「こんな時間にどうした? なにかあった?」
当たり前の質問をするその声には気遣いが滲んでいて、その声だけで安心して気が抜けてしまいそうになった。そして出てくれたのが夏油くんだったことにもたぶんどこかで安堵した。急にごめんと謝ってから訪問の理由を話そうとするも言いづらさに思わず口ごもると、夏油くんが首をかしげる。
あー、と言葉に迷うもののそうしていてもなにも解決しないのは分かっているので、私は意を決して口を開いた。
「私の部屋のシャワーっていうかお湯が、その、出ないみたいで。夏油くんたちの部屋のお風呂を、貸してもらえないかなって思って」
そう口にすることになんとも言えないような抵抗感に似た羞恥があって、私はそっと目を伏せた。
任務から二人とともにホテルへと帰ってきて部屋の浴槽にお湯を張ろうとすると水しか出なかったのがだいぶ前のことだった。フロントに連絡して来てもらうもどうにもなおらず、もし私さえよければほかのホテルへと移動という対応ならできるといわれたもののそのホテルはここから距離があり移動するのにも時間がかかるらしかった。正直迷ったもののそもそも本当ならいますぐにでもシャワーを浴びたかったこともあり、それなら同じように部屋をとっている二人の部屋でお風呂に入らせてもらえばいいのではないかと思いついたのだ。フロントに対応してもらってるうちに少なくはない時間もたっており、疲れ切っていたことやホテルの人も平謝り状態だったのでもうこれ以上にもめるのは億劫だった。
思いついたはいいけれど同年代の近しい男の子にお風呂を貸してほしいというのは気恥しさがあった。私だけが意識しすぎているのだとはわかっていたけれど。
補足するためにした説明に夏油くんは災難だったねと同情するように言ってくれた。ついでこっちの部屋の風呂に入るといいとあっさりと受け入れてくれたので私は胸をなでおろした。
そうして話していると、夏油くんの後ろからのっそりと五条くんが顔を出す。すでに私服になっていた夏油くんと同じで五条くんも私服だ。二人とももうシャワーを浴びたのかもしれない。
「なに、襲いに来た?」
「ち、ちがいます」
五条くんにも夏油くんにしたのと同じように説明する。おぼつかない説明も二度目になるとスムーズだったけど、五条くんはというと興味がなさそうにふーんとだけ相槌を打った。
自分の部屋へと戻り、お風呂の準備をしてもう一度訪れた私を夏油くんが迎え入れてくれる。
「お邪魔しまーす……」
五条くんと夏油くんは遠出の任務の際こうして同じ部屋でなくともお互いの部屋を行き来しているようだったが、私はといえばこんなふうにふたりの部屋へと訪れることはあんまりなかったので少し緊張にた心地で足を踏み入れる。
五条くんはといえばふたつ並んでいるうちの手前のベッドに横になっていてこちらを一瞥してからすぐにテレビに視線を戻した。テレビには天気予報が流れている。五条くんがリモコンでザッピングしているが時間が時間だからだろうか。めぼしい番組はやっていないようだった。
「もう私たちは入ったし、お湯は張っておいたからゆっくり入ってくるといいよ」
「ありがとう!」
思わず声が弾んでしまった私に夏油くんが笑ってくれて、その笑みにちょっとほっとしてしまった。
お風呂場に入り、準備をしてから服に手をかける。壁一枚挟んだところに異性がいることに一瞬、躊躇いのようなものが胸によぎるもその躊躇とともに服を脱いだ。見られるわけではないけれど、脱いだ衣服はいつもより意識して綺麗にたたんですみにおいた。
夏油くんの言葉通り浴槽にはお湯が張られていた。お湯につかると一気に体から力が抜ける。すべての疲労がお湯に溶けていくようで私は思わず目を閉じた。等級の大きく違う彼等と任務に同行するとき、いつもほとんど私の出番はない。今回の任務では例外的に必要な条件を満たしていた私の力がメインとして求められていたのでその分疲れたのかもしれない。でもそれはむしろいつもが頼りすぎているのだとぼんやりとする頭で考える。
シャワーをあびたらすぐに部屋に帰るつもりだったが、夏油くんもああいってくれたしもう少し入っていてもいいかもしれない。お湯の温度は熱めで、それが余計に体に染みていくような気がした。
あくびを噛み殺しながら、肩までお湯につかる。いや、ここで眠るのはまずいと思いながらもまぶたは重い。少しだけ。目を閉じるだけ。と心でいいわけするうちにまぶたは落ちて、それから。
「おい」
