彼が私を部屋の前にまで送ってくれたのは、伴って終えた任務の帰りのことだった。彼は同じ任務にふたりでついたときは、いつもそうしてくれる。
いつもは私のアパートの下で別れていたが、借りていた本を返すために(直接私が借りたわけではなく、夏油くんから悟くんが借りた本を私の家に置いていくという又貸し状態だった)部屋の前にまで夏油くんは寄っていってくれた。
鞄から鍵を取り出し、鍵穴に差し込む私の様子を、夏油くんがじっと見ている。見られていることに口のなかが渇くような気持ちになりながら、私はなんでもないことのように口を開いた。
「雨が上がるまでよっていく?」
その言葉に、彼はなにも言わずに切れ長の瞳でじっと私を見つめた。私の言葉でその瞳や表情に変化が現れることはなかったが、訪れた沈黙に自ら言いだしたというのに後悔に似た恐れのような感情を抱いた。目が合うことを避けるようにそっと視線を外すと、彼の持っていた黒い傘の先が視界に入る。私はうなだれながら耐えるように自分の手を握り、傘の先から水滴が滴るその様子を見ていた。
「名前がそういってくれるなら、そうしようか」
そうする理由がないと断られるだろうと思った。だから彼が、聞きなれた優しいその声で受け入れてくれたときに心を包んだのは安堵だ。
私の部屋の中に彼が訪れるのは初めてのことではなかった。だがそれは第三者も含めてのことであって、二人きりは初めてのことだ。いつもなら私もそのようなことは言えなかっただろう、それでもそうして誘ったのは最近の彼の纏う空気が私の目から見てもどんどんと変化していったからだ。彼の雰囲気は見ていられないものがあった。
話を聞ければと考えていた。近すぎては言えないことであっても、逆に私のような親しすぎない存在になら話せるのではないかと、そう思ったからだ。部屋の中に招き入れた彼に本を返してから、直接そう口にすることはできず当たり障りのないような話をして、ようやくそう切りだすと、彼はほほ笑んだ。
「それはいったい誰のためなんだ?」
突如としてつかまれた手首の骨がきしんで、思わず痛みに顔をしかめる。誰かにそんなふうに手荒に扱われたことなどなかったから、私はびっくりしてしまった。誰とでも距離の近い悟くんとは違って、今の今まで、それこそ差し迫ったことでもなければ彼は私に触れることなどなかったのだ。
彼は私にだけは特別に『そう』だった。私が悟くんと付き合う前も、付き合うようになってからも。
つかまれて強引に体をひき寄せられて顔を近づけられる。あまりにも簡単にそうされてしまう力の差にぞっとした。目をのぞきこまれる。夏油くんの浮かべる表情はなにを考えているのか私になにも教えてくれない。
「だめ」
考えるより先にそう口にし、顔を背けると顎をつかまれる。夏油くんの表情は不思議と凪いていて、今から犯そうとしている過ちなどかけらも予感させない。それでも私の腕をつかんだままのてのひらの力はこの行為を冗談として途中で許してくれる気などさらさらないであろうことを言外に私に知らしめていた。
「こうなると考えなかったわけじゃないだろう」
「考えるはずないよ」
「嘘だな」
ずっとどんな目で私が君を見ていたか知っていただろう。そう耳に吹き込まれた次の瞬間にはくちびるは奪われていた。背筋に走るびりびりとした衝撃に足元からなにもかもが崩れていく錯覚を覚える。
脳裏を巡っていくのは夏油くんの横顔だ。私は夏油くんの横顔ばかり見ていた。彼と真正面から見つめ合うのが、見つめられるのが、耐えきれなかったからだ。私の視線に気づいた夏油くんがこちらを見つめて口元を緩め、ほほ笑んでくれるたび、私はそれから目を逸らした。逸らし続けてきたことを、夏油くんは気づいていただろう。私が見つめていたように、彼も私を見つめていたから。
私の心も体も炙ってしまうような熱の含んだ瞳が私の皮膚を撫でるたびに、なにも知らないふりをして目を逸らして笑った。悟くんの腕にひき寄せられて抱きすくめられながらその姿を見て夏油くんが仲がいいことを揶揄する言葉を口にする瞬間、私は恐ろしくて夏油くんの目を直視できたことがない。
「名前からあの本を傑に返して欲しいんだよね」そう何気ないことのように言った悟くんの声が、頭のなかでよみがえる。「悟くん」とささやくような声音の彼の名前は、齎された口づけのなかでなかったことにされた。
駄目だとか嫌だとか、そういう言葉が私から零れるたびに彼はそれを封じるように執拗にくちづけを施す。制服のボタンを外され、中のシャツを着たままに前だけを開かれて、そのまま下着にまで手を掛けられる。いやだと首を横に振る私に額をくっつけるようにして、彼は再び私の目を覗き込んだ。そうして名前を呼ばれると、私は途端に動けなくなる。
