして鳥肌がたった。目の前の存在が求めているものがどういう意味のものなのかに気づいて縮み上がった。目の前のこの「なにか」は私を犯そうとしている。
それはとてもやわらかくて、爪を立てるどころか引き離そうと伸ばした手すら沈んでいった。肌を撫でるように動くそれが感触を楽しんでいるというのが本能的にわかって気持ち悪かった。
いやだ、と声をあげたのにそれは音としてかたちにならなかった。触られたことのない部分にそれが密着した瞬間に伏黒くんのことを思った。逃げられなくて、怖くて、恥ずかしくて、耐えられなくて、耐えるために彼の名前をくちのなかで何度も呼んだ。彼の名前がたったひとつのよすがだった。
ふっと最後に会ったときに手をつないでくれたことが脳裏に浮かぶ。迷ったように、壊れものでも扱うみたいにそっと握ってくれたこと。なにも言わずに、だけど赤くなっていた耳に、横顔に、好きだと思ったこと。私の手よりその手が大きくて、熱かったこと。どきどきして緊張して心臓がすごくて、こうしていたくて、もしできるなら、もっと触れてみたいと思ってしまったこと。
このことを知られたくないと思った。こんな目にあったことをとても、とても、言えないと思った。
弄ばれるからだが気持ち悪くて死んでしまいそうだったけど、死ねなかった。舌を噛みそうになったけど私が死んだらたぶん伏黒くんは悲しむかなと思うとできなかった。死にたくないと思った。悲しませたくはなかった。
ひどいことが私に起きている。でもきっと私が耐えさえすれば、夜が明ければ、もとに戻れると思った。そう思わないと気が狂いそうだった。だから目をつぶってそれが過ぎ去ることだけを必死で願った。
明け方に目が覚めて朝日を見たとき、私は心の底から安堵した。顔がひどいことになっていて気持ち悪かったけどようやく「終わった」のだと心からの安堵をした。だけどそれは私のその安堵とは裏腹に一夜だけのことでは済まなかった。その夜を境に毎晩のように同じ夢を見るようになった。
眠ると必ずその夢を見る。その夢を見たくなくていろいろ調べてみると、そういう夢を見るのは後ろめたいことがあるときとか隠したいことがあるときだというのが出てきてぞっとした。
この夢を見ていることを知られたくないと強く思っている。でも夢を見るようになったからそう思うのであってきっかけではないはずだと考えてはたと思いあたった。もっと伏黒くんに触れてみたいと思ってしまったこと、私ばっかりこういうことを考えているみたいで、なんだか申し訳なくて言えないなと思ったこと。
私がそんなことを考えてしまったからこんな夢を繰り返しみるのかもしれない。そう思うと嫌になった。考えないようにしているのにやっぱりそういう夢を見てしまうから眠るのが怖くなった。寝なくて済む方法を探して、でも見つからなくてせめてもの抵抗にできるだけ短く睡眠を済ませるようにした。寝ていないせいか常に具合が悪かった。ときどき急に体が重くなって息ができなくなるようなときもある。それでもその夢をみた。
そのうち、あんなに嫌だったのにその夢に慣れを感じるようになった。それが余計に恥ずかしくて、余計に言えないと思った。
伏黒くんの声をスマホ越しに聞くとその低さがちょうどよくて心地よくて、ずっと耳にしているとせっかく話してくれているのに意識が遠のきそうになる。
そうしてその声にうとうとしていると名前を呼ばれているのに気づいてからだがびくっとした。投げ出すようにしていた足をテーブルにぶつけて思わず悲鳴をあげる。電話の向こうで伏黒くんが慌てたように声をあげた。
「ご、ごめん。ちょっとぶつけちゃった」
「外にいるとかじゃないよな」
「もう寝るところだからちゃんと部屋にいるよ」
心配させたことと眠ってしまいそうになったことが申し訳なくて、ごめんねと言うといいよとやわらかい声で返ってくる。
「眠いのか?」
「大丈夫」
そう言った直後にちいさくあくびが漏れて慌てて噛み殺した。
「なんか疲れてるだろ。電話、切った方がいいか」
