夢のなかの私の体は軽く、なんだって出来そうな万能感があった。まだ私が当たり前に走り回れたころの記憶だ。うずうずするような気持ちを感じながら私は砂浜を歩いていた。その夜はとても天気がよかった。星が綺麗に見えて、視界いっぱいに広がる海にそれだけでわくわくした。思わず走りだしかけたそのときに後ろから声がかかる。
「転ぶよ」
かけられた声に、振り返る。私と同じようにまだ高専の制服を身に着けている彼はポケットに手を入れたままこちらを見ていた。
確か任務のついでだったはずだ。海の近くまできたことに「いいなあ、海」と思わずこぼした私の一言を拾ってくれていたのだろう、彼は夜にホテルの私の部屋まで迎えにくると「行こう」と言って連れてきてくれたのだった。
次の日は当然任務があって朝早かったけど明日の私にすべてを任せた私は彼の手を取り一緒に海へと駆け出した。
「大丈夫だよ」
「そういってこの前もすっ転んでたじゃん」
「じゃあ転びそうになったらその前に助けて」
返事の代わりに隣に並んだ彼に手を取られる。その瞬間の私に怖いものはなかった。隣に彼がいたから。
夜の海が私を素直にさせて、いつもはできないくせにじゃれるように腕を組んだ私を彼は受け入れる。そのまま体を傾けてもたれかかったのに、彼は歩きづらいともなんにも言わずに、応えるように私の手を強く握り、一緒に砂浜を歩いてくれた。潮をはらんだあたたかい風が頬や髪を撫でていく。まぎれもなく幸せだった。
意識が浮上する。浅い眠りから解き放たれ、意識が現実へと戻る。ベッドの上に横たえさせられた自分の体に、ぼんやりしながらも自らが夢を見ていたことを思いだす。額に置かれたぬくもりと重さに、私は視線だけを動かして見せる。彼がいた。
「おはよう」
額に置かれた手が髪を撫でる。窓の外の空の色はすでに鮮やかなグラデーションを帯びており夕方になっていたことを私に教えてくれていた。開いた窓から入る空気が白いカーテンをたなびかせる。すでにおはようという時間帯ではなかったが私もおはようと返した。掠れた声に彼は口元を緩める。
「今日は良い夢を見れた?」
そうだねと言葉を濁した。最近は幸福そのものを現した過去の記憶ばかり見る。ずっとその夢ばかりを見ているとまるでそちらのほうが現実のように感じてしまうが、それを直接伝えるのはあまりにひどいことだと思った。
彼がそうした言葉を私にかけるのはいつのころからか約束じみた確認となっていた。ここに来てから眠ってばかりだと告げた私に彼がそう問いかけてから、彼は来るたびにそう聞くようになったのだ。眠りが長くなっていくにつれて、夢を見る時間も少しずつ伸びていく。
はいお土産と彼は手に持って居た白い箱をかざして見せた。受け取るために上体を起こし手を伸ばそうとするもそれをそのままでいいよとたしなめられる。
「今日は食べられそうかな」
「うん、大丈夫。楽しみ」
「これ美味しかったから名前さんに食べてもらいたかったんだよね」
「そっかあ。ありがとうね」
空腹は感じておらず、食欲もなかったが私はいつものように答える。備え付けのチェストにしまってある皿やスプーンをてきぱきと準備する彼の様子は私よりよほど慣れており、彼の方がこの病室の主のようだった。
白い箱から取り出されたデザートは硝子の瓶におさまったシンプルなプリンだった。ここに一番最初に持ち込まれたデザートは確かホールケーキだったと思う。しかも随分と大きなもので、食べきれるかなと笑いながら一緒に食したのを覚えている。結局五条くんがほとんど食べたはずだ。
そのうち私の食が細くなるにつれ、持ち込まれるものはのど越しがよく食べやすいものへと変化していった。そうなってからも彼が差し入れてくれるものはいつも多彩で、よくこんなに甘いもののお店を知っているなあと思う。
封を外してテーブルに出してもらいながら、その間に箱に同封されていたカードを手にとってみる。少し厚みのあるカードに印刷された文字に目を通した。遠くに行ったお土産なのか、この辺りでは買えないものらしい。