彼の手つきは乱暴じみて支配的だったが、同時に快楽も与えるつもりのようだった。いっそ自分の気持ちよさだけを求めてくれればよかったなと思う。身をよじるようにする私を夏油くんは許さない。
私のなかを彼が犯したその瞬間に、口のなかをなぶる彼の舌を思わず噛んだ。何もつけずに犯されるのは初めてだった。悟くんはいつもちゃんとしてくれたからだ。それなのに私は抵抗をしていない。噛んだといっても甘噛みのようなそれに自分でも彼を拒絶しきれていないことを自らがいちばんわかっていた。
私を見下ろす夏油くんのくちびるの端があがっていて見たことがない顔に恐れで心が凍り付く。それなのにその笑みを見ているとおかしくなるほど体が反応して、気持ちよくて、体と心は残酷なくらいバラバラだ。
苦しいくらい狭いねと彼が顔を顰め、私だけが先に無理やり昇りつめさせるのを繰り替えされる。
「この様子だと悟と最後に寝たのはそんなに最近じゃないんだな」
「……」
「中にだしてあげよう」
そうしてささやかれた言葉に一気に冷たい汗が体から噴き出した。背筋が冷える。それなのにつながったところは熱くて熱くて、苦しい。本気で逃げ出そうとする私の腕をつかんで逃げ出せないようにされる。
思わずやだやだと子供のように怯える私の頬を駄々をこねる恋人をなだめるような表情で彼が撫でる。絶望的な諦観とともに私の体に疑似的な死が訪れ、真っ白に霞んだ思考とともに、夏油くんの大きなてのひらが私のおなかを撫でた。確かめるように撫でる指にすら体が反応するのに酷い気持ちになった。
もう一度、今度は後ろから抱こうとする彼に私は本当の子供のように涙をこぼして繰り返し赦しを乞うようにする。意思から反した反応しかできない体を抱く彼は私の嘆願や涙を全く意に介さないのに、まるで恋人のように手はつなぐので、もはや泣くことしかできない。
「これ、やだあ」
「……ああ、こうして抱かれるの初めてなのか」
「あっ、や、やだ」
「本当に大事にされてたんだな」
他人事のような揶揄する言葉に心がおかしくなりそうだった。
悟くんは恋人として私に優しかった。本当に大切にしてくれている。嫌がるようなことや怖いことを私には強いない。付き合うようになってからはことさらにそうだった。「好きなんだから大事にしたいだろ」とまるで後ろめたいことをしたみたいに私から目を逸らして彼はそういった。「らしくないのは分かっている」と自分で言ってたので、たぶん、照れていたのだと思う。でもらしくなくなんてなかった。五条悟という男はいつだって私にだけは甘かったのだから。
私が求めるだけ私のことを抱きしめて撫でて触れてキスをしてくれる。ぶっきらぼうで素直じゃなくて、でも結局私には優しくて甘い。その腕の中に抱きしめてもらっているときだけ、私はなにも考えなくて良かった。
「悟はきみに甘いからもし孕んだとしてもきっと名前を受け入れるよ」
まるで夢でも見ているような現実みのない昏い部屋のなかで、彼は私を抱きしめてそう口にした。そこからの記憶は曖昧だ。
彼は私の服を脱がしきらなかったし、彼自身もまた服をほとんど脱がないままだった。つながっているのにほとんど肌は触れ合わなかったのを覚えている。何度となく口づけられるなかで私は対極なのだなとぼんやりと思った。初めて悟くんが私のことを抱いた時に悟くんは私の服をすべて脱がしたし、私が乞うままに身に着けていた服を脱いで、体中のすべてをくっつけるように抱きしめてくれたことを思いだした。
「こんなことをしたくなるくらい憎くかった?」
夏油くんは私のその問いになにも答えない。体は重くて、あちこちが擦り切れているのが肌がぴりぴりした。私にたくさんの乱暴を施したのに、夏油くんはそんなことはなかったというように穏やかに私の体を抱きしめていた。
私はされるがままに彼の胸の中に納まっていた。夏油くんの胸から伝わる鼓動はやはり凪いている。
「私は悟のことも君のことも大事だったよ」
それきり夏油くんはなにも言わなかったし、私もなにも言わなかった。
黒い雲が空に敷き詰められて暗かった窓のむこうの外は、雨雲とは違う夜の完全な暗闇が訪れている。雨はまだやまない。もはやほとんど光のない部屋の中で私は雨の音と夏油くんの鼓動にだけ耳を澄ませていた。この部屋だけが外の世界とは切り離されているようだった。
