「ヒロフミくん」
「おかえり」
慌てて彼に駆け寄った。いつから待っていたのだろうか、とか、飲み会があると話していても店名を伝えていたわけではないに、とか。そういうことでいっぱいいっぱいで何から聞けばいいのか迷っている私をよそに彼は店の方に視線をやっている。
私が先に出てきたのでたぶんほかの飲み会のメンバーが今出てくるところ、のはずだった。振り返ろうとした私の頭をやわらかい力で引き寄せた彼が、私の代わりに笑みと首だけで会釈をすると、こちらをその笑みのまま見つめる。
「じゃあ帰ろうぜ」
「あ、うん」
当たり前のようにそう言われる自然さにあらゆる疑問や言葉が流されてしまい、私はただただ返事をするだけにとどまった。
ポケットに突っ込まれていた彼の手が私の手をつかむ。手の甲をつかむようにした彼の手は私の手の上を滑り、指が絡んだ。ひんやりとした手が酔いで火照った肌に心地よかった。彼の手はいつも冷たい。彼は私の手を引いて歩き出した。
飲食店のネオンが光る中で、そこかしこで酔っ払った人間のたてる騒がしさが耳に届く。その空気に家に帰りたいという気持ちの背を押すような、郷愁の念に似た不思議な切なさが胸を締め付けた。ふらふらと足元のおぼつかない私の手を引く彼の歩みに迷いがないから余計にそう思うのかもしれない。今日の飲み会は初めて行った店だったから私は行きもおぼつかなかった。そのうちに飲食街を抜け、街灯もまばらになっていく道のなかでいまさら彼が私の部屋へ向かっていることに気が付く。
夜の暗闇のなかを躊躇いもなくやさしく手を引いてもらうと、ずっとそうしていてほしいような気持ちになった。永遠であればと思った。隣にいる彼の横顔を見上げる。視線を返す彼に私は素直に胸中をさらけ出した。
「迎えにきてくれて嬉しい。ずっとこうして手をつないでいたい」
彼はなんにもいわなかったけど、いつもの笑みで、指先にだけきゅっと力がこめてくれた。
ずっと続くことを願った道のりもやがて終わり、部屋にたどり着く。鍵を開け、玄関へとふたりともが入った瞬間に顔を寄せられてキスされた。よろめく私のことを支えながら彼が器用に後ろ手で鍵を閉める。
「オレは早くつけばいいと思ったよ」
こうしたかったから、とおろしていた髪をなでられる。思わずくすぐったさに目を細めた。
「くち、甘い」
「甘いお酒しか飲んでないもん」
「そう?」
「そうだよー」
「じゃあもっと確かめないと」
その言葉通りにくちびるからくちのなかを隅々まで味わうように舐められる。靴も脱がないままに腰が抜けそうになった。ぐったりしながら彼の胸に体を預ける。陶然としたため息がくちからこぼれた。
キスをしながらも彼が髪をなでる。彼を見上げるようにすると手のひらが私の頬に触れて、首元に顔が埋められた。その接触に、自らの首元に汗がにじんでいることを思い出す。先ほどまであったふわふわとして酩酊のなかでもなんとなく抵抗感があって、身をよじった。
「ダメ」
「ん?」
じっと見つめられる。彼のその黒々とした瞳で見つめられるとすべてのことを押し流されそうになる。
「汗、かいてるから」
「いいよ」
そのまま身を預けてしまいそうになって、服のすそにかかりそうになった彼の手から逃げる。靴を脱いで今度こそ部屋のなかにあがりながら、彼の手を引き、彼にも部屋に入ることを促した。そこまで本気ではなかったのか(といってもそのまま受け入れていたらきっとそういう流れになっていただろうけれど)彼は無理に私を追わなかった。追われなかったのに、追われなかったからこそ、彼の気持ちひとつで『逃がされた』のだというような気持ちになる。
なんとなく惜しいような寂しいような気持ちになって、促すまま素直に靴を脱いでいた彼のあごのあたり、黒子のある部分にくちびるを押し付けた。
「シャワーあびたら、しようね」
惜しむ気持ちに照れが混じって目は合わせられなかった。気恥ずかしさで先に部屋に戻ろうとした私の肩を彼がつかむと、そのまま壁に押し付けた。小さく悲鳴をあげかけたくちを悲鳴ごと食べられる。先ほどよりも、時間と深さの増したくちづけはじゃれあいというには熱を帯びすぎていた。
肩から私の手首へと彼の手が移動される。拘束めいたしぐさでつかまれた手首は少しも動きそうになくて、軋むように少しだけ痛かった。あごにかけられていた彼の指はやっぱり冷たい。
両足の間に足をこじ入れられて開かれる。密着した部位から彼の体が反応しているのがわかって、体の力が抜けた。もとより申し訳程度だった抵抗心が砂のように崩れていく。
「熱いな」
会話というよりはただ感想が口をついて出たというような彼の言葉が熱に浮かされた私を通り過ぎていく。頭も肌も、どこもかしこも熱いのがその言葉をかけられなくてもわかっていた。なにもかもゆだってしまいそうだ。とけてしまいそうだった私の意識を、彼の指の冷たさだけが現実に引き戻す。
そのうち彼の指に私の体温がうつって、ぬるくなったころにようやくお互いに深く、息ができるようになった。すべてを終えて、床にくずれおちた私に彼はこともなげに囁く。
「風呂、一緒に入ろうぜ」
先ほどまでつながっていた余韻が体に残ったまま、私はその言葉にぶるりと震え、力なく首を横に振った。