差しだされたスプーンと瓶を受け取る。カードを置き、蓋をひらかれた中身をスプーンでひとくち掬い、くちに運んだ。私がくちにいれる様子を彼はじっと見つめている。反応を伺うように、彼はいつもそうやって私を見つめる。
「どう?」
「美味しい」
「よかった」
私が笑うと、五条くんも嬉しそうにしてくれた。サングラス越しに彼の目がやわらかくなるのがわかって、嬉しい気持ちになる。その顔を見つめながらおそらく甘いだろう味を想像してみる。味のわからないくちのなかの物体を噛みしめてから私はごくんと呑みこんだ。じわじわと蝕まれていた味覚はついに先日ほとんど失われてしまった。それでも五条くんの嬉しそうにしてくれる顔を見ると味を感じる以上の満足を覚える。
私の反応を見て満足したのか、彼も自分の分に手を付け始める。食べながら彼が話してくれるのは受け持っている彼の生徒のことだったり、任務のことだったり、私と彼の旧知の人間の近況だったりした。相変わらずこき使われていると彼は言う。偉いねえと褒めると彼はにんまりした。
「もっと褒めていいよ」
彼の柔らかな髪に手を伸ばし、優しく撫でた。よしよしとしてあげると、彼が気持ちよさそうに目を細めるのでその様子に撫でられて喉を鳴らす猫みたいだなあと思う。
私がちゃんと食べきれたのを見て、彼はまたこれを買ってこようかなと言う。おそらくその時には食感すら失ってしまいそうだとぼんやり考えながら、それでも彼の気持ちが嬉しかったから、ありがとうと頷いた。
私の手を、彼が指を絡める。やせ細って衰えていくばかりの手を彼が両手で握る。片手でも余る大きなその手に両手で握られるとまるでくるまれているようだった。彼の手は生を感じさせた。生きている人間そのものでちゃんと血が通っていた。あたたかかった。
「……また細くなった」
彼が私の手に、額をくっつけるようにする。祈るような仕草だった。私は何も言わずに彼の手を握り返す。ちゃんと握り返せるうちにいくらでもそうしてあげたいと思った。
「動かないからあんまり食欲がなくて。ダイエットいらずになっちゃったな」
何度となくそう繰り返した私の言葉に、彼がうんと言う。大丈夫だからねとなんのよすがにもならない重ねた言葉にうん、うんと何度も彼は頷く。
「今度、時間が取れたら二人でどこかに行こうよ。あんまり遠い場所だと心配だけど、でもなんとかするから。どこにでも連れてってあげる」
「昔みたいに?」
「そう、昔みたいに」
「いいねえ。そういえば今日、二人で海に行ったときの夢を見たんだ」
「ああ、夜に行ったやつ?」
「うん」
昔、まだこの世界から夏油くんが欠ける前、私が呪われる前の話だ。
「もっと一緒にいられたらいいのに」
吐き出すような言葉に私は一瞬だけ動きを止める。それでも、なだめるように笑う。
「悟くんは寂しんぼだなあ」
「嫌い?」
「そういうところも含めて悟くんが好き」
「うん」
「でも無理しちゃ駄目だよ。忙しいのに私のところに来てくれるだけでも嬉しいから」
拗ねたような顔をして彼は私を抱き寄せた。されるがまま彼の胸に抱かれる。私は彼が本来ならこんなに頻繁にこの病室を訪れることなど難しいほどの忙しさであることを知っていた。一緒にどこかに行くなんていうのはもっともっと難しいことだ。
この場所にはもう来なくてもいい、私から解放されてもいいのだと告げたときの彼の顔を思いだす。「そんなこと言わないでよ」と傷ついた、突き放された顔をする彼のその顔を見た時に私は五条悟という人をもう自らからは離れないことに決めた。
頬をよせて、子供がそうするように甘える彼に、私は目を閉じる。彼のすべてを受け入れる。
私の体に変容が訪れたのは、夏油くんが高専を離反ししばらくたってからだった。呪力が枯れ、術式を扱うことができなくなったのだ。それは唐突で、間が悪いことに任務の最中だった。地に這う私を迎えに来た、こちらを見下ろす彼の顔をいまだに覚えている。