最後に、夏油くんは私にキスをした。散々交わした欲望や支配やそういうものとは違ったキスだった。名残を惜しむように私の頬や髪に触れた彼の指先や唇に、私はこのことで終わりを迎えたのだということをはっきりと感じ取った。終わったものがなんだったのかは分からない。理解できたのは、もはや戻ることはできないのだということだ。
私は妊娠はしなかった。その結果を得る前に夏油くんは呪術界から追放され、彼の起こしたことにより、私のとりまく世界は大きく形を変えていった。私のことを抱いたあの日には夏油くんはそれを考えていたのかは分からない。
ならなかった未来だからこそ、もしそうなっていたら私はどうするつもりだったのだろうと、繰り返し繰り返し頭の中で考えた。そう考えてしまうことこそ、最大の裏切りだと知っていても。
悟くんは、夏油くんの引き起こした事件の後の始末や彼に振り分けられていた仕事にもっとも駆り出されていて、多忙の極みだった。その忙しさは同年代とはいえ平凡な一介の術者である私には比べるまでもない。
ようやく現状が落ち着きを見せ始めたころにまともに悟くんとちゃんと会うことが出来た。おそらくこれからもそういうことが増えていき、当たり前になるのだろう。一緒にいられた学生時代が特別だったのだ。
「久しぶり」
いろいろな意味で追い詰められ、疲れや心労もあるだろうに、悟くんは常と変わらない様子で私のことを抱きしめた。躊躇いながら、その背中を抱きしめ返す。抱きしめた体がどこか痩せているような気がして、変わらないその態度すらおそらく強がりであるということ察してしまい、胸が痛んだ。彼は弱みを見せられる存在をもう失ってしまった。
久しぶりの恋人の逢瀬で当たり前の流れだろう口づけに抱擁に感じたように躊躇いを覚えながら、それでも受け入れた。乱暴に抱かれた体の痕跡はほとんどが消えていたが、その痕跡と同じようにあれを『なかったこと』にすることなどできない。
私が乗り気ではないことを察したのだろう。戯れ交じりに、それでも欲望を感じさせる手つきで肌を撫でていた手を彼は止め、蒼い目でじっとこちらを見つめている。
「今日はやめておく?」
私はなにも言えない。
「いろいろあって名前も疲れてるでしょ、ちゃんと休んでた?」
自分の方がよほどそうだろうにあっさりと私から離れようとした、悟くんのその手を引いて、私は彼にキスをした。たぶん震えていたと思う。
お願いやめないでと乞うと、彼は私の体を強くかき抱きベッドへと連れていって私の願い通りに私のことを抱いた。
触れ合うこと自体本当に久しぶりだったからなのか、彼には余裕がないようだった。その余裕のなさが嬉しかった。だけど怖かった。こうして抱き合って密着した体から自分の体に起こったことが、夏油くんとしたことが伝わるような気がした。
これ以上傷ついてほしくない、知られたくない、伝えたくない、裏切ったと思われたくない。恐れは冷たい汗となって私の体に滲む。もはやなにを恐れているのか自分でもわからないのにただ、酷く、怖かった。
自分すら騙すように私は彼に積極的に腕を伸ばした。彼は私が求めるだけ与えてみせた。どこまでも悟くんは優しかった。
「傑のこと好きだったんだろ」
私の髪を梳きながら、彼はそっとささやいた。私は泣きながら首を振った。本当はどうだったのか、もはや私自身にもわからない、でも私は彼のことも悟くんのことも大切だった。あのとき夏油くんが私にささやいたように。
きっとそれは、悟くんだってそうだったはずだろう。みんなそうだったはずなのに全部壊れてしまった。
お前が誰を好きでもいいよと彼には似つかわしくない震えた声で、私を好きだと言ったあのときの悟くんを思いだす。どうして戻れないものや壊したものばかり愛しく思うんだろう。
「悟くんが好きだよ」
まぎれもないはずの事実を口にした私の声は彼の耳にどう響いただろう。
私と彼の関係はそれからもなにも変わらず、一見すればこの上なくうまくいっているように見えたはずだ。流れる月日は夏油くんと起こした間違いの鮮烈さを摩耗させた。それでもときどき、しでかしたことの大きさとともに自分が悟くんになにをしているのかを考えると恐ろしくなった。薄氷を踏み続けているような気持ちだった。あのときから、私は動けない。
おそらくこのままいけば自分が悟くんと結婚することになるだろう。のうのうと、騙し続けたまま幸せになろうとしている。
限界が来たのは突然だった。私のなかでかろうじて保っていたものが前触れもなく臨界を超えたのが分かった。てのひらがぶるぶると震えていた。自分が泣くべきではないことは分かっていた。耐えられなかった。
