「私はきっと夏油くんが思っているよりも夏油くんのことが好きだよ」
当然、そんなことなんの前触れもなく言われて彼は面食らったような顔をした。その前にしていた話がもっと暗くて、ひどい話だったから余計に。
「急にどうしたんだ」
「いいたくなっただけ」
私は積極的にそういうことを言うタイプではなかったし、言ったことがなかった。どちらかというと夏油くんのほうが照れもせずにそういうことを言う人だった。だから私のその言葉に面食らったような顔をする夏油くんの姿は、少し、おかしかった。
伝えられることができなくなってしまうまえに、もっともっと伝えておけばよかったそんなことが頭に浮かんで、私は首を傾げた。
教室へと続く廊下は、窓から差す光にきらきらしている。なんの翳りもない、明るい道になぜか歩みが止まりそうになる。私は彼の歩みを引き留めるために、彼の手に手を伸ばした。私の様子に、どこかおかしいものがあると感じ取ったのか彼が気づかわしげな表情で私を見ている。
おかしいことことなんて一つもない。私はただ、彼と一緒にいたいだけだった。
彼の手は大きくてあたたかかった。代わりに私の手は氷のように冷たい。私の手の冷たさが彼の手のあたたかさを侵食してしまいそうで怖かった。綺麗なものを犯しているような気持ちになる。そんなことを露とも知らない彼は冷え切った指先を温めるように、その手で何度となくなでてくれた。そんな優しさに眩しいものを見たように私は目を眇めた。
「大好きだよ」
事実をくちにしているだけなのになぜこんなにも胸が苦しく、つらい気持ちになるのだろう。うつむいた私の名前を彼が呼び、顔をあげさせる。私を見下ろす彼は優しい顔をしていた。
「私もきみのことが好きだ」
「……一緒にいたい」
「そうだね、私もそうだよ」
まるで子供が親に何度も言葉をせがむようだった。そうしてねだれば与えられることを知ってしまうと、求めることを辞められなかった。彼が律儀に言葉を返してくれるので何度もそうする。
「好きだよ!」
「はいはい、私も好きだから。そろそろ離してくれないと授業に遅れるよ」
伸ばした手を彼が指を絡め、握ってくれる。
言葉こそあやすようなものであったが、彼の声音には愛しさがにじんでいて、私はとても幸せな気持ちになった。うれしそうな顔を隠さずに笑ってくれるのを見て余計に彼が愛おしい気持ちで胸がいっぱいになる。
彼を好きだとなんの衒いもなく伝えることができて、彼がそれを受け入れてくれて、私を好きだと言ってくれる。なんて幸せなんだろう。こんなにも幸せでいいのかなあと思った。
そう強く思ったのを、覚えている。
ばっと飛び起きて私は今見ていたそれが夢であることを理解し、思わず顔を手で覆った。何度何度も繰り返し見る夢だった。私の、たぶんもっとも幸福な過去の記憶だ。
最近は見ることも少なくなっていたのに。久しぶりに見たせいか余計に『喪失』の実感がわき、てのひらで顔を覆ったままこみあげてくる嗚咽に耐えた。くずれるように下を向き声も息も押し殺してそうしているといくらかの時を経てようやく落ち着いてくる。いままでの経験からこうして耐えていれば少しはマシになることを知っていた。
そのまま声をあげないようにしていると、隣で眠っていたはずの男が私へと手を伸ばし、背中をなでた。体を起こした彼が、丸まるようにしていた私の体を抱きしめる。大きな彼のてのひらにそうされるとせっかく落ち着いてきたのに再び泣いてしまいそうになった。
彼は私がそうして泣き出した時、いつだってなにも聞かなかった。私はその優しさに甘えながら彼の胸に自分の額を押し付けるようにする。荒い息ごと自分の唇をかみしめていると、太い指が私の唇をなぞり、無理やりあけさせた。そのまま顔を寄せられて、唇を押し付けられる。入ってきた彼の舌を噛むわけにもいかなくて、体から力を抜くといい子だとばかりに背をなぞられた。
今ここで、彼の舌を噛んでしまえばすべてが終わるだろうかと時折思うことがある。
くちづけにぼんやりしながらその腕を抱かれたままでいると、彼が私の顔を覗き込んだ。暗闇のなかで、彼が私のこと見ている。私にはその表情がなにを考えているのか、もうわからない。事実としてそこにあるのは、今日も彼は私を手放さないということだった。
私はなにも見えないように彼の首に自分の腕をかけるように抱きついて目を閉じる。それでも、私が彼の舌を噛める日はきっと永遠に来ないだろう。
夢がいつも無惨であれば
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