こちらの身を案じているのがわかる声がおかしくなりそうな心に染みた。眠さはあった。気だるさも。でも寝たくない。伏黒くんに支障がないならもっとこうしていたかった。
伏黒くんに会いたいと考えるたびに次の瞬間にはあの夢が頭をよぎった。あの夢を見るようになってから、それと同じくらい会えないなと思うようになっていて、今の状態を「よかった」と思ってしまった自分に悲しくなった。でもどうしたってどういう顔で会えばいいのかわからないのだ。ずっとこうして逃げていられるわけじゃないとわかっているのに、伏黒くんと顔を合わせるその瞬間を考えるたびにずきずきと胸が痛む。
「……視線、感じることがあって」
「は?」
額をおさえるようにしながら話を変えるためにくちにした話題に伏黒くんが強く反応したのがわかって、しまったと思った。
なにも考えずにくちにしてしまった話はよく考えなくても心配させるもので言うべきじゃなかったのに、どうしてくちにしてしまったんだ。たぶん頭がぼんやりしていたからだ。
あの夢を見るようになってまとわりつくような刺すような視線を感じることがあった。でもそれが寝ていないから感じる幻なのかもうよくわからなくなっていた。
「いや、違う、うそ、ごめん」
「嘘じゃないだろ、それ。人につけられてるってことか?」
「んん」
「おい」
あいまいな私の返事に彼の語気が強くなる。今にもそっちに行くと言われてしまいそうな様子だ。伏黒くんはちょっと過保護なところがあるので、こういうときに、こういうときじゃなくても、「する」と言ってくれたらほんとうにしてくれる。
忙しいと言っていた彼にそんなことをさせるわけにはいかなかった。そもそももう電車はない。それでも今、私が伏黒くんに来てほしいとお願いしたら、たぶん、来てくれるのだろう。こんな夜に飛んで来させて、そのまま帰らせて、伏黒くんは明日寝ないでお仕事をするのかと思うとそんなことできるわけもなくて、私はおそるおそるくちを開く。
「最近すごく夢見が悪くて」
「……」
「だからあんまり眠れてないんだ。そのせいで変な風に感じるんだと思う」
できるだけ真実に沿うように、でも嘘に近い言葉を吐いたことに罪悪感でどんどんくちが重くなった。伏黒くんは電話の向こうで沈黙していたけれど、本当なんだなという問いにうんとうなづくと無理やりにでも納得してくれたようだった。
なにかあったらすぐに連絡をするようにと言われて約束をする。それから彼の言葉はもしその視線がほんとうに人間だったときの対策から戸締りにまで及んだ。
あまりにもこんこんと、それこそ子供に対するような言葉までもらってしまったので、思わず笑ってしまう。すると伏黒くんが電話の向こうで黙り込んだのがわかった。
「……うるさかったか」
「違うよ、嬉しくて」
嬉しくて、隠していることがつらい。それをごまかすように嬉しいと繰り返した。
それから話は伏黒くんが任務で少しの間遠くに行くという話題にうつった。さっき伝えたこともあって心配そうにしていたので大丈夫だよと笑う。
顔を見ることしかできない少ない時間だけど、と任務の前に一度会うかと提案される。だいぶ迷ってから、私はそれを断った。その日にどうしても外せない用事があってと言った。ほんとうは勇気がないだけだった。
そうかと言う伏黒くんの声がかすかに沈んだように聞こえて、会いたいと思っているのが私だけじゃないんだということにそこでやっと思い当ってびっくりする。
ああ、そっか。私と同じように会いたいと思っていてくれるんだ。そう思うと滅入るような気持ちが一気に幸せな気持ちになった。
「そのあとなら、久しぶりにちゃんと時間がとれると思う」
「うん、会いたい」
びっくりするほど素直にその言葉がでた。会うのが怖かった。だけど会いたかった。気づかれたくなくて、知られたくなくて、それでも会いたかった。顔が見たかった。