頭が異常にふわふわするなかで肩にふれられる。自分の名前が呼ばれていることのは分かっているのに返事ができない。口を開けない。体が熱くてぼーっとする。目はかすんでいたけど人影でだれかがいるのがわかる。
影はふたつだった。そのうちのひとつは近くにあって、私をのぞき込む。私の体を、その誰かがすくいあげた。力が抜けきってぐったりとしていた体は私にすらおもたかったのにあまりにもあっさり、空に浮く。なにかで、タオルで包まれながらそのまま抱き上げられる。
私を包むかわいたタオルが心地よかった。タオルがかわいていたから、連鎖的に自分の体が濡れていることに気づく。濡れている? どうしてだろう。なにもわからなかった。
ただ、私を抱きしめてくれる誰かの腕は力強くて、優しくて。ひどく、安心した。
頬をなでてくれるなにかが冷たくて心地よかったから私は思わずそれに触れた。触れるとそれは小さく反応した。呼応するように私の肌から浮いて離れようとするそれをつかんで自らに引き寄せる。それは抵抗することなく、再び私の頬に触れてくれた。
火照ったようなふわふわする体にはその温度が心地よくて気持ちよくて、頬ずりする。手のひらだとそのとき分かった。その手は頬ずりをされてもう一度反応したもののもう離れてはいかなかった。それがうれしくて私はもっとすり寄る。
なでてくれるその手が、冷たくて本当に気持ちいい。うっとりしながら私はもっとと、乞うように自らの手を伸ばした。なにかをつかむ。私はそれにくっついて額をおしつけるようにした。体がくっつく。くっついた部分から伝わる温度は低かった。抱きしめられると、やっぱり安心した。
ぼんやりしたまま、私は目を開ける。一番に目に入ってきたのは、衣服の生地だった。見覚えがあるような、ないような。次に目に入るのは私の体に添えられた手のひらだ。男の人の大きい手のひらだった。
男の人に抱きしめられている。どうして? だんだんと意識がまともに戻っていく。冷や汗が首を伝った。顔をあげて、そうしてこちらを見つめるその青い目と目があったときに、自らが置かれている状況を理解して私は声にならない悲鳴をあげた。
反射的に距離をとろうとするも、体はまったくいうことをきかない。よろめきながら逃げようとする私を五条くんはさきほどの私を見つめていた真顔のまま落ちんぞと言い放った。
「え?! な、なんで……」
「なんでじゃねえだろ」
腕をひかれてベッドの真ん中、五条くんのそばへと引き戻される。そして自らが服を身に着けておらず、体のうえにバスタオルをかけるようにしているだけであることに気が付いた。今度こそ悲鳴を上げそうになった。
だんだんと思い出してくる。そう、私はさっきまでお風呂に入っていたはずだ。なのにどうしてバスタオルのまま、ベッドのうえにいるんだろう。
そして私はお風呂のなかで眠ってしまいそうになったことも思い出した。すーっと血の気が引く。五条くんの言う通り「なんで」もなにもない。おそらく私はお風呂のなかで寝てしまったのだ。そこからの記憶はもうないから、おそらく、つまり。頭のなかで結論から逃げようとする私を後目に五条くんは私の頬に触れた。冷たい手だった。その冷たい感触と手の大きさにびくっと体がはねる。
体をこわばらせた私に、五条くんはその形の良いまゆをよせた。
「さっきはお前からくっついてきたんだろ」
その指摘にいろいろと思い出して顔色が赤くなったり青くなったりする私に五条くんが怖い顔をする。
五条くんはなぜかいつも私の前だと不機嫌なことが多くて近寄りがたかった。学年の構成上、同行する任務は三人で行動することが多く、そうなるとおのずと夏油くんと話すようになっていた。でも夏油くんと話していると余計に五条くんの態度はキツく冷たくなるので、私は五条くんの前だと息がしづらい気持ちになる。
その五条くんに甘えるようにくっついたことを思い出して頭が痛くなるような思いだった。いや、実際にぼんやり頭が痛い。痛みに顔をゆがめると、五条くんは頬に触れていた手を私の額に触れさせた。五条くんの冷たい手にそうされると、本当に気持ちいい。
よくよく考えると恋人でもなんでもない同級生の男の子と、あの五条くんと抱き合うようなかたちになっているのに、それすらもどうでもよくなるようだった。
「きもちいい」
夢見心地のまま口にしてしまう。嫌な顔をされるかもしれないと思ったけど予想に反して五条くんはなにも言わないままただ私をじっと見ていた。サングラスのない五条くんの目とこうして真正面から向き合うのはほとんど初めてで、きっとそうされたら怖いだろうなと思っていたのに、不思議とそんな気持ちにはならなかった。
