NOVEL | ナノ

 ひどい悪夢を見て目が覚めた。
 頬が冷たく濡れていて、自分が泣いていたことがわかる。思わず目をこすると、涙が一筋こぼれた。自分の呼吸は荒く、永らくそうして夢のなかで泣いていたようだった。心臓が嫌な痛みに軋んで、早鐘を打っている。
 ベッドサイドの時計は深夜をさしていた。こうして目の前にある光景も夢のつづきのように現実味がなく、ぞっとするような感覚がいまだ残っている。そうしているとそのまま夢がよみがえってきそうで、私は水を飲もうと体を起こした。
 私が動いたことで刺激されたのか、隣で眠っていた彼がみじろぎする。彼の存在があることに夢の名残のような不安がほどけるのがわかる。手を伸ばして、起こさないように気を付けながらそっと頭をなでてあげた。
 ベッドから立ちあがる。最近寒くなってきたのもあって、ベッドから外にでると少し寒かった。床が冷たい。あたたかいものにしようか迷うも、やっぱり水にすることにする。そちらのほうが目が覚めるだろうから。
 一杯の水を飲んでベッドに戻る。隣に潜り込むと腕がのびてきて、そのまま抱きしめられた。
「つめたい」
 まだ夢心地なのかふわふわした声だった。冷たいといいながら自らの体温を与えるように彼が絡めてくる足に胸がぎゅうっとなる。そうやって育ってきたからなのか、他人より持っているものが多いからなのか、彼は与えることにまるで躊躇いのないところがあった。
 冷えた頬にてのひらがのびてきて、優しくさすられる。すると彼の指がぴくりと動いた。重たげに、それでも彼が目をあける。かすかな灯りのなかでもきわだつ青い瞳が私をとらえた。
「濡れてる。泣いた?」
 まだ乾いていなかったのか、涙のあとをてのひらで感じたらしい。
「嫌な夢でも見た?」
「……ちょっとだけ」
「どんな夢?」
「怖い夢」
 詳細を言葉にするのを躊躇った。くちにするとさっき見た生々しく恐ろしい記憶が頭のなかにまざまざとよみがえってきそうだった。思わず震えると指が、慰めるように頬をなぞった。
「こうやって僕の腕のなかにいればどんなに怖いものからでも名前を守ってあげるよ」
 まるで夢のような愛の言葉だ。
 おそらく私があんな夢を見なければその言葉をうれしく思ったし(彼のその言葉が『比喩』ではないことを私はよく知っていた)幸せな気持ちになれたかもしれない。だけどその言葉が私にもたらしたのは際限のない不安だった。
 私は体を少し起こすと、彼のほっぺたに唇を押し付けた。今度は私から彼に手を伸ばして、確かめるように彼の頬の輪郭をなでる。くすぐったそうにしているものの彼はされるがままになり私を見上げていた。
「私があなたのことを守ってあげたい」
 大真面目にそう囁くと、彼は目を丸くしてから笑った。
「どうしたの。おねだりしたいことでもある?」
 冗談めかした声音に本気にしていないことがわかり思わず眉間にしわがよる。それから少し悲しくなって自分の眉が下がるのがわかった。
「ごめん、嘘だよ。真正面からそんなこと言われたことがなかったから照れた。そんな顔しないで」
「……どんな顔? 見るにたえない?」
「悲しい顔。名前はどんな顔でもかわいいよ」
 彼は私がなにをやっていても大体かわいいというのでかわいいの信憑性があんまりない。前に泣いてるときにもかわいいねと言われたことがある。本当にかわいいのかはさておき、私は素直にその言葉を受け止めることにして彼の胸に額をおしつけ、寄り添うように横になった。
 目の前のこの人がいままで守ってあげたいといわれたこともないのかと思うとひどく切ない気持ちになる。この人はいつだって守る側なのだ。
 私は彼に危ない目にあってほしくない。傷ついてほしくないし幸せであってほしい。不幸なことやひどいこと、苦しいことからいちばん遠くにいてほしい。もしそういう目に彼が合いそうなら守ってあげたい。
 どれだけそう思っていても実際に私がしてあげられることなど限られており、ほとんどないに等しかった。それがもどかしくて悲しいと思う。彼が彼であるかぎり、渦中にいることを辞めることはないのだ。それこそ死ぬまでそうなのだろう。