涙声になりそうで、耐えるようにくちびるをかみしめる。わざとらしいくらい元気な声でお土産楽しみにしてるねとお願いした。たぶんそのわざとらしさに気づいたはずの伏黒くんはなにも言わずになにがいいかと聞いてくれる。電話越しの伏黒くんがふっと表情を緩めているのを想像して、好きだと思った。
にちゃにちゃぐちゃぐちゃ、といやな音がする。体液の混ざるその音にいちばん初めに感じたのは恐怖で、次が嫌悪で、最後に抱いたのは諦観だった。どれだけ嫌がっても逃げられない代わりに必ず覚めることをその夢を見るようになってから学んでいた。私が眠れなくなって変になっていくのと比例するようにその闇は体積を増していく。
暴れると私を苛む「なにか」がより深くに入り込んでくるから、自分の身を抱きしめるようにして少しでも体を守る。抵抗すればするほど苛まれる時間が増えることがそのころにはわかっていたからおとなしくするようになっていた。
蠢く黒々とした闇が私をつつんで、弄ぶ。でも耐えていればいつか終わる。いつもそうで、私を押しつぶすその闇が大きくなっていってもその流れ自体に違いはなかった。
だから、急激に視界が明るくなったとき、夢が覚めたのかと思って胸をなでおろしそうになった。でも違った。目の前で初めてみるような激烈な勢いで「なにか」が蠢き始めて、解放されたと思ってしまったから、そのせいでもっと絶望しそうになる。でもそれ以上の最悪がすがたを現した。
かたちをもたなかったはずの闇がひとのかたちに収束する。なにが起きるのかわからないまま座り込んでいるとその闇のなかからひとの腕が伸びてきて私の手首をつかんだ。その闇がかたどった「なにか」と目が合う。見知った顔だった。
「あ」
いつの間にか声が出るようになっていた。地面に押し倒される。こちらを見下ろすその人に私は震えながら彼の名前を呼んだ。
「伏黒くん」
表情のない彼が私がそう呼んだ瞬間にぞっとする顔で笑った。違うと思った。彼じゃない。彼じゃない。彼はこんなふうに私に笑わない。
私は久しぶりに体をばたつかせながら抵抗する。いやだと喉が裂けそうな勢いの絶叫に目の前の「なにか」が愉しく感じているのがわかった。耐えられないと思った。
這うようにして逃げ出そうとした私に「なにか」がのしかかってくる。反射的に振り上げた手がその「なにか」の頬にぶつかった。黒い闇だったころのどう抵抗してもその抵抗ごと飲み込まれてしまうあの感触とは違った。ひとのかたちをした「なにか」にはひととしての感触がちゃんとあって、私は正面から叩いてしまった。
「ああっ」
その夢のなかではずっと痛みを感じなかったのに、叩いたてのひらが痛む。「なにか」は叩かれた衝撃で横を向くようにしたまま頬を押さえた。眼球だけがぐるりと動いてこちらの方を見る。そのしぐさが余計に恐怖を引き立たせた。
遠慮もなく叩いてしまった感触が痛みをともなって手に残っている。そんなふうにひとを殴るのは初めてのことだった。しかも相手は伏黒くんだ。じんじんとする手の痛み以上に目の前の伏黒くんのすがたをしたものを傷つけてしまったという事実が私の心に強い衝撃を与えていた。
伏黒くんじゃない。ただ伏黒くんのかたちをしたものだ。でも伏黒くんの顔をしている。私の夢がかたちづくった伏黒くんを、傷つけた。
ぶるぶると体が震えた。「なにか」がもう一度のしかかってくるけどもう抵抗はできなかった。たとえ伏黒くんじゃなくても伏黒くんのかたちをしたものをこれ以上は傷つけられなかった。涙が出た。顔を腕で隠すようにする。その間にも「なにか」の手が私の服の下に潜り込んでいく。伏黒くんだけど伏黒くんじゃない手だ。私の夢のなかだから私の記憶に影響されているのか、つないでくれたあの手と感触がよく似ていた。大事な記憶が穢されていくようだった。
私が願ったから、私が彼のことを好きだから、触れたいと思ったから、彼自身をこうして踏みにじるような夢を見るのだろうか。そう思うと情けなくて辛くて今まででいちばん死にたくなった。するその意志を感じ取ったのか彼のゆびが伸びてきて舌をつかむ。顔を寄せられる。さきほどまでの愉悦は彼の顔に見て取れない。表情がないと余計にその「なにか」に伏黒くんを感じた。あのときの、顔を寄せあうようにしたキスを思い出す。でも目の前の「なにか」はそうしない。必要ないからだとなんとなくわかる。だってキスは性交に必要がないから。
