NOVEL | ナノ

 大きな仕事を請け負えて臨時収入になったという彼が旅行にでも行く?と口にして、そこからはとんとん拍子だった。その旅行に行くと決めてからかかった日数は急といってもいいかもしれない。
 温泉がいいなと意見は合致していたので、行先は最初に決まっていた。彼はその大きな仕事とやらで大変な目にあったそうなので(仕事の話を滅多にしない彼がそうこぼしたくらいなので、よほどだったのだろう)遊びに行くというよりはゆっくりできたらいいなと思っていた。
 電車に乗って日の高いうちに旅館につき、部屋に通される。窓の外からは隣接した海の景色が一望できた。部屋にはマッサージチェアと露天風呂もついていて、とりあえず露天風呂に入ってからそとの温泉街へと向かうことにした。
 一緒に入るよな? と当然のように言う彼に旅行のうきうきした気分も重なって、そうすることにする。
 さすがにちょっと恥ずかしかったので私が先に入ってあとから彼に入ってもらうことにした。私が浴槽につかったあとから入ってくれた彼が体を洗う様子をぼんやりと見つめていると意味深に笑われてしまい慌てて目をそらす。何度も見ているのに恥ずかしさはなくならない。
 ふと思いついて彼の髪の毛を洗ってあげることにした。
「痛くない?」
「おお」
 彼が目をつむったまま感嘆と心地よさの混じった声をあげるのでうれしくなった。彼の痛んだ髪に私のトリートメントもつけてあげる。各段に指の触りがよくなった髪の感触に満足してお湯で流した。いつもしてもらう側なのでこうして私が彼になにかをしてあげるというのは、楽しかった。
 髪を洗い終えてようやくふたりで露天風呂につかる。露天風呂からも海がのぞめる。まだ日も高いうちからこうしていられることや二人でいられることが贅沢で思わずため息をついた。
「気持ちいいな」
「ねー」
 日の光をあびて輝く海はまぶしい。天には雲一つなかった。天気予報では旅行中は晴れがつづくと言ってたのでその通りだといいなあと思う。
 足を延ばしながら隣同士で座るようにしていると肩や足先がぶつかる。客室付き露天風呂なのでお互いにバスタオルはつけているけど、かすかに触れ合う素肌に気恥ずかしくなる。照れ隠しに足先でわざとつつくようにすると、肩を抱かれてくちづけとして倍になってかえってきてのぼせそうになった。額がぶつかるくらい近かった彼の顔と少し距離をとってから腕を伸ばして彼の濡れて頬に張り付いた髪をそっとかきわけてやる。
 そのうちお互いになにも言わないまま二人で海を見ていた。気まずい空気ではなくてその沈黙が心地よかった。その気持ちに浮かされるようにしながら、聞いてみる。
「そんなに大変だったの?」
「今回はちょっとね」
「そっか」
 詳しくは聞かなかった。いつも笑ってなにも言わない彼がそう答えてくれただけで十分だった。浴槽の床に置いていた手をそっと握られる。私から指を絡めた。そうしてふたりでいつまでも海を見ていたいような気持ちだった。
 でもそのうち私のほうがほんとうにのぼせてしまいそうになって、まだ入っているという彼より私が先に脱衣所に戻った。着替え終えて私が脱衣所に備え付けられていた三面鏡を前に座りながら髪を乾かすころに、彼がお風呂からあがってくる。手早く浴衣を着終えた彼が物珍し気に私の手元をのぞき込んだ。
「やってやろうか」
「いいの? あ、でも今日は私がやってあげる」
 立ち上がって彼に私の座っていた椅子に座るように促す。すこしだけ躊躇いを見せた彼をいいからいいからと押し切って座らせた。まだ濡れている髪の毛にドライヤーをあてて乾かしてあげる。
「熱くないですかあ」
「気持ちいいよ」
 ドライヤーをかけていると私とは違い短いからだろう、すぐにすっかり乾いた。さらさらとしている彼の髪をてぐしでなおしてあげる。愛おしさで彼の頭をなでるようにした。されるがままの彼は言葉通り気持ちよさそうで、目がどこかとろんとしている。眠たそうだ。
 無防備なその表情にドキドキしながらそんな顔を出さずにはいおしまいとドライヤーを離すと、彼は代わると手を伸ばそうとする。気持ちは嬉しかったし誘惑的でもあったけど、先に部屋に戻って休んでいてもらうことにした。
 そうして自らの髪をかわかし終えてから部屋に戻ると彼はマッサージチェアに座っていた。目をとじている。近づいてみると、彼が眠りについていることに気が付いた。
「ヒロフミくーん?」
 ひらひらと手を顔のまえにかざしてみる。まったく起きる気配がない。彼は眠りが浅いため私と一緒に眠っているときも私のみじろぎひとつですぐに起きてしまう。いつも私が寝顔を見られる側なので新鮮だったし、ただでさえここまででゆるゆるの心がほどけるような気持ちになる。
 いつも微笑むだけで不健康な色気を見せる顔はかすかにしかめられている。よった眉間を指でふれるようにそっと押した。吐息が彼のくちからもれるものの本当に起きる様子がない。完全に寝落ちしているようだ。
 微笑ましい気持ちになって私はマッサージチェアによりかかるようにして座り込んだ。温泉街は明日にでも行けばいいし、もし明日行けなくてもまた来ればいい。私は火照った体を伸びをするようにした。こんなふうにゆっくり過ごす時間も久しぶりだった。
「お疲れ様、ヒロフミくん」
 つぶやくように囁く。予定はとりやめて、起こさないことにした。運ばれる予定の夕ご飯にはまだまだ早いのでせっかく羽を伸ばせる機会なのだから、心行くまでゆっくりしてほしかった。

