NOVEL | ナノ

 夏油くんの様子がおかしいように見えたのは任務が終わり、予定にはなかった呪霊に遭遇したあとにホテルへ戻るころだった。
 予定外の呪霊といっても一緒にいた私はまだしも、夏油くんにとってはなんでもない強さのもので彼はそれをあっさり祓ってしまったから、そこまではなんの問題もないように見えた。彼が顔をこわばらせたのはそれから少したったあとのことだ。
 場所は別れたものの同じ任務についていた五条くんと合流してからも、その様子はどんどん悪化していくようだった。具合が悪いのかという私の問いに大丈夫とほほ笑んでくれたものの、その様子は到底そうとは思えない。どこかふらつくように、言葉少なに自分の部屋へと戻ってしまった。
「腹でも痛いんだろ」
 五条くんはといえばあっさりとそう言って、陳列されている棚へと手を伸ばした。
 任務の終わった時間が遅かったために、ホテルの周りの飲食店はほとんど閉店時間をまわっていた。少し年季の入ったホテルの内部に飲食店は入っておらず、結局夕ご飯の選択肢はコンビニになってしまったのだ。
 五条くんの手によってかごのなかに遠慮なく放り込まれる食べ物にならってサンドイッチと飲み物を私もかごに入れる。少し迷ってからできるだけ多い症状に効く薬を選び、ついでゼリー飲料と水も一緒にいれた。風邪以外だったとしても、痛み止めは私が持っているから大丈夫だろう。食べるなら消化のいいものの方がいいだろうかとうどんに目をやったところで五条くんがレジの脇に並ぶ揚げ物をさす。
「これも買ってくか」
「消化悪くない?」
 思わず突っ込んでしまったが夏油くんが昼から食事をとっていないことを思いだして一緒に購入することにする。具合が良くなっていて食べられるようになっていたら食べてもらえばいいし、もし夏油くんが食べなくても五条くんが食べてくれるだろう。食べた分だけ成長しているのではないかと思うほど、五条くんはよく食べ、見る間に身長が伸びている。私も身長は伸びているけれど、五条くんや夏油くんたちと比べると変化などないようなものだった。その差を感じるたびに私はまぶしいものを見たような気持ちになる。
 そのくせ私の手からかごをあっさりと奪い取ってレジを通してしまう彼の大きな手を見ると、急き立てられるような焦燥に近い感覚があって、そのたびに目を逸らしたくなるのだ。

 くるくるとルームキーを手元でまわす五条くんとエレベーターで別れ、私だけが階の違う部屋に戻ってから、買ってきたものを冷蔵庫に入れた。時間が時間だったので、迷ったが任務でかいた汗が気になったので先に流してしまうことにする。
 お風呂からあがり、時計を確認すると早めに済ませたつもりが予想よりも時間がかかってしまっていて、慌てて髪を乾かした。おそらくだらしなくは見えないと思われる問題のない部屋着に着替えてから、痛み止めを含んだ薬と夏油くんに食べてもらおうと一緒に購入していたものをまとめて手にし、部屋を出る。
 エレベーターにもう一度乗りながら俺も後から行くと五条くんが言っていたことを思いだした。もう先についているかもしれない。五条くんが遊びに行ったらよくなるものもならなそうだなと言う言葉は口に出さずに心に秘めておいた。いざとなったら私が五条くんを部屋に連れて戻ろうと決意する。今日で任務は完了しているため、明日のスケジュールは帰宅のみという比較的ゆったりしたものだったが、だからといって具合の悪い人の部屋で深夜まで遊ぶわけにもいかない。
 教えられていた階に降り立ち部屋の番号を確認して扉をノックした。ノックしてから連絡しておけばよかったと思ったが携帯は部屋のテーブルの上に置かれたままであとの祭りだ。
 数回ノックして声をかけても返答のない扉に、もう眠ってしまったのかな、一回部屋に戻って携帯で連絡してみようかと思ったところで、夏油くんの部屋のなかから大きな物音がした。なにかが倒れるような物音だった。びっくりして思わず扉に手をかける。鍵のかかった感触がするだろうという私の予想を裏切り、その扉はあっさりと開かれた。