目の前の「なにか」が伏黒くんではないと改めてわかった。私の記憶のなかの伏黒くんをかたどっても、それはやっぱり伏黒くんではなかった。
からだに重さがかかる。割り開かれて侵入されそうになっているのがわかる。でも抵抗ができない。ああ、すべてが終わると思った瞬間、スマホが鳴った。
意識が浮上していく。夢の終わりに目の前のなにかが顔をゆがめる。私は今度こそベッドの上で目を覚ました。
いまだ暗い窓の外が視界に入って、寝落ちしてしまってからさほど時間がたっていないことに最初に気づいた。ぜえぜえと犬みたいに荒い自分の呼吸がうるさかった。体中が汗だくで、疲れ切ってぐったりとしている。涙で顔がべとべとだった。夢のなかでそうしたように私はベッドのうえで丸まっていた。
私を夢から引きあげたスマホの音はいまだ鳴り響いている。よろよろとスマホに手を伸ばして確認すると液晶に表示されているのは伏黒くんの名前だった。帰ってきたらいちばんに連絡すると言ってくれたことを思い出す。私は伏黒くんの連絡を待ちながら眠ってしまったようだった。
任務の間は電話の代わりにメッセージでいっぱいもらった。こういうのはどう送ればいいのかわからないから迷うと前にちょっと困ったような顔をして言ってくれたことがあった。送ってもらった文面は定時連絡みたいだったけど、それが可愛かった。そんなふうに思っているのに送ってくれたことも私のことを思って文章を考えてくれたことも嬉しかった。
出るか一瞬迷う。出たらもうきっと私は隠し通せない。心配をかけさせたくないのなら彼のことを思うなら、電話に出られなかったことにして、今度また、――――また、私は嘘をつくんだろうか。
答えを出す前に私は表示されている通話という文字を押していた。
「もしもし?」
本物の伏黒くんの声が聞こえる。また涙がこぼれた。今度は安堵の涙だった。
「もう寝てるかと思ったけど待ってるって言ってたから」
待ってた。伏黒くんのおかげで取り返しがつく前に戻ってこれた。そう言いたかったけど言葉にならなかった。しゃべるとしゃくりあげてしまいそうで息を殺して黙りこんでいると一瞬の沈黙がおちた。張り詰めたような空気になる。彼が電話の向こうで息を飲んだ。
「泣いてるのか?」
違うともそうだとも言えなかった。大丈夫って言いたかった。でも正反対の言葉がくちから出た。
「会いたい」
涙でこもっていて聞き取りにくかったはずだ。だけどその言葉をくちにした瞬間、電話の先でがたがたと物音が聞こえるようになった。彼が走っているのだとわかった。
迷惑をかけている。我慢したのに、結局そうなってしまった。だけど彼がいまここに来てくれようとしていることに私は紛れもなくほっとしていた。
今どこにいるのか、まわりに人はいるのか、安全な場所にいて待っていてほしいということを伏黒くんは私に確認した。部屋のなかにいることを伝えるとそこから出ないで待っているように言われてそのまま電話を切られる。
いてもたってもいられなくて私も伏黒くんのもとへと走っていきたかった。でもそうすることはできなかったからせめて玄関の外に出て扉のまえに座り込む様にした。部屋のなかでひとりで待つことはとてもできそうになかった。
足を抱えるようにしていると、たくさんのことがよぎった。走馬燈ってこんな感じなんだろうかとか考えた。ふわふわして時間の感覚があいまいで不思議な感覚だった。
眠りたくなかったから額をひざにつけるようにして目をあけてじっと下を見ていた。それからずいぶんと長く待った気もするし、ほとんど一瞬だったような気がする。肩を叩かれて、導かれるように顔をあげる。
「部屋のなかで待ってろって言ったろ」