「……夏油くんは?」
「お前が起きないから自販機に飲み物買いに行った」
飲み物ということばにのどの渇きを実感する。この体の火照りものどが渇いているのも、のぼせたからなのかもしれない。
私の顔を見つめていた五条くんはベッドサイドにあったペットボトルをとるとそのまま押し付けるように渡してきた。飲みかけのジュースだった。そういえば五条くんはそういう飲みかけとかを気にしない人だったなと思い出した。
起きようとしたけど体はだるくてそのまま横になったままふたを開け、ペットボトルを口にした。当然ながら口からこぼれて顎をつたっていく。
「なにやってんだよ」
伸ばされた五条くんの親指が私のくちの周りにこぼれたジュースをぬぐう。五条くんは私の持っていたペットボトルを奪ってそのまま仰ぐように自分の口へと運んだ。その様子をぼんやり見ていると五条くんはなぜかそのまま私にくちびるをよせた。
舌が口のなかに入ってくる。それから液体が入ってきて、ああ飲ませてくれたのかと遅れて理解した。
ぬるくて甘ったるいジュースはのどが潤さなかったけど、私はなぜかそれを夢中になってうけいれた。生まれて初めて感じる他人の舌は柔らかくて熱かった。五条くんの体温は低いのに口の中は熱いんだなと思った。
舌の合間で炭酸がはじける。私はすがるように五条くんの首に手を回した。口のなかにすでにジュースがなくなってしまっても惜しむようにお互いに舌を絡めていた。飲ませてもらっておいて言えることじゃなかったけど、のどが渇いているときに炭酸は向いていないと他人事のように思う。
扉のあく音がする。私のうえにのしかかる様にしていた五条くんがゆっくりと体を離した。
手に数本のペットボトルを持っている夏油くんが扉に伝わる通路から姿を見せた。夏油くんは私が起きていたことにだろうか、驚いたような顔をした。ただいまと言われたので私もおかえりなさいと返す。
夏油くんは持っていたペットボトルの一つに手をかけふたを開けてこちらに差し出してから、五条くんと私が寝ていないほうのベッドへ向き合うように腰かけた。おそらくそちらが夏油くんのベッドなのだろう。そうするとこちらは五条くんのベッドなのかもしれない。五条くんのベッドに寝ていると思うと途端にそわそわするような心地になった。
手渡されたペットボトルに目を落とす。スポーツ飲料だった。夏油くんがこういうのをのんでいるところをあんまり見かけたことはなかったのでもしかしなくても飲み物を買いに行ったというのは私のためだったのだろうか。
今度こそ起きようとしたものの、よろめく体は思うがままに行かない。その体を五条くんが抱くようにして起き上がらせた。
「あ、ありがとう」
それに対する彼の返事はなかった。五条くんはただ黙って私の体を後ろから抱くようにしている。
渡されたペットボトルをのどを鳴らすようにして飲んでいると夏油くんが安心したように笑った。心配をかけてしまったのだろうと思うと、心底情けなかった。
「夏油くん、あの。……ありがとう」
「いや、大丈夫。それより悟から説明してもらった? 覚えてるかな?」
「……私、たぶんお風呂で眠っちゃったんだよね? 迷惑かけてごめんなさい」
「今日は頑張ってだろう、疲れてたんだろうね。でももう入浴中には寝ないほうがいいよ。風呂場で溺死はしたくないだろう」
「そうやって甘やかすなよ」
「終わったことを責めても仕方ないだろ」
「ほんとにすみません」
けして怒っているわけではなく身を案じてくれる夏油くんの言葉は優しく、そして余計にいたたまれない。場を支配するのは沈黙だった。私としてももはや謝罪以外の言葉が見当たらない。
自然と下がる視線に自ら放り出すようにしていたむき出しの足が入って私はあわてて縮こまるようにする。そうすると余計に自らが裸であると自覚してしまって心もとない気分になった。下着すら身につけていない体にかけられていたバスタオルを引き寄せる。バスタオル越しに感じる五条くんの体温に急激に羞恥を覚える。同時に私の体温も彼に伝わっているのだろう。
このバスタオルも記憶にないのでかけてくれたのは二人なのだろう。
「あの、……どっちがお風呂から私のこと運んでくれたの?」
夏油くんは何も言わないまま、私ではなく私の後ろを見た。後ろではなくたぶん、五条くんだった。顔を見合わせたのだとわかった。五条くんの顔は恐ろしくて見られなかったけど、私と目が合った夏油くんはちょっと意地悪な顔をする。いつも私をからかうときと同じ顔だった。