 そのことにびっくりしながらも私は部屋のなかに慌てて入る。部屋のなかにはいまだ制服を着たまま椅子にぐったりともたれている夏油くんと、その前に転がるもう一つの椅子があった。これが転がって大きな音がなったらしい。
 手にしていたものを脇のテーブルにおき、彼に駆け寄った。
「どうしたの? 大丈夫?」
「……ああ、大丈夫。それより、どうしてここに」
 ぼんやりとした目がこちらをとらえる。顔色は常と変わりがなかったがどう考えてもおかしい。熱でもあるのだろうかと躊躇いながらも彼の額に手をくっつけてみる。さっきお風呂に入ったばかりできちんと熱がわかるかどうか自信がなかったが、それでも高熱があるというわけではないようだ。
「頭痛い? だるかったりする?」
 先ほど別れたさいに見たときは痛そうに顔をしかめていたので、頭痛なのかと思ったのだけどどうだろう。夏油くんはなにも言わない。
 頭が痛いなら髪はほどいたほうがいいかもしれない。ごめんね、と彼の髪に触れて、ほどいた。ぼんやりしたままこちらを見上げ、夏油くんはされるがままだった。そんな場合ではないのに異性の髪に触れることが初めてで指がちょっとだけ震えてしまう。できるだけ痛くないようにはしたものの、力加減が分からなくて、なだめるようにそっと彼の髪を優しく梳いた。
「先ほど取り込んだ呪霊が、少し、おさまりがつかないだけだ」
 目を細めるようにして見上げられる。電気がまぶしいのかもしれない。手近にあったルームライトの灯りに手を伸ばして調節する。
 だから夏油くんは呪霊をとり込んだあとに目に見えて様子が変わったのだろう。夏油くんとは高専に入ってからの付き合いだったが、こんなふうなところは見たことがなかった。見たことがなかったとは言っても、夏油くんは見せないようにしていたのかもしれないし(彼はそういうところがある)私が知らなかった、見ていなかっただけでいつもこんなふうに苦しんでいたのかもしれなかった。
 そう思うと、声が震えそうになる。
「……私にできることはある?」
「少し休めばなおるものなんだ、気にしなくていい。放っておいていいんだ」
 本当にそうなんだろうか。おそらくこういう場面を見せないようにしていた彼が、私にすら見抜かれている状況にある。それはつまり彼自身に手に負えない状況ということになるだろう。
 私には反転術式は使えない。そもそも反転術式で治せるだろうか。彼の言う通りに、時間を置けばいい? でも彼にだってこの状況は予想外だったはずで、いつもそれで解決していたとしても今回もそうなのかは分からない。
 ぐるぐるとまわる思考に眉を寄せ、手持ち無沙汰の手で少しでも夏油くんの辛さが減るように、彼の手を撫でる。夏油くんの手がピクリと反応して、その手はなぜか私に伸びた。どうしたのだろうと顔を寄せた私の髪に、彼が触れる。
「まだ濡れてる」
「え、あ、お風呂、入ってきたんだけど、ちゃんと、乾ききってなかったのかな」
「……ああ、急いで私のところに来てくれたのか。名前は本当に優しいね」
 思ってもみなかった言葉に思わず口ごもりそうになる私に構わず、彼の指が動く。
 彼の言う通りいまだ湿っている髪を、私が彼にそうしたときよりも強く、握りしめられる。いつもとは明確に違うその挙動に心臓がはねた。どこまでも甘い、ゆったりとしたその声音は、恋人に言い聞かせるときのもののようにさえ聞こえて、肌にゾッとしたものが走る。夏油くんは私にこんなふうにはしない。『何か』が彼をこうさせている。
―――『何か』とはつまり。
 私の思考を遮るように、彼が立ち上がった。この至近距離で立ち上がられると随分な身長差がある。彼の動作に、その肉体の差に、硬直する体を夏油くんが抱きよせた。首筋に鼻が押し付けられる。
「甘いな」