目の前に肩を上下させるようにしている伏黒くんが立っていた。目が合う。彼の目が見開かれた。と同時に彼の表情がひどく険しいものへ変化する。
その変化に顔をこわばらせた私に彼が手を伸ばす。だけどその手が伸びたのは私ではなく、私の向こうの、「なにか」に対してだった。
腕を引かれる。庇うように強く抱かれた。彼がくちのなかでなにかをつぶやいたと同時にからだが軽くなる。軽くなって初めて私は自分のからだがひどく重かったことに気づいた。力が抜けて足がよろめく。
倒れかけた私を伏黒くんが抱きしめるようにして支えた。ひざが笑っている。ちゃんと立たないとと思うまえに背中に手がまわった。その手からなにかを躊躇っているのがつたわってくる。だけどそのままぎゅっと抱きしめられた。
「大変だったな」
なにが私に起こったのかを彼が知ったことをその言葉で理解する。知られたくないとあれだけ思っていたのに伏黒くんの声に許されたような気持ちになった。そうっと、彼の背中に手をまわす。伏黒くんの体は服越しでも熱かった。ほんとうに走ってきてくれたのだ。
部屋のなかに二人で戻ってから話をした。ひどい夢を繰り返し見たことを改めて説明した私にすべて憑いていた呪霊によるものだということを伏黒くんは教えてくれた。不調や視線も恐らくそのせいだったようだ。
伏黒くんと違ってあんなふうに追い詰められても私は夢のなか以外にまったくなにも見えなかった。見えていないだけで今までもこんなふうに近くにいることもあったのかなと思うと急に空恐ろしくなって思わず鳥肌のたった腕をさする。
グラスに出したお茶を飲んでいた伏黒くんを見ていると、まるで夢のなかみたいにのしかかるように重くて恒常的だった憂鬱な気持ちから解放されたことに気づく。その霊がいなくなったことあるだろうけど、伏黒くんの存在がそうしてくれたのだ。
久しぶりに直接顔を見て話ができるのが、夢のようだった。
そうして話しているうちに安心したからなのか気を抜くと意識が落ちそうになる。すでに時刻は深夜をまわっていた。うとうとしそうになった私を見て、伏黒くんは目を細めた。
「疲れたんだろ。寝ていいよ。カギは締めてくから」
「寝たら帰っちゃう?」
帰らないでほしい。一度わがままを言うと、なんだか止まらなくなった。私の言葉に伏黒くんが一瞬ぐっ、となにかを飲み込んだような顔をする。
「怖いなら寝るまでそばにいる」
宥めるようにかけてくれる言葉はやさしかった。こんなふうに思ってしまうことが不思議で、罪悪感があった。だけど足りなかった。伏黒くんにもっと傍にいてほしかった。
でも引き留める言葉はもうない。伏黒くんはこうやって来てくれて、憑いていたという霊からも助けてくれた。伏黒くんは私のためにたくさんのことをしてくれた。そもそも任務からの帰りがけだというなら疲れているだろうしきっとゆっくり寝たいとも思っているだろう。
なごりおしさを感じながらもわかったと言おうとするとその前に伏黒くんが深く息をはいた。
「お前がいいっていうなら今日は泊まる」
自分でも目が輝くのがわかった。ありがとうと言う声が弾む。
「伏黒くんはやさしい」
「別に」
目をそらされてあまり嬉しくなさそうに言われるけど、伏黒くんがやさしいことなんて一緒にいたら誰にだってわかることだ。
泊まるということでシャワーを貸すことになった。荷物はそのまま持ってきていたらしいので、着替えには困らなかったみたいだ。今更だけど私も汗でべたべただったので伏黒くんのあとでもう一度シャワーを浴びた。
そして寝る場所を決めることになったあたりで今更伏黒くんがここに泊まるんだなってことを自覚して、急に恥ずかしくなった。突然顔を赤くした私に伏黒くんは今頃そんな反応をするのかという顔をしたのでもっと恥ずかしかった。
当然のことながらベッドはひとつでほかにふとんはない。床でも寝れるという伏黒くんにそれなら私が床で寝るという主張で揉めたすえに、一緒に床で寝るくらいならと一緒にベッドで寝ることになった。なったというか私が無理に押し通した。こうまでしてくれた伏黒くんを床ではどうしたって寝させられない。