血に沈んでいた私を自らが汚れることも構わずに抱き上げて、彼は迎えの車まで運んでくれた。車の中で治療のために高専に向かう間にも、呼吸を確かめるみたいに何度も何度も、そうせずにはいられないというように、彼が私の顔を覗き込むのを、血を流しすぎて失いかけていた意識のなかで、まるで夢を見るように私は見ていた。
その変容は今もなおとどまることを知らなかった。影響は呪力のみに留まらず、常に倦怠感の付きまとうようになった体はそのうち思うようには動かなくなり、術師として戦うどころかふつうの生活をすることすら困難になっていく。
ほどなくして病院から出ることができなくなった私に、彼はその忙しい身で甲斐甲斐しく付き添ってくれた。同時に、私を救うためにあらゆる手を使ってくれたが、解決には至らず今以て原因も発覚はしていない。分かるのはこれが『呪い』であることだけだ。
彼は私を救うことをあきらめてはいないだろうが、私が呪術師として危険な目にあうことはないことに安心してもいるようだった。「ごめんね名前さん、俺はどこかでほっとしてる」と赦しを乞うように私に縋る彼を、私は――。
微睡みながら、深い夢を見る。私はその夢の中で蝶となっていた。
私は自らが蝶になっていることに違和感を覚えず咲き乱れる花々の上をただ羽ばたいていた。好きなように羽ばたくことができるその感覚は、体の自由があったときのことを思いだす。その瞬間そのとき、まぎれもなく私は自由だった。
時間の感覚が希薄でどれくらいの時間そうしていたのかは分からない。私が私の意志だけで羽ばたき、"自由"を過ごしているとそのうちその花畑に黒い影が差した。人影だ。
私はその人影になんの不安も覚えずに近寄っていく。彼だった。高専の制服ではない、黒々とした服を身に着けた彼が、私に手を伸ばす。私はその差し伸ばされた手に止まった。
すると彼がほほ笑む。美しい彼の顔立ちに浮かんだその笑みは柔らかく見えたが、ぞっとするものがあった。私を捕まえた彼が私の翅に指を伸ばす。私は彼がなにをしたいのか、私の体になにが起こるのかを知っていた。それでも逃げられない、逃げない。
震える翅が、彼によってむしられていく。体の半分以上を有する部位が失われていく感覚に震えは強くなる。もがれる翅に不思議と痛みはなかった。
「大丈夫だよ」
翅を失った私を彼がのぞき込む。空よりも蒼い、角度によって色合いが変わるどんな宝石よりも美しい虹彩を見せる瞳にただのうごめく蟲になってしまった私がうつる。私はもう二度と自由に羽ばたくことは出来ない。地に伏した私を空を飛んで迎えに来た彼が見つめられたあの瞬間を思い出す。
彼がそんな私に愛し気に囁いた。
「僕がずっと傍にいてあげる。ずっと愛してる」
私を引き取る準備ができたのだと彼が私に告げたのは窓から見える空がよく晴れた真昼のことだった。彼が病室を訪れる頻度は増えていたが、そのころには私は一日のうちのほとんどを眠って過ごすようになっており、意識のあるときに彼と会えることは稀になっていた。
「名前さんにはここを退院してもらおうと思ってる」
目を瞬かせる私の手を彼は握りしめる。力の入らない手を、私の分も彼が力を込めてくれる。寄り添うように私の肩に手をまわし抱くようにした彼は穏やかな口調でそう告げた。
ここにいると時の流れは感じなかったが、それでも過ぎ去る外の時間は確実に彼を変化させていた。見慣れた高専の制服を彼が身につけることがなくなるように、彼が使いだした柔らかな口調や一人称に違和感が減っていくように。
ここに取り残されているのは、変わらないのは、私だけだ。
「僕の用意した場所に移ってもらえば一緒にいられる時間も確実に増えると思う。どうかな」
どうかなという問いかけの体をなした言葉だったが、おそらくそれはもう事実確認にすぎない。それでも反応を返さない私に不安になったのか、彼は補足するように言葉を連ねる。
「もちろん名前さんは何も心配しなくていいよ。もう準備なら終わってて移るだけだから。ちゃんと信用のできる人間を傍に置いておくことにするし、我儘もいつでも言っていいからね。……嫌?」