 肌の上で言葉を発する口にくすぐったさが走る。陶然と吐かれる息に籠められる意味が性的なものであると触れる肌でわかって本能的に体が逃げ出しそうになる。逃げ出そうとする私の体を彼は強く抱きしめ逃がさない。抱き寄せる腕だけで、私の抵抗などなかったようにするそのどうしようもない力の差に泣き出しそうになる。
 この状態の夏油くんを助けてくれるのは、私ではない。私にはできない。脳裏によぎった五条くんの横顔に、一瞬だけ、勝手に救われたような気持ちになる。おそらくいまこの近くにいる誰かのなかで、彼を助けられるのは、彼だけだ。
「ご、五条くん呼んでくるから、ちょっとま」
 背中にしっかりとまわった腕が、私をベッドへと押し倒す。彼の重たい体にのしかかれるようにされるとその体格の差に絶望的な気持ちになる。
 おそらく彼の体から私の力で逃れることができないことを体が分かっていた。それでもまったくなんの意味もないことを分かっている抵抗をせずにはいられない。肩を押しかえす私の手を彼は恋人つなぎのように指を絡めてベッドへ押し付け、そのまま唇をふさいだ。
「だから放っておけと言っただろう」
 キスの合間に囁かれた掠れた言葉に脳髄が焼けそうになる。
 跳ねる私の足のすきまに彼の膝が入ってくる。唇を何度となく重ねられて、抵抗も彼の体によってすべて受け止められてしまって、頭がぼんやりする。自分の目に浮かぶ涙が躊躇や抵抗感だとか、そういうものではない意味を持ちはじめたころ、彼は私の目を覗き込んだ。
「初めて?」
 言葉などなくとも私の表情で答えがわかったのだろう、夏油くんは目を細め、笑った。満足そうな、どこか意地悪な表情は『いつもの夏油くん』を想起させた。夏油くんはいま、正気ではない。なのに、そんな顔をしないでほしい。まるで夏油くんが本当にそう思っているみたいで、そう考えるとどうにかなりそうになる。
 顔を逸らした私の顔を夏油くんが無理やり自分の方に向かせる。正面から見つめ合うようになり、私はその視線に負けそうになる。彼がなにかを口にしようと、その唇を開きかけた時、夜更けだと言うのにまったく遠慮しないノックの音が響いた。
「傑、いる?」
 誰かなんて分かり切っている、私が先ほど救いを求めた五条くんだ。どんどんとノックが続く。鍵、そういえば私は部屋に入る時に鍵をかけていない。
 それは救いだったのか、それとも決定的な過ちだったのか、あとになっても私にはどうしても判断がつかない。
 玄関から、ベッドの上は丸見えだ。今、扉を開けられてしまえば見られてしまう。ほとんど反射的に距離をとろうとした私に、夏油くんは声にもノックにも構わずにもう一度唇を重ね合わせた。呼吸すら許さないそのキスにどろどろにとけそうになる。舌を絡め合わせて、指を絡めて、足を絡めて、こんな光景は五条くんの目にどう映るのだろう。そんなのはダメと心臓が強く鼓動を打って、悲鳴が口から零れそうになる。その悲鳴すら夏油くんに食べられてしまって、頭がおかしくなってしまうんじゃないかと思った。
 鼓動が最も強く打った瞬間、扉の開く音がする。彼の肩越しに、部屋の入口に立つ、五条くんの大きく見開かれた目と目が合った。違うとか見ないでとか、頭に浮かぶどんな言葉もこの場に見合っていた気がするし、あるいは場違いにも思えた。
 夏油くんが、私の体から自らの体を離す。
「悟」
 彼の名を呼び夏油くんは笑っていた。ああ本当に、この人は今、正気ではないのだなと思った。正気の夏油くんが五条くんの前でこんなことをして笑えるはずがない。
 夏油くんの大きな手のひらが、私のきていたパーカーの胸もとをなぞる。五条くんの目の前でチャックがゆっくりとおろされていくのがわかって悲鳴をあげようとした私の口を、彼が大きな手のひらでふさいだ。
「……一応聞いておくけど合意じゃないよな?」
「どう思う」
 唇をその手でふさがれたまま、五条くんの目が私を見る。彼の表情の分からない目が、私を一瞬だけとらえ、それから夏油くんを見据えた。