私のベッドで伏黒くんとふたりで横になるとやっぱり狭くて体のどこかしらが触れあう。ぶつかった瞬間に思わずひっこめようとして、だけどなんだかそうしていたくて、そのままでいた。伏黒くんも離したりせずに、そうしていてくれた。
ベッドに入ってからはなんとなくお互いにくちを開かなくなった。隣に感じるひとの気配と、触れ合っているところから伝わる体温が心地よかった。
そうしてしばらく目をつむっていたがシャワーを浴びたからか緊張しているからか、感じていたはずの眠気が消えてなんだか逆に眠れなくなっていた。
「起きてる?」
ついつい小さな声でそう聞くと返事はない。
「今日、ほんとうにありがとう」
それをいいことに改めてお礼を言葉にして伝える。何度言っても足りないくらいだった。でもあんまり言うといつも彼にいいからと言われてしまう。
「……伏黒くんからの着信で起きられたんだ。そうじゃなかったら私」
続きの言葉はとてもくちに出せない。どうなっていたんだろう。あんなふうに私のつくった伏黒くんに抱かれて、そうなっていたらきっともう伏黒くんに助けてとは言えなかったように思う。
原因が霊で怖かったけど、私はどこかでほっとしていた。私が変なことを考えていたからじゃなかったからだ。
「違うっていうけどやさしい伏黒くんが大好き」
言ってから、勝手に一人で恥ずかしくなってつい身をよじると手がかすめるようにする。なんだか、ただぶつかる以上の照れを感じて離そうとした私の手を伏黒くんの手が握った。予想もしていなかった彼の突然の動きにからだがかたまる。
いつもは私がそんなふうに反応すると伏黒くんはからだを離すようにした。でも今は、伏黒くんはその手をもっとぎゅっと握った。彼はじっとこちらを見つめていた。
目を丸くする間もなく彼が私の上に覆いかぶさる。伏黒くんのからだで窓から差すかすかな光がさえぎられてより暗い影が上に差した。あっと思う間もなくくちびるがふれた。
ほんの一瞬重なったくちびるが離れる。だけど顔は近づけられたままで、かすかに吐息がぶつかった。
「優しくねえよ」
苦々しい声だ。
「お前に憑いてるあれを見たとき、どういう目にあってたのかすぐにわかった。されたくないに決まってるのにどんな目に合わされたのかを想像した。お前は悪くないのに厭な気持ちになった。きっとお前がいちばんいやだったのにな」
夢のなかでなにをされたのか、あのあとも言葉にして明確に伝えたわけじゃない。改めてなにがあったのか説明したときに夢の詳しい内容について私がくちごもると伏黒くんは無理に言わなくていいと言った。
私を見つけたときの伏黒くんの険しい顔を思い出す。どういうかたちでその霊が伏黒くんの目にうつったのかは私にはわからない。でも、嫌だと思ってくれたのだ。
私のために私の気持ちを思ってくれたのも嬉しかったけど、そんなふうに私がなにかに触れられることを伏黒くんが嫌だと思ってくれるのが不謹慎だけどすごく嬉しかった。キスがしたいと思った。
彼の首に手をまわす。そっと引き寄せると、伏黒くんはされるがままになってくれる。今度は自分からくちびるを重ねた。自分からするというのがすごく怖くて息の仕方を忘れた。いつもしてもらうばっかりだったけど伏黒くんもこうだったのかなと思った。
「夢を見るのもつらかったけどそんな夢を見るのは私のせいじゃないかって思うともっと怖かった。私が、伏黒くんに、……もっと触れてみたいとか、思ってたから」
こんなに近いと顔が見えない。だから素直に言えた。伏黒くんがどんな顔をしているのかわかったらきっと言えなかった。
「最後の夢で、いつも変なことしてくるそれが、ふ、伏黒くんになったの。すごく嫌で、やっぱりこれは私が望んだんじゃないかって。私、伏黒くんをよごしたんだって」
自分でも何を言っているのかわからなくなっていく。聞かされている伏黒くんはもっとよくわからなかっただろう。でも止められなかった。話しているうちに、息が荒くなっていく。舌をつかまれたあの瞬間を思い出す。