汗もそれ以外もシャワーですべて流されるさっぱりとした感覚と酔いではない火照りで体がふわふわした。それに加えて感じる心地よい倦怠感に眠気が湧いてきて、小さくあくびをする。
水を飲むために台所へと向かってから、アイスクリームを買ってあったことを思い出した。チョコとイチゴのふたつのうちにイチゴの方を取り出し、ソファーに寄りかかりながら食べていると彼が浴室から上がってきた。彼はいつも入浴時間が短めだ。男の人がみんなそうなのか、彼が特別そうなのかはわからないし知らなくていいとも思う。
彼がまっすぐに私の隣にやってきて座る。彼の髪はまだかすかに湿っていた。目にかかるほどに長い前髪をかきわけて、タオルでその髪をふいてあげる。
「イチゴ?」
「チョコは冷凍庫に入ってるよ」
そっかというくせに、彼の視線は私の手元をじっと見つめる。ねだるような視線にしょうがないなあと持っていたスプーンですくって彼のくちもとへと差し出した。
「美味しい?」
何も言わずほおばったまま満足そうな顔をするのでその表情に私も嬉しくなる。嬉しかったからもう一口もあげた。そうして数口あげていると彼は私の隣ににじり寄った。
「もうちょっと」
「ん」
スプーンをつかんでいた私の手を上から握られて、くちびるが重なった。くちのなかに入っていたアイスクリームが私の舌と彼の舌の間でとけていく。とろとろとしたイチゴの味の液体がくちのなかに広まっていった。それを舌でなめとられていく。
くちのなかにあったすべてのアイスクリームがとけてなくなってしまっていても彼の舌は私のくちを解放しなかった。執拗に舌を吸う彼の体を弱り切った力で押す。あっさりと体を離した彼はすべてをぬぐいとった舌を見せつけるように出して見せた。
「……残りのアイス、とけちゃう」
自分でそう言ったのに、私は今度は自分から彼とくちびるを重ねていた。
そうしてひとしきり口づけを交わしてようやく満足を得たあとそうっと顔を離すと、彼のピアスが目に入る。おびただしいくらいあいている彼の右のピアスを一つずつ確認するようになでる。
「触るのそんなに好き?」
何気なく、彼のピアスに触れることがいつの間にかくせになっている。私の体にない物珍しさもあったし、その箇所を触らせてくれるのが許されている感があった。安心が、できるきがする。
遊びすぎて自らの言葉通りとけてしまったクリームと液体の中間あたりになってしまったアイスクリームのカップを彼が手に取り、今度は私へとアイスをすくったスプーンを差し出した。
「飲み会楽しかった?」
「え、うーん」
「俺の話、聞かれただろ」
「やさしい彼氏だって答えたよ」
ヒロフミくんはやさしい彼氏だ。私は心からそう言える。
彼はデビルハンターをしている。デビルハンターという職業はなければいけない職業であることをみんなわかっていても身内にその職業がいることを嫌煙しがちだ。それはデビルハンターが死に近くて殉職しがちな仕事だということもあるし、みんな悪魔が嫌いで怖くて、悪魔という存在自体にかかわる仕事があんまり好意的に思われないからだ。
彼は対人護衛の仕事を中心にしているらしいけど、たぶんそういうのは関係ない。悪魔と契約している人は怖がられる。だからそういう人と付き合ってたりすると怖いことをされないのか、とかを聞かれる。
だから私はあんまり彼のことを口外しない。
「やさしいってどんなところが?」
すると彼の手が伸びて、私の首に触れた。指の腹だけを触れさせて、添えるようにするだけのそれは、少しだけ息苦しさがある。アイスクリームのカップを持っていたせいか、彼の指はいままででいちばん冷たい。
彼の表情は私にアイスクリームを食べさせてくれたときも、首に手をかけたときも、何も変わることがなかった。
「アイスも食べさせてくれるし、やさしいよ」
私のぼんやりした言葉に彼は笑って見せた。くちもとが三日月のようにきゅうっと弧を描く。
彼はいつも私にやさしい。酷いことなんて一度もされたことがない。私を抱く腕はいつもやさしくてその腕のなかにいると安心する。今日みたいに迎えに来てくれることもあるし、ふつうの恋人だ。私にとってはただの好きな男の人なのだ。
「そうなると名前もやさしいことになっちゃうな」
「私は、いつもヒロフミくんにやさしくしたいと思ってるよ」
「そうだな、やさしいよ。オレのことも好きって言うし」
首から手を離した彼が、私を抱き寄せる。そうして彼はじっと私を見つめながら、髪を梳いた。私の背にまわる指がそっと背中をなでる。私は力を抜いて、彼の肩に頭を預ける。抱きとめてくれるのは私にとっていつだってやさしい腕だ。彼の冷たい指は、私を傷つけるためには動かない。しようとすれば簡単に私のことを殺してしまえるとしても。たとえ悪魔や、他の人間を殺したとしても。
殺されたっていいような気持ちになるのだと言ったらきっとみんな笑うだろうし彼自身も笑うかもしれない。それでもその手が私を世界でいちばん愛し気になぞるたびに、私はもう死んじゃってもいいような思いになる。
罪ばかりの密
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