ソファーの隣に座って、一緒に映画を見ていた悟くんはどうしたのと突如としてうつむいた私の肩を撫でる。その優しささえ怖かった。与えられる優しさすべてが私には不相応で、こうして何気なく過ごす時間でさえ本当はずっと恐ろしくていたたまれなかった。
これ以上ないほど唐突に絞りだすように別れを切り出すと、彼はまるでそうされることを分かっていたように冷静だった。私のほうがよほど動揺していた。理由は?と端的に聞かれて、これ以上騙せないからと答える。ここまで来ても私はずるいから、明確な事由を自分の口から告げられなかった。
「あなたからたくさんのものを奪ってごめんなさい」
親友も優しさも時間も奪うようなことをした。彼は私にいつだってなんだって与えてくれたのに私はずっと、ずっと。ずっとずっとずっと、彼から奪ってはいけないものを奪い続けている。
「お前と傑のことならずっと知ってたよ」
ため息のような吐息とともに吐かれた言葉で、体から血の気がすっと引くのがわかった。
その言葉は責めるでもなじるでもなくただただ事実を口にしているようだった。
「いつから」
「もうずっと、最初からわかってたよ」
「どうして」
「どうして? どうして僕に気づかれないと思ったの」
あの蒼い目が私の犯したあやまちを、心を、見透かすように見ている。私の肩をつかんでいるてのひらに力がこもった。男の人のそういう力による乱暴さを、肌で思いだし後ずさりかける。けれど、私は座っていて後ろはソファーの背もたれしかない。逃げる場所はどこにもない。
本能的に震える体に彼は体を寄せ、手を肩から私のてのひらに移動させるとそのまま私の握りしめていた手を無理やりほどいて自分の手を握らせた。追い詰められるようなことがあるとそんなふうに握りしめるのが癖だった。私はその癖を夏油くんに一度指摘されたことがある。初めてそんなふうに指摘されて、夏油くんは他人をよく見ているんだなと思った。すごいと思った。だから、私は、彼を見つめるようになった。
大きくて長い彼の指やてのひらはあたたかくて、冷えきった私の手とは正反対だった。そうして握りしめられているのに、熱はうつらない。
「傑がもう一度高専に姿を現すかもしれない」
私の話が突然だったように、彼の話も突然だった。だけど悟くんとは違い、反応してしまった私の手を撫でて彼は続ける。
「名前、お前がなにを言おうと僕が傑を殺す。他の誰でもなく、僕がそうしなければならない。僕のことを許さなくていいよ」
そんなこと口にしている本人がいちばんしたくないだろうに、それでも私に優しく言い聞かせるような声を出すので、ついに泣いてしまった。
私はいつも自分のことしか考えていないが、そんな私に彼はずっと優しい。何故そんなに優しいのかと聞けば悟くんは好きだから大事にしたいんだよとやはりそういうのだ。あのころから置かれた環境や彼自身が変化してもそれでは変わらなかった。
耐えきれないままに「許さないで」とそれだけを口にする。
「もういいんだ。僕は名前に怒ってもいないし、憎んでもいないよ。でもお前が許してほしくないっていうなら僕は許さない。だから、お前はずっとそばにいてくれよ」
かたくこじれてふれるだけで擦り切れて痛みを発するような心がほどけていくような気持ちになった。しゃくりあげながらただ頷く。そんな私の背中を撫でながら、顔を覗き込んでくる悟くんが、満足そうにほほ笑んだのを、私は、見た。
「傑のことがある前もそのあとも、僕はお前のことがずっと借り物みたいな気分だった」
「……」
「これでようやく僕のものになったね」
私が抱え込んで、抱え込みすぎて、もはや自分にすらどういう形に変化しているのか分からない彼らへの気持ちを、同じ時間彼も抱えていたはずで、いつかはもっと青く澄んでいたもの私が変化させたように彼の中でもやはりそれらは変化していたのかもしれない、と思った。
私は悟くんのただただ穏やかなその表情を見た。自分の意に反して肌が総毛だつ。彼に寄り添いながらも、私は真綿で首を締められているような気持ちになった。
悟くんが私の腹に手をのばして、いつか夏油くんがそうしたようにそっと撫でたとき、言葉にはできない恐ろしさで崩れ落ちそうになる。
ついにここまできてしまったのだと、なぜかそう思った。それでもそうなってようやく罰されたような気持ちになって、許されないことで許されたようで、涙にぬれたひきつった顔のまま私はようやく心から笑った。
ここは天国ではないが地獄でもない
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