私にとってもより良いことだと連ねながらも不安げな声に嫌じゃないよと首をふって否定した。彼が安心したような顔をする。
よく窓の外見てるでしょ、景色のいいところだから気にいってくれたらいいんだけどと続けた彼はほっとしたのか私に額をくっつけて甘えるようにする。応えるように私は手を伸ばし、彼の頭を撫でた。
「もっと早くすればよかったかな。そうしたらもっと一緒にいられたよね」
「ずっと一緒にいたら私に飽きちゃうかも」
「なにそれ」
呆れた声だ。真剣なんだけどなと言うと、彼が真面目な顔をして僕には昔も今も名前さんだけだよと囁く。頷いて、私も、悟くんだけだと言うと彼は嬉しそうにする。
「愛してるんだ」
その声には苦悩の色があった。彼はもう子供ではなかったから、この世にはもうどうにもならないことがあることを知ってしまっている。それは彼の親友のことでもあり、私のことでもあった。
彼は今後私を手放すつもりはないのだろう。愛されていることは私がいちばん、身をもって、分かっている。
少しばかり動くことにすら億劫さを感じる体を傾け、彼の肩に頭を寄りかからせる。触れあっている場所から伝わる彼の体の感触や体温を感じられるだけで胸の奥が痛んだ。手を伸ばしサングラスを外して、彼の顔やその視線、表情を私のなかに焼き付けるように、彼を見つめる。彼のすべてをずっとずっと覚えておけるように、忘れないように。そうすればきっと、さみしくはない。覚えておきさえすれば彼の夢を見つづけることができる。
きっとこの先私はこうやって抱きしめてもらうことも感じられなくなり、彼を抱きしめ返すことも撫でてあげることもできなくなって、最後は彼の姿をこの目に写すこともなくなるだろう。
この『呪い』は私からすべてを奪い去り、そのうち私は眠りから目覚めることはなくなってしまうのを私は誰に教えられることもなく知っていた。それでも、この『呪い』が私を死に至らせることはないだろう。この呪いは私を『生』に縛りつけるためのものだからだ。
誰が私に呪いをかけたのかなんて簡単な話だった。五条悟にすら祓えない呪いだというのなら、それは五条悟自身がかけた呪いに他ならない。
いつから始まっていたのか、少なくとも夏油くんのことがきっかけではあったのだと思う。彼はあの時期、みんなの前で変わらずにふるまっていたが、私の前では寂しがりという度を越して私が彼自身から離れることにより敏感になっていた。
――「ダメだよ、死ぬのは許さない。ずっとここにいなくちゃダメ」
彼が私を腕に閉じ込めにささやいた言葉が、夢の中で何度も繰り返される言葉が、私の耳にいつものようにリフレインされる。
私が死に瀕したあのとき、彼は私を死から救い出すと同時に死んで自分から離れることは許さないと囁いた。あの瞬間におそらく呪いは明確にかたちをなした。彼の近くにあればあるほど、私を縛る呪いは、強さを増して進んでいくのが肌でわかる。彼の言う通りにここから出て彼の傍にもっと近づけば、私の持つ自由が全て奪われ尽くされる未来は、きっと遠くはないだろう。でもそれでも良かった。彼が欲しがっているなら私の自由てあしなんていくらだってあげてもいい。
本来私が察したことを彼が気づかないはずがない。それを彼が気づいていないのは愛が彼の眼を曇らせているのか、彼が理解を無意識のうちに拒んでいるのかどちらなのかは分からないし、どちらでもよかった。ただ確かなのは、彼の愛だけで、それがあるなら、なんだって。
私への呪いはつまり彼の愛のそのものだった。ならば私はすべてを受け入れることで私の愛を示そうと思ったのだ。だって彼が私を愛しているように、私も彼を愛していたから。
愛した人に愛されて、まぎれもなく幸福だ。だから私は心から笑った、彼の愛が私を圧し潰すまで。
青い陽がわたしを圧し潰すとき
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