「伏黒くんがよかった。伏黒くんならなにをされてもよかった。だけどあれは伏黒くんじゃなくて。でも、伏黒くんのすがたをしてたから、抵抗して傷つけるのいやで、そう思ったらなにもできな」
言い切る前にベッドに強く押し付けられる。伏黒くんの首に手をまわしたまま、くちのなかに舌がはいってくる初めてのキスに目を見開く。でも一瞬で夢中になった。ぎゅうって目をとじる。心臓がバクバクした。ああ、本物の伏黒くんだ。
どうすればいいのかわからないのに、勝手にからだが応えて、伏黒くんの舌に舌をこすりあわせる。伏黒くんの舌は薄くて熱い。一心にその舌を吸った。頭がおかしくなりそうだと思った。
「憑りつかれてなくとも、俺も想像した。俺のほうがずっと」
言葉の途中で私の肩をつかんでいた伏黒くんの手が、迷うようにしておりていく。服の下にはいるようにした手が彷徨うようにおなかのあたりに置かれた。伏黒くんの手はやっぱり熱い。シャワーを浴びたからとかじゃなくて、興奮で体温が上がっているのがわかった。私も同じだから、わかった。
「いいか」
耳もとにくちをよせられて囁くようにされる。なにも言えないままただこくこくとうなづくと、彼が深く息を吐いた。吐息があたってくすぐったい。
彼の手が私のパジャマを脱がせていく。下着もすべて外されてなにもかもが伏黒くんの目にさらされていると思うと心もとなくて思わず腕で隠すようにすると、手をはがされる。
「どこにさわられた?」
「わ、かんな、い」
「じゃあ俺が全部さわる」
その言葉の通り確認するみたいにからだのあちこちに彼の手が触れていく。どこに触れられても気持ちよかった。涙がこぼれた。私はきっとずっとこうされたかった。ほかのなにかなんかじゃなくて、伏黒くんにしてほしかった。
私ばっかり脱がされるから、伏黒くんの服のすそを引っ張って、脱いでってお願いする。彼が上のティシャツを脱ぐとかたそうなお腹がさらされた。そのころには目が慣れてきていて、窓から入るかすかな光のなかでもなんとなく見えるようになっていた。
手を伸ばして、ゆびさきで彼のおなかの隆起をなぞる。私のからだのどこをさわっても得られないような感触に思えた。
「すごいね、……かたい」
骨とも、ただ柔らかい私のおなかとも感触が違う。不思議だなと思って熱心にそうしていると、手首をぎゅっと握られて止められてしまった。
なんとなく恨めしいものを見るような目で伏黒くんが私を見る。
「くすぐったかった?」
「……違う」
じゃあもっと触れてみたいと手を伸ばそうとするとやっぱり止められる。代わりにからだを押し付けられるようにされると伏黒くんのからだが反応をしてるのがふとももに伝わってくる。あ、と腰が引けそうになったのをそうさせないようにもっと押し付けられて足先が思わず丸まった。
熱を帯びた息が首にあたる。伏黒くんが私に反応をしているというのを目にすると、もうダメだった。もともとぐすぐすだったからだがもっととけてしまいそうになる。
押し付けられたまま、私のすでにとけている部分を彼の指でならすようにいじられると目の奥がちかちかした。むりという言葉が浮かんでくる。でもそうくちにしたら伏黒くんは手を止めてしまうかもしれない。
それがいやでくちをふさいでほしくて、キスしたいと吐息が混じる声で乞うと、伏黒くんが顔を寄せてしてくれる。舌を絡めるやつじゃなくて、くちびるのさきだけを触れ合わせるやつだ。
そのキスで私のなかがぎゅっとなると、私よりも伏黒くんが深いため息をつく。反対に浅い呼吸を繰り返していた私の上を超えるように彼が手を伸ばした。テーブルに置かれていた財布に手を伸ばすと、彼が中から小さいなにかを出す。
暗いこともあって遠くにあるそれはよく見えない。釘付けになっていると手の甲でまぶたをとざすように促された。より暗い闇のなかで衣擦れの音がする。その音にはたと気が付いた。
「どうして持ってるの?」