 死ぬまで、と考えて冷たいものが胸を満たした。どこにでもあるような『ふつう』の人生を送ってきた私には親しい人間の死と向き合うような機会が幸運にもなかったため、彼がいなくなってしまう想像はふわふわとしている。でも重苦しさだけはしっかりあって、その想像に触れるたびに胸の奥がしくしくと痛んだ。
「どうしたら守ってあげられたかなあ」
「危ない場所に名前がいるほうがいやだな。名前は危ないことはしなくていいよ」
 言い聞かせるような優しい言葉だ。とても優しかったけど、その言葉でたぶん彼が本当に危ない時は私はそばにいられないんだろうなと思った。余計に悲しくなっていると何気ないことを言うように彼が口をひらく。
「でも守ってあげるって言われるの、なんかくすぐったいね」
 あっさりとした口調でそんなことを言うので、私はそんなこといくらでも言ってあげると心の中でつぶやいた。夢で感傷的になっているのか口にしたらなんだか泣いてしまいそうだった。
「……帰ってこなかったらのことを時々考えたりするよ」
「ふーん?」
「帰ってこなかったらねえ、今度は、今度はね、危ないことをしない人を好きになって、あなたのことも忘れて、幸せになる」
 そんなことは嘘だ。あなたを失ったあとのことなどとても考えられないしあなたを失ったことが平気になりたくない。ちょっとだけ声が震える。
 私の言葉が強がりでしかないことをわかっている彼がふっと笑った。
「じゃあ僕がその男のこと殺すから。そうしたらもう逃げられないでしょ」
「……」
「ほかの男なんて好きになっちゃだめだよ。ちゃんと帰ってくるからいい子で待ってて」
 なによりも甘い声音で彼はそんなことを言う。
 私が素直にうんとうなづくと彼の指が誉めるようにのどをなでる。私のことを簡単に殺してしまえるはずのその指先でなぞられるとなぜか甘くしびれるような感覚が走る。そうされると殺されたっていいような気がした。
 怖いことを言われているのに、私はそう言われるのがどうしようもなくうれしかった。待っていてもいいと言われることが幸せだと思った。
 彼は私の体をぎゅうと胸に抱いてしまう。体格さゆえに彼の手足は拘束じみていて重たいくらいだったけどいつのまにか私の体はその重さがないと寂しく思うようになってしまった。
「またうなされてたら今度は起こしてあげるから」
「……うん」
「どんな夢を見たのかはわからないけど、名前がそんな風に泣いて恐れることは僕が起こさせないからもう安心して寝なよ」
 私は体を伸ばしてその言葉にお礼をするように、彼のくちびるにキスをした。どんなことがあっても守ってくれるらしい彼の腕のなかは、安らかな安寧に満たされている。でも私はそんな彼をだれが守ってあげられるんだろうとやっぱり思ってしまうのだ。
 ふと、悪夢は人に話してしまったほうが良いというようなことを聞いたことがあったことを思い出した。だけどとてもじゃないけどくちにはしたくない。
 言葉にできなかった夢が脳裏によみがえる。彼に二度と会えなくなる夢だった。夢のなかで彼は私にも誰にも手が届かないところに行ってしまう。彼が傷つき奪われるばかりのその姿に私はなにもできないまま、ただそれを見ている。そうして平和と均衡が保たれまわる世界に私は目をつむり、ほかの大勢の人間のようにその恩恵を享受する。
 強い不安が胸をやく。そうはならないと言い聞かせていないとおかしくなりそうだった。
「こら、もうなにも考えなくていいから」
 頭の上からささやかれて、うん、うんとうなづく。いつのまにかまた涙がこぼれてきていた。
 彼の胸に顔をうずめていると、強迫観念のようにあった恐怖が少しずつ薄れていく。そうだ、あんなふうにはならない。彼は強いから。強いから、大丈夫。本当に?
 分からない。結局私もこの人の強さにそうやって縋るしかない。
 彼の強さが頼もしくてかっこよくて愛しくて憎い。あんなふうにされるくらいなら、あんなふうに一人にさせてしまうくらいなら、きっと強くなくたってよかった。
 いつかこの夢をくちにしておけばよかったと思う日が来るのだろうか。彼のにおいに、体温に、体につつまれながら、私にはそんな日がけして来ないことを願うことしかできなかった。

「素晴らしい世界でしょう」

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