 まぶたがあいて、木の天井が目に入る。自分の置かれている状況が不思議なほど現実味がない。視界に入るまぶしさに電気を遮るように手をかざした。
「起きたー?」
 間延びした名前の声にいつのまにか無防備に眠りこけていたことに気が付いて、かざした手で顔を隠した。
「今何時だ?」
「もうそろそろご飯だよ、仲居さんが運んできていいかってさっき来たんだけど待ってもらってたから今連絡しようか」
 名前の声は弾んでいる。機嫌がよさそうだ。壁に掛けられていた時計は意識のあったころに確認した時間からずいぶんとたった時間を指している。窓の外はすでに日が落ちてすっかり夜のあり様となっていた。
 備え付けの電話に向かって話をしている名前の背中をぼんやりと見つめる。しばらくして電話をかけ終えたのか、名前は浮足立ったようにこちらに歩み寄ってきた。
「……行くって約束してたのにごめんな」
「いいよ。疲れてたんだよね」
 約束を破られたというのに名前は不思議なほどうれしそうだ。ぼんやりしたまま名前を見つめると、彼女はちょっとだけからかうような顔をする。
「ヒロフミくんの寝顔、かわいい」
 のぞき込んでくる彼女に手を伸ばしてその華奢な体を引き寄せて抱きしめる。楽しそうな悲鳴をあげて名前は腕におさまった。オレの胸の上で名前はきゃっきゃと笑う。それから体も顔も力の抜いてみせた。ふにゃふにゃの顔をする。
「一緒にいられてうれしい」
 無言のままに彼女に口づけた。髪の上に、こめかみに、頬に、唇に。それから深くくちづけてやると名前が腕のなかで体をよじらせる。
「仲居さんきちゃうよ」
「うん」
 言葉はたしなめるものだったがその声に抵抗の色はなく、どこまでも甘やかだった。すべてがとけてしまいそうなその甘さに触れるたびに、オレはどうしようもない気持ちになる。

ぬくもりの悪いこと

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