「どっちがいい?」
「ええ?!」
どっちがいいといわれてもどっちにも迷惑はかけたくない。それでなくとも日常的にかけている。
どっち、というかその答えで本当に裸のまま抱き上げられたのだと今更実感すると顔が熱をおびるのがわかった。首筋まで熱くなっていく。もちろん運んでもらった行為に変な意味なんてそこにはなくて、そんなことは言ってられない状況で、迷惑をかけたのは私で、悪いのも私だった。だけど意識しないようにすべきだと思うほど羞恥を感じるのを止められない。
からかわれているのが分かっているのに答えられずにうつむく。こんな反応をしてしまうこと自体も恥ずかしい。ぐるぐると考えていると熱を帯びた首筋を五条くんが突如として指でなぞった。
「わ!」
はねるようにして後ろを見ると思い切り目と目が合った。思わずなぞられたところに自分の手を重ねる。先ほどは意識しなかったが至近距離の五条くんの顔は酷く綺麗な顔をしている。たぶん私の出会ったどんな人間よりも美しい造形の顔をしているだろう。いままで彼の横顔を見つめたことはあってもこんなふうにまじまじと見つめあうことなどなかったので改めて綺麗だなと思った。五条くんを見ていると美しい人はどんな表情をしていても魅力的だということが分かる。
私の視線に五条くんが答えた。
「俺が運んだ」
目を丸くすると嫌そうな顔をしてから五条くんは私から目をそらした。目を丸くしたのは五条くんがわざわざ私を助けてくれたのが意外だったからで、嫌な意味で伝わったかもしれない。弁解しようとするとその前に五条くんがつづける。
「じゃんけんで負けたんだよ」
その言葉に夏油くんがとのどをならして楽し気に笑った。そんな夏油くんに五条くんは怖い顔をするが夏油くん本人はどこ吹く風でまったく気にしていないようだった。
「あ、ありがとう」
「別に。もうしねえ」
「……そっか。でもありがとう」
「私がいない間にずいぶん仲が良くなったみたいだね」
「はあ?」
「ほら、こっちにおいで。そこにいるといじめられるよ」
夏油くんが手招きする。それに従おうとバスタオルを抑えて動こうとすると後ろから引っ張られた。もう一度目が合う。不思議だったけど、もう五条くんのことを怖くは感じなかった。五条くんは嫌そうな顔のまま私を見ているがなにも言わない。なにも言わないまま肩をつかんだ手がそっと離れていく。その手が離れていく瞬間、喪失感があって、私はなにも言えずに彼の顔を見返した。だけど彼はもう口を開かなかった。
結局その後まだまだ体に力が入らず、まともに着替えすらできそうになかったので私は自室に戻らずにこちらの部屋で休むことになった。部屋にはベッド以外によこになれる場所はなかったので私は二人のうちどちらかのベッドで寝ることになったのだった。私が寝るベッドはふたりがじゃんけんをして決めることになって、勝ったのは五条くんだった。そういえばそもそも勝った方と寝るのか負けた方と寝るのか決めてないようなと思いながら見ていると夏油くんは「負けた方だったよな」とけろっとして言ってみせた。五条くんは一瞬それに対して何かを言いかけたものの「盛んなよ」と言い捨てて早々に壁のほうを向いて寝てしまった。
さすがに心もとなくて下着だけでも身に着けたいとお風呂場に戻ろうとしてまともに立てず、床を這いそうになった私にぶん投げるようにして渡された五条くんのパーカーを羽織りしっかりと前を閉めながら(体格差ゆえかワンピースのようになった)私は夏油くんと一緒にベッドに入った。
夏油くんが気配を感じられるぐらい近くにいるからかそれともさっきまで意識がなかったからか電気を消されて部屋が暗くなっても寝付けなくて私は横になったままぼーっとしていた。そうして夏油くんの背中を見ていると、彼が身じろぎずる。こちらを向いた夏油くんと目が合って、私は暗闇のなかでその目を見返した。目が暗闇に慣れていたのか彼の表情はベッドサイドに灯っているかすかな灯りだけでもきちんと視認できた。
「体調はどう?」
「だいぶ楽になったよ。だるいけど、もう熱くないし」
熱くないと口にすることで私は肌に触れた五条くんの冷たい手を思い出した。ついでくちうつしで飲ませてもらったことを考えてしまいそうになり、私は顔に出ないように違うことを考える。あれに意味はないことは分かっているのに、そうして考え続けると意味を持たせてしまいそうで怖かった。
「あの、……ほんとにごめんね」
「さすがにびっくりはしたけどね、君が無事でよかったよ」