「どちらにしろ、悟に関係あるか?」
「いやあるだろ」
 五条くんは私を見ない。夏油くんを、そして夏油くんのなにかを見ていた。それからため息をつくと、ベッドの方へと歩んでくる。彼はそこまで近寄って初めて私をちゃんと見た。五条くんのこちらを見下ろす目はいつものように綺麗で、なんの感情も浮かんでいなくて、なにを考えているのか分からない。
 胸元のふくらみを這う彼の手を、五条くんが手を伸ばして止める。私は息もできずにそれを見ていた。夏油くんと五条くんは、私のことなのに、私の上を素通りして会話する。私の意思はそこに介在しない、そのことにうすら寒くなった。
 夏油くんも五条くんも、いざというときに私に必ず助けを与え、見捨てることはなかった。それを私は疑ったことはない。それでも、それでも。
「今のお前正気じゃないだろ。後悔すんぞ」
「違うな。君が、気に入らないんだろ」
 名前を好きだから、そう続いた言葉に私はひときわ大きく震えた。
 深いため息がもう一度聞こえるとともに口元を覆っている夏油くんの手が五条くんによって離される。私がそれに何かを思う間もなく五条くんもベッドへと入ってきた。五条くんは私を後ろから抱くように夏油くんから引きはがす。お風呂に入ってきたばかりなのか、五条くんの体もあたたかい。石鹸の匂いがした。
 なだめるように、五条くんが私の手を握り、名前を呼ぶ。私は自分の身に起きるであろうことをそのときにはもう分かっていた。私の手は震えている。おそらく二人ともが、私を救うつもりも逃がすつもりもないのだと、そういうことだった。
 五条くんは正気だ。五条くんは夏油くんが正気でないことをわかっている。それなのに。
「どうして」
 私に顔を寄せた五条くんがゆっくりとまばたきするのが見てとれた。そんな場合ではないことぐらい、分かっていたけれど、その長い睫に縁取られた瞳があんまりにも静かだったから、私はどうすればいいのか分からなくなってしまった。
 体と一緒で、あたたかな手のひらが私の頬を撫でる。彼は、そうっと触れるだけのキスをした。
「傑もお前のこと好きなんだって」
 後ろから五条くんに顎をすくわれて、無理やり夏油くんの方を向かせられる。夏油くんはじっと私を見つめていた。まっすぐに私を、五条くんもほかのなにかも見ず、私のことだけを見ていた。
「お前が今どっちか選ぶなら、どうにかなるかも」
「……できないよ」
「そうだよな」
 五条くんは笑っている。夏油くんが私に見せた、正気じゃないくせに彼らしい笑みとは違って、正気のくせに五条くんらしくない、苦々しい笑い方だった。柄にもなくあきらめた笑みを口元に浮かべる五条くんが本当はこうするつもりじゃなかったことが分かる。なら誰のためにこうしているのかって夏油くんのためだ。
 夏油くんが『いつもの夏油くん』に戻ったときに、いちばん後悔するのは本人だろう。そんなの私にだってわかる。きっと五条くんはもっと、分かっている。だから一緒に過ちを犯そうとしている。
 でもその夏油くんだってこんなことするつもりなんてなかっただろう、もちろん私も。みんなそうだ。誰も悪くない。だけどきっとこれは間違いなく『過ち』だった。
「頼むから一緒にめちゃくちゃになってくれよ」
 そんなこと言われなくたって、もう私の心はめちゃくちゃだ。だってこんな理不尽になにもかも呑みこまれてどうにかなってもいいと思ってしまっている。
 私は目の前の夏油くんに素直に手を伸ばした。私が受け入れたことが嬉しかったのか、彼は微笑み、私にもう一度口づける。遠慮なく入ってくる舌に、私は恭順し目をつむる。どちらのものなのかわからない大きな手がパーカーのチャックが今度は最後までおろされていった。そうして私たちは間違いだらけの夜の中へとまっさかさまへと落ちていく。

朝になったら泥々のぐちゃぐちゃ

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