なにも考えずにくちにだしてしまうと、咎められるようにやわくくちをかまれた。足を動かされて、そのままあてがわれる。
のしかかられるようにされる。それは夢のなかと同じだったけどなにも怖くなんてなかった。もっと触れたいと思った。
名前を呼ばれて、それに私は応える。なかを割り開かれるその重さにまぶたの下に光がまたたいた。とじていた目を開く。伏黒くんの首に滲む汗が見えて、それから目が合った。彼も私と同じで、私を見つめていてくれた。眩しいなと思った。真っ暗だったのに、どうしてかそんなふうに思った。伏黒くんがいま私とつながって、同じになってくれていることに心臓がわれて死んでしまいそうになる。
キスされる。深く、舌を合わせるようにする。キスをしながら手をつながれた。こんなに触れ合っているのにもっと触れたいというようにゆびを絡めてつながれて、思わず力を込めた。ゆびの間の部分がこすれあうとぞくぞくした。
つないだ手をベッドに押し付けられるようにされて奥をひらかれる。もう言葉はなかった。でも好きだという気持ちが伝わっていることがわかったし、伏黒くんの気持ちも痛いくらい伝わってくる。だからきっとその瞬間に言葉は必要なかったのだ。
「本当はあの時も来たかった」
あのとき、と言葉を反芻する私に伏黒くんが電話のときと補足する。
「危なっかしいから、またそういう目にあってたんじゃないかと思った。実際にそうだったな」
すべてが終わってからも離れがたくて名残惜しくてくっついていた。伏黒くんは感触を確かめるように私の髪をずっと撫でていた。伏黒くんにならどこに触られても心地よかったけど、そうされるのはひと際気持ちよくてうっとりする。
私が額を押し付けるようにすると、伏黒くんは当たり前のように受け入れてくれる。それに得も言われぬ感覚になった。際限なくくっついて甘えてしまいそうでちょっと怖くてどきどきする。それはすごく甘い恐ろしさだった。
「もっと早く来てやればよかった」
どこか静かな言葉は、私への言葉というより自分自身を責めているみたいだから思わず顔をあげる。あの夢に触れることに躊躇いを覚えながら、それでもくちをひらいた。
「夢のなかはすごく怖かったけど、ずっと伏黒くんの名前を考えてた。そうすると大丈夫になったの。だから、ありがとう。来てくれなくても救いだったんだよ」
どういえばこの気持ちが伝わるのかわからなくて、迷いながら紡いだ言葉に伏黒くんに目を丸くした。
「それは」
「うん」
「いや」
私と同じに迷うようにしてから、結局伏黒くんはなにも言わない。その代わりに強く抱きしめてくれる。顔が見えなくなってしまったことが惜しい気持ちになったけど、それ以上に素肌のまま抱き合う気持ちよさがあった。
その心地よさにうとうととしそうになる。だけどなんだかもったいない気がして目を開けていようとするとそれを見てかすかに笑う伏黒くんの震えがからだ越しに伝わってくる。
「寝ていいよ。余計疲れさせて悪かった」
「うーん」
「こら」
無理に目をしばたかせていたからか伏黒くんがとがめるために声を出す。でもその声はとてもやさしい。そのせいでむしろ寝るのが惜しくなっていく。
久しく悪夢しか見てはいなかったけど、それこそ「夢」みたいに幸せすぎるからなんだか現実味がない。でも夢じゃない、と思った。こうして抱きしめてくれる腕も、頬をなでてくれる手もからだに触れ合うからだも全部本物だ。
背中に手を伸ばしてみる。すがるようにして背中に触れてみる。すべての感触に伏黒くんだ、と、強く思った。そこでようやく私はほっとした気持ちになった。
「おやすみ」
おやすみなさい、と返した声はふにゃふにゃだった。伝わっただろうか。伝わってくれたら嬉しい。ようやくなにも不安を抱かずに眠ることができるのだと思った。彼がこうして一緒にいてくれるのならきっと私はもうあの夢を見ないだろう。
Dazzling
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