君がぐったりした姿を見るのは心臓に悪かったと続けられていたたまれなさで小さくなる。きっとそのぐったりした私の姿というのは裸だったことも含めて想像するのが恐ろしい。
「さすがに遅いだろって悟が外から君の名前を呼んで扉を叩いたんだけど、返事がなかったんだ。扉をあけると君が浴槽のなかで気絶したように横たわっていた。悟は私より慌てていたな」
説明するというよりは思い出して目の前に見ているというような口調だった。慌てている五条くんというのが想像できないけれど夏油くんが言うなら本当なのだろう。
「それでどっちが助けるのかを決めてから君を浴槽から出した。悟も私もここ最近でいちばん焦らされたかな。どれだけ名前を呼んでも君はずっとぐったりしたままで硝子もいなかったから」
「……」
「助けたあとも二人で相談したんだ。さすがに着替えさせられたくはないだろうし、でもそのままでいさせるのもどうかなって」
夏油くんは可笑しそうに話していた。もはやすべてが申し訳なかったけど、夏油くんが笑ってくれたので申し訳なさが少しだけ薄まる。こうして終わって無事だったからこそ笑いごとになったのだとしても、笑いごとにしてもらえたほうが気は楽だった。
なにを思い出したのか、夏油くんはふふと笑う。それから悪戯っぽい顔をする。
「もし着替えさせられるならどっちがよかった?」
「またそうやってからかう」
どっち、なんて聞かれてもその答えはやっぱり私のなかにない。夏油くんのほうが話しやすいというのはあってもだからといって迷惑をかけたいわけではないし五条くんが強いからといって迷惑をかけていいわけではない。
たしなめるように夏油くんの胸をかるくたたいた。夏油くんは楽しそうで、機嫌がよさそうで、そんなふうに目を細めてみつめられるとずっとそうやって笑っていてくれたらいいなあと思う。
「悟は君のことを気にかけている」
夏油くんの声が少し、変わる。笑いまじりの声から真面目な声になる。それは私へかけた言葉というよりも自分に言っているみたいだった。
「態度も言葉もああだが悟は君のことが嫌いなわけじゃない。むしろ」
夏油くんはそこで言葉を切った。なにかを迷っているようだったけれど少ししてからなんでもないとだけ言った。だから私もうんと素直に相槌をうった。
私も五条くんが嫌いなわけじゃないよというと夏油くんはそうかと言った。込められた感情はわからなかった。うれしそうにも聞こえたし寂しそうにも聞こえた気がする。
五条くんは私の前ではあんまり笑わない。それが少し寂しい気がしたことはあっても、嫌いだとは思ったことはなかった。夏油くんのためについた嘘ではなくて本当だった。
ささやいてくれる夏油くんの声はとても穏やかで、眠れないと思っていたのにその優しい声をきいているとだんだんと眠くなってくる。睡魔で意識がふわふわしながらも、私は言わなければと思ったことを口にする。
「夏油くんもいつも私のこと気にかけてくれるよね。迷惑をかけて申し訳ないなあって思うけど、うれしいよ」
そういうと彼はちょっとだけ驚いた顔をした。それから笑ってくれた。夏油くんにそうやって笑ってもらうと私はとても安心する。
夏油くんが私の頬に手を伸ばした。だけど触れる寸前でその手が止まる。その手は躊躇うようにしてから、一度だけすべるように私の頬をなでた。温かい手だった。どこかもの言いたげな目をした夏油くんは何も言わないままほほ笑んだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
それ以降、お互いに会話はなかった。だけど心地よい沈黙だった。夏油くんといるときの沈黙には、私は胸が苦しくならない。
夏油くんにじっと見つめているのを感じながら私のまぶたはついに耐え切れなくなり意識が睡魔にとけていく。眠りのはざまで、夏油くんはその言葉をそっと口にした。
「じゃんけんに勝ったのは悟だったんだ」
ベッドの話だろうか。そう、そして私は夏油くんのベッドで眠ることになったのだ。とろとろととけていく意識のなかでは理論的な考えなどほとんどたてられず、どうして私が目の前で見ていたじゃんけんの話をわざわざ夏油くんが口にしたのかわからないまま眠りにおちていく。
暗闇のなかでもう一度夏油くんが頬をなでてくれた気がしたけれど、それが夢だったのか現実だったのか私にはわからなかった。
もう会えない淡い微睡み
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